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寺山修司、「それから」35 〜 母子道連れ。墓場まで何マイル?  〜

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パリ@モンマルトル

寺山修司は、亡くなる半年前、パリの古本屋で、
アンドレ・シャボの「墓」の写真集を買っている。
外国人の墓石のデザインは、ユニークで面白いものが多い。

「さまざまな墓は、私にとって、なかなか誘惑的だった。」
「今こうして病床に臥し、墓の写真集をひらいていると、
 幻聴のようにジョン、ルイスの「葬列」がきこえてくる。」
と、墓への興味を覗かせているが、
しかし、
「ぼくには、墓はいらない、ぼくのことばであれば充分。」
(昭和58年週刊読売5月22日号)

と、寺山の墓への興味は複雑だ。
母はつさんは、自分も病身だったこともあり、高尾山麓に墓を定めた。

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寺山の墓石 丈は身長と同じ


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高尾山の墓

その墓のことについては、すこし説明が必要だ。
はつさんは、長い間、修司との生活を願っていたが、なかなか実現できなかった。
渋谷に天井桟敷館ができた時、その一階ではつさんは喫茶店を営むことになって、
修司との生活がやっと叶えられた。
だが、それも7年ほどで館は閉鎖、はつさんも、店じまいを余儀なくされた。

はつさんの充実した日々は短かかった。
失意のはつさんはある日、市中をさまよい、
新宿駅でそこに来た電車に乗り、終点の高尾まで来てしまった。
そんな出来事が、高尾に墓を定める縁になった。

私は、はつさんに
「故郷の山に似ているのでここをえらんだのです。」
と聞いた。
故郷をあれほど嫌っていたはつさんだが、懐かしいのは山河だった、というわけだ。

寺山を溺愛したはつさんは、今、ようやく二人だけでそこに眠っている。
はつさんの生き甲斐は、修司とともに生きること。
それだけだった。
母と子の情愛には、凄みすら感ずる。


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寺山はつさん


寺山が、九条さんと結婚する時、はつさんは頑強に反対した。
吉祥寺カソリック教会での結婚式の集合写真には、はつさんの姿はない。

ある夜半、永福町の新婚の寺山宅にはつさんは、寺山の浴衣に火をつけて、投げこんだ。
寺山が飾った九条さんの写真に針を突き立てたこともあった。
それは、結婚前のことだったが、寺山も悩んでいた。
寺山の結婚は、はつさんには親子の別れのように、思えたのだろう。

「親を捨てるということがどんなつらいことか、聞いてくれ。」
友人の倉本聡に、相談すると、
(写真に針を立てられたくだりを聞いて)
「そこまでされちゃったら、そりゃ逃げるよりしょうがないよな」
倉本がそう言うと、修司はすごい剣幕で怒った。
「お前、そんなことを言うけれど、簡単に母親を捨てられるのか!」
長時間そんなやりとりを続けているうちに、倉本は光るものを目にした。
修司の涙だった。
喫茶店のテーブルをはさんで、修司はボロボロ泣きだしていた。
修司は号泣していた。
それは虚構に走りつずけてきた修司にとって現実の一番つらい悩みだったのだろう。
(虚人、寺山修司伝 田澤拓也 文芸春秋刊)

地平線揺るる視野なり 子守唄うたえる母の背にありし以後

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