お知らせ

03

お知らせ
東雲通信をご覧のみなさま
いつもアクセスありがとうございます。
当ブログ著者、幡谷紀夫の次男でこのブログを管理している幡谷尚史と申します。
ご連絡が遅くなってしまいましたが
2012年11月9日に幡谷紀夫は胆管癌のため永眠いたしましたのでここにお知らせします。
79歳でした。
元々は僕が、やってみたら?と勧めたブログです。
過去に撮影してきた膨大な写真や、父がライフワークとしてテーマをもって文章を書いたりしていたことを
少しずつブログにまとめていけば良い作品集になるのではと思ったからです。
実際にはじめてみると、僕が知らなかった写真や内容も多くでてきました。
最初は、単なる過去の作品アーカイブとしてはじめたものでしたが、途中からは「今」書きたい記事を書くようになりました。
人が好き、
話をするのが好き、
映画が好き、
食べるのが好き、
観察するのが好き、
歴史をたどるのが好き、
なんでも「おもろいもの」を探すのが好き、
常に好奇心を持って街に出歩いていました。
愛用の小型デジタルカメラを常に持ち歩き、そのうち、撮った写真をデジタルデータで僕に送ることも覚えました。
ブログを更新していくことは父にとって最も手軽でやりがいのある表現手段だったと思います。
それこそ「イキイキとした生活」であったに違いありません。
僕もこのブログのおかげで、父とのメールでのやりとりが格段に増えました。
残された178件の記事は、父の作品のごく一部ですが、
どこを読んでも「愛嬌」のあるひととなりを十分に感じてもらうことができると思います。
そういう点で僕はこのブログを作っていて良かったと心から思うのです。
「東雲通信」は大半が検索ワードで飛んでくる人たちのアクセスです。
このままそっと残しておこうと思います。
偶然にもここに飛んできて、もしなにか共感できることでもあったらそっとコメントでも残していっていただければ幸いです。
そんな時は天国から、いつもそうだったように
「尚。いつもごくろうさん。返事書くからブログに載せといてね。」
なんてメールが届くのかもしれません。
ありがとうございました。

| | コメント (21) | トラックバック (0)

そこには、ただ「空白の時間」が流がれているだけ。

01_p1070769


胃の痛みを一ヶ月こらえた。
漢方薬へ依存しすぎ、それが長い時間、苦痛に苦しんだ理由だった。
それへの依存がなければ2、3日で、たまらず西洋医に転がり込んでいたことだろう。
漢方薬局であれこれ取っ替え、引っ替え、薬を調合してもらったがどれも効かず、
やっと、それをあきらめ、大病院に出かけた。

 
 即、入院だという宣告。
なんだよ。
一旦、家に帰る時間もないのかよ、などと、ナマイキな思いも一瞬よぎったが、
あきらめ、ベッドの人となった。
二週間、とりあえず検査ずくめの缶詰だ。
その間、胃がメインではあったが、複合的な病状で、外科、心臓医、ほかの医師が鳩首議論を重ねて、
治療の手順に苦慮したらしい。
心臓がもたないかもしれないが、手早く胃から切ってしまはなければ、というのが、
はしょっていえば、先ずはの結論だったらしい。

 この無知な患者野郎が、知る由もなかったがが、手術直前、家族は、
相当深刻な医師の宣言を聞かされたらしい。

しかし、この無知な患者野郎も、そんな事態を全く感じとっていなかったわけではない。
家族への思い、かれらにやり残している事、それへの焦燥感はあったが、わが死への近さは、
まぎれもなく現実に認識していた。
フシギと、死への恐怖はなかった。
スピリチュルアルな文献をあれほど読み漁ったのに、よく話題として出てくるナルホドといったシーンは
脳裏に浮かばず、いとしい亡き父母も、思いの片隅に現われなかった。
あるのは、ただ病室の白い天井の認識だけ。
過去のことも、未来の空想も、頭になにも浮かんでこないのだ。

 ふと、アラスカ山中の廃バスのなかで死を待つ、クリス・マッカンドレスを思い起こした。
ジョン・クラカワーのノンフィクション「荒野へ」の実在の青年である。
かれも、バスの天井の白い空間をみつめたことだろう。

わが日常は、
ブログやら、撮影やら、イメージや記憶に頭が加熱していたのだったが、
死を意識した瞬間、頭に浮かびあがるものが、なにもなくなってしまったのだ。

「空白」

これは、不思議な体験だった。
空想も湧かなければ、なにもない。
絵が描けない、真っ白なのだ。

02_p1190484


これが数日続いた。
その間、第一関門の大手術は人智を越えた力で、幸い切り抜けてくれた。
「助かった」
アイ、シー、ユーで、傷の痛みに唸りながら、ふと食い物のイメージが、浮かんだ。
T.V.のグルメ番組が流れていたからだ。
銀座キャンドルのフライドチキンの味が脳裏に浮かんだのが、「空白」から
の脱出第一歩だった。
大袈裟にいえば、意識の「生」への生還だった。
だから、アリスの「なにもいいことがなかったあの街で」なんて、センチな歌のことを、
思いおこすなんてずっとあとのことだった。

 つくづく思ったのは、人間の生きるあかしは、「夢がみれる」と、いうことだった。
若くて、明日があり、そこには否応のないしんどさものしかかってくるが、隙間からは、
青い、夢が見えるじゃない。
夢が見れる、ということは「スゴイ」ことだゾ。
「うーん」  
唸った。
よく平凡に語られている、「夢や希望」が描けるなんてことが、どんなに素晴しいことか、
この体験で、痛切に、思い知らされた。
人生、終わりにきて。
もうアトがなくなると、どんなにいきんでも、アタマには、なにも浮かんでこない、
そんな慄然たる事実に出会った、凄い教訓だっだ。

さきに述べたが、手術直前、家族は医師に厳しい覚悟を迫られたと、あとで聞いた。
かれらに苦痛を強いてしまったことを知り、「ただ、風のように」 しか存在してこなかったつもりの
自分を、そんなに重く受け止めていたのか、と涙がでた。
絆 という、言葉は好きではなかったが、いまさらながら、その意味の深さを痛感させられたものだった。

 渥美 清のように、誰にも語らず、ひっそり消えようと思ったのに、やっぱり皆にお知らせせざるを得ないものだ。
友人や彼女たちが、こころに滲みる思いを寄せてくれた。
なにもいいことをやってあげてこなかったのに、きみたちはどうしてそんなにやさしいの。

M,N,K,I,T,A,S,さん、あるいは、ちゃん。
こころに響いた。

 死を待つバスのなかで、クリス・マッカンドレスは、書物の余白に書き込んだ。
もう、別世界に踏み込む決断した彼だが、そこに、
「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ。」*****と。


かれは生きる意欲は喪ったが、「生きる」意味とは、これだったんだ、という認識だけは、この世に残した。

03_dsc_0094

| | コメント (4) | トラックバック (0)

水難. アユタヤ残照。

01_p1440255


 「アユタヤ、大変なことになっているね。」

Tさんから、ひさしぶりの電話は、タイの洪水の話題だった。
タイの水被害のスザマしさは、連日、これでもかというくらい報道されている。
ウーン。
あそこが水浸しになっているのか。
Tさんとぼくは、かってアユタヤでの、ヘンテコな出来事を思い出していた。


 ずいぶん時間が経過したが、夏の強い日差しのなかで、
撮影が進行出来ず、みな困惑していた。
アユタヤ。

 あの廃墟と化した赤茶けた寺院の壁にもたれながら、
撮影前の、現地側との交渉がラチがあかず、2~3時間もすったもんだ、していた。
ある広告の撮影で、10人ほどのチームを組み、アユタヤとパタヤ沖の孤島で、
モデル撮影をしようという計画だった。
ところが、その撮影の衣装のコンセプトが当時流行していた、
キャミソールファッションでという部分で、むこうのチェックにひっかかった。

 タイ側は、タイ文化省だったか、役人が現場で撮影に立ち会い、
さらに軍の大佐がお付きを従えて、監視するという、一見ものものしい雰囲気だった。

「ここは、神聖な寺院である。見学の女性といえども、半袖のシャツ姿ではいけない」

というのが、タイ側の主張であった。
ましてや、キャミソールの撮影なんぞ、ノ.ノ.ノ……。
といった感じだった。


 この撮影のプロデユーサ-は、今日ボクに電話して来たTさんだった。
Tさんは、現地のコーデイネーターの財部さんに、当然のごとく事前許可をとる手配はしてある筈だ。
どこでどう、確認事項の食い違いが生じたのか、書類はどうなのか? どうも、話しが通じない。
ぎっちり詰まった、1週間の撮影スケデユ-ルで、のっけから躓いていたら、
これからどうなるんだ。

今日の予定の撮影時間は、日没を計算にいれても、3~4時間しかない。
モデルのオシタクにも相当時間はかかるだろうし、みんなもイライラしていた。
Tさんと、でっぷりした貫禄の財部さんとの話し合い、それにタイの役人の女性との話し合いは、
終焉を迎える兆しはない。

 口を出す権限もなかったが、ボクは、

「ここがかれらの聖地であって、その条件を守らなければ、ダメだというんだったら、
 キャミソールのコンセプトを変えるしかないでしょう。」

ボクは、横から口を挟み、そう言い切ってしまった。
だが、かれらも、詰まった話しを解くきっかけをまっていたかのように、

「そうしよう」

と、Tさんは、次の段取りに切り替えた。
さすが、タイ側もムリな原則のゴリおしはひっこめた様子で、あとはあ、うんのムード。
Tさんは、さすがベテランだった。

「撮影の迫力で、かれらに、わかってもらえばばいいよ」

Tさんはそう云うと、ぼくと、にゃっと、顔をみあわせた。

02_p1440184


 タイ文化省の女性は、50才がらみのインテリで、ボクは撮影の合間に通訳を通じて、
歴史や、文化の話題を楽しんだ。
タイの仏様や、涅槃像は、コミカルだったりおだやかな表情をしている。
日本の、仏像が、厳しいなかにも慈悲を感ずるおごそかなイメージと感ずるのとは随分、
異なるように思えた。
その点を尋ねると、彼女は、

「ウーン。そうですね、アユタヤの仏様の表情には、
 この土地の人々の顔や人間性を反影しているのかも知れませんね。」

という見解だった。
そういえば、ボクの機材を持ち運びしてくれた長身で素朴な「キーちゃん」も、車両関係や、
雑用をこなしてくれたタイ人たちもボクは、おだやかな好印象をもったものだった。


 役人の女性は、アユタヤの撮影が終わると、姿を消したが、監視役の大佐は、
几帳面に、早朝必ずホテルに顔を出し、撮影に同行した。
かれは、歳の頃、3~40才で、背はあまり高くなかったが、
ジョン・ローンに似たハンサムな青年だった。

わがチームのモデルや、へアメイク、スタイリストの女性たちは、大佐が、こっち向いたとか、
こんなしぐさをしたとか、撮影日程が終わる迄、じつにかまびすしく、
楽しそうに大佐を話題にしていた。

03_p1440244


 アユタヤの撮影のスタート時、トラブルに、ぼくが口出したことはさきに書いた。
その時なんとなく、タイの考え方を遵守した、イイ子のような立場に立ってしまったボクは、
大佐と、それをきっかけに、親近感を感じるようになった。

 パタヤのホテルでは、朝食のテーブルを一緒にした。
大佐は公務なのに、”彼女”をホテルに同宿させていたことをボクは発見し、
背中をつついてからかったこともあった。
パタヤから孤島に向うクルーザーには、ロイヤルシートが1席あって、
そこへかれを坐らせた。
かれは喜こんでいた。

 そんないきさつからというわけでもなかろうが、大佐は、撮影に口ひとつ挟まず、
ボクらはのびのび大胆な撮影を続けた。
時折、見回しても、ぼくらの視界に大佐がいない事が多かった。

 撮影が終わり、撮影済のフィルムチェックなど、最後の承認事務などが残っていたが、
帰国前日、
ボクは、バンコク市内を散策し、土産のタイシルクを探して歩いていた。
携帯が鳴って、通訳が、大佐がホテルにきてくれという。

「なにか、トラブルか?」

なんだろう、とホテルに戻ると、ロビーに正装した大佐が、従者をふたり従えて、
立っていた。

 通訳に尋ねると、公務の用事もあったが、

「ミスターに、お別れのあいさつをしようと思って」

とつけ加えた。

「ボクに、ワザワザごあいさつを?」

ボクは、胸があつくなって、思わず大佐の手を強く握りしめた。

 タイの洪水の被害に、ご同情申し上げると同時に、
あの時のタイの人々とのささやかなふれあいをなつかしく思い出した。

Tさんが電話をくれたのも、同じ気持ちからだったのだろう。

「また、なんかやりたいネ」

Tさんは、ふふっと笑って電話を切った。


04_p1440224

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フランシスの荒野とワン・ウイーク

01_p1430289

 9月29日、
この一ヶ月あまり。
胃の激痛に苦しみながらも、キャベジンや漢方薬などで、だましだまし、ごまかしてきたが、ついに病院の門をたたいた。
ながい間、酷使してきた胃だ。

 20代、新宿歌舞伎町で、友人たちと生ビールをあをったあと、
アツアツのラーメンを胃に流し込んで、倒れたこともあった。
胃を大切にした記憶はない。
そんな長年にわたる不摂生に胃は、悲鳴をあげたが、それでもまだボクは「どの病院へいこうか」、
いくつか、候補の病院に迷っていた。
 わが愛妻は、病院にあまり知識はないようだったが、「聖路加へ行ったらどう」と勧めた。
その愛妻の助言が天の声のように聞こえ、「ハイっ」と、ボクは、それに従った。

 いろいろ検査の結果、胃の傷み方はひどいし、糖尿病だの心臓もなんだのかんだので、いい話はなく、
これからは、多臓器不全に陥るまで、こつこつメンテナンスに励む人生しかないように悟らされた。

02_p1430363


 ケータイで、「入院だってよ」と、家に連絡した。
総勢、駆けつけてくれた。
内心のさまざまな思いを、かみ殺してベット傍に立っている家族に、
申し訳ない思いでいっぱいだった。

 それにしても、胃痛に苦しんだ、じぶんが、じぶんだけの苦しみだと勝手な思いこんでいたのだが、
帰ってゆく家族の背中が、静かに反省の時間を蘇らせてくれた。

 病室の窓から、みえる勝鬨橋あたりの空に、カモメが2~3羽舞って、音もない夕暮れをみていると、
ふと、遠い知らない街に迷い込んだ感覚に襲われた。
……遠くで汽笛を聞きながら
「何もいいことが、なかったこの街で……」なぜか、アリスの一節が浮かび感傷を呼んだ。


03_p1430389_2


 2~3日、経っただろうか、
T.Vを観ていると、日野原先生の100才の誕生日だ、と報じている。
ボクの病室は792号室だ。下の何階かで、医師や看護婦さんやフアンに囲まれて、
ケーキの蝋燭を先生は消していらっしゃることだろう。

 一角獣のように、髪をまるめた、かわいい看護婦の前田さんが、TVで流れている
ノーベル賞の選考のニュースに「村上春樹は、どうなんでしょうね」
と、体温計をもちながらつぶやいた。

「そういえば、’風の歌を聞け’を讀んだのが、春樹体験のはじめでしたよ」とボクは思い出した。
コーヒーブレイクのように、音楽を聞くように、あんなに楽に讀んだ純文学もなかったなあ。
楽しい思いが蘇った。
「フフフ。」彼女は、わたしも似たような体験を思い出したワ、と笑った。

 後藤繁雄の「写真という名の幸福な仕事」という著作を長男が、置いていった。
そんな重い話しは、読めないよ、といったらかれは怪訝な顔をしていた。ゴメンね。
 じじつ、ぼくは、いま病床で読めるのは、デイック・フランシスしかなかった。
妻に4~5冊もってきてもらっていた。
苦痛を強いられるような時や、悩みにめげている時、フランシスの冒険小説は、いつも不屈の闘志と、
高いプライドで、読者を励ましてくれるのだ。
ぼくは、いろいろな人との出会いから、フランシスの熱狂的なフアンをめっけるのを楽しみにしている。
 いつぞや、仕事を一緒にしたジャーナリストの千葉望さんが、
「わたしも、フランシス大好き!」と、眼を大きく見開いた。
思わず美しい彼女と共感のエールを交わしたっけ。


04_p1430427


 自分が思うよりからだにガタがきていことを思いしらされた入院だが、
どうやら一週間あまりで退院する事が出来そうだ。

 6週間は、とんかつやラーメンは、ダメですよ。と医師に戒められて、
ぼくは、せめて、おいしいたべものの幻想のなかにひたり続けた。
意外とその幻想と、現実の飢餓は、あい闘うこともなく、ボクの脳味噌と、胃袋
は、平和に妥協し沈静化していた。

 しばしの闘病中にボクのカメラマン意欲を刺激したのは、東日本の惨状への想いもあるが、
天の啓示のように、「きみは、カメラマンとしてのテーマをいつまで見失っているのか?」
という、鋭い指摘が蘇ったことだ。

 1才に満たないが、かわいい、孫の望乃ちゃんは、いま、ぼくの最大の関心事である。
だがこの子は、次男夫婦の長い苦労の果てに得た珠玉のような存在である。
ぼくの横取りできる存在ではない。
ふと、この子は、不思議な眼でこちらを眺めることがある。
それは父祖からの視線のように思えることがある。
 そんな時、この子を連れて、木曽福島の山村や、佐渡のたそがれた港町を、
彷徨いながら彼女の成長のドキュメントをまとめあげてみたいという幻想が浮かんだ。
 これには、連関する体験があった。
 それは、戦争で傷を負った父が、伊豆の吉奈温泉で療養していた時のことだった。
白衣の傷病服をまとい、太平洋戦争で失った部下の慰霊のため幼いぼくを連れて、
何日も、伊豆の遺族の家々をめぐった体験が、響きあったと思われる。


05_p1390035


 病気は、いろいろ荒野をかけめぐる幻想や、意識の変化をせまってくる。
 病院傍の、隅田川べりの夕暮れは、病める人々の影などで風景は寒い。
ボクは、貧血のせいか、陽光もないのに、いやに視野には白く光が散っている。

 湾岸のドックの広場にやってきた。
太陽がいっぱい、だ。
若い生命が躍動している風景に、やっと生命の輝きを感じとることができた。
「ああ、生きるということって!………」

 退院の日、ベットの上でフランシスの「標的」を読み終えた。
冒険をくぐり抜けた主人公。
最終ページ、かれは作業台の上にある本に、ふと、眼が触れた。
そこには、「荒野から無事かえる」というタイトルが書かれていた。


06_p1430468


| | コメント (0) | トラックバック (0)

あの人の味覚、通いつめた店。新橋、銀座あたり。(その2)

01_p1410788


銀座の裏通り。不気味な雰囲気の小路に、著名なバーがある。
「銀座・ルパン」
その店に一枚の、写真が、飾られている。
カウンターの高椅子に座り、こちらに軍靴をむけている男。
林忠彦の撮った有名な太宰治のポートレイトだ。
この写真で、「ルパン」は太宰フアンにとって「太宰の聖地」になった。
1946年11月25日、坂口安吾、織田作之助と「無頼派3人衆」の座談会のあと、
ここに立ち寄った太宰のワンショットがその写真である。
衰弱した、織田作の影の薄い姿を、激写していた林に、太宰が声をかけた。
「おーい。織田作ばっかり撮らず、オレも撮れよオ」
聞けば、その男が著名な太宰だというじゃないか。
「よし、」
鞄をまさぐり、
林は、一個だけ残ったフラッシュを発火させ、あの一枚を撮った。
 この夜から僅か一年半たったあと、三鷹の玉川上水で、太宰は入水自殺した。
バー「ルパン」。
ここでの酒には太宰やニヒルな無頼派文士たちや小津安次郎など、著名人が
蝟集した重い時間が澱んでいる。

02_p1410835
バー・ルパン


賑やかな銀座4丁目の交差点に出る。
海外ブランド店や、大改装の三越など立ち並ぶなかに、餡パンの写真が、ぽつりと飾られたビルがある。
写真は、木村家のパンだ。
その餡パンの看板をずっと下にたどると、そこに、ある物語が息ずいていた。
昭和のはじめ、ひとりの少女が、その木村家の店頭で、ふくよかなパンを憬れのまなざしで見つめていた。
まるで、マッチ売りの少女みたいな寒々としたショットだ。
これは、
貧窮と、流浪の人生「放浪記」に描かれている、林芙美子の少女時代の実体験である。
そこには、ため息のでるような、思い出が詰まっている。

 「木村家の店さきでは、出来立てのアンパンが、陳列のガラスをぼおっとくもらせている。
いったい、何処のどなた様の胃袋を満たすのだろう……」。

03_p1410896
アンパンの看板

04_p1410923
店頭に並んだ、あんぱん


 芙美子の少女時代。
 銭湯の下足番、カフェの女給、セルロイド工場の女工員など、
食べる為の職業を転々とし、貧しさに悩みながらも、文学への夢を追い続けた。
そして、
作家としての栄光が訪れた。
「放浪記」。
この作品は、演劇でも森光子主演で、ロングランが続けられた。
芙美子は食べることに、難儀した半生だったが、
その後は、一流店をめぐり、自信の舌で数々の馳走を堪能する人生を掴んだ。

05_p1410909
木村家

銀座7丁目の「いわしや」は、彼女のおめがねに叶った店だ。
間口は狭いが、92の席がある、外人の客も多いそうである。

06_p1420007
いわしや


 銀座は、菓子店も豊富である。
銀座通りだけでも、虎屋、立田野など、一流店がずらり。
そのなかでも、並木通りの「空也」は、長い歴史の店だ。
文豪たちにも喜ばれた。
夏目漱石も、甘いもの好きで、いろんな老舗の菓子が、作品や文献のなかにも登場する。
空也最中も、そのひとつだ。
「空也」は、漱石の時代、上野の不忍池のたもとで、営業していた。
漱石が、友人の橋口五葉宅へ訪れるたび、橋口は空也から、菓子を取り寄せていたという。
「空也堂の最中にも感心する」という漱石の感想が残っている。
池の端の「空也」の店舗は太平洋戦争で戦災に遭い、銀座6丁目に移転した。
現在も、自家製で少量生産のため、客は、なかなか買い求めるのが大変だ。

07_p1410796
空也もなか


昼下がりの新橋駅前。
ほろ酔いのサラリーマンの、ユーモラスなT.Vインタヴューでおなじみの場所だ。
突如、広場に置かれたS .Lから汽笛が鳴って驚いた。
「なんだ?突然。」
傍にいた掃除のおじさんに尋ねると、
「時計代わりに鳴るんだよ。
こないだも、子どもが、びっくりして、脅えてたよ」
いやあ、おれも脅えたよ。

S.Lのその向こう側に、鶏料理で有名な「末げん」がある。
料理でも有名だが、三島由紀夫がひき起こしたあの事件の前夜に、
同士たちと、最後の晩餐を、囲んだ店としてもしられている。

 三島の思想や行動については、俗人の理解を越えるが、
かれの食へのこだわりという点からみると、興味深いものがある。
「盾の会」の4人の部下との最後の晩餐の二日前、三島は、家族との最後の晩餐も
この「末げん」での鶏料理だった。
人生最後の食事で、しかも大切な相手との密度の濃い時間を、
再度、この店で過ごしたということは、
余程、この店の料理や雰囲気が、気にいっていたのだろう。

最後の晩餐は、午後6時に食事が始まり、8時に退席する。
帰り際、「末げん」の若おかみが、
「またおいでください」と声をかけると、
三島は、「え?」と声をあげて、
「そういわれてもなあ。
また、あの世からでもくるか」
と、答えたという。
嵐山光三郎氏が、この重要なエピソードを、伝えている。

08_p1170389
「空也」は、もと不忍池のかたわらにあった。

09_p1420081
末げん

| | コメント (2) | トラックバック (0)

あの人の味覚、通いつめた店。新橋、銀座あたり。(その1)

01_p1410814


 カメラマンのぼくは、
銀座にある情報関係の会社の仕事を長く続けた。
関わったある雑誌では、センスの違う重役にしんどい思いもしたが、編集者の仲間たちとは、
いつも勝ちゲームを続けるように高揚し、楽しかった。
その女性編集者三人のポートレイトを撮ってあげたことがある。
彼女たちは、お礼にマキシムのデイナーをプレゼントしてくれた。
ある夜、
妻とふたり、その豪華料理をいただいた。
その時、仲間の彼女たちの微笑ましいエピソードの話題に夢中なあまり、
申し訳ないが、肝心の料理の味の記憶が残っていない。
モチロン、これはぼくの味覚のつたなさで、マキシムの超一流の技量に文句をつけるわけではない。

 一方、素朴な食べ物に、ひどくこころをうたれたこともある。
東北の黒沢尻工業高校のラグビー部の取材の折、監督の先生に学校前の、
おばあちゃんの経営するちいさなカウンターだけの食堂に案内された。
そこで、揚げたての厚揚げを醤油をたらしてイタだいて、
素朴だが、感動的だった味の記憶が何十年経っても消えない。
なんでも、食堂の隣りが、妹の豆腐屋で、できたてホヤホヤの豆腐を即、食堂のおばあちゃんが、ごま油で揚げるのだそうだ。
たしか、メニューは、その厚揚げだけだったような気がする。

 食べ物の感動や価値観は、その人その人、それぞれだろうし、
その時の諸条件が、つくりあげるものだろうが、
銀座のような洗練された味覚の溢れる街で、ぼくは、過去あまり味の恩恵を受けるような人生は、選んでこなかった。
探求心と経済力のなかったせいだが、その気になれば最近では、一流の店でもリーズナブルな価格で
ランチなど提供するようになった。


02_p1200748

こんぱる通りを、4丁目方向にゆくと、寿司の「銀座久兵衛」の前で、女性が打ち水をしている。
著名なこういう老舗は、「お金持ちさん、どうぞご利用を」、と庶民は、パスしたいところだが、
ここは、巨星、北大路魯山人が愛した老舗である。
たとえお金持ちに占有される店だろうが、魯山人のお墨付きとあらば、庶民としてもゼヒ行かねばならぬ。
せめてランチでも。
生ちらし志野が、人気メニューだ。
味もさることながら、姿や色合いが美しい。日本の色、姿ッ。
その、料理の姿から連想してしまうのは、銀座菊迺舎(きくのや)本店の富貴寄赤丸缶である。
小箱の、菓子函だが、
なかは、色とりどりの小粒な干菓子が乱舞している。
これも、ニッポンの色。
色とりどりの、てんてんてんまり、てんてまりと、ニッポンの色への幻想は、どんどん広がってゆく。

03_p1200142
久兵衛の前で、打ち水する女性


外堀通りの有賀写真館のビルの一角に、いぶし銀のような洋食の「銀座キャンドル」がある。
1950年に、オーナーが、進駐軍のベースで、バスケットに盛られたフライドチキンをたべて
感動、この店を開いたのだという。
店名は、映画「哀愁」のなかの、キャンドルライトクラブから、つけた。
ここへ、開店早々から、作家の川端康成が、若かりし三島由紀夫を連れてしげしげと通った。

 遡る、川端の少年時代は、不幸だった。
川端は、満一才で、父が死に、その翌年、母。七才で祖母、そして、姉、14才で、最後の肉親の
祖父を失った。
孤児。
壮絶な人生である。
あちこち居候の身で、食べ物の不自由さでも、骨身に滲みたことだろう。
後年、その繊細な感覚で、日本と日本人の美の世界を描写し、ノーベル文学賞に輝いた。
しかし、そのやわらかな感受性は、孤児同然の少年時代からズタズタに切り裂かれたのかもしれない。
最後、ガス自殺で人生を閉じる迄、若い頃から睡眠薬に依存し、苦しんだ。

 一方、「キャンドル」に足繁く通った。
好物のチキンバスケットにについて、かれのどんな思いがあったのか。
こまかないきさつは、わからないが、人間だれでも「食」にかかわる
印象的な思い出はもっている。
こころに深く、秘めながら。

 帰途、キャンドルの階段に、ずらりと著名人のサインの並ぶなかに、寅さんがいた。
小川軒や、このキャンドルは、洋食屋さんといっていいだろう。
庶民派の寅さんは、味のある洋食屋が好きだったんだなあ、と感慨深い。


04_p1410971
銀座キャンドル

05_p1410977
おなつかしや、寅さんのサイン


銀座通り7丁目に、「カフェ、パウリスタ」がある。
日本の喫茶店文化は、ここから始まったと言われている。
明治末期、初代社長が、ブラジル移民団長として、現地に渡り、コーヒー豆の輸入を始めた。
喫茶を始めるや、
大正期のモダーンな、文化人や時代感覚を先取りする人々が、ここに集った。
そして時代は、だんだん重苦しく、戦争に傾斜してゆく、風潮だったが、ここには自由な風が吹いていた。
そういえば、有名な話だが、ジョンレノンとオノ、ヨーコ夫妻も、3日間ここに通い続けたという。
パリのカフェに似て、歴史をくぐり抜けてきた喫茶店が、いまもなお健在であるのも嬉しい。

06_p1420040
パウリスタ


偶然だが、パウリスタの前に、作家の山本一力さんの、ご愛用の店、「吉宗」がある。
これは、一力さんなればこその、珍らしい、懐かしい味である。
どんぶり鉢がふたつ。
ひとつは、錦糸玉子やそぼろなどの三色の蒸し寿司、もうひとつは、巨大な茶碗蒸し。
あわせて「夫婦蒸し」とは、なんちゅう上手なネーミング。
しかも、うまい。
なんてったって、庶民派の、一力さんのご推奨なんだから。


07_p1420033
吉宗

08_p1420065

もうひとつ。
これは、新規開拓だった。
K子ちゃんが、「行くべきよ」、と強制的に薦める店だ。
ベルギー生まれの、チョコレート店。行列店だそうだ。
「ピエールマルコリーニ 銀座」だ。
K子ちゃんの指示通り、ソルベ(シャーペット)に、狙いを定めた。
だが、どうも地番の場所がみつからない。
ウロウロして、そばにいた、ふたりの女性に尋ねた。
「わたしたちも探しているんですよぉ」
いっしょに探しません?
おれが言ったんじゃない、女性が言ったんだ。
「あ!あった」
おれが見つけた。


09_p1410866
ピエールマルコリーニ。探した女性ふたり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Blue Note , 思い出トランプ、スイングする坂道。南青山。

01_p1410431

  ブルーノート東京。
N.Y.の名門ジャズクラブの姉妹店だ。南青山6丁目。
重い木の扉を開いて、きれいな中年の女性が街路に出て来た。
奥から洩れるかすかな気配。
ジャズのスイングが、ふと耳をかすめたかに思えたが、それは店頭の
ナタリー・コールの笑顔のせいだったのかもしれない。
ナタリーかア。彼女のおやじを思いだすなあ。
ナット・キング・コール。
それに、アーム・ストロングか。ちょっとセピア色だが。
ぼくは、かれらにあんまり溺れはしなかったが、ブルーノートには、ジャズの聖地として、畏敬の念をもっている。

  個人的には、ナベサダが、ジャズへの興味を開いてくれた。
「カリフォルニア・シャワー」である。
いまでも、軽快で躍動的なこの曲に痺れている。

  ボクの好きな俳優のティム・ロビンスが、ミュージシャンとして、ブルーノート東京に登場するらしい。いや、したのかな。
「ショーシャンクの空に」で、フィガロの結婚の曲を刑務所中に大音響で流すティムの
知的で反逆的な横顔を思い出す。
かれと、音楽との因縁に違和感はない。
まして父親が、60年代に活躍したギルバート・ロビンスというミュージシャンだと聞けば、ティムの資質は充分期待出来るだろう。

02_p1410417


03_p1410602
ナベサダ、カルフォル二ア・シャワー

  通りをへだてて、岡本太郎記念館にゆく。
なんだ、火曜日は、休館だよオ。
外から庭を覗き込んで、作品の点在するあたりで、晩年の太郎さんを撮影したことを
思い出す。
まだ、太郎さんが、病魔に襲われる前だったが、もう豹のような鋭さはなく、おだやかな人になっていた。
  撮ったフィルムは、3本くらいだったが、100ショットものシャッターが押されるたびに、
かれは足を踏ん張って、その都度、眼を大きく見開いた。
幼児のような素朴な、頑張りに思えた。
「これを崩そう」
シャッターのリズムを変え、言葉もかけてみた。
かれの構えは、崩れない。
太郎さんは、こちらの作画意図を拒否している。
「オレは、こうなのだ」
ということか。
そうボクは悟って、切上げようと思ったが、太郎さんは最後迄、同じ表情とポーズを崩さず、
こちらが撮影の矛を納める迄、協力してくださった。
太郎さん、あの時は、老いたりとはいえ、強い意志を守ろうとするあなたに撃たれた思いがしました。


04_p1410393
岡本太郎記念館

05_p1410403
記念館の庭


  根津美術館の竹林をすぎて、すぐ横にくだる「だらだら坂」にでる。
湾曲している白壁の連なりが美しい。
正しくは、「北坂」。
向田邦子の短編「思い出トランプ」のなかの一編に、「だらだら坂」が登場する。
北坂がモデルらしい。
  物語は、大柄で、鈍重の垢抜けない女「トミ子」が、鼠と渾名された、叩き上げの冴えない社長の囲い者で坂の中程に住んでいる。
男は、週2回、ここに通うが、素朴でつましいこの女を自分好みに育てることに満足している。
だが、トミ子は、隣家に住む洗練された年上女に影響され、マニキュアを始めたり、二重瞼の手術をしたり、少しずつ変貌してゆく。
囲われ女の、男への微妙な背離や、しょぼくれた男の反応が面白い。

06_p1410484
だらだら坂を下る


  晩年、 向田邦子は、この南青山に住んだ。
高級店のひしめく間にも、庶民的な店が息ずいている。
彼女は、魚屋、豆腐屋、花屋など、日常生活を彩どる店みせを利用したそうだ。
骨董通りにある、和菓子屋の「菊屋」で、彼女の好きだった、水羊羹を買う
ことにした。
彼女は、作品の「眠る盃」のなかで、この水羊羹を激賞している。
だが、庶民にはいささか高価だ。
「ウーン。」買い求め、家に帰って、味音痴のボクは、かみさんにいろいろ訊ねた。
「わたしは、和菓子が好きだから、このコクと繊細さは、とても深いと思うけど」
と、彼女は静かに味わっていた。


07_p1410365
和菓子の「菊家」

08_p1410568
菊家の水羊羹

  「菊屋」の近くにある、スイス伝統のチョコの店、「レダラッハ」。
アルプスでしか得られない牛乳、生クリーム、バター、と厳選された素材でつくられた、世界的に有名なミルクチョコだと聞けば、いかに味音痴なボクでも、
ぜひ、という衝動に駆られる。
「トリュフ・プラリーネ」の一粒を、女の子みたいにそっと口にした。
たとえ、ぼくでも特異なこのうまさは、わかる。


09_p1410332
レダラッハ

10_p1410338
レダラッハのミルクチョコレート

  帰りは、楡家通りにでて、絢爛豪華なブランド店に眼を見張りながら、表参道駅に
向う。
ブランド店のなかでも、プラダの威容には、ちょっと驚く。
店舗にカメラを向ける、老若女性が多い。
このあたり個人的には、かって、よちよち歩きの子ども達と、
家族4人で、ヨックモックの中庭のテラスや、アンデルセンの朝食に、通った記憶が懐かしい。
30年も前に通ったこの両店は、いまも健在だ。
途中で、お稲荷さんがあって、衝動的にお参りし、ちょっとした頼み事をした。
帰宅して、このお稲荷さんが、大松稲荷で、向田さんのマンションの隣だったという
ことを知った。

11_p1410539
プラダ

12_p1410389
南青山

| | コメント (0) | トラックバック (0)

 「カレーの市民」。少年の心に帰れ、国際子ども図書館。上野。

01_p1410013
ロダン作、「カレーの市民」


 上野にいってみた。
西洋美術館。
ロダンの彫刻、「カレーの市民」の前で、ボランテイアのおじさんが、
子連れの母子に、「この老人の手にしている鍵は、なアんだア」などと声をかけていた。
おじさんは、それをきっかけに、この彫刻のいわれを語り出した。
ぼくも、それをきっかけに、
いままで、彫刻美としかみてこなかったこの「カレーの市民」に、もう一度、歴史の真実と
して向き合った。

02_p1410016
カレー市の鍵


14世紀に英仏の間でおきた100年戦争時代、ドーヴァー海峡に面するフランスの「カレー市」
は、英国軍に包囲され最後の攻撃を迫られていた。
ウスターシュ・サンピエールは、敵の攻撃を回避させるため、他の5人とともに、
英国王の陣営におもむき、首をさしだし、それを条件に攻撃をやめさせた。
後世、ロダンはこの勇気ある人々の彫像の制作を、市から依頼された。
ロダンは、絶望と苦悩のうちに市の鍵を手に、首に縄を巻いて裸足で市の門をでてゆく
ウスターシュたちの群像をつくりあげた。
じっくりみると、死に直面した男たちの、恐れや苦悩がナマナマしく迫ってきて、
胸をうつ。
「知らなかった?この話」
少年と母親に、おじさんはていねいに説明していた。


03_p1410040
説明を聞く、母と子


 暑い日が続いた。
しかし、上野の森は、美術館、博物館、科学博、みんな一杯の人だ。

「科学博物館で、恐竜展観たでしょう。」
科学博の付近にたむろしていた少年たちに声をかけた。
「あそこに、ハチ公の剥製があるって知ってる?」
「へえ、渋谷のハチ公の?」
少年たちは、一瞬目を光らせた。


04_p1410205
科学博前にいた子ども


国立博物館の西側の一角に不思議な建物がある。
白い建物の壁に、夜になると光の十字架がふたつ投影される。
一見、礼拝堂にみえるが、映画館だ。
「一角座」客席150席。
作った映画を配給を通さず即、自前の館で上映する。
「産直方式」というのだそうだ。
鈴木清順監督の作品、「ツゴイネルワイゼン」を、エアドーム型の移動式映画館で、
上映し、興行を成功させた、荒戸源次郎プロデユーサー。
かれが仕掛け、博物館の杉長敬治さんが賛同して
できあがった、インデイーズを刺激する画期的な映画館がこれである。
まあ、せちがらい営利主義の世の中で、ふたりはスゴいことをやってのけたものだ。
映画人の高い理想に、脱帽。
だが、
今日出かけたら、廃館になっていた。
日本の文化事業のはかなさを嘆いて、あえて無くなってしまったが、これに触れておく。

05_p1410245
一角座。朝日、戸村登氏撮影


時折、立ち寄るのだが、国際子ども図書館に今日も行ってみた。
ぼくのような大人でも、絵本を楽しむことのできる、すばらしい環境だ。
もちろん、ここは親子連れには、もってこいのすばらしい図書館だ。
広いテラスも喫茶ルームもある。
ぼくも、まだ乳児の、いとしい孫の望乃ちゃんを、いずれここに連れてくるのを夢みている。


06_p1410087
国際子ども図書館

07_p1410095

きょうは、ぼくの少年時代の懐かしい本の特別展が開かれていた。
「ジャガーの眼」「ああ、玉杯に花うけて」「注文の多い料理店」…………。
懐かしさが、こみあげてくる。
ア!
あった。
「苦心の学友」……大好きな、佐々木邦だ。

ひとけの、すくない館内で、すこしぼんやり、時を過ごす。

もうひとつ、黒田清輝の黒田記念館で、作品の「湖畔」を鑑賞して、帰ろう。

なんだ、なんだヨ。
何回かここへ来たが、今日は休館だった。
この作品の「湖畔」は、箱根芦ノ湖の湖畔に憩う美女の絵だ。
モデルは、のちに黒田夫人となる女性で。1897年の作品だ。
ボクは、上野の美術品のなかでも、相当気になる繪だ。
明治文学のドラマをTVで時折観るが、鴎外の「雁」や、漱石の「三四郎」などのヒロイン役は、
杏ちゃんが演じていると、ボク好みの明治の女性が描かれていて楽しい。
「やっぱり、杏ちゃんが、ぴったりだよなあ」
ひとりで、悦に入っている。
しかし、鹿鳴館以降、、急速に激変してゆく明治日本の先端を走る女性は、
杏ちゃんより、すこし激しさと意志の強そうなニュアンスの、この「湖畔」の女性だった
ような気がする。

ボクは、杏ちゃんのような安らぐ女性のほうがずっと好きだけど。

広大な緑の上野の森。
いろんな歴史的事件や、失意の詩人白秋が、子どもを抱いて散歩したり、
原っぱで野球に興じた子規など、夢のつまった場所が、ゴロゴロこのあたりに転がっている。
文学者や、将軍の歩いた森を、想像をたくましく、楽しむ。

山をくだって広小路口に来たら、中華飯店がポツンとあった。
「エ?、こんなとこに店なんか、あったっけ?」
はじめて、めっけた店だ。
店頭に、
「ここで、ゴチになります、のロケがありました」みたいな紙が貼ってあった。
ゴチも、こんな環境にまで、遠征しているんだナ。

すぐ近くの階段に、髭ずらのおじさんが、段ボールを片手に、茜空を眺めていた。
こころなしか、
ホームレスの人達も、なぜかのどかにみえる。


08_p1410128
黒田記念館

09_p1410252
黒田清輝「湖畔」

10_p1410233
旦妃楼飯店

| | コメント (0) | トラックバック (0)

駄菓子屋の奥でピアノのの音、火の鳥が飛んだ。鬼子母神界隈。

01_p1400759
鬼子母神、入り口


 森閑とした、深緑の神社の境内。
8月も半ばだというのに、蝉の声がない。
今年はどうなっちゃたの。
この静けさ。
奇麗に菓子の並べられた駄菓子屋の奥の方から、
ピアノの音がこぼれたりするらしい。
鬼子母神堂の境内、である。
黙って店の前に立つと、奥からすっと年配の女性が顔を出した。
「ピアノ弾くんですか」
唐突な質問に、彼女は、当惑しながら、はにかんで、
「ええ、まあ」とあいまいに微笑んだ。
話しを切り替えて、
「えーと、駄菓子買おう。
これと、これと……」
駄菓子をあちこちからつまみだすと、
サッと、ちいさな篭がさしだされ、
「あ、酢蛸ですね、暑いと口が締まっていいですよ。
その乾燥菓子は、すこし甘いですよ。」
ボクがつまみあげるたびに商品説明が加わる。
5~6品種つまみ終わると、
「ハイ、322円ですネ。」計算が早い。
「ア、400円で、お釣いいです」と、ボク。
「すみませんね。じゃあ、これ、おまけ。」

駄菓子屋のおばさんとのハイテンポなやりとりに、子供時代の記憶が、
さっと、蘇ってきた。


02_p1400616
駄菓子屋


残ったコインを握りしめていると、
「ハイ」と、亡き母が小銭を渡すしぐさがふっと浮かんだりする。
同時に、わが子の幼なき昔。
時間をかけていつまでも選んでいる長男と、ささっと、決める次男の
性格の違いなど、脳裏に浮かびあがらせながら、ひとり笑いなどしてしまった。

この駄菓子の「上川口屋」は、なんと創業が1781年、この内山さんで13代目なんだそうだ。
法明寺の鬼子母神堂は、安産、子育ての神として江戸時代から、人々の
厚い信仰を得ているだけに、境内に駄菓子屋というのはうってつけなのかもしれない。


03_p1400586
駄菓子屋の山内さん


「このあたりに手塚治虫さんが、住んでいたそうですね」
内山さんに訊ねると、
「そう、黒いふちの、丸いメガネの人がよく散歩していました。
あとで、あれが、エライ漫画家さんだと聞いて、驚きましたよ。」
手塚さんの住居跡に行ってみることにした。


04_p1400559
樹齢、700年といわれる大イチョウ

「並木ハウス」というアパートがそれらしい。
参道からなか程の路地を右折したところに並木ハウスがある。
手塚さんは椎名町の「トキワ荘」からそこに引っ越し、
昭和29年から32年まで住んだ。
そのアパートの2階で、「鉄腕アトム」や「火の鳥」など名作が誕生したという。
当時家賃は、5000円だったといわれ、手塚さんは、当時めずらしいT.Vを購入
した折、近所の人々にも、どうぞ観てください、とやさしかったそうだ。

現在アパートに住む女性に、手塚さんの住んだ部屋(201号室)を教えてもらった。
入り組んだ裏道からしかその部屋は、みえなかった。
その部屋に隣接する民家は、かなり古めかしく、木々に覆われている。
手塚さんはこの秘めやか隣家を窓から眺めたのかもしれない。


05_p1400782
並木ハウスの表札

06_p1400893
手塚治虫は、ここで火の鳥などを創作した。

07_p1400678
階段の向こう側、201号室。

08_p1400697
すぐ隣の風景

都電.荒川線の鬼子母神駅に出てみた。
トコトコと、千登世橋をくぐって、電車が坂をのぼってきた。

最後に近くの雑司ヶ谷墓地で、ちょっと気になる墓を訪ねようと思って、
参道にある観光案内所で、場所を調べてもらったが、判らず、きょうは、35度の炎暑に
負けて帰ることにした。
でも、それについて書いておこう。
雑司ヶ谷霊園には、
夏目漱石、永井荷風、竹久夢路、ジョン万次郎など著名人が眠っている。
その夏目漱石だが、生前、小説のなかでこの墓地について触れている。
名作の「こころ」のなかだ。
その作品のなかに登場する先生は、ある事情を抱えて、友人の墓に毎月訪れている。
ある日、先生とわたしは、墓地の付近でバッタり出会った。
ふたりは、墓の間を抜けながら、墓碑銘に注意を向ける。
イサベラなになにだとか、神僕ロギンなどと変わった碑銘を眺めながら、
「安得烈」と彫られたちいさな墓の前で、
わたしは、「なんと読むのでしょう」と、先生に尋ねる。
「アンドレとでも読ませるんでしょうね」と、先生は苦笑する。

これは、
べつにたいした話ではないが、明治時代の小説のなかに描かれた墓の風景が、
いまどうなのかと、ちょっと確認してみたかった、というだけだ。
漱石フアンのボクの興味にすぎない。
たぶん、推測だが、これらの墓石は、付近にある雑司ヶ谷宣教師館に勤務された、
牧師さんたちのお墓かな、と考えている。
日をあらためて、訪れることにしょう。


09_p1400716
都電荒川線、鬼子母神駅。

10_p1400905
夏目漱石の、こころ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ねむの木の庭、プリンセス・ミチコが咲く。そこから白金へ。

01_p1390616
ねむの木の庭


もう、10年以上前だったが、夏、麻布の有栖川公園の坂上を、かみさんとふたりで散歩していた。
人影が全くない。
さらにゆくと、細い道路の信号機をひとりの警察官が、青信号に固定していた。

「どうしたんですか?」

尋ねると、

「天皇ご夫妻が、テニスにおいでになるんですよ」

と、笑って答えた。

まもなく、天皇ご夫妻だけのお車がひとつ、坂道をゆったり登って来た。
空いた窓から、天皇ご夫妻は、ぼくらふたりに笑顔で手を振ってくださった。
なんのしばりもない、ミカドと庶民、のどかな一瞬の風景。
警察官も笑顔で佇み、天皇ご夫妻も運転手だけのおでかけ。
こんな、ゆるやかなご日常が、すべてであれば、
いつも、天皇ご夫妻のみこころも安らかであられるのだろうに。

皇后様のご実家跡が、「ねむの木の庭」という、公園になっている。
五反田から、坂道の続くお屋敷の間を縫って、すこし息切れしながらそこにたどりついた。
175坪。こぶりな花壇公園だ。
庭には、約60種類の草花や木々が植えられているそうで、ていねいな手入れがされていた。
皇后には、ご自分の思い出の詰まったご生家である。
さぞや、取り壊しに、みこころを傷められたことであろう。
保存の希望が、あちこちから随分でたが、「皇后様は、保存をお望みでない」と
宮内庁は、ご決断されたことを公表した。
茶色の塔のようなものが建っているが、これは正田邸の暖炉のあった場所に、
設けたガス灯だそうだ。


02_p1390508
ねむの木の庭

皇后様ゆかりの花が、二種類、咲いていた。
ひとつは、「プリンセス・ミチコ」と名ずけられた薔薇である。
オレンジ系の美しき微笑の花は、妃殿下だった当時、訪英の折、
現地の園芸会社が、
新種のこの薔薇に妃殿下のお名前をいただき、それを贈呈したものだという。

03_p1390574
薔薇、プリンセス・ミチコ

もうひとつは、「ゆうすげ」。
皇后様のお好きな、花だそうだ。
ゆりの仲間で、夕方に花を開き、一夜でしぼむ、かれんな花である。
ちょっと、はかない想いに駆られるが、
楚々として香しい。

「もう、2回ほど、この花をご覧にみえましたよ。」

庭の手入れに余念のない老齢のおじさんが、皇后様の
おしのびでみえたご様子を教えてくれた。

04_p1390554
皇后様のお好きな「ゆうすげ」


やはりこのお庭は、波乱万丈の昭和を生き抜かれた美智子皇后の
みこころを偲ぶにふさわしいお庭となっている。


さあ、
蔦に覆われた民家の角を曲り、白金へ向かう。
外苑西通りをプラチナ通りとよぶ、メデイアの感覚は好きではないが、
ボクの思う素敵なところは、直線は平凡だが、湾曲するあたりの緑深い街、路だ。
そのあたりにひとつの魅力のエッセンスがある。
風そよぐアベニュー。
チョコレートのエリカ、イタめしのルクソールも近い。
だが、
「エリカ」
閉まっている。

8月いっぱいは、なぜかお休みだと、花屋のお兄さんが教えてくれた。
ミルクチョコレートのなかに、マシュマロとクルミのはいった「マ・ボンヌ」。
これは、以前、賞味して、しびれたことがある。
あーあ。今日はダメかア。


05_p1390714
風そよぐ、プラチナ通り

06_p1390694
レストラン


庭園美術館に急ごう。
いまは、エルミタージュの所蔵品を展示している。
「皇帝の愛したガラス」展だ。
エミール・ガレなどもあったが、18世紀中心のガラスコレクション。
いやあ、絢爛豪華。
この美術館はアール・デコの大好きなぼくの、くつろぎの場だが、
洋風庭園がまたいい。
巷で35度ともいうこの猛暑にも、ここは涼風を感じる広い庭で、読書にひたる淑女たちがいた。
優雅ア。
最後の目的地に向う。


07_p1390823
東京都庭園美術館

08_p1390829
美術館の庭園、読書する女

09_p1390948
もうひとり、読書する女

時代屋、おっと、ではなく時代物の着物を扱う「池田」だ。
ぼくは、19世紀の英国製の古椅子を一脚もっているが、ボロボロなので、
ここで古い帶地でも買って、張り替えようというわけだ。
3人の親切なおばあちゃんの店員が、あれこれ探してくれた。
「あったア!」
おばあちゃん三人も同時に笑顔になった。
この店では江戸時代から現代までの布が揃うという。
着物、浴衣、羽織からちりめんの端切まで多彩。
しかも、値段はリーズナブル。

きょうは、フシギな感覚の散歩になった。
いつもはセレブな街にまぎれこむ異物のような感じのボクだが、意外やきょうはそれなりに
楽しめた一日だった。

10_p1390957
時代着物店の池田

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«「本郷館」も消える。明治は遠く、本郷三丁目。