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2009年11月

かにかくに、浅草は恋し。

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あなたは、浅草にどんな経路で行きますか?
そう問われると、まず地下鉄の浅草駅から雷門の提灯をくぐる。
仲見世で人波にもまれ、
観音様に手を合わせ、
六区あたりの劇場街をぶらりして、
というのがおおよそ定番でしょう。
ぼくは、そのあと名の知れた、侍の名のような天ぷら屋で食事、その味にガックリ。
いまいちこの町で堪能できる味や、見所に出会えず帰っていた。
そして、しばらく浅草を忘れている。

ある日、思い立って浅草ゆきのコースを変えてみた。
都心から業平橋行きの都バスに乗り、本所吾妻橋で降り、そこから浅草に向かった。
話題のニュータワーが、下町の民家の間から頭をだしている。

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ニュータワーが民家のむこうにみえる

言問橋を渡り、花の辻商店街の柳通りをぶらぶら歩いた。
ここは浅草寺の裏手にあたる奥山とよばれたエリアだ。
江戸時代の浅草は、ここ一帯が庶民の行楽の場で凄い賑わいだったらしい。
官許の歌舞伎小屋が三座あった。
天保以降、三座のあとに浅草歌舞伎の拠点となった宮戸座の跡の碑が料亭の片隅にある。
いまだ健在の見番や料亭など花町のなごりが散見される。

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仲見世そば

見番裏の釜めし屋「むつみ」でめしを食う。
板の間に座布団だ。
艶かしい芸者衆が、いつももたむろしているぞ、などと聞いていたが、その日は、スカだった。
ぼくが歩いた昼間は静かで、ここで江戸時代の浅草の賑わいを想像しようにもイメージが湧かない。

すこし雨も強くなってきたので今日は帰ることにした。
雷おこしの「常磐堂」を覗いてみたが、ウーム、買うのはパスし、
「徳太楼」のきんつばを買って帰り、家人に喜ばれた。

またの日、地下鉄の田原町駅から国際通りを歩き、浅草に向かった。
先日の吾妻橋からと反対のコースだ。
すきやきの今半の角を左折すると
50m先に「テプコ浅草館」がある。
そこで古い浅草の展示物を楽しもうというわけだ。
二階には、やや雑なつくりだが大正、昭和の浅草の匂いを醸し出したコーナーを設けている。
凄いのは寛永年間に書籍の収蔵所として始まった「浅草文庫」。
歴史的に価値のある書籍が閲覧できる。
かの有名な凌雲閣(浅草十二層)の資料もある。
啄木の秘められたローマ字日記に描かれた場所だ。

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昔の映画館の展示

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浅草十二層の絵ハガキ

「行くな、行くな」と思いながら足は千足町(現在、浅草二丁目)へ向かった。
常陸屋の前をそっと過ぎて、金華亭という新らしい角の店の前をゆくと、
白い手が格子から出て予の袖を捕えた。
フラフラとして入った。
あぁ、その女は!

名は、花子。
年は、17。

啄木の通ったのは、浅草十二階下の私娼窟のひしめく一角だった。
大震災で、この凌雲閣は倒壊してしまうが、
当時、エレベーターも設置され、人々の度肝を抜いたといわれる。
文明開化だった。
倒壊後も浅草に長く語り継がれている塔だ。

雨の日でも、浅草は人出が多い。
どこを歩いても人、人、人だ。
変わったことは、ひと頃数台だけだった観光の人力車がやたら、走りまわっていることだ。
なんと、業者全体で100台に増えた、と聞いた。
カメラを構えていると、人力車が、フレームの中に飛び込んでくる。
雷門や伝法院通りなどは、何台も連なっている。

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浅草演芸ホール前の風景

浅草には、面白い通りが沢山あるが、
公園本通りへ行ってみよう。
伝法院通りを右折すると道の両側に提灯が揺れ、煮物の匂いがプンプンする。
屋台から首を出したねえちゃんに「C級グルメですよォ」と声をかけられた。
C級グルメかあ、参ったな。
もつ煮込みが、ほとんどの店の看板メニューで、それぞれ具や味付けで個性を競っている。
夏には、縁台を道路にはみ出して、外人が生ビールをあをっていた。
どこの国の人でも、面白がるものは同じなんだ、ということが判る。
すこし臭そうな、おやじと背を並べ青い目が陽気に飲っているのだ。

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C級グルメの屋台へどうぞ

浅草。
時空を超えた、と言ってもいい、過去のイメージでいっぱいの町だ。
象徴的には、やはり芸人のさまざまな歴史やエピソードであろう。
功なり名とげた芸人達は、苦労話とともに、この町の人々の人情の深さを語る。
この厳しくも、あたかい土地から華やかな世界に躍り出て、活躍した、ビートたけしや、
萩本欽一、それに、渥美清。
みな、苦労をバネにここから山の手に脱出した。
しかし、浅草にへばりついている芸人も多い。

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六芸神

ぼくの好きな芸人のひとり、もとナンセンストリオの前田隣。
いっとき、中央で脚光を浴びたこともある。
「親亀の背中に子亀をのせてエー」ってやつだ。
だが、がんに倒れた。余命1年の宣告。
かれは、なつかしい浅草にもどって暮らすことにした。
朝日新聞のインタビューに、
「浅草では元気になれるし、ここは芸人の誇りをもって死ねる場所」
と語ったという。
「うちのパパとうちのママは、蚤の夫婦」
というエノケンの唄を味のある節まわしで唄える人は彼しかない。
彼を失なうのはとても寂しい。

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木馬館横

ご存知の方も多かろうが、プッチャリンという役者がいる。
変な役者とみられていたが、まじめだし、存在感もある。
路上のパフォーマンスを通して次第に商店街の人々の人気者になった。
還暦を控えて、もう少しで芽がでそうだ。
頑張れ。
身内に愛想ずかしされても、この夢は捨てきれなかった男だ。
そんな矢先である。
足に重傷を負った。
独身で、金も保険もない。
もう、この道をあきらめて、田舎へ帰ろうとした。
お好み焼き屋のおばちゃんが、金は貸すから、とかれを説得し、病院に入れた。
佃煮屋「大和屋」の長峰さんは、応援団長を引き受け、揚げ餅屋「よ兵衛」の竹山さんは、
手縫いの燕尾服をプレゼントした。

フレー、フレー、プッチャリン。
「かれは、金やしあわせを全部捨てて、役者の夢だけを追っているんだ。」
長峰さんはそういう。
「それをみて、まわりも、みんな共感するんだヨ」

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プッチャリンと大和屋の佃煮

なにか、大切なことが判ったような気がする。
貧しくとも、ひたむきに夢を追い続ける芸人たちの姿は、町の人々の心を打つのだろう。
芸人たちと、浅草の人たちとの、不思議な連帯の鍵が、そこにあるように思えるのだ。

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3人娘の踊り子

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霧の子孫に出会う。

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青山銀河。
霧の子孫である。
新田次郎氏の小説、霧の子孫たちは、霧ヶ峰の自然と、
遺跡を破壊する有料自動車道路(ヴィーナス、ライン)の建設に反対する男達の純粋な熱情の物語である。
青山銀河。
その小説の主要な役割を果たす人物だ。
世俗的野心も欲望もなく純粋な、心を洗われるような男だ。


小説の内容はさておき、ちょっと古い話になるが、
ライターの丸山寛之さんと、そのモデルになった青山正博医師のところへ取材に出掛けた。
(スコープ、日本アップジョンのPR誌の取材である。)
上諏訪駅で電車を降り、先生に電話で道順を聞いた。

なにしろ、霧の子孫である。緊張するなあ。
「すぐ、迎えにいくから、センベい屋(喫茶店)の二階で待て」との先生の指示だった。
あとで判るのだが、これが、大変なことの始まりだった。
丸さん(丸山さんのこと)が、時計で計ったら、「すぐ」が、2時間15分も待たされたのである。

そして、青山先生がきて5分でご自身の病院に着くと、この2時間15分の意味がはっきり判った。
先生は、大多忙なのだ。
患者がメジロ押し。
そして、良いことか悪いことか、わからぬが、
当面の問題に遭遇すると、先生はそれに集中し、時間や約束など、忘失してしまうのだ。
で、そうはいわなかったが、「エ?用件?なんだっけ。」てな感じなのだ。
もう普通の医師ではないナ。先生と呼ぶより、銀河氏と言おう。


Aoki
銀河氏


診療中、奥様が、銀河氏の全貌を克明に教えてくださったのである。
銀河氏は、東北大医学部を卒業、仙台の医局に在局。
その時、一週間の休暇をとって礼文島に日食を見に行ったという。
だがそのまま、一年も帰ってこなかった。
驚愕するような豪傑だった。
いきなり、強烈なパンチのご紹介だった。

もっと、重要で深刻なことがある。
幼児性を抜け出せぬ人だと、奥様はおっしゃるのである。
奥さんが言うのだから、間違いはない筈。
たとえば、学会や、東京の医学関係の用事に出かけるとする。
電車の発車直前まで、探し物をしたり、原稿を書いたりしている。
世話を焼いてくれるのは、奥さんだけである。
奥さんは、電車の発車ベルの鳴るさなか、銀河氏をやっと車中に押し込むのである。
これで一安心ではない。
帰りが大変だ。
新宿駅では、大体最終電車になる。
ウロウロ、銀河氏らしい所用をこなしていて、そんな時間になってしまうらしい。
奥さんは、真夜中、それらしき電車を待ちうけ、眠りホウけている銀河氏を、
たたき起こし、ホームにひきずり降ろすのである。
停車一分間で、先生の座席を探し車内を駆け回るというのだから神業に近い。

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銀河氏は、天文学者であり、
「日本星空を守る会」や「長野県自然保護の会」などの会長である。
自から、八ケ岳の南斜面に、「青木天文台」をつくった。
主鏡は、アストロカメラ(口径16cm,焦点距離803mm、)の本格的な天体望遠鏡らしいのだ。

これは、医師業務以上に銀河氏の情熱をかきたてるものだった。
車で、天文台まで約一時間。観測は勿論夜である。
天文台が出来たころは、ものめずらしさもあって、見学希望者も多かった。

ここで、みなさん、例の銀河氏の奇癖を忘れてはなりません。
奥さん、三人の娘さん、近所のおじさん、おばさん、青年達。
いそいそと山中の天文台に出掛けたが、みな一回で懲りてしまった。
なにせ、そこに出かけると、3時間、4時間はあたりまえ。
徹夜、夜明けまで、銀河氏の納得するまで、山奥に封じこめられる訳だ。
再度いう、みんな一回で懲りた。


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「おおい、山へいくか。」
声をかけられると、あわてて、断る若者がいた。
そんなこととは、知らず、われわれも銀河氏の餌食になった。
その恐怖の山へ、ぼくらも出掛けた。
何時間経っただろうか。
銀河氏は、観測に夢中で病院に帰る気配はなかった。
「ええイ。どうにでもなれ。」ぼくは銀河氏の、毒ッ気のない笑顔をみると
なんにも言えなくなるのだった。
ぼくらもあきらめて、天文の世界に遊ぶことにした。
「ホラ、覗いてごらんなさい」
銀河氏にすすめられて、覗くと、土星がきれいなリングをつけ、
どこかの小学校の校章のような、メタリックな金属に見えた。
それは、確かに新鮮な驚ろきだった。
「ネ!面白いでしょう。」


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銀河氏は、天体情報を記録し、研究家たちのデータの一助としたい、と考えているようだった。
その為にも、自然をそこねてはいけない。
保護運動も急務だ。
日常の些事に振り回されず、眼は、天体や自然に向き、悠久の時間と空間にたゆとう
銀河氏は、人間ではなく、銀河人だった。
そしてぼくに、我が身のみすぎ、よすぎにのみ、せかせか生きている人生を
恥ずかしいという感覚を目覚めさせてくれたのだった。

(註、文中に挿入した写真は、先生のポートレートを除き、
 青山先生の環境とは関係のない写真を使用しました。)


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香港か? 月島。ニューヨークか? 佃。

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香港か?
運河の中へ足場を組みいれたボロボロの建物がある。
晴海トリトン側から、月島を眺めると、その奇怪な建築物が見える。
当然、好奇心にかりたてられて、調査におもむく。
ところが、
この家のぐるりは、建築中の建物をふくめ、びっしり密集していて、
ぼくの、探査力では、当該物件に到達できない。
6~7軒の小さな会社や、民家が蝟集しているのだ。体ひとつしか通れない
路地も、行き止まりになっている。
ウロウロしていて、怖そうな職人さんに咎められるかもしれない。
このあたりで、20人ほど、聞いたが、ほとんど事情を知る人はいない。
無愛想で答えなかった人を含め、全敗。
取材日が月曜だったせいもあって、図書館や、区民施設なども調べようにも休みだ。
対岸に行って、定年釣り人風の人たちと和みながら、かれらに聞いてみた。
どうやら、あれは大きな材木屋だったらしい。
運河を利用した、材木を運ぶのに便利な構造で、近くに大きな貯木場もあった、という。

一方、永代橋から一望する佃のビル群は、ニューヨークの一角を思わせる美しさだ。
隅田川が東京湾に、ここで、相生橋方向と勝鬨橋方向にわかれる。
ここを行き交う、いろいろな、個性的な船を観ていると時間を忘れる。
「卑弥呼」のような宇宙風の船が、快速でゆくとおもえば、正体のはっきりしない小舟が葉のゆらぐようにゆく。
遊覧船のオープンデッキでは、びっしりと詰まった、乗客に、たべものをねだって、
かもめの群れが船を追う。
それがまた、かわいい。

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ニューヨークのような佃のマンション群

このニューヨーク風の、
ビル群のたたずまいを楽しむには、午後、と夜の風景が、絶品だ。

この香港、と、ニューヨークの間に、若者が、大好きなもんじゃを主体の月島仲通り商店街がある。
一説に200軒ともと噂されたもんじゃ屋だが、月島もんじゃ振興会協同組合のパンフには、
加盟店が68軒とある。
クリーニング屋のおばちゃんは、
「全く、どんどん店が出来ても、どんどんやめるんだ」
と、ちょっと批判的。
土、日は、若者達がこの通りをゾロゾロ歩く。
若者が好きなのは、この街の雰囲気もあるのだろう。
路地に、古い昔の暮らしがあり、ホットする風景が、ふんだんに転がっているからだ。
狭い路地の両側の二階を、廊下で渡している家もある。
その、路地で、猫よけのペットボトルを置いてある家の前に男が立っていた。
この風習は、日本だけでなく、北京の郊外でしばしばお目にかかった。
勘で、「中国の方?」って尋ねると、そうだという。
たたみかけるように、「じゃあ、もんじゃの店やっているんだ?」
というと、そうだ、という。
何軒か、かれの仲間が経営している、という。
中国人の、もんじゃはどんな味かな。

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月島もんじゃ街


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路地をはさんだ廊下


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中国人のもんじゃ屋と、猫除けペットボトル

ぼくは、もんじゃ屋は「近どう」へ、時折出かける。
コンドー、です、だ。
やや、しゃれた調理で、まあ、うまい。
人気もあり、ここ数年で店を三軒に伸ばした。

この町を、ぼくも好きで、少しだけだが住んだ。
やはり、佃では、住吉神社と、運河、それに桜小橋がいい。
このあたりの風景のなかをぶらぶらしていると、
時代劇の書き割りのなかに嵌まりこんだような、不思議な陶酔感にひたれる。
とくに、夕暮れ刻がいい。
うーん。この渋さはたまんないなあ。
ゲーテではないが、
「時よ止まれ。
きみは、あまりに美しい。」 だ。

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佃、住吉神社

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夕暮れの桜小橋

もうひとつ、ぼくの好きなのは、佃三丁目。
ここは、明治、大正と、避暑地として、住みやすい住宅地だったらしい。
海水館という、旅館があって、島崎藤村をはじめ、竹久夢二など多くの文人たちが、
遠く房総を望む絶景にひたりながら、執筆にいそしんだという。
いまは、この住宅街も昔の面影は薄れたが、
住人のおだやかさと、上品さは、変わらぬように思える。
土地の格というか、地霊のようなものがもたらすのだろうか。

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海水館跡

地霊といえば、この佃、月島あたりには、歴史的に美談が多い。
そもそも、徳川家康が、自身、摂津で助けられた漁民にむくいるためにかれらに佃の土地を与えた。
その後、水に窮乏していた月島に水道橋の相生橋を作った、官僚の献身。
それに貧しい水上生活者を助けた「あかひげ医師」の物語など、数々の美談にいろどられた土地柄である。
いま、マンションが乱立している。
ぼくらは、路地裏に懐旧の匂いを求めるが、
いずれは全部がコンクリートの町に変るだろう。
その時、この町が、いまの魅力を失わないためにはどうしたらいいのだろう。
例祭に登場する大切な柱の沈められた運河をながめながら、
この柱が佃の骨格だな、と思う。
ここで、不変なるものを求めれば、祭りにいきつく。
佃の祭りは、厳粛な祈りと、しきたりの厳しさを踏まえて、
この町の魅力をつくりあげてきた。
そこに原点があると、思うのだが。

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柱を沈め、保存している堀

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帰ってきた三菱一号館と丸の内、そよぐ緑の風。

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丸の内。
へんなものが、うごめいているぞ。
小型の車かな、と思ったが、人間が、もぞもぞ足を動かしている。
輪タクという、自転車のタクシーが、昔あったが、あれかな。
聞くと、ベロタクシーというのだそうだ。
2002年から、千代田、港区など4区で走らせているというから、
知らないぼくがうかつだった。
これが、走るさまは、実にいい。
走る、というより、虫が動くという感触だ。
この遅さ、この軽さがいい。
こういう、スローなペースや、コミカルなムードが、丸の内の堅苦しい雰囲気を変えてしまえばいいのに。


さかのぼって、丸の内の重い話。
明治27年、英人ジョサイア、コンドルの設計で丸の内ではじめての近代的オフィスビル「三菱一号館」が建設された。
日本の開明期である。
明治時代のバンカー達は、時代を拓く責任を担い、理想に燃えた。
その三菱一号館の一帯に英国風に建築されたビル群が、「一丁倫敦」と呼ばれた。
財閥が、貫禄を保持し、金融や、証券が、プライド高い職種だった頃の、重厚な建物だった。

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そんな先駆者の思いのつまる「三菱一号館」が、昭和43年に取り壊されてしまった。
高度経済成長の流れに沿った合理主義が、一丁倫敦をつぎつぎ消して便利なビルに変えた。
金融界の、信用、ジェントルマンシップが、その後のバブル崩壊などで
ガラガラ崩壊していったことと、これらの建物の消滅がダブルのは皮肉だ。

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新・三菱一号館

40数年経て、三菱一号館は新しく、再現された。
なぜ、再建されたのだろう?
当時銀行だった重厚なフロアーは、ギャラリーや「cafe 1894」、という飲食店になった。
先駆的な時代の匂いを、いま活用しようということだろうか。
一世紀前の時間をスライドさせ、当時の重厚な雰囲気をそこに持ち込もうとしても、
壊されてしまった建造物の存在感は、回復しようもない。
先人の気配や匂いも消え、柱や床に刻まれた生活の痕や思いも失せたからだ。
つまり、古いものの価値は、壊せば終わり。再現などできないのだ。


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cafe 1894


まあ、いまさら愚痴ってもはじまらない。
あたらしい環境を楽しもう。
三菱一号館とガーデインを挟んで、「Park Building」ができた。
新風のビルの店揃えは、どこも似ているようだ。
ここも老舗に加え、三国清三さんや、山本秀正さんなど、定番の有名シェフを揃え、
スペイン王室御用達のショコラテリアの店の初見参が興味をそそる。
しかし、相変わらず、下駄っぱきで行き難いのだ。

ところが、関係者はいろいろ考えたのだろう。
庶民のために、地下にスタバやローソン、居酒屋風のきさくな店を並ばせた。
ラーメンの一風堂もある。
もともと、サラリーマンがひしめくオフィス街を高級なブランド店、飲食店で占めるのは、現実的でないと思っていた。
ベロタク感覚。いいぞ。

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Park Building

ブリックスクエアの中庭はこじんまりしてはいるが、清怜な風が通りぬける感触がいい。
いい環境が現れると、素敵な人たちが、現れる。
一方、両丸ビルのがんばりと相まって、丸の内はなかなか堪能できる街になった。
三田線の大手町駅を出ると、地下一階に行幸ギャラリーがあり、
100メートルもの長さで力作の絵画が並ぶ。
地上ではあちこちに彫刻が設置され、都市公園的で
街全体の空間が広々している印象だ。
日比谷方向に抜ける仲通りには、深緑の木々に風がそよいでいる。
散歩していても、心地いい。
疲れたら、
丸ビルの地下一階にポツンとゴディバのアイスクリームの店がある。
ひやりとしたアイスの感触が、疲れをとる。


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丸ビル

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丸の内・中通り

そして、最後に、
いい店を見つけた。
pass the baton という店。
中古品の委託の店だ。三菱一号館と一体のbrick square にある。
自分の愛蔵していた品を、その品にまつわるエピソードと本人のポートレイトを添えて、店に販売を委任するのだ。
ホウ、あの人の所蔵品もあった、てな調子の楽しみもある。
ぼくも、他店だが植草甚一の小物をいくつか手にいれた。
植草さんの思いが、その品に滲みでている。
センシブルなものや、ユニークな品の数々、持ち主の味わいがうががえて楽しい。
ものの魅力にくわえ、持ち主の物語も添えて買えるという、発想は、この店で教えられた。
丸の内をぶらぶらしてとても楽しかった。

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pass the baton

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神田神保町。さぼうるの灯と、赤色エレジー。

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神田神保町。
靖国通りをまっすぐ下ってくると、神保町の交差点あたり、右側にずらり古本屋が、並んでいる。
なぜ、右側にずらり? 
みな北向きに、ずらり。
友人に、疑問をぶつけると、
「当たり前だろう。本屋が、南向きだったら本が陽に焼けちゃうだろう。」

ハイ、愚問でした。
ぼくが、しばしば立ち寄るのは、写真やデザイン関係では、源喜堂。
どんな珍本、奇本でもどこで見つけてくるのか、早い。
もう一軒。
大屋書房。
古地図や古い文献、浮世絵など、ユニークで面白いものが、沢山。
みるだけで、おもろい店だ。
いま、古本祭りを、神保町でやっているが、
大屋書房では、杉田玄白の「解體新書」が手に入ったという。
1774年の発刊だというが、その時のものだったら、スゴイ。


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大屋書房


僕的にいうと、ここ神保町は、息子ふたりが、このあたりの小中学校に通った、思い出深い界隈なのだ。
しかも、すこし時間はずれるが、ここは、日大、中大、専大など多くの大学のひしめくエリアで
学園紛争のまっただなかで日本のカルチェ・ラタンとよばれる場所となった。
早大の闘争から端を発し、ほとんどの大学に飛び火してゆく、学生の反乱には、
ぼくも、カメラ片手に、各大学や、街頭を走り回ったものだった。
神保町の本屋の主人たちは、硬骨なひとが多く、
警官に追われた学生を、店にかくまう光景をしばしば目にした。
戦後体制への強い疑念という論点は、いまなお残るテーマではあるが、
しょせん、こいう闘争は、成算のない衝突の繰り返しで、権力に敵うわけもなかった。
学生を指揮した全学連委員長の唐牛健太郎は、
「60年安保は、壮大なゼロだった」と敗北を述懐し、
北海道という極北に漁師としての人生を求めて、そこで果てた。
そんな日本的敗北の美学が、多くの人々を感動させたものだった。


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すずらん通りの裏手にある、喫茶店「さぼうる」の、山小屋のような暗い店内で、
敗北と旨いコーヒーの味を、ぼくらも複雑な思いで味わった。
カメラマン仲間も、沈黙しがちだった。
いまでもときどき、「さぼうる」に立寄り、ぼくぼくした松の柱や、
桜のてすりを撫でながら時間の流れを愛おしむ。
コーヒー、400円。昔ながらのモーニング、サービス500円。

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古本屋街の狭い一角で、その頃、青林堂が、漫画のガロを出版し、
そのなかで、青春のはかない敗北をイメージした、林静一の「赤色エレジー」が共感をよんでいた。
みすぼらしい男と女のむなしいあけくれと、破局。
政治的時代と青春。
何とも、いえぬ、「赤色エレジー」という題だ。

それをテーマに、あがた森魚が作詞作曲した寒い叙情の、フォーク、ソングが心に滲みた。
曲は、
愛は愛とてなんになる〜、と始まるのだが、
ぼくに、奇妙にまつわりついてきたのは、
「お布団も ひとつ欲しいよね」
という、詩のくだりだった。
これは、なにかいいようのない、所帯じみたイメージで、リアリテイーがあった。
「神田川」も流行した頃だ。

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個人的なことだが、ウニタ書店の遠藤さんには、大変おせわになった。
左翼系の本や文献を扱う、ユニークな、書店の店主で、
「また、警察がきたよ。」などと、その筋からは、いつもマークされていた。
強い信念をもっているのだろう、剛胆な人だった。
しかし、ぼくとは、錦華小の記念誌や、映画を製作した仲間で、
式典にいらしった皇太子ご夫妻に対する、誠実な思いなど、意外な横顔に驚いた。
ウニタ書店は、いま、ない。

もう一軒、八木書店。
ぼくが、漱石関係の文献を収集するマニアで、欲しい本は大体ここで見つける。
この店が、一番揃っているように思う。
同時に、ここの奥さんは、小学校の記念誌の製作を手伝ってくれた、という因縁もある。
その後、若くして、彼女は亡くなったが、印象に深いひとだった。
漱石だったら、「虞美人草」と名ずけるかもしれない。

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八木書店

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