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2009年8月

寺山修司、「それから」31 〜 寺山修司の親和力。九條今日子、との強い絆。 〜

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九條今日子さん

ロ、九條今日子、との強い絆。

「人それぞれの寺山修司像が勝手に世の中を徘徊している。」
と、九條今日子さんは、どこかで書いているが、寺山をテーマにした本が厖大な数、出版されているからだ。
主観の強い寺山論や寺山物語が花盛りだ。

私も「望郷」(求龍堂刊)を出したり、いまこんなブログも書いている。

出版されたたくさんの著作を興味深く読んでみたが、印象的だったのは、
深いかかわりをもつ九條さんと山田太一さんが、書いたものだった。

九條さんは、魅力的で有能な人である。
寺山作品が夥しくつくられた過程で、彼女のプロデユースを含むさまざまなサポートは
寺山芸術を支える大きなちからになっている。

寺山は、彼女と離婚したにも拘らず、なお伴侶的な役割と、芸術活動のパートナーとしての強い支えを求めた。
彼女以外で、それに答える支えができただろうか。


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麻布@天井桟敷館

本のことに戻ろう。
九條さんの「ムッシュウ、寺山修司」(筑摩書房刊)は、寺山像を一番正確にとらえているようで興味深い。
私が印象的だったのは、二人が離婚を決意するくだりである。
彼女の繊細で純粋な気持ちが率直に語られていて感動する。
この本は、寺山をヴィヴィットに語りつつ、なおかつ素敵な彼女自身をも語っている。

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寺山自宅アパート


あとがきで彼女は、彼女だけの寺山修司を、こう捉えている。


 思えば不思議な人だった。
 ある時はスーパーマンのように
 ある時はわがままな子供のように
 あるときはかけがいのない親友のように
 あるときは傲慢な家主のように
 ある時は影武者のように
 ある時は結婚サギ師のように
 ある時は純粋な天使のように


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寺山のコーヒーカップ

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寺山修司、「それから」30 〜 寺山修司の親和力。浅川マキのドア 〜

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ジャンジャン


イ、浅川マキのドア


寺山修司は懐かしい人、と評する人が多い。これは、寺山修司という人の親和力だろう。

東由多可は、寺山さんは、人の才能だけにしか興味をもたない人だ、といっているが、
だけか、どうかは別として寺山は、実に多くの才能を発掘し世に出した。

同時にかれの、他者の心の襞を覗く目の鋭さと温かさを感じずにはいられない。

ある夜。だだっ広いスタジオ。
歌手の浅川マキは、はじめて自分の演出をてがける寺山と、
プロデューサーの寺本幸司の会話をすこし離れた場所で聞いていた。
マキは、これから唄う寺山のその詩を唄える自信がなかった。
もう時間は深夜を過ぎていた。

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寺山は、マキに視線をむけ
「ね。あの女のこは、ぼく、最初にみたとき、本も読んでいるし、
 映画のことも知っている、そう思ったんだけど、ね、そんなふうに見えるでしょう。
 でも、ほんとうは、なにも知らないのね。それから、なんだろうってぼくには不思議でね。
 もし、男が女に捨てられて、それから仕事もうまくいかない、
 何処へも行くとこがなくなって、ポケットに10円玉ひとつ、そのとき、
 あのこのアパートに電話したら、黙ってドアを開けてくれる。
 最後に思い出す女、そんな、あのこは、そんな女のような気がだんだんしてきた。」

マキには、幽かにきこえたその言葉が、心に深く沁みた。
のちにマキは、Whos Knocking on My Door と、題して寺山の追悼文を
書いている。(現代詩手帖1983、11月号)

この浅川マキのエピソードを読むと、寺山修司の演出の考え方や、
人間の観察カが、そこによく表れているように思われる。 
数しれぬ才能が、寺山という才人の体内を駆け抜けて行った。


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寺山の遺品

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寺山修司、「それから」29 〜 新宿は燃えていた。その2。 〜

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トニコさん   
背景の絵は久里洋二氏


祝祭とフリークスは、寺山作品には欠かせない要素だ。
それに奇人変人の類いもかれは見逃さなかった。

面白い人、や、もの。大好き。
新宿には、いろんな人がいる。
女の酔っぱらい。賭博師。サラリーマン。野良犬。スケバン。


新宿2丁目のおかまバー「オベロン」のト二コという凄腕のおとうさんホステスに
私が度肝を抜かれているとき、すでに寺山は、かれを、作品の素材にしていた。


「セーラー服で売り出したオベロンのトニコさん。
白雪姫さながらに
『鏡よ、鏡、鏡さん。この世で一番美しいのは、誰。』
などといっているが、正体は、40過ぎの毛深い中年男。」(気球乗り放浪記、読売新聞社刊)
などと紹介している。


とにかく新宿は、60年代、アウトローや、寂しい人のひしめく町だった。
喫茶「白馬車」や「王城」は、行き場のない人々の孤独を
包み込むように、そびえたっている。

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喫茶店「王城」

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新宿飲み屋小路

 寺山はいう。
「ふしあわせという名の猫がいる
 いつもあたしにぴったり寄りそっている

 私は三年前に書いた自分の詩の一節を思い出した。
 新宿には、ふしあわせがよく似合う。」


「人なつかしさだけが、行き場を失って空っ風のように
 渦巻いている孤独な町。
 だが、私たちにとって、新宿は、最後の町なのだ。
 ここを失なったら、もう、どこも帰る『町』はないのである。」(気球乗り放浪記)   


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新宿2丁目飲屋街

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寺山修司、「それから」28 〜 新宿は燃えていた。その1。 〜

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1958年病院を退院した寺山は、「新宿」に興味をもった。

60年代、キナクサイ学園紛争が興こり、ドロップアウトしたヒッピーが町に群れた。
駅前や、歩道に若者が、ゴロゴロ昼間から寝ころんでいるのだ。
新宿駅ではフォークゲリラが歌で大衆を煽動し、
覚醒剤が蔓延し、サイケデリックな風俗が流行、
新宿は燃えていた。

この都市の混乱は、いったい、なんだ。
鬱屈した日常から逃げ出したい。
そんな人々のエネルギーがぶちまけられ、人も町も燃えているのだった。

寺山自身、活動は静的な短歌から、動的なラジオや映画の脚本に移り、
更に、演劇に軸足を伸ばしていく。

諏訪町の六畳一間のアパートは、部屋の壁面を書物で
埋め尽くし、アーサー、ミラーなどの演劇関係の本をびっしり並べた。

また、ビートジェネレ−ションの旗手ジャック、ケルアックの
「路上」などにも共感し、 
浅利慶太の創作劇「血は立ったまま眠っている」は寺山が脚本を書いて、評判になった。

この混迷や変化のなかで、さまざまな現実に対し、
寺山は、過激に発言していった。


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寺山修司、「それから」27 〜 田中忠三郎の、「田園に死す」。 〜

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農家

忘られし遠き空家ゆ 山鳩のみずから処刑する歌聞こゆ

寺山映画「田園に死す」のロケは、
民俗研究家、田中忠三郎氏の所有する古い農家で行われた。
上北町の土地500坪に建坪50坪ほどあろうか、古い茅葺き農家だ。

1985年わたしは撮影の許可をもらいに三沢の田中宅に伺うと、
「しかし、あそこは遠いですよ」とおっしゃる。
わざわざ、そこへ車で送ってもらったのだが、やはり田舎の『遠い』は尋常な遠さではなかった。
田中さんは、車中、やや重い口ながら、ポツリポツリと撮影時のことを話してくれた。


いまだ首吊らざれし縄たばねられ 背後の壁に古びつつあり


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蚊帳をたばねたもの


そもそも『寺山が、映画をつくるので所有している民家を貸してやってくれないか。』
と知り合いの医師を通じ依頼されたのが発端だったらしい。
映画制作がいかに困難か、その実態も知らなかった。
それに寺山達が金のない情熱先行の集団であったこともあとで判った。
とにかく、田中さんは協力を依頼され、家や道具を貸す以外、どんなサービスをしたらいいのか、
真剣に考えたらしい。

津軽の人は、親切だ。
かれは、片手間では映画に協力出来まい、と勤務先の小川原湖民俗博物館をやめてしまった。
撮影が始まると、集団の飲み食いの支援を頼まれるなど、あれよあれよというまに、
思わざる協力をせざるを得ない羽目におちいった、という。

「たまげた」

ぽつりと、かれは洩らした。
無口な東北人の、こぼした愚痴だが、抑えようもない、しんどさだったことを窺わせた。


たった一つの嫁入り道具の仏壇を 義眼のうつるまで磨くなり

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家財道具


田中忠三郎さんは、郷土への愛情のかたまりのような人だった。
かれは民俗学の研究家である。青森の古民家や農家の生活にかかわる道具の保存や、
郷土史の研究を続けてきた。
田中さんの寺山映画への協力は、彼なりに、自分のライフワークにつながると、
考えた上での支援だった。

しかし、かれが、困惑したのは寺山自身、の青森にたいする関心の薄さだったようだ。

「寺山さんは、青森の人は、もっと、この仕事に協力してくれるべきだ、
 と憤慨しておられました。」

しかし、寺山の目指す芸術と、郷土愛に根ざす田中さんの思いが、交差する筈はなかった。

「寺山さんは、青森の土地、人々、友にあまり興味を示さず、青森への愛情に欠けているように
 思いました。寺山さんが、青森をどう思っておられたのか、いまだに私にはわかりません。」

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椅子


故郷をどう寺山が考えていたかわからないが、
死に近い日、
「私の墓は、私のことばであれば、充分。」
とかれは述べている。

その「ことば」は、世界を飛翔している。
墓のいらぬ男にとっての、故郷とは?
かれの概念のなかにあえて「故郷」を求めるとしたら、それはやはり「母」なのかもしれない。

故郷を捨てた、母のはつさんは、最後まで故郷を憎んでいた。
石もて追われるごとく故郷を去ったはつさん。
「青森は嫌いです。」
言い切る口調の強さに驚ろいたことがある。

しかし、はつさんは死の直前、土壇場で寺山記念館を故郷につくることを決意した。
はつさんなりに「寺山修司と故郷」を考え抜いたのだろう。
死後、寺山は青森に「意味」を刻んだのだ。

田中忠三郎氏の苦労も、大義としてそのなかに生きた。

村境の春や錆びたる捨て車輪 ふるさとまとめて花いちもんめ


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捨てられた消防道具など

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寺山修司、「それから」26 〜 襖のなかの「田園に死す」 〜

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寺山の映画「田園に死す」は、青森郊外の老朽化した農家で撮影された。
その化け物屋敷みたいな家に出かけた。

暗闇のわれに家系を問うなかれ 漬物樽の中の亡霊

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畳屋に剥ぎ捨てられし家霊らの あしあとかえりくる十二月


家はボロボロだが庭は広い。
庭に出てみると破れた古い襖があった。
なにげなくその襖のやぶれたところを眺めていると、なんと
呪文のように紙片が何枚も何枚も張り合わせてある。
まるでタイムカプセルのように、多種多様のメッセージが重なっている。


大正二年刊行刑吏 人買人桃太は わが父


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ーいきなり陸軍軍人法典らしき法文が目につく。
「一つ軍人は、忠節を尽くすを本分とすべし。」てなものか。?
よくみると、休暇は、かような手続きにてとるべし、みたいなページだ。
「ねびえにご用心」などという広告の掲載された新聞は、大正か昭和のものだろうか。
小作人の地代計算なのか、こまかな数字が書き込まれている。おびただしい数だ。
そんな古い帳簿をばらしたものが貼付けてある。
極めつけは、達筆な書状である。督促状なのか、「金払え」みたいな怖い書状かと
思ったが、なーんだ、選挙にからんだ手引きのようなものだった。
だが、なんでいろんな種類の情報をコラージュのように重ねあわせたのか?
奇妙だ。
おぼろげに、紋付姿のこの家の主の亡霊が、浮かびあがってくるようだ。
旧時代が、重苦しくブツブツ呟いている。
寺山の世界、そのものだ。
「田園に死す」だ。


地平線縫い閉じむため針箱に 姉がかくしておきし絹針


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寺山修司、「それから」25 〜 境川、自転車、高校時代、青空。 〜

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高校へゆく境川

わが夏帽、どこまでころべども故郷

「学校までの土手は長かった。
 想えば私の下宿先からずうっと土手は続いていたのである。
 その土手で帽子を風にふきとばされでもしようものなら、
 追えども追えども限りがなかった。」(五月の伝言)


境川に沿って土手がきれいに湾曲している。
この川沿いを自転車でかれは、青森高校に通った。
いかにものびやかな地方都市の学校の環境である。
このあたりの田園風景や果樹園も、あの短歌集の「チェホフ祭」の作品のなかに登場していることだろう。
 
悲しみは ひとつ の果実てのひらの 上に熟れつつ手渡しもせず

青森高校で、初老の教師が、校内を案内してくれた。
無口なひとだった。無愛想なわけではない。

「校舎は、寺山さんのおられた頃のものは建て替えられました。」
「あぁ、そうでした。校門は当時のものです。そうでした。」

誠実そうな人だった。

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寺山修司、「それから」24 〜 魔法使いの名畑のばあさん。 〜

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小間物やの名畑にも寺山少年はよく通ったようだ。

「私はたびたび名畑で映画スターのプロマイドを買った。
 彼女らのプロマイドを買いに行くたび、おばあさんが出て来て、
 買わないぶロマイドにさわっちゃあいけないよ、と言った。(註、筆者が、ブをぶに変えた。)
 プロマイドをぶロマイドと言いくるめるあの鬼のやり手婆アーーまるで娼婦でも
 斡旋するかのようにプロマイドと私を仲介する名畑の婆さんが、まだ生きているかどうかは
 私にはわからない。」(誰か故郷を想はざる)


1984年。
婆さんは、生きていた。
彼女は小柄だが、健在で、迫力のあるお婆さんだった。
店には中学生くらいの少年が3〜4人いたが、買う気のない子供達に口うるさく
小言をいいそうにみえた。
彼女に声をかけた。
「あのォ、寺山修司、覚えてますか?」
私の問いが終わらないうちに、
「知らないよ」
とにべもない返事が帰って来た。
彼女の耳には、寺山の悪口が伝わっているのだろう。
そのまま、横をむかれた。
店のなかは、薄暗く、広々とした店内に真ん中におおきなテーブルがひとつ
置かれて、カードなど商品がきれいに並べられていた。

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寺山修司、「それから」23 〜 ムシムシと、隣の床屋に新聞の俳句を読みにきた。 〜

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1984年。
歌舞伎座は、ぼくが訪れたときには、すでに人手にわたり、
そこには無表情なコンクリートの建物が建っていた。

かれの著作のなかにでてくる、隣の床屋と名畑という小間物屋は、健在だった。
床屋の入り口を50才くらいの女性が、箒で掃いていた。
寺山のことを覚えていた。

朝、店が開く頃、「むしむし」といいながら、店に配達される数種の新聞を毎日、見にきたという。
かれは、投稿している俳句か短歌の入選を確認にくるという話だった。

そういえば、「誰か故郷を想はざる」のなかで歌舞伎座に住み着いた虫松という映写技師が、
「モシモシ」といえず「ムシムシ」と発音する典型的な津軽人だったとかいているが、
なんだ、自分のことだったのか、と可笑しくなった。


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