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2010年2月

誰か、ヘンリーを知らないか?

01


随分、以前のことだ。
気管支が弱かったぼくは、大学の夏休みの一ヶ月あまり、
海辺にある、ちいさな民宿でぶらぶら過ごしたことがある。
潮風が、のどにいい、と聞いたからだ。


その、部落は、事情があるので、瀬戸内のちいさな漁港としか言えない。
ちいさな入り江に50戸ほどの民家が、身を寄せ合うように建っていた。
南からの潮風を防ぐため、高い板塀に囲まれた家が立ち並び、その為か、
無表情な印象の村だった。
最初にこの漁港を知ったのは、知人の医者にクルーザーで、往診するのに
便乗して立ち寄ったのが、きっかけだった。
はしけに、船をよせて、村を眺めると、
ざっと、見回したところ、ものを商うような建物はなく、色といえば、
そこ、ここに、ころがっている淡い色の船具のようなものが、
眼にはいるだけだった。


02

ただ、はずれに、一軒だけ店らしいものがあった。
この漁港で、そんな商売が成り立つとは思えないような店で、
鍵を売っていた。
店は潮風に晒された板張りの粗末な家で、軒にぶらさがった看板には、
ペンキで、「キー・ヘンリー」と書いてあった。
あ、これは、アメリカによくある、鍵屋の「ロック・スミス」のもじりだな、
と、直感した。
「これは、都会に暮らしたことのある男の開いた店に違いない」
アタリだった。
店には、かなりな数の風変わりな、金庫や錠前が備えられていた。


06


ガラスの引き戸の奥には、薄い髪の初老の男が、
椅子に座って海を眺めていた。
その男が、店主で、老母とふたりで生活しているのだった。
ぼくは民宿に、滞在するようになってから、時折、ヘンリーを訪ねた。
いつも、男は所在なげにみえた。


ぼくが、この男に興味を抱いたのは、この男の鍵へのこだわりについてだった。
商売という観点から見れば、この鍵屋は、いったい、どうしてこんなところで、
店を開いているのか?
まったく、わからない。

男は、時折、訪れるぼくに、ポツリ、ポツリと境遇を語りだした。
生まれたのはこのボロ家だが、わけあって、生後すぐ他家に預けられた。
成人したあとは、東京で、転々と暮らしたという人生だったらしい。
口数の少ない男だ。

07


男の、素性については、誰も知らなかったが、
東京で、金庫破りでは右にでるものはいないといわれた、鍵師だった。
長い間の金庫と格闘の明け暮れで、しばしば臭いめしを食った。
あるとき忍び込んだ松濤のお屋敷で、難解な金庫に出会い、失敗。
もう腕の限界。
この仕事から足を洗わねばダメだなと、観念した。
針金や、小道具の手先の作業だけでなく、頭脳的な鍵との格闘で、
カチリと解を得るあの快感は、忘れがたいものだが、
いつまでも、夢を追ってもしょうがない、と男は、過去をすっぱり捨てた。

帰るところは、老母のいる故郷しかない。
そこで男は、戦績の記録のように、
売る意思の稀薄な、ギャラリーのような鍵屋を開いた。
ストイシズムといったら、叱られそうだが、ぼくは、この男のなかに、
僅か残っている、「負」の、男のプライドを感じとった。


しかし、人生は、ロマンだけでは進行しない。
20キロほど離れた本署から、私服の刑事が、
男の店に、たまに立ち寄ることがある。
要観察というわけでもないだろうが、
警察も不気味な男だと気がかりだったのだろう。
それに、もうひとつの理由は、鍵にからんだ事件で、手を焼くと、
警察では、必ずこの男に犯罪の手口を聞きにくるのだそうだ。
犯罪者で教師という、倒錯。
東京に住んだ頃からの警察との、そんな関係だった。

08


ぼくに、男が話さなかった、肝心な素性を教えたのは、
この所轄で、あまり素行のよくないと噂されている若いお巡りだった。
蛇の道はへび、で、同じアブナイ筋の人間の匂いがするのだろう。
かれは、時々、私服でぶらりとヘンリーの店にやってきて、
煙草をくゆらせながら、世間話をしていた。
なんとなくではあるが、その世間話には、ねちねちヘンリーに
からむような感触が見受けられ、ヘンリーは、いつも浮かぬ顔をしていた。

そのうちヘンリーは、店から姿を消した。

ヘンリーは、あの若いおまわりにつきまとわれ辟易していたのだろう。
落ちぶれて流れてきた故郷なのに、安らぎを得られないなんて、
ホントにナンギな話だ。
でもヘンリーは、やっぱり金庫の解錠に挑むしか、
生きる充実はない、と気ずいたのだと、思う。
腐った日常から、抜け、
もう一度緊張感を、とり戻どしたい。
あとでない、そんなイリュージョンをめっけに出かけたのだろう。

生きるということは、難かしい。

ヘンリーという、ちょっと変わった男の、
心の奥をもうすこし覗いてみたかった。

誰か、ヘンリーを知らないか?

(この話は、事実をベースにしているが、フィクションである。)


03

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2・26事件。悲しきソナタ。

A
高橋是清の居間

不景気だ。
それに、みんなも不安げである。
こんな時、大正から昭和のはじめに活躍した、高橋是清のような
金融経済に精通した人物がいたらいいのになぁ、と思う。
是清は、国が危機に陥るや、首相をはじめ蔵相など何度も要職を担い、
昭和2年と6年の金融危機には、モラトリアム政策、財政インフレーション政策を講じ、
日本の危機を救った。

昭和11年、蔵相だった是清は、軍部の軍事費増額を抑え、
悪性インフレを回避する政策を進める途上で、
青年将校の、テロに倒れた。(1854~1936)享年、83才。
1936年2月26日だった。
この2・26事件は、首相をはじめ、政治の中枢の人物を狙った
青年将校達のクーデターで数名の政府要人が、殺傷された。

B
是清の銅像


今回は、この事件で、特にぼくが心ひかれる敵、味方、二人の人物に焦点をあてて、
その死のむなしさを、噛みしめてみた。

是清の人生は、波乱に富んだものだった。
幕府御用絵師の庶子に生まれ。仙台藩足軽に引き取られ。
少年時代から怜悧だったため、仙台藩の留学生として米国に派遣された。
滞在先で下僕として売られるなど、思わざる難儀に遭遇しながらもよく学び、
帰国後、大学教師や、政府機関の仕事にかかわった。
剛胆な男で、脱線することも多かった。
遊里の巷で放蕩し、職を追われ、芸妓屋の手伝いで暮らしたり、
のちに、ペルー銀山開発の出資者代表で、腕を振るったが、
ダマされて廃坑を掴まされ、その損失を自腹で償い、すってんてん。
いっきょに家産と名誉を失った。。
破天荒な、スケールのデカイ人生だった。
その風貌からだるまさん、という渾名で国民に親しまれた。


C
凶行の部屋


昭和11年2月26日
小雪の降る朝。
可愛い孫娘が、赤坂の自邸に、訪れる。
是清は、たいそう楽しみにしていた。

青年将校達は、二階の寝室にかけのぼり、
寝ている是清のふとんを剥いだ。
是清は、眼を見開いたまま、、微動だにせず、銃弾を浴びた。
荒ぶる時代の風を読んで、こんな事態の到来も予測していたのだろう。
達観したようすだった、という。

D
是清邸 凶行現場は2階の手前の部屋

赤坂の青山通りに面し、公園になった、是清の屋敷跡がある。
広々した庭は鬱蒼と木々の緑に覆われ、当時の姿に近いまま保存され、
銅像もある。

凶行のあった屋敷は小金井公園に、移築、保存されている。
現場の、部屋もそのままの姿で残されている。
孫娘とにこやかに微笑む写真が、その部屋に飾られ、
静寂のなかに、あの残酷な事件の、まがまがしさはない。
なぜ善き人が命を失わねばならないのだ。
不条理ということは、こういうものか、むなしくて、言葉がない。


もう一人心ひかれるのは、青年将校の安藤輝三である。
歩兵第一師団、第三聯隊の中隊長である。
1930年、日本は、大恐慌に見舞われたさなか、追い打ちをかけるように東北に大冷害が襲った。
農民は食べるものがなく、藁を粉にして、湯ですするという、
惨憺たる事態だったという。
僅か、300戸の農家から200人の娘が売られていった。


E
安藤大尉

安藤中隊には、東北出身者が多く、兵達は、故郷の惨状に心を痛めていた。
安藤は、東北出身者にそっと自分の給与をさいて与えたり、
兵營内の貧困家庭の兵への、醵金活動もした。
中田整一氏は、自著「盗聴、2・26事件」(文芸春秋刊)のなかで、
「青年将校達が、国家改造を唱えた動機のひとつは、このような農村の疲弊や窮状」
を憂えたもので、
「青年将校達は、純真な青年ならではの国家、社会を変えねばならぬという切羽つまった危機意識」
が噴出したのだろう、と述べている。

F
歩兵第3部隊 安藤大尉はここから決起した


安藤大尉という人物は、事件の記録をみると、
きわめて紳士的で誠実な姿が、窺える。
同じ蹶起将校だった池田俊彦氏も、安藤大尉を「人情家で、実に立派な人だった」
と回顧している。

決起した青年将校達は、改革派の将軍達の支援を信じたが、
将軍らの自己保身に裏切られたとも言われている。
やむなく、青年将校達は、法廷で決起理由を堂々と主張したいと、願ったのだが、
陸軍は、非公開の軍法会議で弁護人なし、一審のみで上告不可。
強引な裁きで死刑を確定させ、一週間後、あわただしく、16名の刑を執行した。

代々木練兵場の西南の角に、その処刑場の跡があり、菩提の観音像が建てられている。


G
代々木の処刑場跡


ぼくの心を捉えた、一枚の写真がある。


H


それは、写真のネームに、処刑日の安藤の父と息子、とある。
兵營らしき前をあるいていく、老人と幼兒。
おぼつかない足取りの父、ことの重大さをなにも知らない息子。
処刑を知ってか知らずか、虚脱したような、父の表情でもある。
こんな切ないシーンは、見るのが苦しい。
(写真は、ー東京が震えた日 2・26事件 東京大空襲 保坂正康著 毎日新聞社刊から)


この裁判は、一体、なんだったのか?
中田整一氏は、
2・26事件のあとの昭和の歴史は、不幸にも安藤輝三大尉がその遺書で喝破したようになった。
と、述べている。
その安藤の遺書は、
「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して、而も吾人の行える結果を利用して、
 軍部独裁のファッショ的改革をなしおり、一石二鳥の名案なり。
 逆賊の汚名のもとに、虐殺され、”精神は、生きる” とか、なんとかごまかされては
 断じて死する能わず」(河野司編、「2・26事件、獄中手配遺書」)
と、憤怒の叫びをあげている。


I_2
九段の戒厳司令部はここに設置された

反乱者の汚名を着せられた22名は、
麻布の賢宗寺に眠る。


J_2

なんと、引き取りてのない遺骨もあり、
賢宗寺先代の藤田師は心を痛めた。
師は、自分の寺に墓をたて、
供養する決意をされた、と聞く。


陸軍は、事件処理に名を借りて、
着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。
青年将校らのテロリズムは、
軍国主義の暴走に格好な口実を与える結果になった。
と中田氏は述べている。

軍部は、無謀な戦いを拡大し、
1945年(昭和20年)日本を致命的な敗戦におとしいれた。
2・26事件後、僅か、9年後のことである。
事件は、そのまま、太平洋戦争に直結し、日本は破滅したのだった。
 
2・26事件にかかわった一般の兵は、事情を知らずに参加した者も多く、
罪には問われなかったものの、過酷な運命が待ちうけていた。
新任の湯浅政雄連隊長は、中国へ出動する兵達に、2・26事件の
「汚名挽回のため、白骨となって帰れ」
と訓示したという。
特に、団結の強かった安藤大尉の第六中隊には、陽高攻略戦で、
死を賭した滅茶苦茶な攻撃をさせ、
多くの兵士を失ったといわれている。

悲しきソナタは、深く、低く、奏でられている。


K
高橋邸の庭 赤坂

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麻布。Zenpukuji 、やさしさと、思い出ゾーン。

01


人はネ。だれも他人の不幸を代わってはあげられないの。
できるのは、その人と一緒に、苦しんであげることだけなの。
ごどうぎょう(ご同行)というんだよ。
シンラン上人は、そうおっしゃった、と子供の頃、祖母からよく聞かされた。
上人の説話は、祖母にかみくだいて聞かされ、時に子供ながら、
感銘をうけたこともあった。
シンランが、「親鸞」であることを知ったのは大分あとになってからで、
10年程前の夏、南麻布に引っ越したとき、
上人手植えの大銀杏があることを知り、ここ麻布山善福寺に詣うでた。
空を覆わんばかりの豊かな大銀杏を仰ぎながら、墓地に入ったとたん、
西日の光彩を背にした巨大な像が立ち現れ、
それが、親鸞上人の像だとわかり、驚いた。
私事ながら、ボクにとっての上人との出会いは衝撃的だった。


02

このお寺は空海の創建と伝えられている古刹で、一時親鸞が逗留し布教していた。
寺は、なかなか風格のある素晴しい寺だが、
なにより名高いのは、幕末の動乱の舞台として、多くのドラマに彩られたことだ。
安政六年(1989)に開かれた最初のアメリカ公使館は
この善福寺に置かれ、初代公使タウンゼン・ハリスは、この本堂で執務した。

当時は、18~9人のアメリカ人もここに滞在していた。
中の橋のたもとで攘夷派の浪士に暗殺されたヒュースケンは、ハリスの通訳だった。
夜間外出を禁止されたのをおして外出、
七人の浪人に斬られたものだが、
あっさりやられたのは、泥酔していたからだ、という説もある。
善福寺山門の左手にある善光寺にかつぎこまれ、
(そこが宿舎だったという)
縫合手術をうけたが、翌日、死亡した。
28才の若いオランダ人だった。

03


ハリスは、幕府に請われ、幕臣を相手に国際法の講義をしたり
自国の絵画や工芸品を鑑賞させたり、熱く、アメリカ文化の紹介を行ったらしい。
結構、ハリスはえらいやっちゃ。
歴史の教科書だけでは、ハリスの人間的なぬくもりや営為が
感じられなかったもんね。

三井物産の創立者となった益田孝は、少年時代、浅草のはずれから毎日、
藁草履を履き、弁当をぶらさげて、この寺に英語を学びに来た。
後に彼は、幕府の外国奉行の善福寺詰めで、この寺に勤務するようになるが、
当時は、福沢諭吉も毎日、出勤していたという。
その諭吉は、この寺に眠っている。
当時、志の高い若者達が、むさぼるように異文化の吸収に燃えた、わけだね。


04

この文化の到来といえば、
太平洋戦争に破れ、欧米の文化の光が射し込んだ時、体験したぼくらも熱かった。
幕末の若者も現代の若者も似たような文化の受け入れ方をしたのだろう。
ぼくらのなかの、トンガッタ連中は、渇きを潤すようにアメリカニズムの虜になった。
スポーツは、バスケットボール、音楽は、S盤アワーを聴き、ボタンダウンのシャツに、
カシミヤのVネックセーターを首に巻き、靴は、コードバンのスリップオン。
教会の英人牧師に英語を習った。
「ツー、デイ」を「ツー、ダイ」と発音するのに驚いた。
イギリス人の英語だった。
恐らく、幕末の若者もそんな異文化の到来に興奮したことだろう。


さて、今回は、その善福寺近辺のいろいろ話にこだわってみたい。
寺の前の通りは、雑式通り、そこを右に仙台坂が、のびている。
雑色通りには、コメデイアンのエノケンが、少年時代に住んだ。

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煎餅屋の腕白息子で、町内を駆け巡ったり、善福寺も縄張りだった。

北原白秋も、時代こそ違え、同じ雑色通りに、家族と住んだ。(大正3~5年)
当時、創作に没頭したが、すべて思うようにいかず、経済的にも逼迫、
妻と別れるなど辛い日々が続いていた。
「麻布山」と題し、善福寺にちなむ詩も残している。

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要約すると、
老いたる母と、つれだって、善福寺に詣でる。
子供達が、凧をあげ、こまを廻している。
おだやかな春の日だ。
なんのくったくもなく遊ぶ子供達をみていると、
涙が、自然にこぼれてくる。
といった趣旨のものだが、
当時の白秋の事情や心境がかいまみえてくる。
白秋の詩や童謡は、みなこの人のやさしい、
傷つきやすい心情があふれている。

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善福寺のそばの仙台坂を描いた文章や短歌もある。
重い荷を載せた荷車を馬が急坂を曳いていく。
この坂は、白秋の住んだ当時は、もっときつい急坂で、難儀だったらしい。
鞭を打つ馬方も、打たれる馬も大粒な汗が流れ、
眺めている白秋も、早く坂上にたどりつくように、と手に汗を握っていた、
と描写している。

     仙台坂   石の車を  ひきわびて
           馬倒れてり   疲れけらしも      白秋


白秋や、エノケンの住んだ雑色あたりは、どうやら洋食屋の、えどやとか、
やきとりの鳥章の店の付近だったようだ。(白秋の住居は、現、麻布十番2ー12)
人々は知らずに、過去の風を通りすぎてゆくが、
思い出は、やさしく、懐かしい。

ぼくは、この街が好きだ。
その理由は、街の雰囲気や歴史が好ましいだけでなく、このふたつの店をはじめ、
おでんの福島やなど、昔のナチュラルな味をかたくなにまもり続けている店が多いからだ。


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安全で人にやさしい、「あきない」だ。
鳥章は持ち帰りの焼き鳥屋だが、
輸入ものの鳥は、いっさい使用せず、
東北の農家と良質な鳥を契約している。
店主の角田さんは、もう30年前、電機会社から脱サラした堅物。
夫婦で店を切り盛りするが、鳥の鮮度と味にこだわり、
毎日試食して、納得できなかったら店頭に出さない、と徹底している。
店の前の縁台で、買い物帰りの主婦やサラリーマン、
それに外人の女性など、人目も気にせず、串刺しを口にしている。


なんと、情報誌を読んだ少女達もが、近県からきて、
縁台ではしゃぎながら、焼き鳥を食べたりしている、という。
この善福寺前の雑色通りには、石田純一さんのお好みのイタリアンの「ピッコロ」も、
志村けんさんの仲良しの甘味の「ぽぽたーじゅ」もある。
いや、あった。
前回、麻布を紹介した時に触れた「ぽぽたーじゅ」は、
閉店したと書いたが、もう一度いってみた。

正確には、「しばらく、閉店します」と張り紙してあった。

マスター!  
早く頑張って再開しなさいよーだ。


10

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垣根の、垣根の、曲がり角。「新井薬師」。

01


垣根の、垣根の、曲がり角。
焚き火だ、焚き火だ、落ち葉、焚き。

木枯らしの寒い、今日この頃、この歌をしきりに思い出す。
子供時代、母親がよく歌ってくれた。
だれの、お母さんもそうだったろう。
ぼくの、母親は、49才で、この世を去った。
その、思い出の歌が生まれた(垣根の家)を見てみたい。
かねてから、その希望をもっていた。
それに、眼の悪い、ぼくだ。
垣根の家の近くの、眼にご利益のあるという新井薬師に参拝もしたい。
今日、急に思いたって出掛けた。

西武新宿の新井薬師の駅を降りると、カラスが、近寄ってきた。

02_2

大きく口をあけて、何回も鳴く。
「餌をねだってるんだね。」
「餌ずけをしているのかしら。」
3人のおばあちゃんが、立ち止まり、からすを眺め、おしゃべりしていた。
のんびりした駅だな。

駅から、垣根の家へ。
目星をつけた東の方角に歩いてゆく。
すこし、背中の曲がったおばあちゃんが歩いている。
「あのオ、垣根の垣根の、家は、どっちですか?」
「ああ、わたしも、そっちの方へいきますから。
 足、悪いんで、ノロノロですが、
 よかったら、ごいっしょしましょう」


おばあちゃんとのんびり、そこへ向かう。
「このあたりは、大地主が何人かいて、垣根の家も、その大地主なんですよ」
「ほう?」
おばあちゃんは、人様の庭らしいあたりを、スイと、横切った。
「ア! ここ、歩いていっていいんですか」
「ここも、大地主の土地ですよ」

返事になってない。

でも、なんか、いいみたい。
余計なこと考えず、いいや、おばあちゃんについていこう。
老人会館という建物の前で、おばあちゃんが、足を止めた。
「おおい、誰かいるう?」
おじいさんが出てきた。
「あのオ、せーべーさんの、家どこだったかねエ」
「なんだよオ。そこじゃねえか」
「ああ、そうか。そこですよ」
有難く、礼をいって、そこ、垣根の、「せーべーさん」の家に急いだ。

なんだ、なんだ、この垣根の長いこと。
すごく、いいじゃん。
大木に、でっかい、きのこが生えている。
こんな見事な垣根は、ほかではあまり見かけない。
こりゃあ、誰でも感動するわなあ。


03
せーべーさんの垣根の家


木枯らし、木枯らし、寒い道、
「おかあさんー。ここが、あの歌の道だよー。」
ものすごい背の高い、けやきの茂る、「せーべーさん」のお屋敷のまわりをぐるぐる散歩する。
常緑と、落葉樹、沢山な木々に囲まれた屋敷だ。
落ち葉もすごい量だろうな。
焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き。
どこで、焚き火をしたんだろう?
あたろうか、あたろうよ。北風ピー、ピュー、吹いている。


童謡は、「たきび」。
この近くの上高田4丁目に住んだ、巽聖歌(本名、野村七蔵、1905~1973)が、
この竹でつくられた見事な垣根のまわりを、しばしば散歩して、深い感慨を抱き、
つくった童謡だそうだ。
聖歌は、北原白秋に師事し、「たきび」は、昭和16年(1941年)に発表された。
その歌は子供の心を捉え、だれもが口ずさみ、音楽の教科書にも載った。

いまも、この垣根をつくり続けている、職人がいると聞いて、そちらへ急ぐ。
2~3の人に訊ねてみたが、どうも場所がわからない。
そんな、こんなのうちに、交番の前にでてしまった。
よかったア。
いいおまわりさんがいた。
コチカメの両さんみたいにいかつくない。
昔の森繁の映画にでてくるような、小太りで、白斑めがね。
駄菓子屋で、子供相手が似合いそうな、人のよさそうな。
こんなおまわりさんも、いまどき、いるんだな。

竹の職人宅を聞いた。
デカイ天眼鏡で、地図を探してくれた。
チョッちょちょ。
「ア!あったア」
「ちょっと、遠いよ。500mくらい。」
ありがと。
すぐ近くだった。


「庭竹」というのが、その職人の店で、「せーべーさん」の塀は、
庭竹が手がけているらしい。
職人は留守だった。


04_3

竹をハスに切ったなかに、かぐや姫のように人形が
鎮座している作品がならんでいた。
かわいいー。

しかし、ここは、街のどのあたりだろう。
どうやら、いまぼくのいるところは、新井薬師から、反対方向のようだ。
途中で、四人連れのおばあちゃんに、道を訊ねた。
四人で、わア、わア、わア。
なんだか、わからないが親切だ。
「あっち、あっち」
みんなで指差す。
ひとりだけ、30度ほど、ずれている。
「ありがとオ」、先に進む。

やっと、新井薬師商店街にたどりつき、妙な彫り物を店先に発見する。


05_2


牛が、大きな木材のような荷物を荷車で曳いている。

懸命に。

人もふたりで懸命にそれを、押している。
人馬、じゃない人牛ともども、懸命な姿だ。

感動する。


思いもよらぬところに、こういう拾い物があるので、散歩はやめられない。

甘味の越路家で、家内に頼まれた豆大福を買う。
こぶりの大福だが、100円しない値段に驚いた。
商店街は、薬師様の古い門前町だけあって、もう都会では、あまりみかけない
品物を並べた店や、古道具屋など、いずれも昔風な雰囲気の店が多い。


06

やっと、薬師様にたどりつく。
徳川秀忠が娘の眼病治癒を祈願して開山したお寺で、
ご本尊は、弘法大師の作と伝えられる薬師如来と、如意輪観音の二仏
一体の黄金仏で、眼病と子育てにご利益があるとされている。
さっそく、眼の健康を祈願した。

07


ふたつの「め」の字が向き合った、「めめ絵馬」のデザインが面白い。

08

のどかな感じの、古寺の雰囲気もいいなあ。
境内に物売りがチラホラ。
みたことのない植物の株を売るおじさんがいた。
腰の曲がったおばあちゃんが、おじさんと、この植物談義をしている。
「冬場、植えたって根ずかないでしょ、だめだヨ。」
おばあちゃんは、なかなか雄弁だった。
おじさんがタジタジだ。

今日は、随所でおばあちゃんパワーの炸裂するのを楽しませてもらったなア。
帰りの駅には、カラスはいなかった。

09
雄弁おばあさん

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