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2009年7月

寺山修司、「それから」22 〜 歌舞伎座の裏手の海と倉庫。 〜

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「疎開先の古間木から帰って来た私を、青森で最初に迎えてくれたのは、海である。
海は、「家なき児」の私の家になった。(誰か故郷を想はざる)


歌舞伎座のある塩町は、広い道路に面しているが、人通りの少ないまちだった。
この寂しげな町のすぐ裏手は、海になっていた。

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あたりは、樹木の一本もなく、なにか製造工場か倉庫のような建物があり、
不要物を吐き出すように扉が口をあけ、海辺を一層荒涼とした風景に彩っていた。

そこは埠頭になっていたが、船一隻見当たらない。
このあたりは、歌舞伎座から数分の距離だけに、
寺山が、ふだん散策しただろうことは、想像に難しくない。


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寺山修司、「それから」21 〜 歌舞伎座での生活。 〜

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歌舞伎座

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家族団らん

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伯父さん勇三

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劇場内部


寺山は、歌舞伎座という劇場を経営する叔父、叔母に預けられた。

ここに掲載された写真は、寺山が、中高時代そこに世話になった頃のスナップである。
母方の親戚の、坂本勇三、きえ夫妻との仲睦まじい生活風景の断片だ。
坂本家の縁戚の桜庭さんにアルバムを提供していただいた。

きえおばさんは、寺山を息子のように面倒をみてくれたという。
その話は青木保氏編集の「5月の伝言」のなかに寺山は、卒直に書いている。

大食漢のかれにカレーをお盆に盛り食べさせたとか、
夜行列車で受験のため上京する寺山に付き添い、床におばさんが寝た話など楽しげなエピソードだ。

九条さんも「ムッシュー、寺山修司、」筑摩書房刊、のなかで、寺山が結婚後はじめて
九条さんと青森にきえさんを訪ねたとき、寺山ときえさんは、仲のいい親子のように
本当に楽しそうだったと書いている。

ぼくは、三軒茶屋の資料室で、はつさんから、このおばさんが嫌いだと聞いたことがあった。
母親からみれば、子を奪われたように思えたのだろう。
九州の米軍キャンプで懸命に働いているはつさんにしてみれば、
坂本家への恩義を感じつつも、複雑な心境だったにちがいない。

境川沿いにある甲田橋の近くに勇三氏の建てた二階家がある。
歌舞伎座生活のあと、そこに寺山も移り住んだ。
桜庭さんも少女時代そこで、寺山と過ごしたことがある。
桜庭さんの記憶では、川べりのベカ舟に、修司がいつまでもねそべっていたことがあったという。
何時間もそうしていたので、
「修ちゃん、いつまでそうしているの」
と聞くと、
「空をみているんだ。雲が形を変えて面白いよ。」
と答えたという。

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境川

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寺山修司、「それから」20 〜 母は、やさしく立てる廃虚。 〜

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寺山修司は中学生になり、通学の便などの諸事情から、
青森市塩町で劇場(歌舞伎座)を営む、叔父叔母のところへ引きとられることになった。

母はつさんはベースキャンプで引き続き働くため、古間木に残り寺山と別れた。
三沢の改札口で別れる時の母はつさんを寺山はこう印象している。

「くわえていた煙草を捨てると、その煙草についていた口紅が私の目にとまった。」
母は、その時32才だった。
「だが、母はすでにやさしく立っている廃虚であった。
首に真綿を巻き、ドテラを着て真っ赤な口紅で唇を彩り、ポンと肩を小突かれるとそのまま
崩れてしまいそうに弱々しく、父に死なれたあとの余生を支えるために、さみしく笑いなどを
浮かべながら、私に手を振っていた。」 (誰か故郷を想はざる)

のちに、はつさんは勤務先の米軍部隊の九州移動に同行し、更に長い離ればなれの人生になった。
子を恋うる切々たる思いは、はつさんの「母の蛍」(新書館刊)に詳しいが、
彼女の一生は、息子、修司に生き甲斐のすべてをかけた人生だった。

昭和という混沌とした時代、貧しさと戦争未亡人の母子の歩む典型的風景がここにあった。
そして、寺山は、少年にしてすでに怜悧な目で、
母の廃虚の姿、愛と絶望の先をみていたのである。


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寺山修司、「それから」19 〜 寺山義人と寺山親子。 〜

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寺山義人氏

寺山食堂は、戦後の区画整理で取り壊され、
その跡は、西の山側から下ってくる広い道路の一角に変わっていた。

当主の寺山義人氏は、もとの住まいだった場所から50mほど山側に引き込んだ
静かな環境の二階建ての家に移っていた。

義人氏は、寺山の父、八郎の兄。
重厚だが、おだやかな印象の人だった。

もらった名刺には、三沢の老人クラブの会長や、民生委員の肩書きなどいくつか並び、
氏が地区のために貢献されている人物であることを、しのばせた。
口数は少なく、主観を強調するわけではない。
淡々と事実に触れるだけの話ぶりは、説得力のあるように思えた。


「母親のはつは、毎日三沢の米軍キャンプに働きにでていました。
 修司はおとなしい子でしたな。
 ある朝、出勤前のはつが、靴の踵がとれているから、修ちゃんなおして、
 と頼んでいたが、修司は学校に遅れるから帰ってからやるよ。
 今日は別のを履いていってね、となだめるように言うと、『いま直さなければダメ』
 という大声がして、隣の部屋に寝ていた私たち夫婦の枕元へ
 靴が飛びこんできました。」
 
 「はつは、性格のきつい、激しい女でしたな。
  はつは、ここを出ていき、修司は私どもが引き取ろうとしたのですが、
  あの子は、どうしても母親についていくというので、止めませんでした。」


義人氏の話は、それ以上のエピソードに発展することはなかった。
むしろ、語りたくないというニュアンスを感じ、私は、質問を打ち切った。

戦後、修司親子を自宅に住わせたのは、弟の妻子の窮状を救うためであったが、
当時、義人氏は、町会議員の公職にあったというから、公私ともに、
強い責任感に生きたのだろうと思われる。

当時は、空襲で焼け出された人々や、外地からの引き揚げなどで、
私の住む町でも、家々は、みなそういう縁戚の困窮者をこころよく受け入れていた。
しかし、食料の困窮や、住まいの狭さから、トラブルも起った。
受け入れ側も頼る側もともに苦しい思いをしたものだった。

義人氏の四男の孝四郎さんは、現在三沢市に設立された寺山記念館の館長を
されているが、寺山とは同い歳だった。
かれが、小川太郎氏の取材でも、小学生ながらこの日のことは覚えているというから、
余程、鮮烈な印象だったのだろう。小川氏の取材から引用する。

孝四郎氏によれば、その朝、靴屋に修理に持っていくように、はつさんが修司に言い付けたところ、
日頃から厚化粧にハイヒ—ル姿の母に抵抗感をもっていた修司と激しい口論になり、
はつさんが修司に靴を投げつけたという。
その声や物音に、義人氏が駆けつけ、はつさんを殴った。
義人氏は温和な人で、家人に手をあげたこともなかったという。
はつさんへの日頃の積もる思いがあったのだろう。
細かな事実関係についての話は、義人氏と孝四郎氏と少しちがうが、
寺山とはつさんの生活を偲ばせるエピソードである。
この事件を契機に寺山親子は、この家から出ることになったという。

玄関先まで送りに出てくれた義人氏が、
無言で深々と頭をさげられたのが印象的だった。

のち、義人氏が亡くなったことを、誰かに聞いた。


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踏切のある風景

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付近のローカル線の駅

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拡張された道路:寺山食堂跡

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三沢駅

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寺山修司、「それから」18 〜 天神様の昼寝小屋やら、ワシ伍長。 〜

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寺山食堂の裏手にある小山は、寺山達少年の格好の遊び場だった。
そこはちいさな天神様を祭るお堂があり、寺山はそこを「昼寝ハウス」にしていた、
と書いている。


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小山は狭い空間ではあったが、緑が濃く、親の目の届かぬ少年達の解放区のような遊び場に思えた。
その境内の一角に、家があり、老婆が住んでいた。

「子供達は、ここでよく遊びますよ」

彼女は、寺山のこと、寺山の昔は、ご存じないようだった。
眼下に広がる三沢の町は、軒の低い家並が並び、
遥か遠くまでのどかな風景が広がっていた。

小山をさらに進むと中腹にはカマボコ兵舎があり、
戦争に敗れ帰る家のないワシ伍長と
もうひとりの兵が、住み着いていた。
そこを訪れた寺山少年に、醤油をつけて焼いた蝉を、ワシ伍長は食べろとすすめた、という話がでてくる。

「味は、癖のない薄焼き煎餅のような香ばしいものだった。」

セミ料理をすすめながらワシ伍長はぼそりといった。

「もう死ぬまでここにいるしかないだろうなあ。
 部屋代を払えるあてが、他にはないのだから」

今でいえば、ホームレスと少年の交流のような風景だったのだろう。


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寺山修司、「それから」17 〜 寺山食堂から、ヤンキーの進駐を覗く。 〜

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寺山食堂


青森で焼け出された寺山母子は、古間木(三沢)駅前にある、
叔父の営む寺山食堂に居候になる。
現在、道路拡張のため、その家は取り壊されてないが、
戦争末期から米軍進駐の時代をかれはこの家で暮らした。
「誰か故郷を想はざる」に、はじめて米軍が、進駐してくる日の様子が書かれている。

大人たちにとっては、開闢以来、はじめて占領軍の支配に出会うのである。
不安と恐れ、それは尋常な心理ではなかっただろう。
あらゆる家々は、頑丈に戸締まりをし、町中に全く人影が消えて、
まるでハイヌーンの西部劇を思わせるありさまだった、と寺山は述べている。
人々は戸の隙間から息をひそめ、汽車から降りたち街中をゆく兵隊を、
恐怖と好奇の目で眺めた。
ぼくも、当時静岡市で、寺山と全く同様な体験をしていた。
米軍進駐の日。「女は、隠れろ」と緊迫した伝達が町内にながれていた。
息をひそめて、ジープのかれらの列が行き過ぎるのを、家の中から眺めていた。

寺山は述べている。
「私の母は、炭俵に手をつっこんで真黒になった手で顔をなすり、髪をザンバラ
 にして二階の窓の「寺山食堂」の看板の裏から、駅を見下していた。
 そして、私はその母の手に引寄せられ、抱かれた格好でじっと新しい「時」を待っていたのだ。」
緊迫感が伝わってくる。
これは、敗戦直後のドキュメンツとしても貴重な記録である。

いまの古間木の町は、当時とあまり変わりはないようだった。
寺山食堂に隣接した末広旅館は、寺山の時代のまま存在していた。


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三沢駅前広場


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末広旅館

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寺山修司、「それから」16 〜 空襲と地獄絵。 〜

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幼年期のこわい体験や印象。
寺山文学にしばしば現れる、地獄絵などのイメージは、
幼少期の恐怖の印象がいかに鮮烈だったかを偲ばせる。

かれが生まれてはじめて地獄絵をみたのは、5才の彼岸のときだったという。

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誰か故郷を想はざる。のなかにかれは述べている。
「その古ぼけた地獄絵のなかの光景、解身や函量所、祥声といったものから、金堀り地獄
母捨て地獄にいたる無数の地獄は、ながい間私の脳裏からはなれることはなかった。」
「蓮得寺の、赤茶けた地獄絵の、解身地獄でばらばらに解剖されている(母そっくりの)中年女の
 断末魔の悲鳴をあげている図の方が、ほんものの空襲での目前の死以上に
 私を脅かしつづけてきたのは、一体なぜなのだろうか?」

新しき仏壇買ひにゆきしまま行方不明のおとうとと鳥

ほどかれて老女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

間引かれしゆえに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子


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幼い頃、寺山は家の近所にある蓮華寺でよく遊んだという。
蓮華寺へいってみた。
地獄絵は、この寺でみたのだろうか。
蓮華寺で聞くと、「当寺には、地獄絵はありませんでしたな。」
とおっしゃる。
「隣の正覚寺かもしれませんね。」
その正覚寺にいってみると、やはり、寺では盆になるとよく人々に地獄絵
をみせたという。
たぶん、寺山は、ここで、それらの絵をみたのだろう。
寺に現存する絵は、当時の絵が戦災で消失したあと、おなじものを、とりよせたのだ、という。

母はつさんは、この寺のことにはあまり関心がないようだった。
が、寺山の手を引いて、空襲の恐怖のなか、必死に逃げた話をぼくに語ってくれた。
「火の粉が、凄いんです。それに、焼けた死体。
それは、それは、恐ろしかったですよ。」
一方、寺山は空襲や、死体に出あった「実体験」の恐怖より、
地獄絵のイメージの世界の方が恐ろしかった、というのである。
寺山自身は、それが「なぜだろう?」と疑問符で結んでいる。

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寺山修司、「それから」15 〜 霧深き海、北へ走る鉄路。 〜

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鉄路

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埠頭

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居酒屋の路地


1984年秋、寺山の亡くなった翌年、青森に出かけた。
寺山作品に登場する、少年期のイメージの探索だ。

青森埠頭や、海、鉄路など、かれの原風景のランドスケープは、もう消滅しかかっていた。
埠頭は、廃虚のように荒廃し、死せる風景とでも形容したくなる。
その風情が、いとおしい。
だがすでにそこは、整備のための工事が、進められていた。
聞けば、駅前の昔ながらの市場も、取り壊しになるのだ、という。
「寺山青森」は、急速に消えかかっていた。

「私はあとになってから、海についてのエッセイをいくつか書いたが、
 それは、みな14才のある暗い夜、青森驛の桟橋から眺めた、ひどく心細い
 海のイメージにつながるものであった。」(誰か故郷を想はざる。芳賀書店)

波止場にちかい居酒屋の横町は、演歌の世界をとどめていた。
ひきこまれるように、そこをぶらつく。
30年配の女が、がたぴし音をたてて引き戸のむこうに消えたあと、薄寒い空気だけが残った。

港湾にのびる錆びた引き込み線の線路を歩いていくと、巨大な倉庫があった。
それも廃虚だった。
その先は、海。
湾は白いガスに閉じ込められて、陽もかげろうのように消えかかっていた。

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   マッチ擦る つかのま海に霧ふかし  身捨てるほどの
   祖国はありや


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   北へはしる  鉄路にたてば胸いつる  トロイカもすぐ
   われを捨てゆく
  


銀行員で東京から青森に転勤した親友の風間の案内でクラブ、「プレイバッハ」に立ち寄った。
  
店は、大通りを海にむかい下った途中にあり、汐の香はここまで漂ってくるようだった。
このクラブは、青森の著名人が繁く通う社交場だというから、酒の飲めない寺山も
ここに足を運んだかもしれない。
ママさんは、青森の著名人。
自称、しがない、どさまわりのシャンソン歌手。
「運なしでね。
 いいとこ、なしでした。」
東北をあちこち、流れ、流れて、ここに根を張ったのだという。
「ここで止まらなければ、あとは、海に落ちるだけ。」

寺山ごのみの身の上話だな、と思った。

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倉庫が並ぶ

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寺山修司、「それから」14 〜 市街劇「ノック」の衝撃。 〜

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昭和50年4月19日〜20日の30時間、演劇実験室「天井桟敷」は、
東京、杉並の18ヶ所で市街劇を展開した。
市街劇といっても、「劇場」から場所を市街に移し変えたという単純なものではなく、
役者が市民を巻きこんでいく、かなり強引な市街劇だった。
これは大変な物議をかもしだした。
包帯ぐるぐる巻きの男が民家のドアをノックしたり、
公衆浴場で不思議なアクションをして客を驚かせたのだから。

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寺山は、日常の現実も、演劇もおなじ虚構とみる。
「演劇は、腐食した日常にとりつき、その虚構の
 変容をせまる、いわば政治を通さぬ革命のようなものだ。」
そういう、寺山理論は革新的でラジカルなものだった。
「国勢調査員がドアをノックしてもなんの疑いもなく招じいれるのに、びしょぬれの
 包帯男がドアをノックすると、かれが、何者であるか訊こうともせず閉め出し
 110番する市民らの日常感覚へさしはさむ一つの疑問符であった」
と寺山は述べている。


それよりかなり前、
日常のなかに虚構をもちこんで、生活の変貌を狙った寺山作のラジオドラマを聞いたことがある。
「おはよう、インデイア」である。
互いに見知らぬインドの女子学生とカギっ子の少年を一年間、姉弟のようにからませ生活させた。
少年と彼女は、逃げた飼い犬を探しにいったり、
虚構と現実を織りまぜた人や出来事に出会う。
言葉のわからない同士が、しだいにおなじマインドをもちはじめたことに、気づいてゆく。
そんな結びだったように思う。
これは、寺山がのちの市街劇「ノック」に拡大する、萌芽のような作品だったのかもしれない。


9


難しい話になってしまった。
1984年のことだ。
市街劇「ノック」の展開された阿佐ヶ谷に近い成田東の現場を歩いてみた。
舞台となった洗湯や低層団地など現場だったあたりは、
人の姿もあまりみかけない閑静な環境だ。
別に、犯罪の事件現場でもないので、とくに感概はない。
舞台になった風呂屋があった。
ガラス戸に手をかけるとガタビシしてあかない。
なかにいた男が、けげんな顔で、こちらを一瞥して奥に消えた。
マンホールから真っ白な包帯男が現れたという、そのマンホールの前の雑貨屋の
女主人に当時のことを訊ねてみた。
彼女は土田百合子さん、中年で人のよさそうな女性だった。
マンホールから、包帯男が現れたとき、彼女はとっさにケガ人かと思い込み、
救急車の手配を考えたという。
一方、包帯男にドアをノックされ、仰天、110番した主婦がいた。
二人の主婦のこのパフォーマンスの、受け止め方のちがいはなかなか面白かった。

土田百合子さんは、そのあと、そこでくりひろげられたパフォーマンスより、
「お化けのQ太郎を描く漫画家」が市街劇にみいっているのが興味深かったらしい。
その人の挙動をずっと眺めていた、という。

「面白かったですよ。
 その方の反応のほうが。」

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