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2009年12月

代々木上原で、幻想を楽しむ。

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地下鉄千代田線、西に向かっていた。
向いの座席に親子連れがいた。
長い闇の中をゆく電車に、4~5才の男の子は退屈しきっていた。

代々木公園駅を過ぎたころ、父親が子供を抱き上げ、窓側に子供の顔を向けた。
その理由がわからず、子供は嫌がったが、電車にサッっと光が射し込んで、
地上に出た。父親は、光と出会う瞬間を見せたかったのだった。
子供はパッと明るい表情に変わった。
ぼくも予想しなかっただけに、この光の突然の到来は、心地よかった。

電車は代々木上原の駅に着いた。
南側に降りるとすぐ坂道になっている。
20年くらい前、よく車で行き来した井の頭通りに出る。
道幅も広くなり、すっかり景色も変わってしまった。

電車のガード方向を眺めていると
さっと白ずくめの人間が両手を大きく振ってゆき過ぎた。
「包帯人間?」


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瞬間、
この人間は、大通りにあった奇妙なトーチカのような建築物から現れた生命体ではないか。

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そんな馬鹿げたイメージを楽しんでしまった。
それにしても、のっけからヘンテコな生命体や、建造物にぶつかってしまったものだ。


街は一見して白っぽい。
ショーウインドウも看板も少ない、すっきりした街だ。
そもそもここは、坂道の多い落ち着いた住宅街。
そこに品のいいファッション系の事務所などある、静かな環境だ。
いきなり包帯人間とトーチカには驚いた。

ぼくの目的は、その静かな住宅街の散策と、古賀政男の記念館の見学、それに
東京ジャーミイ」でくつろぐことだった。
残念ながら古賀記念館は、休館日。
さっと、東京ジャーミイにゆく。


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そこは、イスラム教のモスク。
自由にお入りくださいと書かれてある。
大理石の階段を上がるとそこは、まさに異郷の風景。
イスラム文明の頂点ともいうべきオスマントルコの装飾様式をとりいれた華麗なモスクである。

結構大きくて、広い。
おずおずと、なかに入る。
なんと誰もいない。

ふかふかの絨毯にしばし、座りこむ。
窓のステンドグラスの模様が、ふとパリのノートルダム寺院のそれに似ているな、
などと思いながら、しばらく、モスクの内、外をうろつく。
あとで聞いたはなしだが、2000年にこのモスクを改築した時は、
トルコから、100人ちかい職人が集まり、壮大で、緻密な建築に携わったのだという。
時間がだいぶ過ぎたのに、誰もこない。
こんな凄い教会を解放し、自由に人を招き入れる太っ腹には、驚きを禁じ得ない。


住宅街を散策する。
やはり坂が多い。
なんの変哲もない、環境ではあるが、坂ののぼり、くだりが、変化をつけていて面白い。
坂道を腰に手を当てながら登ってくるおばあさんや、
買い物帰りの急ぎ足の主婦に道を尋ねると、みな親切にこたえてくれる。
家々を観察しながらゆくと、それぞれの家に微妙な工夫や表情があって興味深い。
ささやかでも、センスのある家は、そこから家族の顔も想像させて楽しい。

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そろそろ、帰るべく井の頭通りを、山手通りの方向に歩いていく。
みたことのあるビルがあった。
以前20才そこそこで、ITの会社を立ち上げた千葉麗子ちゃんを取材したビルだ。
ITといっても創成期だった。
しかも、アイドルの環境から飛び出して新ジャンルに挑んだ彼女に感心したものだった。
そのビルを見上げた。
オフィスは3階だったかな。


その隣にある、パンの店、「ルヴァン」に立ち寄る。
ここは、天然酵母と国内産小麦を使い、フランスの伝統的な製法で焼き上げるパン屋さんだ。
パン好きだったら、誰でも知っている有名な店だ。
隣接してカフェがあり、ピザや焼きたてのパンを食べさせる。

ウーン。
ピザを食べたかったが、夕暮れがせまってきたので、パンだけ買って
帰ることにした。


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義士の冬、気になること。

1
泉岳寺

今年も12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日がきた。
両国と泉岳寺はやはり人、ひと、人で、街路のあちこちを文献片手に、
みなキョロキョロゆかりの場所を見回している。
「あのビルの裏あたりが、吉良の首をとった部屋ではないか」、など
高齢者の人たちの歴史研究も細部にわたってきたようだ。

2
吉良邸あと

ずっと前、皇居(江戸城)の中を巡ったことがある。
広々とした空間に松の廊下跡が残っていたが、
1701年(元禄14年)の吉良刃傷沙汰のあと、1725年7月28日にまた、
この松の廊下で同じような事件が起ったと知って、エッと驚いた。
信州松本城7万石の水野隼人正忠恒が、長府藩主の子、毛利主水頭師就を斬りつけたのである。
やった方は、うらみ、やられた方は乱心ということで、これまた、似たような動機だったようだが、
赤穂浪士の騒ぎに疲れたのか幕府の処理は、目立たず穏当なものだったという。

六本木ヒルズやテレビ朝日などの周辺の大規模工事が始まった頃だった。
その一角にある毛利庭園の改修でブルトーザーが唸りをあげていた。
そこは毛利甲斐守の上屋敷で、竹林唯七をはじめ10名の赤穂浪士が切腹した場所がある。
そこが工事で、どうなるのか気になった。
こりゃあ、切腹した現場を写真で記録しておかねばとあせった。
工事の管理者が、親切な人で、そっとその庭園に入れてくれた。
現場は、木々が生い茂り、当時そのままに保存されてきたかにみえた。


3
毛利庭園10年前


ぼくが心を痛めていたことがある。
この竹林唯七たちのことだ。
預かったこの義士達に対し長府藩毛利家の処遇が厳しかったという。
細川家の手厚い遇し方に比べ、随分違ったと述べる研究家もいる。
ヒルズ界隈が整備された直後、気になっていた毛利庭園にでかけた。
義士達は、またも、ついていなかった。
やはり、気になっていたのがアタリで、毛利庭園は妙に華やかな庭園に変わっていた。
あの義士達の、気配も、静寂も消えていた。


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毛利庭園現在

やはり、事件のモニュメントは、出来る限り残して置きたい。
細川家(高輪)は、大石内蔵助をはじめ17名を預かったが、
当主は「武門の名誉、これにすぐるものはない」といって、かれらを手厚く遇したといわれる。
切腹の場所は大書院上の前庭、横に能舞台、後ろに池、という絶景の環境を設けた。
当主の細川綱利は、義士の切腹後、「飛び散った血の跡はそのまま末の世に残せ」、
と現状のまま保存させたという。
そこは門の隙間からしか覗けないが、それだけにリアルだ。
細川邸は、ほかに広大だった敷地の一角が残されて、巨大なしいの木が、高くそびえ立っている。


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細川邸あと、大石良雄ほか切腹の現場


そこから、300mほど高輪の住宅街の裏道を泉岳寺に向かう。
泉岳寺では、参詣の人々の線香の煙があちこちにゆらぐ。
浅野内匠頭の切腹の血を浴びた「血染めの梅」が、もの云いたげに立っている。
芝、田町の一の関城主田村右京太夫の屋敷にあったものだ。
その田村邸から、内匠頭の遺骸が脇門を、移送されていった。
その脇門は、その後、方南町の東運寺に寄進、移築されたという。
そこへ行ってみた。
猫が何匹もすっと現れ、愛想なく立ち去る。
その門の前に佇み、なんともいえぬ感慨にひたる。


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細川邸跡とシイの巨木

最後に、気になる一人の人物がいる。
寺坂吉右衛門である。
義挙のあと、かれは逃亡したのか、あるいは使者として、赤穂へ旅立ったのか。
世間のかまびすしい噂にさらされた。
諸説あり。
いろいろ書かれたものを読んだが、ぼくは使者説で納得したい。
泉岳寺の義士たちの墓の一角に、寺坂の墓があった。
ちょっと驚いた。
なぜなら、南麻布の曹渓寺に寺坂の素朴な墓があり、
ぼくは、そこに参拝したことがあるからだ。
寺坂は、その寺で一生を過ごし、そこで果てたといわれている。
墓がふたつあるとは、不思議だ。

12月13日、寺に寄ってみた。住職がひとりで庭を掃いていた。
墓に参拝しようとしたが、だめだという。
なにか理由があるのだろう。
「泉岳寺にも寺坂の墓がありますね。本当のお墓は、こちらですよね。」
ぼくが問うと、
「そうです。墓はここです。しかし、泉岳寺以外にも全国に沢山あるそうですよ」
と住職は、苦々しげに答えた。
吉右衛門は、83才で亡くなった。
芝居の「仮名手本忠臣蔵」や、講釈師による「義士銘めい伝」など赤穂浪士のさまざまな美化の始まる、前年の死だったという。
生きていれば、寺坂は自分の描かれ方をどう思ったのだろうか。
人間の生、そのドラマは神がつくり給う筋書きで、真実は複雑だ。

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浅野内匠守の遺体がくぐった脇門


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寺坂吉右衛門の墓(泉岳寺)

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上野、坂の上の雲。

01


鴬谷でJRを降りた。

なにか駅員のアナウンスがあって終わりに、
ホヶキョと鶯の鳴き声が、ホームに流れた。
可愛く、ホヶキョだ。
それを聞いて、今日の出だしの気分は、上々になった。


このJRの鴬谷の駅舎は、東京には珍しく家型で残っている。
田舎へ来たような落ち着いた風情がいい。
駅の西側には寛永寺霊園の白い壁がながながと続く。
篤姫の墓所もあるが非公開なので、まずは寛永寺へ直行した。

上野の山は当初はすべて寛永寺の所有だった。
大政奉還後、寺はこぶりになってしまったが、歴史のドラマを秘め、静けさに包まれている。
落ち葉を掃いている老人も、おのずとこの景色にふさわしい役割を演じている。
今日は、幕末から維新にかけての歴史散歩だ。


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寛永寺境内


ひとつは、正岡子規。
NHKのドラマ「坂の上の雲」が始まったので、
まずは、子規の旧宅に出掛ける。

上野の山からストーンと削ぎ落とされた処に根岸の町がある。
その根岸2ー5ー11が子規の旧居だ。
そこに至る道筋、ビルの壁に子規にまつわる逸話を書いたプレートがあった。

読むと、この一帯は、加賀家の家作で、借家として貸していたらしい。
子規は、その家(そのビル)を最初借りようとしたが、
門限のあるがイヤで夜も出入り自由な加賀家の別な借家を選んだのだという。
つまり、このビルは、「俺んちも子規にゆかりがあるんだぞ」
という主張をしているのだ。

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正岡子規(NHKから)とビルのプレート

面白い。
こういう、細かいネタが、歴史に膨らみをもたらすのだ。

子規の家は、普通のしもたやだった。
奥の6畳間が仕事部屋と寝室を兼ねて、縁先にはへちまの棚がある。
へちまの汁が、かれの肺の病に効くということで、妹が作ったのだと云う。
机の一角を10センチ四方くらい、切り落としてあった。
「どうしてですか」と説明係の女性に聞くと、
子規は不自由な膝をかばい、机の一部分を切り落とし、
左足を立て膝にして、机に向かっていたのだという。
その風姿がナマナマしく目に浮かぶ。
大勢の弟子たちの姿と、ここを訪れたであろう漱石も偲ばれる。

04
子規の旧居と庭


さて、上野の山に戻ると、野球場に「子規記念球場」と立て札があった。
子規は学生時代、日本に入ってきたベースボールに熱中した。
打者、走者、直球など、その時彼の訳した野球用語が、いまも使われている。
かれは、俳句、随筆、小説などでいろいろ野球を語った。
日本野球の創世記、野球の普及に随分と貢献したわけだ。
これらの功績で、平成14年に子規は野球殿堂入りした。
野球場前の碑に、

春風や まりを投げたき 草の原。

と子規の句がある。


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正岡子規記念野球場


子規もそうだが、芭蕉も上野にゆかりのある人だ。
上野精養軒の隣に鐘楼がある。
そこから鳴り響く鐘の音。
昔から東京の人の慣れ親しんだ音だ。
芭蕉もこの鐘の音を聞いて、感興をもよおし、句を詠んだ。

花の雲 鐘は上野か 浅草か

これは、深川の庵で聞いた鐘の音だろうか。
平成8年には、環境庁の「残したい、音風景100選」にこの鐘楼のある風景が選ばれた。


上野精養軒のカフェラン・ランドーレは、ブランチに是非寄りたい。
ハヤシライス、それに、桜ゼリーもいい。
ゆっくり、ここでくつろぐ。


06
上野精養軒と隣接する鐘楼

この周辺には興味深い故事がつまっているのだが、
芭蕉の鐘楼と精養軒のすぐ前に、大仏さん(1631年作)もある。

お顔だけの大仏さんなので、ギョッ!と、驚くが、
もとは、釈迦如来座像で安座され、像高は6mだった。
関東大震災を含む地震と火事で、頭部が4回も落ちてしまった。
資金の面で再建できなかったのだろうか。
お顔だけ鎮座ましましている。
ここに立つと、そのお姿になんとなく、申し訳ない気分になる。

07
上野大仏


この周辺には特に強調したい、歴史的に重要な碑がある。
目立たないが、胸がキュン!となる場所だ。

「彰義隊」の武士の墓。

1868年ここで、戦いがあった。
大政奉還して寛永寺に蟄居させられた慶喜の助命嘆願を計った小川興卿らに加え、
徳川政権を支持する各藩士や、新政府への不満武士などが集まり(彰義隊)、
上野の山で新政府と激しい戦火を交えた。

武運つたなく彰義隊は敗れたが、
生き残った小川達が、ここに同士の墓を建立した。
脇にその戦いの絵が添えられている。
当時、彰義隊も浮世絵で風俗的に描かれていたが、この絵の戦闘は写実的だ。
彰義隊の果敢な戦いを、是非とも後世の人に知らしめたい。
小川興卿が、リアルに描くように画家に強く求めたのだという。

彰義隊は、官に抗した賊軍と位置付けられたため、
くやしいが、ひそかに歴史を刻むことになった。

しかし、その熱き心は、ぼくらに強く訴えかけてくるのである。

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彰義隊の墓と戦争画

彰義隊の墓の横は、おなじみの西郷どんの銅像だ。
西郷どんも維新の立役者だった。

その手前で、パントマイマーが、路上公演をしている。
銀色のマスクをつけて、怪人二十面相的だが、見物客が少ない。

西郷どんは、なぜ犬をつれているのか?

かれは、無類の犬好きだったからのようだ。
「西郷南洲翁逸話」という本が明治の初期、書かれた。
それによると、西郷は陸軍大将として東京に勤務時、安下宿で、数十頭の犬を飼っていた。
犬の大群が、室内を飛び回り、絨毯や襖は泥だらけ、破れ放題で
下宿は、化けもの屋敷のようになっていたらしい。
しかし西郷は、いささかも意に介せず、泰然としていたという。
犬と子供が大好きで、よく彼らと遊んだ逸話が残っている。
作家、司馬遼太郎は、現代、崩れ落ちた日本人の精神を嘆き、
望むべき典型を明治の人々の姿に求めた。
上野にも、その典型が数多く埋まっているに違いない。


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西郷隆盛とパントマイマー

もう陽もだいぶ傾いてきた。
山を下りてすぐ前に、甘味処の「みはし」がある。
芸大生の景子ちゃんが、学校の行き帰り、ほとんど毎日、友達と通った、という店だ。
「ゼッタイの店」と、彼女は云う。
「行きなさい」と、強要したので入ってみた。

餡みつ豆を食べた。
「ゼッタイ」だった。

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麻布、風と光と。その1、夢の店二つ。

1

ぼくは引っ越しマニアで、なんとなく東京の街をあちこち転々としてきたのだが、
じぶんが、街にどんなものを求めているか朧げながらイメージしていた。
もちろん求めるものは、多いのだが、
端しよっていえば、面白い店。
夢のある店とでもいう魅力に出会いたいということでした。
今回は、麻布十番。
ご存知のように、ここは山の手と下町を一緒にしたような面白い街だ。

おいしいコーヒーを飲み、同時に「雑煮」も食べたい、というヘンな男がいるとする。
ぼくのことだ。
OK! 食べられる店があった。

喫茶の「ぽぽたーじゅ」。
自慢のコーヒーが主力だが、雑煮も食べられる。
ユニークな店だったが閉めてしまった。
12月2日に店の前(半地下だ)を通りすぎると、小さな、休業の掲示が貼ってあった。
毎日、雑煮を食べにきた原ストアのおばさんや、志村けんさん。
ここのマスターと仲良しだけど、寂しくなるね?

街は、ただ物価が安く、利便性の高い店舗、
コンビニや量販店があればそれだけで満足できるわけではない。
やっぱりその街に夢のある人や、夢のある店が、なければネ。

今回は麻布十番の二軒の夢の店を紹介したい。


2

店のひとつは「カレードスコープ昔館」だ。
筒を覗けば、絢爛豪華。
さまざまな色彩や模様が乱舞する、万華鏡を扱う店だ。

江戸川乱歩の小説に「鏡地獄」という作品がある。
レンズや鏡の魅力にとりつかれ、遂には自宅の庭に不思議な鏡の部屋を作り、
非現実の世界に嵌まり込んでしまった男の話である。
幻想の世界に遊ぶ道具とは、マニアックな大人の玩具なのか。


万華鏡(カレードスコープ)は南蛮渡来の珍品として、早くから日本でももてはやされていた。
日本ではじめて、万華鏡の専門店を開いたのが、この「カレードスコープ昔館」のオーナーである。
かれは、二十数年前、アメリカ人のコレクターのコージー・ベーカーさん(カレードスコープの普及活動も行っている)
を訪ねて、日本で専門店を開きたいと相談した。

ベーカーさんは、欧米でも専門店は、経済的に成りたたないのに、
東洋の狭い島国でそんな商いが成り立つわけはないと思ったらしい。

「ダメ、ダメ」
やめなさい、と忠告した。

しかし、わがオーナーは専門店でやりたい、と最初から決めていた。
万華鏡に対する強い思い入れがあったのだ。


3
あやしげな美しさ


そもそもカレードスコープは、ブリュースターというイギリスの物理学者が、
19世紀に考案したもので、ブリュースター効果という言葉もある。
この鮮やかな美的世界をぜひ、芸術面で役立てたいというのが、ブリュースターの願いだった。
幸い、その後現れてきたアーチスト達によって様々な芸術作品として世に送り出された。
この店に並ぶ作品は、九割かた米国作家のものだ。
日本作家は、10人位らしい。

オーナーは、最初、

こういう主観的な価値の万華鏡は、
価値を知るもの同士のぶつぶつ交換がふさわしいのではないか、

と考えたという。

かなり宇宙人的発想ではないか。
ブリュースターが、哲学的おもちゃという理念をもっていた、というから、オーナーもその理念に共感したのだろう。

カレードスコープは、価格はピンからキリまで、1000円から300万円するものもある。
お年玉を貯めて高いカレードスコープを買いにきた小学生がいたそうだ。


4

5

仕入れは米国が主だが、難渋するらしい。
なにせ、これを作るアーチストは、変人や気難しい人が多い。
放浪癖があって連絡のとれない場合もあるようだ。
いまどき、こんな経済効率の悪い仕事をしている人は少ないが、
人生、高い価値観で生きている人もいるんだ、ということが、ぼくに夢を与えてくれるのである。

6

もうひとり、青い目のエイミーさんの店だ。
「藍小物屋」だ。

7


店名は、「ブルー&ホワイト」
藍と白を基調にした小物や衣類などを揃えている。
ほかにも、浴衣地で作った帽子やランプシェード。
おかめ、だるまなどが、今風のユルキャラ仕立てで面白い。


8
ゆるキャラ


店主の加藤エイミーさんは、アメリカ人。
ボストン大学で美学と哲学を学んだのだが、日本の伝統技術のスバラシさに痺れた。
特に藍染めに魅せられて、日本全国の職人を訪ね歩いている。
古い素材に新しいデザインを加え、使いやすい生活用品を、作ってくださいと職人達に依頼しているのだ。
職人に頼むといっても、伝統的な形に彼女のアイデイアが加わるわけだ。
「なんで、こんな形にするんだ」職人は頑固者が多い。
こうしたらどうだろうか。
エイミーさんが、いろいろ提案すると、
「うーん。頭が痛いなあ。」と、なかなか職人との折り合いが難しい。
エイミーさんは、
「職人は、ひとつひとつが手作り。そこに命を入れるのだから、
充分話しあって素晴しい提案をしないと、彼らは納得しない」という。
「深い味わいのあるものを作りたい。そして、少しビックリを入れたい。
だって、江戸時代は、それがあったでしょう?」


9
エイミーさん

「大切なことは、日常のものだと思うの。茶碗、テーブルクロスなど、生活の
中心だから毎日眺める。”無口の影響”が大きいですね。子供も家庭のなかで
”もの”に影響を受けるのが大切です。」
エイミーさんは、いろいろな所を歩く。
蚤の市、骨董店、庭園、日本の古い家屋など、そこからさまざまな情報を得ていい職人を探し出す。
そのため、地方をくまなく廻る。
だが、年々いい職人が老齢化していく。
後継者も少ない。
信州でわらじを作っている人たちがいる。
そのなかで、90過ぎたおばあちゃんが、ひとりだけ七色の布で編んでいた。
「楽しい作品だった。高齢でも柔軟で夢があるのね。
でも亡くなっちゃったの」
エイミーさんは、
「ワタシ、いまの時代は、早くバトンタッチしないと、レースが終わってしまう、と心配です。
職人さんに、後継者を早く、お願い。」と云い続けているという。
外国人なのに、こよなく日本の職人の技術を愛し、伝統の継続を請い願う。

10


店を訪れる客は、日本人と外国人の半々くらいらしい。
本国アメリカでもエイミーさんの店は有名で、ファンも多い。
しかし、エイミーショップで伝統的かつ個性的な作品に接して、
一番ショックを受けるのは、日本人なのだそうだ。
「伝統的なものって、こういう新しい要素を加えて、生き抜いていくのね。」
「それを外人さんがやってくださっているのね。」
客は、ため息をつくのだそうである。

夢の店、ふたつでした。


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