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麻布。Zenpukuji 、やさしさと、思い出ゾーン。

01


人はネ。だれも他人の不幸を代わってはあげられないの。
できるのは、その人と一緒に、苦しんであげることだけなの。
ごどうぎょう(ご同行)というんだよ。
シンラン上人は、そうおっしゃった、と子供の頃、祖母からよく聞かされた。
上人の説話は、祖母にかみくだいて聞かされ、時に子供ながら、
感銘をうけたこともあった。
シンランが、「親鸞」であることを知ったのは大分あとになってからで、
10年程前の夏、南麻布に引っ越したとき、
上人手植えの大銀杏があることを知り、ここ麻布山善福寺に詣うでた。
空を覆わんばかりの豊かな大銀杏を仰ぎながら、墓地に入ったとたん、
西日の光彩を背にした巨大な像が立ち現れ、
それが、親鸞上人の像だとわかり、驚いた。
私事ながら、ボクにとっての上人との出会いは衝撃的だった。


02

このお寺は空海の創建と伝えられている古刹で、一時親鸞が逗留し布教していた。
寺は、なかなか風格のある素晴しい寺だが、
なにより名高いのは、幕末の動乱の舞台として、多くのドラマに彩られたことだ。
安政六年(1989)に開かれた最初のアメリカ公使館は
この善福寺に置かれ、初代公使タウンゼン・ハリスは、この本堂で執務した。

当時は、18~9人のアメリカ人もここに滞在していた。
中の橋のたもとで攘夷派の浪士に暗殺されたヒュースケンは、ハリスの通訳だった。
夜間外出を禁止されたのをおして外出、
七人の浪人に斬られたものだが、
あっさりやられたのは、泥酔していたからだ、という説もある。
善福寺山門の左手にある善光寺にかつぎこまれ、
(そこが宿舎だったという)
縫合手術をうけたが、翌日、死亡した。
28才の若いオランダ人だった。

03


ハリスは、幕府に請われ、幕臣を相手に国際法の講義をしたり
自国の絵画や工芸品を鑑賞させたり、熱く、アメリカ文化の紹介を行ったらしい。
結構、ハリスはえらいやっちゃ。
歴史の教科書だけでは、ハリスの人間的なぬくもりや営為が
感じられなかったもんね。

三井物産の創立者となった益田孝は、少年時代、浅草のはずれから毎日、
藁草履を履き、弁当をぶらさげて、この寺に英語を学びに来た。
後に彼は、幕府の外国奉行の善福寺詰めで、この寺に勤務するようになるが、
当時は、福沢諭吉も毎日、出勤していたという。
その諭吉は、この寺に眠っている。
当時、志の高い若者達が、むさぼるように異文化の吸収に燃えた、わけだね。


04

この文化の到来といえば、
太平洋戦争に破れ、欧米の文化の光が射し込んだ時、体験したぼくらも熱かった。
幕末の若者も現代の若者も似たような文化の受け入れ方をしたのだろう。
ぼくらのなかの、トンガッタ連中は、渇きを潤すようにアメリカニズムの虜になった。
スポーツは、バスケットボール、音楽は、S盤アワーを聴き、ボタンダウンのシャツに、
カシミヤのVネックセーターを首に巻き、靴は、コードバンのスリップオン。
教会の英人牧師に英語を習った。
「ツー、デイ」を「ツー、ダイ」と発音するのに驚いた。
イギリス人の英語だった。
恐らく、幕末の若者もそんな異文化の到来に興奮したことだろう。


さて、今回は、その善福寺近辺のいろいろ話にこだわってみたい。
寺の前の通りは、雑式通り、そこを右に仙台坂が、のびている。
雑色通りには、コメデイアンのエノケンが、少年時代に住んだ。

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煎餅屋の腕白息子で、町内を駆け巡ったり、善福寺も縄張りだった。

北原白秋も、時代こそ違え、同じ雑色通りに、家族と住んだ。(大正3~5年)
当時、創作に没頭したが、すべて思うようにいかず、経済的にも逼迫、
妻と別れるなど辛い日々が続いていた。
「麻布山」と題し、善福寺にちなむ詩も残している。

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要約すると、
老いたる母と、つれだって、善福寺に詣でる。
子供達が、凧をあげ、こまを廻している。
おだやかな春の日だ。
なんのくったくもなく遊ぶ子供達をみていると、
涙が、自然にこぼれてくる。
といった趣旨のものだが、
当時の白秋の事情や心境がかいまみえてくる。
白秋の詩や童謡は、みなこの人のやさしい、
傷つきやすい心情があふれている。

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善福寺のそばの仙台坂を描いた文章や短歌もある。
重い荷を載せた荷車を馬が急坂を曳いていく。
この坂は、白秋の住んだ当時は、もっときつい急坂で、難儀だったらしい。
鞭を打つ馬方も、打たれる馬も大粒な汗が流れ、
眺めている白秋も、早く坂上にたどりつくように、と手に汗を握っていた、
と描写している。

     仙台坂   石の車を  ひきわびて
           馬倒れてり   疲れけらしも      白秋


白秋や、エノケンの住んだ雑色あたりは、どうやら洋食屋の、えどやとか、
やきとりの鳥章の店の付近だったようだ。(白秋の住居は、現、麻布十番2ー12)
人々は知らずに、過去の風を通りすぎてゆくが、
思い出は、やさしく、懐かしい。

ぼくは、この街が好きだ。
その理由は、街の雰囲気や歴史が好ましいだけでなく、このふたつの店をはじめ、
おでんの福島やなど、昔のナチュラルな味をかたくなにまもり続けている店が多いからだ。


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安全で人にやさしい、「あきない」だ。
鳥章は持ち帰りの焼き鳥屋だが、
輸入ものの鳥は、いっさい使用せず、
東北の農家と良質な鳥を契約している。
店主の角田さんは、もう30年前、電機会社から脱サラした堅物。
夫婦で店を切り盛りするが、鳥の鮮度と味にこだわり、
毎日試食して、納得できなかったら店頭に出さない、と徹底している。
店の前の縁台で、買い物帰りの主婦やサラリーマン、
それに外人の女性など、人目も気にせず、串刺しを口にしている。


なんと、情報誌を読んだ少女達もが、近県からきて、
縁台ではしゃぎながら、焼き鳥を食べたりしている、という。
この善福寺前の雑色通りには、石田純一さんのお好みのイタリアンの「ピッコロ」も、
志村けんさんの仲良しの甘味の「ぽぽたーじゅ」もある。
いや、あった。
前回、麻布を紹介した時に触れた「ぽぽたーじゅ」は、
閉店したと書いたが、もう一度いってみた。

正確には、「しばらく、閉店します」と張り紙してあった。

マスター!  
早く頑張って再開しなさいよーだ。


10

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