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2009年6月

寺山修司、「それから」13 〜 別れの行脚。N子の涙。 〜

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昭和58年5月の、ある夜。
N子が泣きながら、ぼくに電話をしてきた。

ーー寺山さん、死んでしまったのよ。
どうして。
死んでしまえばいい人、一杯いるのに。どうして。
あの方が。
わたし、娘と一緒に青山斎場へいったわ。
だいふく買って、供えてきたの。
寺山さん、好物だったのね。
祭壇を眺めていて、
娘と泣いたわ。
もう、この世に相談相手が誰もいないのよ。

ひとしきり、愚痴って、彼女は冷静になった。


1


N子と寺山の付きあいは長い。
寺山がネフローゼで社会保険中央病院に入院している時、彼女は、
看護学生としてそこに研修中で寺山と知りあった。

石原慎太郎が「太陽の季節」で文壇に華々しく登場してきた時で、
ーー寺山さんは、あんなのに先を越された、といって、とても悔しがっていたわ。
以前、彼女はそんな病床でのエピソードを話してくれた。


2


昭和58年春。
寺山修司は、死を予期し、親しかった友人たちに別れを告げに歩いたといわれる。
山田太一氏にもあとで、その時の話を聞いた。

3


そんな頃だった。
ある日、N子は、寺山からの電話を受けた。
ーーどう、元気?そう。
相変わらずの調子だったの。
その日、トンジョ(東京女子大)に行っている二人の娘が、友人と
小さなパーテイをやっていたの。
かわいい娘達が集まっておしゃべりしているから、あなたもいらっしゃらない?
というと、早速かれはやってきたわ。
汗だらけになって。
革ジャンで。
あらあら、すごい汗ね。どうなさる?
シャワー欲しいでしょう。
「おれんち、風呂はないんだ。」
じゃあ、うちのにおはいりなさいよ、っていうと
かれは嬉しそうに「じゃあそうしよう」といって
お風呂を使ったの。
上気した顔でお風呂からあがってきたわ。
男っ気のない母子家庭なので、お貸しできる着替えもなかったの。
ごめんなさいね。
でもかれは、風呂あがりで汗の吹きでているのもかまわず、着てきた革の
ジャンバーを羽織ったの。
かれは、二人の娘にお土産をもってきてくれたの。自分の著作の絵本だったわ。
サインは、もう、してあったの。
なにか、みんなでとりとめもないおしゃべりをして、とりたてて印象に残る
ようなことはなかったわ。
別れ際の姿も覚えていないの。
それも、残念なことよね。
なにやら悔やむことが多いの。

4

最近になって、ぼくは、社会保険中央病院時代の寺山の恋人夏美に触れた文章に出会うたび、
N子と夏美は同一人物なのではないか、と思うようになった。


空にまく 種子選ばんと抱きつつ 夏美のなかにわが入りゆく

空撃ってきし 猟銃を拭きながら 夏美にいかに渇きを告げん

青空の どこの港へ着くとなく 声は夏美を呼ぶ歌となる

5


夏美とN子の年齢、寺山と出会った時期と場所。
夏美が寺山と別れ、結婚した頃にN子も結婚している。
いくつもの要素が奇妙にだぶるのだ。
それに、ここに書けないことがもうひとつ。

いままで、N子にこの疑問をぶつけたことはないし、
彼女がそれを語ったこともない。

6


田沢拓也さんは、こんなエピソードを書いている。

「修司には、夏美との別れは大きなショックだった。
それからすこしあとのことだろう。
銀座にでかけた修司と浦田のタクシーが、松阪屋のあたりにさしかかった時だった。
「あ、止めて」
突然、修司が大声で叫んだ。
運転手が急ブレーキをかける。
いったいなにが起ったのかと浦田は思ったが、修司は何も言わず
急いでドアを開けると一目散にサンダルのまま、銀座の雑踏のなかに
飛び出していった。
そのまま五分か十分ほど帰ってこなかった。
<どうしたんですか?>
ようやく帰って来た修司に聞くと、夏美をみかけたので
追いかけたんだが見つからなかったよとポツリと言った。」
(虚人 寺山修司 田沢拓也著 文芸春秋社刊)

夏美は雑踏の中に消えていった。
ぼくの、夏美とN子の謎の穿索もこの辺でやめよう。
多分この解答は山田太一さんだけが知っているだろうと
ぼくは勝手に推測している。
山田さんには、写真展でおせわになったり、雑誌の取材などで
何回もこのことを聞く機会があったのだけれど、
それを聞くことには、ためらいがあり、聞いたことはなかった。
N子と夏美の話はこれですべて終わりにしょう。
夏美は雑踏のなかへ消えたのだから。


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寺山修司、「それから」12 〜 「天井桟敷」、胎動。舞台は、渋谷、麻布へ。 〜

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和田レジデンス全景


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八幡宮付近

劇団「天井桟敷」のできたいきさつは、九条今日子さんの「ムッシュウ寺山修司」に詳しいが、
1965年、早大演劇「仲間」の主宰者だった東由多加は、
寺山の戯曲「血はたったまま眠っている」の上演許可を得るために、寺山を訪れた。
それを契機に、寺山は、九条さんや東らと「天井桟敷」をたちあげた、といわれている。

下馬にある外人の建てた「和田レジデンス」という3階建ての洒落たマンションを全部
借り切り、そこを拠点に寺山達は演劇界へののろしをあげた。
この辺は静謐な住宅街で、もの音ひとつたてるのもはばかるような環境だった。
立ち止まり耳を澄ましても、もう風は、かれらのさんざめきを伝えてはくれない。

劇団創設や、当初のさまざまなスト−リーは、さきの九条さんの著作に詳しい。

すでに祭りの終わった、廃虚を尋ねるように、渋谷の天井桟敷館(面影もなし)界隈をめぐった、
渋谷、並木橋のピエロのマスクが大きく描かれた天井桟敷館は、
跡形もないが、寺山がしばしば、お世話になった渋谷警察は、そこのすぐ近くにに残っており、
ながい棒を手にした警官が、あたりを睥睨している。

この警察と、近くの金王八幡宮が、寺山の過去を証明するかのように残っている。
この八幡宮の境内で開催された、唐十郎のテント芝居に、寺山がしゃれで贈った
葬儀用の花輪が、二つの劇団員の乱闘の引きがねになった。

双方の団員が入り乱れ、乱闘になり、大勢が逮捕された。
83年5月20日の週刊朝日にこのケンカのいきさつを唐十郎は書いている。

もともとは、贈られた黒い花輪が、ケンカのもとではあるが、
唐の説明の概略を述べれば、どこかのスポーツ紙が、寺山が花輪の意味を「ノーモア」と語ったと書いた。
それが沸点で、逆上した唐たちが、寺山の天井桟敷館を襲った。
留置場にいれられた唐に、そのスポーツ紙の記者が、青い顔で面会にきた。

記者は、「あれは、誤植でした。寺山さんはノーモアではなく、ユーモアといったんです。」
と弁解したという。
バカげた一字ちがいの誤植で、唐と寺山は争ったわけだ。
寺山は、そのいきさつは、すべて知らなかった。
唐は、弁解にきた記者と面会したあと、
「留置場内に帰ってくると、端の房にいる寺山さんが、自分の房室を先の反りあがった箒で、掃きながら、
 『よおっ』と笑った」と、書いている。


もうひとつ、天井桟敷館の裏に渋谷の場外馬券売り場がある。
競馬好きの寺山が、この馬券売り場を利用したか、どうかはわからない。

館は、貸借の期限が切れ、ここから麻布十番に移動する。
そこの雰囲気は、冒頭寺山の亡くなった直後のくだりで述べた。
いまでは、取り壊されてあとかたもない。
その直前の風景が撮ってある。左手の民家だ。あの黒塗りの外観は剥ぎ取られ、
往事をしのぶべくもない。
近くにある暗闇坂は、いかにも江戸時代を偲ばせる雰囲気のある環境だ。
おそらく寺山は、商店街への道だけに、ここを往復したにちがいない。

三田4丁目の人力飛行機舎は、寺や墓場に囲まれた閑静な環境にある。
桜田通りに面し、少し高台になっている。
古いが、モダンなアパートである。

死に迫られながら寺山は、谷川俊太郎氏とさかんにヴィデオレターを交換していた。
寺山の発信拠点は、ここである。
なにかで読んだので、確実ではないが、
寺山は、ここの居室で昏倒し、阿佐谷の河北病院にかつぎこまれたという。

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馬券売り場付近


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その後の風景


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暗闇坂


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三田四丁目の風景


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アパート全景


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アパートの窓

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寺山修司、「それから」11 〜 ネフローゼの闇に、射し込む光。 〜

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早大に入学したものの、寺山はネフローゼで大久保の社会保険中央病院に入院した。
この病気は安静にしていなければならない厄介な病気である。
しかし、来客が繁く訪れ、長居をするわ、話が弾むわ、
本人は寝台に休むどころか、病室は、談話室の様相を呈していたらしい。

しばしば医者に注意をうける。それでも、意気軒昂としていた、という。
当時、「チェーホフ祭」と題した50首の短歌で、「短歌研究」の新人賞を得て、
それをステップに文学界に躍りでた時期だ。

3年にわたる入院中には処女詩集「われに五月を」も発刊された。
中井英夫や谷川俊太郎など多くの知遇を得たのもこの頃で、
めざす世界が開けた、心弾む時代だった。
静かに寝てなどいられなかったにちがいない。


1987年にこの病院を訪ねた。
コンクリートの建築ながら、劣化が激しかった。
寺山の在院以来、20数年が経過しているのに、寺山伝説はここでも健在だった。

当時を知る看護婦さんの説明をうけた。
寺山の病室は、最初205号室でのちに302号室に移った。
写真の建物の最上階からひとつ下の左から二つ目の部屋が302号室。

「ここに、いらっしゃったんです。」とそこに案内してくれた。
ふるびた部屋ではあるが、そこには、あふれるようにひかりが射しこんでいた。
寺山は屋上にもよく出ていたらしい。
屋上にあがると、四方、目をさえぎるものはなく眺望がいい。


一階は、受付とロビ—になっていて、古風な六角形の記帳台が置かれている。
よくある病院の風景なのだが、なにか奇妙な異和感がある。
それは、壁に架かったダチョウの奇怪な絵がかもしだしているのだった。
その絵が、なんとも病院の雰囲気にそぐわない。
どうも気になる。

「でもこの絵は、創立当時からあるんですよ」
看護婦さんには異和感はないようだった。

寺山がこれを見て、なにか言いませんでした?
言いかけて、やめた。

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病院の全景

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記帳台

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ダチョウの絵

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寺山修司、「それから」10 〜 はつさんの寺山修司資料室。 〜

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寺山が亡くなり、渋谷、神谷町の松風荘が取り壊され、
はつさんは三軒茶屋の太子堂の、ささやかな一軒家に移り、寺山修司資料室を設えた。

そこには主として寺山の書棚を並べて、寺山の書斎の再現のようになっていた。
のちに、九条さんや多くの人々の尽力で青森県の三沢に、立派な寺山記念館がつくられた。
はつさんは、それを、生涯願いつつ、完成をみとどけることなく亡くなったのだが、
太子堂の、はつさんのささやかな寺山修司資料室は、
寺山修司の、思い出ばかりを集めた保存倉庫のようなものにみえた。

何回かここを訪れたが、その場所は小さな民家の蝟集する、迷路の中にあるだけに、
訪れる人もまばらのようだった。


ある日、はつさんから電話があって、そこを訪れた。
はつさんは、部屋の隅に架け梯子をたてて、倉庫になっている天井から、
ごそごそなにかを取り出そうとした。

あぶないですよ。
ぼくは、はらはらして、はつさんを止めようとした。

「あなたに見せたいものがあるんです。」
といって、なにかとりだした。

ぼくに見せたのは色紙だった。
「これは、わたしの宝物。写真に撮ってちょうだい。」
そういって、一枚ぼくに手渡した。

花売車 どこへ押せども 母貧し       修司

と、そこに書かれていた。


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「戦争の終わり頃になると、私の母は貧しさのために内職することになった。
それは、すずらんの行商であった。
すずらんの売れるような時代ではなかったのだが、
土曜日に汽車に乗って古間木まで行き、
そこの墓地をぬけてのぼった山峡にあるすずらんの密生した谷で母は一休みした。」

(誰か故郷を想はざる)のなかにそう書かれている。

その時の印象の俳句だろうか。
淡々とした、記述だけに、真実のことなのだろう。
わが子が少年の頃から、貧しさのため、やむなく、はつさんは寺山を手もとから離した。
そして、少年は、大人に変わり、多くの人々にとっての「寺山」として、
はつさんの手中から飛び立ってしまった。

一枚の色紙。

そこには、はつさんだけの「修ちゃん」がいた
母子だけの温もりのこもる確かな思い出の品なのだ。

はつさんは、撮影の終わった色紙を大切そうに受け取って、もとの天井の倉庫ではなく、
別室に手仕舞うために消えた。

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野球も好きだった

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いくつかの本棚が並ぶ

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寺山修司、「それから」09 〜 「早すぎる自叙伝」を想はざる。 〜

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お茶の水の喫茶店、鎌田慧さんのインタビューだった。
鎌田さんは、硬派の作家だ。
その時、まさか、鎌田さんが、寺山と深いかかわりがあったとは知らなかった。
なぜなら、思想や哲学があまりに異質な二人に思えたからだ。
あとで鎌田さんが、寺山があの「誰か故郷を想はざる」を書くべき必然を閃き、
それをすすめた慧眼の持ち主だったことを知って驚いた。

その本は寺山文学にとって、あまりにも重要な著作だったからだ。
そのとき、その事実を知っていれば、根ほり葉ほり、彼にいろいろ聞きたかったのに。


鎌田さんの、若い編集者時代。
寺山に、エフトウシェンコの「早すぎる自叙伝」のようなものを書きませんか、
と話したら、かれはすぐ乗ったという。
エフトウシエンコ30才。寺山修司31才の時だったという。

「自叙伝らしくなく、誰か故郷を想はざる」
当初は、鎌田さんの担当していた雑誌『新評」に掲載され、
20ページほどの、短いものだったそうだ。

ぼくが読んだのは、芳賀書店版の単行本で、辰巳四郎さんのイラストが、添えられたものだった。
のちに辰巳さんに会った時、挿入されたイラストが「強烈ですね」と笑い合った記憶がある。

その絵の、イメージのどす黒さと、本文の叙情とには異和感があったが、
この自叙伝の読者に与えるインパクトはことさら強かった。
この作品に出会えなければ、ぼくは、かくも寺山にのめり込むことはなかった。
これを起点に、奥深い寺山思想の山中に、ぼくは誘い込まれたのである。

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鎌田さん

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辰巳さん

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寺山修司、「それから」08 〜 のぞき事件の憂鬱。 〜

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人形のある街の風景


あそこへ。
とは、宇田川町の路地。
古ぼけたアパート群。

そこをうろついて、寺山が住人につかまえられた。

当時、新聞をはじめ週刊誌は、こぞって「寺山修司がのぞきで捕まる」と囃し立てた。
そことおぼしき場所にでかけた。
感じたことは、そこを歩くだけで、住う人から「危ない奴」と思われはしないか、という不安だった。
異様な、密閉感の路地。

しかし、ここで一体、なにをのぞけるというのだ。
それが実感だった。

1980年の8月14日号の文春には、この寺山をつかまえたアパート管理人の話を紹介している。
「庭先で人の気配に気ずき、カーテンのスキ間から外をみた。(寺山がウロウロしている)
窓からハダシで飛び出し、寺山の腕を掴んで「どこえゆく?」
という、実況風紹介だ。
なんだ、覗いていたのは管理人の方だったのか。
それも、普通、人がいただけで、ハダシで窓からとびだすか。
なんか、そのほうが異様だ。


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アパートのあったあたり

路地のもつ独特な雰囲気に興味をもつ人は多い。
写真好きのモチーフとしても、人気がある。

80年9月19日号の週刊朝日には、寺山の反論が掲載されている。
寺山は、ある出版社から路地ついての単行本の企画をうけ、
その取材のため、路地や袋小路をめぐっていたという。裏付けもある。
結局、人の專有地に入ってしまった、ということだ。
「噂の真相」はしっかり事実を取材していた。
この件の警察の調書について
「ノゾキのノの字も、広報簿には載せていません。」
渋谷署、清水清七副署長の談話を採っている。

いきなり「のぞき!」と、好奇の目をひからせる、マスコミはなにを取材したのだ。
その日ぼくは、ひどく憂鬱だった。


何年かして、そこへまた行ってみた。
時は流れ、不快な事件のあったあたりも都市計画で変貌しつつあった。

あのアパートの附近の食料品店で、その時の話を聞いた。
「寺山かぁ。あいつは。」
店主は、事件そのものよりもまず寺山に反感をもっていた。

寺山の、思想、演劇。
サプライズ。
スキャンダラスな渋谷の天井桟敷館。
それへの反発もあるのだろう。
事件の起きる前から、かれは嫌われていたようだ。
どうやら、それがこの周辺のひとびとの共通の感觸のようだっだ。

「寺山は、嫌われながら、成長していった。」
山田太一氏は、寺山全表現を指すのだろうが、自身の著作のなかで
そう述べている。

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寺山修司、「それから」07 〜 ヘンリック氏と寺山の影を求めて。 〜

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森崎ヘンリックさんに寺山ゆかりの自宅周辺を案内してもらった。
かれは、天井桟敷のメンバーだ。
劇団の人達は、「寺山のことは、ヘンリックに聞け」と合い言葉のようにいう。
プロンプターのように寺山に密着していたらしい。
寺山以上に寺山を知る男だ、とも聞いた。


渋谷の交差点に向かう。
「ここで、いつも週末、競馬新聞を買いました。」
なるほど、やはり、それからはいりますか。
「まずは、それじゃあないですか。」
屋台のおやじをパチリとやると、怪訝そうな顔でこっちをみていた。

B

「ほらほら、この止まれマークの足型を踏んで、面白がっていたんです。」
ヘンリックさん、まるで親がわが子のしぐさを、いとおしむようにいう。
あの本屋で、とか、いきつけのめしやなど、ほう、とあいずちをうちながら、
ぼくが足を止めたのは、スペイン坂のなかほどにあった壁画の前だった。
少年達が、猫と遊んだり、地面にチョークで描いている。
なんとなく、寂寥感がある。
以前ここを通り、この画をみたとき、寺山が好きそうだ、と思った。
「この画を引用して、雑誌に書いたことがありますよ。」


C

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大久保ビルという、完成途上のビルがある。
コンクリートの柱が、四本建っている。
その隣のビルに住む、美術家の高松次郎が、「支柱が、墓石のようにみえる、」といった
のを寺山が面白がったという。
その場所にヘンリックさんと立った。
ふとみると、その墓石風の傍に野良猫が数匹たむろしていて、こちらに警戒の
目をむけた。
これも寺山の面白がりそうな風景だな、と思った。
寺山が住んだ渋谷区宇田川町の周辺は、繁華街が近いのに
ぽっかりと、そのあたりは殺風景な環境になっている。
安アパートや、町工場などがひしめき下町を思わせる。
だが、それが、やすらぎを感じさせるのだ。


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最後は、喫茶店のコンソワールだろう。
「ここは、応接間だと言っていました。」
朝日新聞の新人国記83というコラムに、コンソワールで取材を受けているかれの姿が、写っている。
3月18日だ。 死まであと46日。
テーブルに肘をついて、白い靴下に、あのぽっくり。
記者に「60才まで生きますよ。」と語ったという。

「ヘンリックさんありがとう」ぼくは、お礼をいって、
ひとりで、あそこに出かけた。
あそこへ。

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寺山修司、「それから」06 〜 針は命の停止を指す。 〜

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時計。

映画や小説のなかに、ときにミステリアスに、ときに寓意的に描かれたりする。
形のもつ、魅力もあるが、魔力をひそませているかのようだ。
寺山の作品にも、時計はひんぱんに登場する。

「さらば箱舟」にも、村じゅうから時計を集めたというくだりがある。
そして、かれの居室にも、止まったままの柱時計があった。
この時計については、寺山の亡くなったすぐのころ、喫茶店コンソワールで、
寺山の秘書だった田中未知さんに不思議な話を聞いた。

あの居室の時計が、寺山の昏倒の瞬間か、死の瞬間に時を刻むのをやめたというのだ。
古い話などで、そのどちらかは忘れたが、
のちに朝日新聞のコラムに同様の話を彼女は書いていた。

いかにも、寺山を感じさせる不思議な話である。


売りにゆく柱時計ふいに鳴る 横抱きにして枯野ゆくとき。


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