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2・26事件。悲しきソナタ。

A
高橋是清の居間

不景気だ。
それに、みんなも不安げである。
こんな時、大正から昭和のはじめに活躍した、高橋是清のような
金融経済に精通した人物がいたらいいのになぁ、と思う。
是清は、国が危機に陥るや、首相をはじめ蔵相など何度も要職を担い、
昭和2年と6年の金融危機には、モラトリアム政策、財政インフレーション政策を講じ、
日本の危機を救った。

昭和11年、蔵相だった是清は、軍部の軍事費増額を抑え、
悪性インフレを回避する政策を進める途上で、
青年将校の、テロに倒れた。(1854~1936)享年、83才。
1936年2月26日だった。
この2・26事件は、首相をはじめ、政治の中枢の人物を狙った
青年将校達のクーデターで数名の政府要人が、殺傷された。

B
是清の銅像


今回は、この事件で、特にぼくが心ひかれる敵、味方、二人の人物に焦点をあてて、
その死のむなしさを、噛みしめてみた。

是清の人生は、波乱に富んだものだった。
幕府御用絵師の庶子に生まれ。仙台藩足軽に引き取られ。
少年時代から怜悧だったため、仙台藩の留学生として米国に派遣された。
滞在先で下僕として売られるなど、思わざる難儀に遭遇しながらもよく学び、
帰国後、大学教師や、政府機関の仕事にかかわった。
剛胆な男で、脱線することも多かった。
遊里の巷で放蕩し、職を追われ、芸妓屋の手伝いで暮らしたり、
のちに、ペルー銀山開発の出資者代表で、腕を振るったが、
ダマされて廃坑を掴まされ、その損失を自腹で償い、すってんてん。
いっきょに家産と名誉を失った。。
破天荒な、スケールのデカイ人生だった。
その風貌からだるまさん、という渾名で国民に親しまれた。


C
凶行の部屋


昭和11年2月26日
小雪の降る朝。
可愛い孫娘が、赤坂の自邸に、訪れる。
是清は、たいそう楽しみにしていた。

青年将校達は、二階の寝室にかけのぼり、
寝ている是清のふとんを剥いだ。
是清は、眼を見開いたまま、、微動だにせず、銃弾を浴びた。
荒ぶる時代の風を読んで、こんな事態の到来も予測していたのだろう。
達観したようすだった、という。

D
是清邸 凶行現場は2階の手前の部屋

赤坂の青山通りに面し、公園になった、是清の屋敷跡がある。
広々した庭は鬱蒼と木々の緑に覆われ、当時の姿に近いまま保存され、
銅像もある。

凶行のあった屋敷は小金井公園に、移築、保存されている。
現場の、部屋もそのままの姿で残されている。
孫娘とにこやかに微笑む写真が、その部屋に飾られ、
静寂のなかに、あの残酷な事件の、まがまがしさはない。
なぜ善き人が命を失わねばならないのだ。
不条理ということは、こういうものか、むなしくて、言葉がない。


もう一人心ひかれるのは、青年将校の安藤輝三である。
歩兵第一師団、第三聯隊の中隊長である。
1930年、日本は、大恐慌に見舞われたさなか、追い打ちをかけるように東北に大冷害が襲った。
農民は食べるものがなく、藁を粉にして、湯ですするという、
惨憺たる事態だったという。
僅か、300戸の農家から200人の娘が売られていった。


E
安藤大尉

安藤中隊には、東北出身者が多く、兵達は、故郷の惨状に心を痛めていた。
安藤は、東北出身者にそっと自分の給与をさいて与えたり、
兵營内の貧困家庭の兵への、醵金活動もした。
中田整一氏は、自著「盗聴、2・26事件」(文芸春秋刊)のなかで、
「青年将校達が、国家改造を唱えた動機のひとつは、このような農村の疲弊や窮状」
を憂えたもので、
「青年将校達は、純真な青年ならではの国家、社会を変えねばならぬという切羽つまった危機意識」
が噴出したのだろう、と述べている。

F
歩兵第3部隊 安藤大尉はここから決起した


安藤大尉という人物は、事件の記録をみると、
きわめて紳士的で誠実な姿が、窺える。
同じ蹶起将校だった池田俊彦氏も、安藤大尉を「人情家で、実に立派な人だった」
と回顧している。

決起した青年将校達は、改革派の将軍達の支援を信じたが、
将軍らの自己保身に裏切られたとも言われている。
やむなく、青年将校達は、法廷で決起理由を堂々と主張したいと、願ったのだが、
陸軍は、非公開の軍法会議で弁護人なし、一審のみで上告不可。
強引な裁きで死刑を確定させ、一週間後、あわただしく、16名の刑を執行した。

代々木練兵場の西南の角に、その処刑場の跡があり、菩提の観音像が建てられている。


G
代々木の処刑場跡


ぼくの心を捉えた、一枚の写真がある。


H


それは、写真のネームに、処刑日の安藤の父と息子、とある。
兵營らしき前をあるいていく、老人と幼兒。
おぼつかない足取りの父、ことの重大さをなにも知らない息子。
処刑を知ってか知らずか、虚脱したような、父の表情でもある。
こんな切ないシーンは、見るのが苦しい。
(写真は、ー東京が震えた日 2・26事件 東京大空襲 保坂正康著 毎日新聞社刊から)


この裁判は、一体、なんだったのか?
中田整一氏は、
2・26事件のあとの昭和の歴史は、不幸にも安藤輝三大尉がその遺書で喝破したようになった。
と、述べている。
その安藤の遺書は、
「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して、而も吾人の行える結果を利用して、
 軍部独裁のファッショ的改革をなしおり、一石二鳥の名案なり。
 逆賊の汚名のもとに、虐殺され、”精神は、生きる” とか、なんとかごまかされては
 断じて死する能わず」(河野司編、「2・26事件、獄中手配遺書」)
と、憤怒の叫びをあげている。


I_2
九段の戒厳司令部はここに設置された

反乱者の汚名を着せられた22名は、
麻布の賢宗寺に眠る。


J_2

なんと、引き取りてのない遺骨もあり、
賢宗寺先代の藤田師は心を痛めた。
師は、自分の寺に墓をたて、
供養する決意をされた、と聞く。


陸軍は、事件処理に名を借りて、
着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。
青年将校らのテロリズムは、
軍国主義の暴走に格好な口実を与える結果になった。
と中田氏は述べている。

軍部は、無謀な戦いを拡大し、
1945年(昭和20年)日本を致命的な敗戦におとしいれた。
2・26事件後、僅か、9年後のことである。
事件は、そのまま、太平洋戦争に直結し、日本は破滅したのだった。
 
2・26事件にかかわった一般の兵は、事情を知らずに参加した者も多く、
罪には問われなかったものの、過酷な運命が待ちうけていた。
新任の湯浅政雄連隊長は、中国へ出動する兵達に、2・26事件の
「汚名挽回のため、白骨となって帰れ」
と訓示したという。
特に、団結の強かった安藤大尉の第六中隊には、陽高攻略戦で、
死を賭した滅茶苦茶な攻撃をさせ、
多くの兵士を失ったといわれている。

悲しきソナタは、深く、低く、奏でられている。


K
高橋邸の庭 赤坂

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