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2009年2月

おもろい話02 〜立川談志、獏の人〜

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立川談志、獏の人

談志師匠には取材で、4〜5回お会いした。
大泉のお宅にも、おじゃました。
広いが薄暗い部屋。
でかいテーブル。
ここで弟子達と食事したり、人と会ったりするのだろう。
政治家時代の裏話も、聞いた。
無防備にポロッと、とんでもない出来事をしゃべってくれた。
でも、内緒。

純粋で、あっけらかんとした人だから、汚い政治の世界には棲めなかったんだな、と思った。
さかのぼる師匠の青春時代、月刊town誌の部屋で時折見かける師匠は、
寺山修司などの論客と一緒に、いつもエンジン全開のようにみえた。
ぼくが、インタビューでお会いする頃は、かなり棘がぬけていた。
ぼくの勝手な思い込みだが、獏のように、なにか無形のものをむさぼる人だなという印象がある。
すべてに達観しているのかな、と思ったりする。

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おもろい話01 〜落研の人。〜

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落研の人。

この写真を見て下さい。
駿河台の明大。
学祭で、落研の連中がデモンストレーションしてる。
たぶん20年以上、(もっと前かな)の風景です。
よく見れば、どこかで見たことのある人がいるではないか。
気がつかなかったが。
コント赤信号?
この写真に写った頃、きっと彼らは、今日の姿を確信していたことでしょう。
夢。
青春っていいもんだ。
なにも知らずに撮った写真だが、結果彼らの青春を記録したことになる。
彼らが、喜ぶか、嫌がるか、わからないが、ちょっと楽しくなった。

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のりものと災難。

のりものにからんだ話をいろいろ書いた。
面白い「のりもの」が好きでそんな写真を撮るのが楽しみだったが、
のりものにからんだ話を書いていくと、のりもの本体より人との思い出話になってしまった。

最後に、のりもので災難に遭った話で終わろう。
65年頃だったろうか。
静岡で草野球を楽しんでいた頃、甲府に試合で遠征した。
身延線というデイーゼルの列車(だった気がする)の終列車で帰る途中
山の中の駅で、車掌にことわって水を飲みにホームに降りた。

水道の蛇口に口をつけ、ゴクゴク飲んでいると、スゥーッと列車が走り出してしまった。
終列車である。
駅は無人駅。
まわりは山が深く、一軒の民家もなかった。
その時、大げさだが運命というものは、突如ことわりなしにくるものだ、ということを知った。
運命の女神は、その日と翌日のぼくの自由を取り上げてしまった。

計画された明日の予定も、家族や約束のある人への連絡のすべても途絶え
ひたすら明日の一番列車を待つほかないのだ。
皆はその話をすると笑うが、ぼくには哲学的なくらい深刻な体験だった。
だからそれがトラウマとなり、地方出張でのりものの不便なところへゆくと
早く帰りたいと、もぞもぞするのである。

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谷岡ヤスジと戦艦大和

「きょうのインタビューの相手は、男のなかの男ですよ」
ライターの都築千穂さんが言った。
「男のなかの男?いまどきそんな男がいるの?」
そんなやりとりがあって向かった先は、下高井戸の漫画家、谷岡ヤスジさんの自宅だった。

「鼻血ブー」とか「アサー!」とか漫画から飛び出してくる面白いフレーズは知っていたが、読んだことはなかった。
谷岡はいまどき珍しい反骨精神の持ち主だった。
自作の漫画がブームになると、一流出版社はこぞって押し掛けてくるが
すこし人気が落ちるとパタっとこなくなるという。
ニ流、三流の雑誌は、そんな人気に関係なくずっと継続して依頼してくる。
谷岡はそういうマイナー誌を大切にしているという。

ブームがまたきた。
一流誌から早速「谷岡くん、5ぺージ連載でやりますからね」ときた。
彼は
「やらんよ。」

「え?」
出版社はあわててエライさんがふたりかけつけた。

「てめえ達の都合で、ふりまわされてたまるか。」
「そこのキタネエ絨毯にふたりして額をすりつけて、泣いて頼んできたが、
 おれはやらないと決めたらやらない。」
欲得より、意地だ。

彼の机の前には、軍艦の絵図面が張り付けてある。
戦艦、巡洋艦、駆逐艦、たくさんあるが軍艦は一本の仕事を意味してる。
しかし、火を吹いて炎上している艦も多い。
炎上は、仕事がなくなったという意味だ。
半年、ほとんど仕事がなかったこともある、
そんな時はプラモデルの戦艦大和を眺めながら、CDで「海ゆかば」を聞いた。

取材をきっかけに、ぼくは彼と意気統合し、ウイスキーを飲みながらポルノヴィデオを観たり、
くだらぬ話に花を咲かせた。
ある日、ぼろぼろのアパートの彼の仕事場に立ち寄った。
汚い四畳半の部屋にちゃぶ台と冷蔵庫がひとつ。
冷蔵庫には,缶ビールが詰まっていて、彼は二本とりだし、ひとつをぼくにさしだした。
「あ、これから仕事だから、いいよ」というと、彼は怒った。
「なんだよ。おれは、編集者なんかにには、絶対飲めなんてすすめないのに!
 幡谷さんだから、飲めっていってるんじゃないか。」
「飲め!」
怒った顔は、はんべそのようにもみえた。
ぼくは、こういう好意に出会ったのは、はじめてだった。

谷岡は死んでしまった。
強気で、意地っぱりにみえるが、繊細で弱い人のような気がする。
ぼくとは、短く、浅いかかわりだったが、忘れられない人である。

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プランクトン健太郎とドラム缶のヨット。

金子健太郎、冒険家。
名刺にいくつかの肩書きが並んでいる。
そのひとつに「プランクトン健太郎」と書いてある。
やや奇異な感じだが、この人はオキアミを食料化することに力を尽したパイオニアである。
それを意味する肩書きなのだろう。
彼の目標は大きい。
人類が食料問題で困らないようにしたい、という。
安全で無尽蔵な食材を発見すべく探検を続けているのだ。
62年南極のオキアミを探索すべく、ひそかにドラム缶39個でつくりあげたヨットで彼は密出国を図る。
千葉の沖合で日本脱出の寸前、海上保安庁の巡視船に拿捕されてしまった。
堀江謙一の太平洋横断成功の直前だった。
天が、くみしていれば、堀江謙一の栄光は金子健太郎にとって変わられたかもしれない。

87年9月11日、明日アフリカの熱帯砂漠に、栄養塩類の藻を探索に旅立とうとする彼を、茂原に訪ねた。
彼は多忙だった。
出発前日しかインタビューできない。
それも夜中になった。
山のなかの三畳一間の家。
冷蔵庫、洗濯機、風呂なし。
資金は肉体労働で稼ぎ、この冒険を続ける。
かたわらの菩薩のような奥さんが彼をささえる。
この夜冒険を前にし、淡々と準備を続けるこの夫婦に不思議な感動を覚えた。

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社長さんとのりもの2

社長さんとのりもの、といえば船が大好きな橋本総業(株)の橋本会長と社長が思い浮かぶ。
会長は戦前の商船学校に学び、それから海軍と筋金いりの海の男でクルーザーを乗り廻す。
社長は、東大時代ヨツトで明け暮れた。
船へのこだわりが事業への成果につながっている。
二人とも、船での生活を通して人間のありかたや経営の要諦を知ったという。
この会社の事業は、管工機材を扱う商社だ。
戦後の灰のなかから、3代目の政雄会長が6人で会社を再興した。
流通革命でこの種の卸業は厳しい荒波に晒されて難破しても不思議ではない。
だが、それを乗り越え120年の歴史を刻み、ジャスダックにも上場した。
超不況のこの頃も、株価が下らない。
「人を大切にする橋本」というのが自他ともに認めるモットーだが、
ともすれば軽々しく発せられる「人を大切に」という言葉だが、橋本のそれは重みが違う。
エピソードは随分あるが、そのひとつ。
政昭社長の学生時代のヨット体験である。
大学の体育部の上下の関係は、服従の一言につきる。
ヨットは風をうまく使う。
レース全体と自分の位置、勝負どころの判断。
それを後輩と組むのだ。
おのずと主従関係じみてくる。
パートナーとの信頼が大切なのに後輩に「絶体服従」なんていっていたら勝てる筈がない。
彼は上級生になると、上下の封建制を取払いフランクな人間関係を築いた。
そして負け続きだった学生選手権で優勝を果たした。
体験、思考、理念。
そこまで深め、高めて、はじめて人間を大切にする、と言う言葉が光る。
私がこの二人から学んだことは、数多かった。

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随分いろいろな経営誌で、社長さんのインタビューや撮影をさせてもらった。
一人で何回も取材の機会があったのは、ダイエーの中内功氏で、
神戸のバラックのような質素な社屋での取材や、福岡ドームの建設現場での撮影など、
興隆期の姿がほとんどだったが、驕らずとても紳士的だった印象が残る。
取材者の分際で、社長さんと懇意になることはほとんどないが、
のりものに関連して、社長さんのあたたかな気持に触れた話をしよう。

西武の堤清二社長の現役時代のことだった。
インタビューの本筋から趣味の話に変わり、好きな写真家の話題になった。
私が、ユージン・スミスが好きだと言うと、堤さんは「私もそうだ」とその話題が大いにはずんだ。
社長の予定の時間がせまり秘書がうながしにきた。
社長は「銀座で次の仕事なのですが、お嫌でなかったら、車で続きのお話をしませんか」
と誘ってくださつた。
渋谷から銀座までとても楽しい時間だった。

もう一人、印象的なのはキャノンの御手洗肇社長だ。
シスコのスタンフォード大学内にあるキャノン研究所での撮影だった。
撮影に便利なようにと、立派なリムジンを用意してくれた。
その御手洗社長の記憶が強く消えないのは、リムジンのことではなくその取材直後に急死されたからである。
別れる朝、ホテルで朝食をご一緒した。
御手洗さんは、イチゴをのせたホツトケーキを注文した。
そして私に「おなじものにしますか?」
いたずらそうに、そう言った。
もちろん私もそれにした。
カナダだったか、シアトルだったか、そこに住まう娘さんのところへ立ち寄るのだ、と嬉しそうだった。
やさしい笑顔は、氷ついたように目交いにある。

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19世紀後半から20世紀前半にかけて、アメリカのあちこちで鉱山の発掘がさかんだった。
ここはネヴァタ州のヴァージニアシティで1859年に金銀の鉱脈が発見された。
鉱山資源の開発は、西部開拓など国の目標のなかでおこなわれたが
あらくれものや、無法者も多数流れ込んだ。

ザクザク金銀が掘り出された時代は、町はものすごい活気だったそうだ。
今は掘り尽くされてなにもない。
緑もほとんどないし、人の憩いの場所もない。
廃墟。

「夏草や、つわものどもの、夢のあと」
と男どもの戦いのあとのむなしさを詠んだ芭蕉の句がある。
ここもそんなことを感じさせる風景だ。

欲にとりつかれて、手にしたお金は身に付かない、といわれる。
金持ちになった人の話はあまり聞かない。
奇妙だが、この廃墟のような町になぜか教会がいくつも目につく。
金に目がくらみ人生を棒にふった男たちを神が救おうというのだろうか。
そういうわけでもあるまいが。
いまはこのあたり、観光地になっていて古い時代の郷愁を誘っている。

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