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2009年5月

寺山修司、「それから」05 〜 不在の寺山は饒舌だった。(後) 〜

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座椅子


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女性達は、忙しく、ぼくのことなどかまってはいなかった。

横倒しになった電気こたつが、なぜか赤々とひかり、
落ちていた靴下が、子供のもののように小さく思えた。

朽ちかかったベランダに立て掛けてあった座椅子が、
孤独な、人影を思わせる。

日焼けした畳の空間は、引き剥がせば、恐山がひろがる、
「映画、田園に死す」の衝撃を思い出す。
棚に置かれたレザーかみそり、
日々捻られた水道の蛇口、
それに、コーヒーカップ。
愛用のポックリ。

それらは、彼の駈けぬけた日々の哀感を伝え、
それぞれが、寺山の実在を主張していた。


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壁から小さな馬がこちらをながめている。
ふと、ミソオチスという寺山の好きだった馬を思い出す。
中央から地方に移って行く愛馬に、彼は、
「旅の役者と空飛ぶ鳥は  どこのいずこで  果てるやら。」
と、馬との別離を惜しんだ。


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浴室は、使われた様子はなく、脱衣所の狭い空間も雑誌で埋め尽くされていた。

あまりに、多くの意味や、気配にぼくは自錠自縛におちいり、すっかり疲れてしまった。
三人に謝礼を述べ屋外にでた。
彼の部屋の横の空間の、なんの変哲もない風景までも、
寺山の視線の支配下にあるように思えた。
半地下が駐車場になっていた。
そこから見える西に開いた空間は、もう手の届かない、懐かしい風景に思えた。


わが埋めし  種子一粒も眠りいん  遠き内部にけむる夕焼

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寺山修司、「それから」05 〜 不在の寺山は饒舌だった。(前) 〜

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「きょう部屋を整理しますよ。」
はつさんから聞いて、その日、玄間口に立った。
もう、すでに整理が始まって、
はつさんと九条さんと田中未知さんが、忙しく立ち働いていた。

声をかけると三人がぼくの前に並んだ。
「掃除を始めちゃったんで。」
九条さんと田中さんは、当然、そういう状態で撮影不可能だと、ぼくに伝えた。

はつさんは、それを遮り「どうぞ、撮りなさい」とすすめた。
三人は、激しく意見を言い合った。
ぼくより高い立ち位置にいる三人が、仁王立ちでぼくを圧した。
はつさんが、寄り切った。
九条さんごめんなさい。
あの日は、寺山の体温のようなものを、掴みとる最後の機会だったのです。

しかし、あのとき、整理がすすむ、荒野のような寂しい風景が、
寺山を語る正確なものであるとは断言できない。
なぜなら、その後、太子堂に仮設された、記念室の美しい書棚の風景こそ、
正碓な部屋のレイアウトであったにちがいないからだ。

しかし、ぼくは、その太子堂の部屋に立ち、寺山の香りを感ずることはできなかった。
やはり、撮影を強行させてもらった、あの主なき部屋で発する気配こそが、
濃密に多くを語ってくれたと思うのです。

-続-


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寺山修司、「それから」04 〜 寺山はつさんとタロー。 〜

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この取材や、作品の発表には、
九条今日子さんと寺山はつさんに大変お世話になった。

山田太一氏には、展覧会「寺山修司への旅」の推薦文を、
新書館の白石征氏には助言や励ましを、いただいた。

04年の寺山修司「望郷」(求龍堂)の出版は、松井武利氏の英断と、
九条さんのご協力によって実現し、亡くなったパイクの坂本さんが尽力してくださった。
市川敏明さんは、もう何十年も前から出版のため奔走してくれた。
素敵な、デザインは美野里さんとの協作だった。
工藤隆さんにもたいへんお世話になった。

青森の高木保氏や、田中忠三朗氏にも現地で多大な協力をいただいた。
その他、沢山の方々にお世話になったが、
記録した大事なメモを紛失する、大失態をしでかした。

そのため、お礼を述べることもできない苦痛にさいなまれている。
ご協力の皆さん、本当にありがとうございました。

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寺山はつさんにはじめて会ったのは、
寺山と同じ、松風荘で、だった。
寺山修司が2階、はつさんが1階に。
この松風荘が取り壊されると聞き、ある日立ち寄った。

ひと気がない。
はつさんとおぼしき部屋の前を通ると、扉が開かれ奥から、けたたましく犬が吠えた。
寺山の飼犬のワグナーか。

老婆が、「なにか、御用ですか?」
と声をかけてきた。
はつさんだった。
ぼくは、寺山のおくやみを述べ、
「この犬が、ワグナーですか?」
と尋ねると、
「ちがいます。これは、タローというんですよ。」
と言いながら、彼女は玄間まで、出て来た。

「修ちゃんがかわいがっていた、犬なんです。」
屈託のない様子だ。
「ほう、」と興味を示めすと、気楽な世間話のように、はつさんは寺山の思い出話をしてくれた。

「修ちゃんは、わたしたちが、原稿にさわると、とても嫌がりましたが、
タローがまだ小さな頃は、原稿におしっこをかけても、いいんだ、いいんだなどと、
許していたんですよ。」
「とにかく、犬の好きな子でしたよ。いままで、何匹飼ったのやら。」
話の切れ目に、
「寺山修司への旅」というイメージ世界を作りたいので、是非、ご協力を」
と頼むと、彼女は快く、承諾してくれた。

「ああ、いいですよ。おやんなさい。わたしも修ちゃんの記念館をつくるために
頑張りますから、修ちゃんを語るものならどんどんやってください。
なんでも協力しますよ。」

心強い応援の話だった。
タローは、思い出したように、時折けたたましく吠えていた。

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寺山修司、「それから」03 〜 玄関のダンディズム 。 〜

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「こんにちわ。」


誰もいない、ひとけのない寺山のアパートの玄関に立つ。
ドアの小さな覗き窓には、ボクサーのコラージュが貼付けられ、
彼らしいダンデイズムが、そこに立つぼくをなごませる。


誰でも、その向こう側にある世界に好奇心をそそられることだろう。
ぼくはそこに立ち、ふとドアのノブに手をかけるかれを想像した。
そして、彼と立ち位置が交錯する不思議を思った。


顔をあげると、室号を示す10号という古風なガイシ。
ドアの脇には、室内に置かれた、書物の背中の列。
天才の住まい。


まとめようのない複雑な思いが胸をよぎった。


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寺山修司、「それから」02 〜 巨大な黒い柩。 〜

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屋根の上の人形

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館全景

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2日くらい経っただろう日、
寺山の拠点の麻布十番の天井桟敷に駆付けた。

静な住宅地の、白っぽい風景のなかに、真っ黒なかたまりがひとつ。
それが、それだった。

それは、時が時だけに、巨大な柩をイメージさせた。
扉をあけると、左手は、喫茶コーナー。
奥は舞台になっていた。
真ん中に祭壇がしつらえてあり、隅のほうに、2、3人の若者がいた。

額を合わせるように、小声で話して、来訪者にふりむくこともなかった。

「シーザーさんは?」

そのかたまりに声をかけると、あ、もうじき戻ります、と返事があった。
J・A・シーザー氏が戻った。
おくやみを述べ、言いずらい撮影の希望を述べた。
「ああ、どうぞ」
さすが、こっちの意図の汲み取りが早い。
直感の鋭い、アーチストだ。

しかし、こういう空気のなかの撮影ほど、神経が疲れることはない。
カメラという道具を操ることで、心のつかえを、解こうとする意味を、
果たして人は、判ってくれるだろうか。
シーザー氏ほか2、3人の若者は、言葉を交わすこともなく、
黙々と食事や、かたずけをしていた。


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シーザー達3人


邪魔にならないように、スナップする。
喫茶室の一角の調理コーナーに、
コーヒー300円などと書かれた価格表や、
公演の「レミング」についてのメッセージなどが貼られている。
奥の舞台は、真黒に塗られ、天井から僅かな光が落ちていた。
がらくたが散らばる中に、もう用済みなのか、これから使われるのか、
舞台模型が作られており、それだけがこの部屋にある形のはっきりしたものだった。

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レミングのポスター

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模型

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寺山修司、「それから」01 〜 「それから」のわけ 〜

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寺山修司「それから」。
などと書くと、「?」、と思われるかたも多いだろう。
「それから」、は、1983年5月4日、彼が世を去ったあとからの、
彼にまつわる、わたしの記録である。
そして、「それから」と「それまで」の寺山修司という歴史への旅でもある。


車に撮影機材を積んで、移動しているせいで、早い情報は、ラジオからだ。


「寺山死す」


この衝撃的情報は、晴海で、弁当に手をつけようとした時に聞いた。
ここで自分の感概をのべてもしかたないが。

喪失感。
この、空虚な、鬱みたいな気分を振払うのはどうしたらいいか。
 
やはり、カメラにカタルシスを求めるほかない。


テラヤマ。
そのイメージの総体が、いま、撮るべきテーマとして、
ぼくを、つき動かして来た。


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ブルースが聞こえる 10

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最終章。 
 

元村という一人のフリーターが、一念発起し、多くの人達に助けられ、
大きな仕事を成し遂げた。
 
その過程で、かれはグングン大きくなった。
ぼくは、この仙人のおかげで、豊かな夢をみさせてもらった。

これら一連の、ぼくらの孫悟空のような、
奔放な、動きには批判もあった。
 
とくに、スミスの招聘については、ぼくらの知らぬ問題があるらしく、
JPSの渡辺会長から、こっぴどく叱られた。

 
この辺が、ぼくの身をひく潮時だった。
ぼくは、元村と別れ、自分の生活に戻った。
 


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N.Y.で撮った写真の、展示の準備、
予定の仕事も遅れおくれになっていた。

スミスは、アイリーンと結婚し、二人で水俣で最後の大仕事をした。
スミスへの暴行事件が、報じられ、皆心配したものだった。
 
森永君の「どぶ」も、元村の手で、写真集になった。
元村は、義理と感謝を忘れぬ男だ。
「どぶ」は、売れたのか? 聞いてみた。
 
いや、売れなかった。
だから、
「フランクの写真集の注文が来たとき、どぶ、をくっつけて売ったよ。」
元村らしい売り方だった。
兄に借りた1000万は、どぶに捨てずに済んだ、ようだ。

1970年。
どこへいっても、ぼくたちは人々に助けられた。
なんで人は、こんなにやさしいんだ。

2009年。
40年近く経つのに、なにも変わらず、時間が流れる。
フリーターが、突如、変貌し、人生を一変させる現象だって同じだ。
やはり、人生とは、焦らず、いい仕事と、いい人との出会いを待つことなんだなあ。

おーい。
元村、がんばってるかあ。

                     


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ブルースが聞こえる 09

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ジューンと、スミスと、セントラルアパート。 


元村は、フランク氏を、お礼に日本に招待した。
氏は、自分の代わりにジューンをよこした。
ぼくらは、ちいさなホンダN360にジューンを乗せて東京中走った。

長身のからだを折り曲げて、
窮屈そうに車を乗り降りしていた彼女を思い出す。
ジューンは浅草へひとりで出かけた帰り、
ぼくの亀戸のアパートへ、寄った。
とても、浅草に興味を持ったらしく、すこし興奮していた。

雷門の人形焼きを買ってきて、
ぼくの二人の子供達に食べるようにすすめた。
4才と6才の息子は、
はじめての外人に驚いたのか、恥ずかしかったのか、
大好きな人形焼を前に、腰を引いて手を出さなかった。
ジューンの困惑した顔が、おかしかった。
ジューンは、京都で、重森氏の案内を堪能し、元気でアメリカに帰った。

フランク氏の礼状とジューンのスケッチが送られてきた。(写真参照)

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元村は、エラかった。
お世話になった、ユージン・スミスに、「水俣」の撮影を進言していた。
フランクの写真集への、協力の謝礼の意味もあっただろうが、
世界的写真家に水俣のドキュメンツを是非やってもらいたい、という願いだった。

「水俣」の恐るべき現実は、60年代に桑原史成のドキュメンツで告発されていたが、
引き続き、現地は憂うべき状況にあった。


スミスは、腰をあげた。
「よし、やろう。」
元村は、来日するスミスのために、表参道のセントラルアパートの一室を借りた。

オフィスはできたが、スミスの住まいはどうする?
現地水俣の拠点は?
元村の神経は、休まる暇はなかった。
 
浅井慎平さんが、オフィスに同居させてくれ、とやってきた。
スミスが動きだすためには、賑やかなほうかいい。
元村も歓迎した。
 
賑やかといえば、あの頃のセントラルアパートには、
映画作家、デザイナー、カメラマン、俳優など
いろいろなジャンルのアーチスト達が、ここを拠点に活躍していた。
一階にあるレオンの、コーヒーは、抜群の味で人気だった。

若いアーチスト達が狭い店内にひしめき、たばこの煙を充満させていた。
 
ここは、そんな若者達の梁山泊の様相を呈していた。

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ブルースが聞こえる 08

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三人の大恩人。 

すこし、そのことに触れさせてもらいたい。

目島計一氏には、写真学校でお世話になった。
学校は、綜合写専といって、かなり荒っぽいスパルタ教育をしていた。
土田ヒロミ氏をはじめ、数多くの写真家を輩出している。
目島氏は、そこの象徴的な教師だった。

氏は、左翼的な思想の教師で、ぼくとは、かなり考え方が違った。
だが、、「生きる意味」とか「ものの評価の基準」とか、やや抽象的な話では、ほとんど共感した。

ーーああ、人間って、思想が違っても、心を通じさせることができるんだ。

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ある時、目島先生と生徒が、激しく対立した。
課題で、「山の麓から、山の全景を、撮れ」というもので、
厄介なことには、立ち位置のうしろは、海だった。

当時は魚眼レンズなど、ワイドなレンズもなく、
そのままでは、その風景はカメラにおさまらず、みな途方に暮れた。
「そんなの撮れっこないじゃん」
生徒が抗議すると、
「それは、君達の家庭の事情でしょ。私は、その写真を求めているわけ。」
といって、先生は、プイと横をむいた。
「海の中に入って、撮るしかないじゃないですか。」
生徒が、更に激しく抗議した。
「じゃあ、そうやれば」先生は、涼しい顔で、即答した。
ぼくは、のちにお金をもらって写真を撮る生活になって、
難かしい取材に出会うといつでも、この時の風景を思い出す。


「それは、あなたの家庭の事情でしょ。」
無理偏にげんこつ、の仕事って、どこにもあるよな。
そうか。
プロとか、商売とか、は「出来ない」といったら終わりなんだ。
目島氏は、凄い真理を、単純に教えてくれていた。

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伊藤知巳氏には、多くのチャンスと、創作上のいきずまりを助けてもらった。
ぼくのデビュー作は、難産で、なかなか発表のチャンスが来なかった。
「こ難しい写真だな」
そういう、感想の人も多かった。
銀行員という、恵まれた暮らしを捨てて、好きなことやってるんだからしょうがない。
親友の朝比奈が、運んでくれる写真の仕事で細々とたべていた。
結婚2ヶ月で、プーのような生活。
ボロボロの借家。
なめくじの這う、台所で、泣きながら妻も頑張ってくれた。


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伊藤氏は、おだて上手で、すぐめげてしまうぼくを、父親のように励ましてくれた。
アサヒカメラや、岩波の「世界」など一流誌へ推薦してくれ、そこから、写真の道へスタートが切れた。
ぼくが、観念過剰で、制作にいきずまると、「観念の空転を排し、リリカルな資質をいかせ」
と、雑誌に厳しく論じてくれた。
清貧の人だった。
「先生、おれが、めし食えるようになったら、米俵かついでくるからね。」
冗談いうと、
「おう、2〜3俵かついでこい」と笑った。
米1合も届けられないうちに、先生は亡くなってしまった。

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山岸章二氏にも大変お世話になった。
いま活躍している写真家の多くは、山岸さんの恩恵をうけたのではないだろうか。
駆け出しの頃、ある写真誌に原稿をもち込んだ。
その編集長は、怒った顔で「こんなのは、写真じゃあない」、と嶮もほろろに拒否された。
そんなことは、まれではなかった。
訪問販売や、無理解な上司に苦しむサラリーマンと同じだった。

山岸さんは「おう、凄いじゃん。どんどんもってこいよ」
捨てる神あれば、拾う神ありで、ペチャンコのぼくを拾いあげてくれた。
新鮮な表現を見い出す才能に優れた方で、多くの写真家を育てた。
浅黒い、男らしい美貌の蔭に、太宰や芥川の繊細さ、を思ったことがある。  
突然、自殺された。
衝撃は、言葉にしょうもなかった。

それにしても、自分を認めてくれる人との出会いは、感謝と感動だ。
江原啓之氏の、人生は経験と感動を求めることだ、とは、ぼくも同感。
この世にいない三人を忘れることはない。


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ブルースが聞こえる 07


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凄い本ができた。 


日本に帰った僕達は、
本作りのためやることが、やまほどあった。
京都の特殊印刷を交渉する一方、
翻訳家、写真評論、作家論、デザインの
人選から交渉まで、大忙しだった。

こんなことってあるだろうか。
翻訳の諏訪優氏、
評論は、重森弘庵氏、埴谷雄高氏、松本俊夫氏、
デザインは、杉浦康平氏。


勝手に超一流の人選をし、お願いをしたが、すべてOKしてくださった。
しかも、ボランティアのような安いギャラで。

 
凄い本ができた。(写真参照)

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写真集のタイトルは、「私の手の詩」。
フランク氏は、私的なモノローグのような、構成をしていた。
冒頭、いきなり、供花されたようにチュウリップが置かれてある。
そして、亡き友人達の肖像が、並ぶ。

 
この本は、死者達の思い出からスタートしているのだ。
そして、のちに、航空事故で亡くなる娘と、
自殺した息子の幸福(そうだった)幼時のスナップ。
そして、(別れたのだろうか)妻。
それは、ある意思がはっきりしていた。
写真集は、自分の大切な人達と「生きたこと」から、
語りだしているのだ。


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アマチュア出版社の元村は、
エンジン全開で、走り出していた。
本の販売は、東、日版の巨大組織の取り次ぎに頼らず、
三鷹市牟礼の、六畳、四畳半の自宅アパートが、販売店。

注文には、元村みずから無骨な手仕事で、
フランク信者のもとに本は、せっせと届けられていった。

口とんがらして、黙々と作業。
目に浮かぶよ。
本の宣伝なんかに、使える金なんてないもんな。
すべて、雑誌社や、新聞社にパブリシテイを頼んだ。
二人で、歩いた。歩いた。
セールスマンの苦労がよく判る。
だから、読者への告知は、
新聞、雑誌にとりあげられた解説や評論だけ。
これまでには、どれだけ多くの方々の力添えがあったか知れない。
幸い、赤字がでなくて済んだらしい。


「まったく、おまえ達は。」と、
八重歯をのぞかせながら、慈父のように喜こんでくれた
写真評論家の伊藤知己氏。

「やったじゃんか。」と、まるい目を、
更に丸くして褒めてくれた、目島計一氏。

「素人に凄いことを、やられてしまったね」と、
評価してくれたカメラ毎日の山岸章二氏。

のちに出てくる、バッシングの苦痛のなかで、
この三氏のあたたかな受け止めは、
崩れかかるぼくらの心を、支えてくれた、本当に有り難いものだった。

このスト—リーとすこし離れるが、
この三氏は、ぼくをカメラマンの世界にすべりこませてくれた
大恩人なのだ。

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