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2010年3月

パリの香り、水辺の静けさ、「わが神楽坂」。

01
カナル・カフェ

神楽坂周辺だが、
二十騎町という町名を、聞いたことがあった。
歴史を感じさせる、
かっこいい町名だったのが印象に残っている。
仮に、なんの変哲もない男がそこへ住んでいて、
「よう!二十騎町の**さん」なんて呼ばれたら、
格がすこしあがったように思えるな。
町名恐るべし。
ちなみに、
わが友、K子ちゃんの住所は、冬木町だ。
K子ちゃんの、町名が、団子町とかだと、ちょっとつらいかな。

神楽坂をテーマにとりあげるにあたって、早速、この二十騎町から
スタートしてみた。

牛込柳町の地下鉄駅から、高級住宅街をぬけて、迷いながら、
なんとかその町に着く。
立て看板があった。
このあたり、江戸時代に、幕府御手先組、与力の屋敷地だったとある。

一組が十騎編成で、それが二組あったので、
ここを牛込二十騎町と呼んだのだそうだ。
黒い瓦屋根の落ち着いた家屋が、今風な家の間にチラホラ。
歴史を感じさせる空気感がある。
ぐるりと、そのあたりをゆくと、
なんと一角にスゴい建築の家があった。
ピーナッツを横にしたような、迫力のある建物だ。
写真でみたことがある、ポルトガルのファフェにある「石の家」に
そっくりな住宅だ。
通りすがりのクロネコヤマトの兄ちゃんに、訊ねると、
「ああ、峰さんのお宅ですよ。」
エッ?あのタレントの?
ーだった。


02
峰邸

ぼくも、こういう個性的な住宅は、好きだ。
だが、例のマコトちゃんハウスの騒動があっただけに
近隣の反応がどうなのか気になった。

そのまま、神楽坂方向ににむけてぶらぶら歩るいていく。
民家の連なる道路脇に、蛙が二匹で、盤を囲んでいた。
「ナニ、やってんのー」
いいじゃん、いいじゃん。
こういう、コミカルで、余裕のある環境作りは、だれがやったんだか、
恐れ入っちゃうね。
更に先をゆくと、玄関口にフクロウが、門番している。
いいね、いいね。

03
蛙の碁


住宅街のなかに、民家を改造したにショップがヒョコッとみつかる。
美容院の隣の路地、古びたしもた家の前に、靴屋さんの
建て看板があった。靴のアトリエ「ベルパッソ」と、ある。
野良猫の潜むような、薄暗い路地だ。
客を送りに出た美容院の女性に訊ねた。
「手造りの靴屋さんですよ。
木金土の午後だけやってるんです。」
フーン、
なんか、この靴屋さん、できそう。
更に先をゆく。
喫茶「ラ・ロンダジル」
完全民家なのに、二階が喫茶だ。
よどみなく、女性客が出入りする。
フシギ感がある。


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靴のアトリエ ベルパッソ


神楽坂の商店街は、坂上まで距離的にも頃合いの散歩道だ。
脚力のあるカップルは、脇の路地を左右にジグザグにたどりながら丘を上る。
路地は、しっとりとした料亭、石畳の道、三味線の音。
別世界がある。
表の通りは、不二家のぺこちゃん焼きも健在で、甘味の紀の善もすごいビル建てた。
五十番の肉まん、野坂昭如や山田洋次などの、執筆宿「和加菜」、いままで神楽坂の牽引車だったこれらの店も元気だ。
しかし、行列をつくっているのは、喫茶軽食saryoとか、
大黒屋の焼き鳥、猫が”ウリ”の、まんじゅうカフェなどだった。
情報時代だけあって、若いひとの鋭敏な嗅覚は、おじさんちとチとちがうねえ。


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神楽坂商店街

喫茶の「トンボロ」
建築家のこだわりのコーヒー店だとの評判を聞いた。
そこに立ち寄りたかったが、今日は急ぎ、
寺町の、作家、尾崎紅葉(1867~1903)の旧宅にむかう。
熱海の海岸に、学帽マントの男が、女を振り払っている
「金色夜叉」のお宮、貫一の像がある。
尾崎紅葉は、金の亡者と化した人々の物語を書いた。
残念ながら、かれは37才の若さで世を去った。
余程、無念だったのだろう。
臨終の枕辺で、七たび生まれ変わっても、
文学に情熱を注ぐという執念を洩らしたという。
彼の住居跡に、過ぎ去った時代の懐かしい、匂いを嗅ぐ。


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尾崎紅葉の旧居


さあ、商店街に流れる、パリの空の下のメロデイに誘われて、
神楽坂でパリに浸ろう。
「ル・ブルターニュ」に立ち寄る。
ウッドデッキ、のオープンテラス。
ぼくは、この店のランチタイムの珍しい味、ガレットやシードルなどを食べた
ことがある。
本店が、ブルターニュで、これはあちらの伝統料理と聞いた。
ついでに、パリモードを探そう。
逢坂をのぼると、フランス人(らしい)の家族連れ二組と、行き違う。
神楽坂周辺に住むフランス人は多いようだ。
町の雰囲気が、彼らのメンタリテイに合うのだろう。
足は、日仏学院に向かう。
ありゃりゃ、本やさんも、レストランもあるぞ。
豊かな木々に囲まれた「ラ・ブラスリー」で、お茶や食事が楽しめる。。
ほかに、こんな学校、ありかなあ?

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ル・ブルターニュ

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日仏学院

付近にしゃれたアグネスホテルもあった。
道をへだてて、ホテル経営のパテイスリーの「ル・コワンヴェール」がある。
これもいい。
窓から広々とした視界が窺え、目の前の寺社跡のような、
「若宮公園」の静かな空間も贅沢だ。

豊かな気持ちに満たされて、外堀通りを歩るく。
春なのに、陽が落ちると、すこし寒い。
東京ボート倶楽部(1918~)の、ボートは一隻も動いていない。
そこのカナル、カフェにも、人がまばらだ。
ひとり静かになにか、もの思う人がいる。
太陽は、ひとつだけ聳え立つ超高層ビルに光をぶつけ、外堀の水の面に
淡い光を反射させている。

静かなりし、神楽坂である。


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左「アグネスホテル」 右「ル・コワンヴェール」

10
夕暮れのカナル・カフェ

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秋でもないのに、「ちいさい秋」みつけに散策、弥生町。

01
異人坂


ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた。

秋でもないのに、サトウハチロー(1903~1973)に逢いたくなって、
小さい秋みつけにかれの自宅あたりを散策に出掛けた。

ハチローは、自宅の庭の「はぜの木」が、夕日に赤く映える情景に、ちいさい秋をみつけた。

ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた。
(サトウ ハチロー作詞、中田喜直作曲)1955年


根津から弥生町に向かって、言問通りが延びている。
その裏道に「異人坂」がある。
ゆったりと、その坂を上る。
後ろから来た母子が、なにか話している。
「お約束したでしょ」
「ネ、したでしょ」
1~2才の子供が、だだをこねてなにか、ぐずついている。
写真を撮りながら、坂を登るぼくを、母子はやりすごす。
ボクが、ニッと、笑ったら、
こちらをむいた子供が、ニコッとした。
「いま鳴いたカラス」
母親も、僕を見て微笑んだ。

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異人坂 母と子

この異人坂の上には、かって、開明期の明治に外国人の学者達が、居住していた。
日本の医学の発展に寄与したベルツ(1876年)もここを行き来したのだ。
ベルツは、この街や、不忍池をたいへん好んだという。
ハチローも、この近所に住んでいた。
自宅周辺のこのあたりは、かれの散歩道だっただろう。
坂道沿いには、名前は判らないが、白や、黄色や、ピンクなど、色ずいた木々が、連なり、和ませる。
ちょい、横道にそれてみた。
枯れた蔦が這う、古ぼけた旅館や古風な民家が、ひとけのない沈黙で、
昭和初期の時間で止まってる。

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ハチロー邸周辺


サトウ邸は、もう壊されて、なかった。
2~3軒手前のデイサービスのマンションにいた年配のご婦人に、
ハチロー氏の印象を訊ねた。
「きさくで、おっもしろい、方だったですよ。」
むこうから、「ちいさい秋」の話題に触れた。
「歌ができたとき、だれに唄わそうか、と大声で、電話で話していたのが
 ご近所でも聞こえたそうですよ」


ハチロー邸跡は、ふたつに区分され、半分住居、残りの駐車場の角に、碑が建てられていた。
数人の、文学散歩らしい女性のグループが、説明を聞いている。

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文学散歩の人々 ハチロー邸跡

「ぼくは、ハチローのお妾さんの息子と、小学校の同級生だったんだ」
と、案内人のレアな情報にご婦人達はざわついた。
「オモロイな」
それにしても、サトウ ハチローという、仮名書きの名前がいいね。
本名は、佐藤八郎と漢字だが、ペンネームでサトウハチローと、なぜ変えたのかネ。
理由は、群馬県で同名の強盗が、静岡県でやはり同名の詐欺師が捕らえれたのに、
嫌気して仮名書きに変えたのだそうである。

ある日の午後、ハチローは、いつものように、
敷きっぱなしの布団に腹這って障子越しに庭を眺めていた。
よく繁った「はぜ」の木に、夕日が注ぎ、真っ赤な色にかがやいていた。
ちいさい秋は、そのとき見つけたのだ。
ハチロー邸が壊されて、「はぜ」の木は、地下鉄の後楽園そばの、礫川公園に移築された。
その公園に立ち寄ってみたが、いまは葉を落として「はぜ」は淋しそうだった。
手前のベンチで、老人や営業マンらしき人達が、浮かぬ顔ですわっているせいか、
「はぜ」は、一層、寒々としてみえた。

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礫川公園の「はぜの木」

話は、ハチロー邸に戻ろう。
「ちいさい秋をみつけた」の詩は、朝日のBeの伊藤千尋さんの取材によると、
隣家の水野陽一さん(68)の少年時代が、モデルになっているらしい。

誰かさんが 誰かさんが 誰かさんがみつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋みつけた

亡くなったハチローの奥さんの房枝が、
「あの童謡のモデルは、あなたですよ」
と水野さんに語ったという。
水野さんも
「北向きの部屋で、くもりのガラスから、「はぜ」の木が見えるのは、うちしかありませんね」
と、うなずいたという。

確かに、現地に立つと、その通りの風景だとわかる。
水野さんちの、二階の曇りガラスの、窓がみえる。
蒸気でミルクのように融けた窓ガラスを通して、「はぜ」の木を眺めている、
うつろな瞳の水野少年の姿が、目に浮かぶ。
そんな少年の姿を、ハチローは眺めたのだろう。
ふと、のぞきみた印象が、詩になった。
一方で、裸で過ごすことが好きで、客が訪れると、うちわで、前を隠しながら
応対したという、ハチローの姿を少年は目撃しただろうか。

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水野少年は2階左の部屋にいた。くもりガラスの窓だ。


ハチローは、少年時代不良で、ゆすり、暴行など、悪いことのかぎりを尽くし、
そのため無数の痛い目にあった。
落第、転校、勘当など数知れず、手のつけられぬ程、反抗し、荒れた。
それも、父紅禄の浮気や離婚が原因だった。
大好きだった母親から、もぎとられるように離され、自暴自棄に陥ったという。
アア、母恋し。

かれの詩に「母想う日の わが心 すなおなり」と、かわいい一章がある。
母と別れたハチローは、約3500編もの母を偲んだ詩をつくった。
その「おかあさん」の詩を読んで、元首相の田中角栄は、思わず涙を流した。
そして、感動のあまり、ハチローの自宅を衝動的に訪れたという。


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弥生町から根津への展望


ハチロー宅跡に、詩碑を建てたのは、向かいに住む、岡本春枝さん(79)である。
岡本さんも、母を恋うハチローの詩への、想いは深い。
碑に刻む、彼女の選んだ詩は、

此の世のなかで
唯ひとつのもの
そは母の子守唄

サトウ ハチロー

移植された「はぜ」の木は、秋になるとすばらしい輝きで、赤く色ずくそうである。

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岡本さんの建てた碑

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赤い靴ゥ〜はいてた〜女の子ォ〜の「きみちゃん」を考える。

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きみちゃん

赤い靴はいてた、女の子、
異人さんにつれられて、行っちゃった。

おなじみの童謡だ。

横浜の波止場から、船に乗って、
異人さんにつれられて行っちゃった。

横浜の山下公園の波止場に、赤い靴をはいた、女の子のブロンズ像が、建っている。
異人さんに連れられて、船に乗って、外国に行ってしまった薄幸なイメージの少女の像だ。
あたりを散策する若いカップルや、昭和に郷愁を感ずる人たちなどの、人気になっている。

この話が、フィクションだったことは、わりと知られているのに、
なぜか人々の心に強く響くのである。

少女像のモデルは、実在していた。
悲しい物語もあった。
だが、少女は、横浜の波止場から、異人さんの国へは行かなかった。
像は、この歌の作詞者、野口雨情の童謡のイメージで製作されたものだった。
雨情は、友人から聞いた、ある悲しい少女の話をヒントにこの童謡をつくった。
少女の不幸な実話を、異国に去る女の子の不思議なイメージに変えて造形、素晴しい詩に昇華させた。
リアリティかアクチャリティか、強い表現方法の秀作であろう。
憂いをふくむ、印象的な曲は、本居長世が作曲した。


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発掘された、事実について、すこし述べよう。
この少女の名前は、”岩崎きみ”ちゃん。
明治の末期に、静岡県清水市旧不二見村に生まれた。
両親に連れられて、北海道の開拓地(留寿都村)に入植する。
しかし、寒冷地で、痩せた土地という過酷な現実や、呼び寄せた弟の死、
それに、開拓小屋の火事など、さまざま不運に見舞われた。

耐えかねた母親は、夫と離婚し(このあたりの事実は不確か)、きみちゃんを連れ、開拓地を去った。
しかし、女手ひとつで、3才だった、きみちゃんを育てることは難しく
泣く泣く、函館のアメリカ人の宣教師チャールス、フュエット夫妻に養女として養育を託した。

3年後、フュエット夫妻は、日本での宣教を終えて、帰国することになった。
きみちゃん6才の時だった。
あとから思えば、きみちゃんにとっては、フュエット夫妻との、その3年間が、
せめてもの安らぎの人生だったのかも知れない。
夫妻は、きみちゃんを連れ、帰米しようとした寸前、
きみちゃんが、当時は、不治の病とされた結核に冒されていることがわかった。
病は船の長旅に耐えられぬ重いものだった。
やむなく、きみちゃんは、麻布十番にある、鳥居坂教会の孤児院に預けられ療養を続けた。


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鳥居坂教会の近くの鳥居坂

しかし、病状は、悪化の一途。
孤独と絶望に苛まれながら、きみちゃんは看取る人もないまま、
古ぼけた木造二階建ての片隅の病室で、9才の短い生涯を閉じた。
明治44年9月15日の夜だった。

その、孤児院は、今の十番稲荷神社のある旧永坂町50番地にあった。
そこへ、いってみた。
ぼくが写真を撮っていると、近隣の小学生が、神社の前をはしゃぎながら帰る。
なんの不自由もなさそうな、屈託のない少女達。
きみちゃんもこんな年頃だっただろうか、と胸が痛む。


04
十番稲荷神社 きみちゃんのいた孤児院跡


この童謡が、発表されると、たちまち全国の人々に愛唱されたという。
母親の「かよ」は、きみちゃんを手放したことを悔い、行方を探したが、
その後の消息はつかめず、あきらめていたという。
きみちゃんの死も知らされていなかった。
かよは、雨情の童謡を、「きみちゃんのことを唄ったものですよ」と聞かされていた。
「赤い靴はいてた女の子」と、いつも口ずさみながら、フュエット夫妻のもとで、
しあわせに暮らすきみちゃんを偲んでいたという。
この悲話のゆかりの地、北海道(留寿都と函館西波止場)それに日本平にも、それぞれ像が作られていると聞く。

麻布十番の、きみちゃんの像は、この町のシンボリックな公園、パティオ十番に建てられた。
彫刻家の佐々木至氏の製作だ。
国際的な麻布十番に12ケ国の彫刻家の作品が、
パブリックアートとして、歩道を飾っているが、
きみちゃん像もそのひとつだ。


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パティオ十番 右手奥にきみちゃんの像

きみちゃんの像が、設置されたその日の夕方、誰かがそこに18円を置いた。
それが、チャリテイの始まりになり、1日として醵金が途絶えることなく、今日まで続いている。
集まったお金は、ユニセフや、阪神大震災の義援金として贈られた。
その額は1000万円をこえたという。
きみちゃんの物語が、人の心をうち、きみちゃんの魂が、それを支えているのだろう。


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野口雨情(1882~1945)についてもふれねばなるまい。
この物語の最大の立役者なのだから。
雨情は、茨城県多賀郡出身で北原白秋や、西条八十と並んで「童謡界の三大詩人」と、いわれた。
雨情は、作曲の中山晋平や、本居長世と組んで、土の香りのする美しい自然詩の名作を残した。
"赤い靴"、をはじめ、"十五夜お月さん"、"七つの子"、
"青い眼の人形"、"船頭小唄"。
題名を聞いただけで、涙腺がゆるむような、曲ばかりである。
やさしい、やさしい人である。
「しゃぼんだま」という童謡も有名で、みなさんもご存知。

しゃぼんだま、消えた。
飛ばずに消えた。
生まれて、すぐに、
壊れてきえた。
風 風 ふくな。しゃぼんだま飛ばそ。

これは、雨情が、愛児を亡くしたときに、作った童謡だといわれている。
生まれて数ヶ月で、亡くなった深い悲しみが、痛切な思いでせまってくる。
「生まれて すぐに
 壊れて消えた」
ぼくにも、1才の妹を亡くした経験がある。

再び、きみちゃん。
きみちゃんの墓は、青山墓地にある、という情報がある。
不確かだが、こんど訪ねてみようと思っている。


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下北沢、ポップな、ラビリンスの街。

01


下北沢の駅にはじめて、降り立った人は、乗換でも、出口探しでも
なんとわかり難い駅だなと、戸惑うに違いない。
街も、駅と同じように、ラビリンス(迷路)だ。
だが、街の迷路状態は、かえって、散策の楽しさを強めている。
で、いまシモキタ駅は、電車は地下にもぐり、複線化も進む。
駅前もロータリーが出来るとか、改良工事がガンガン進行している。
駅が便利になるのはいいが、街の、特徴のラビリンスは、どうなるかなあ、心配する人も多い。
工事のあをりを食って、著名なジャズ喫茶の「マサコ」が、消えてしまった。
どうなったんだ?

02
下北沢駅前

並びにある、ミカズキ、モモコ(300円ショップ)のやさしそうな店員の
おねえさまに「マサコ、どうなった?」と聞いてみた。
「なくなったんですよオ」
やっぱり消えていた。

1953年から、「マサコ」営業。
日本のジャズ喫茶のサキガケの店だった。
名物オーナーのマサコさんが、亡くなったあとも、ご主人が、頑張ってきた。
4000枚のジャズのレコード、どうなっちゃうの。
淋しくなるねえ。
話を聞いたついでに、ミカズキ、モモコの店内にはいってしまった。
「やべえ、ここは、女子高生の御用達の店だ。」
でも、いいや。
女子高生が、がやがや品定めをしているところへ割り込んで、
なんと、ダリの、ぐにゃっという感じの時計が、300円だったので、買った。

さあ、マチナカへ行くぞ。
下北沢と言やあ、まず、「ザ・スズナリ」でしょう。
だいぶ前だが、「淋しいのは、お前だけじゃない」というドラマの舞台に
なったところだ。
面白かったなあ。
取材で、脚本を書いた市川森一さんと、その話にはずんだことがあった。
アパートだった建物を改造した劇場で、飲み屋などを、引き連れたような、
軍艦型の面白い建物だ。
どぶいた踏んで、てなムードでいいね。
演劇青年だった、本多一夫さんが、この、ザ・スズナリを皮切りに本多劇場など、
数カ所にざざっっと劇場を増やした。
結局、この劇場群が、ほかの小劇場や、ライヴハウスの出現を、誘発したのだろう。
ライヴハウスの、251には、ロッカーらしい金髪姿が出入りしていた。
学生や映画青年の、実験作や、短編映画を上映する、50席程度の、
小型映画館、「トリウッド」も、10年の歴史を刻んでいる。
「うーん。カルチャー!。」


03
ザ・スズナリ

04
ライブハウス251

劇場カルチャーだけでなく、創意ゆたかな若者の感覚は、街中に満ち満ちていて、
看板や、壁絵など、眺めているだけでも楽しい。
なんと、薄汚れたガード下も、レインボー・ゲートと称し、明るい壁画が描かれている。
骨董屋や、古本屋、古着屋も多く、若者のオール・ニーズに答えている。
東洋百貨店と称する多店舗の集まりなどもユニークだ。
衣類や、小物雑貨など、闇市風だが感覚がシャープ。
こういう、店舗作りの発想にはホトホト感心する。
ぼくの好きな帽子専門店[JABAJHA]も、まず、
看板の絵につられて、めっけたものだ。
面白い帽子が揃っている。

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レインボーゲイト

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JABAJHA


ニックンロールという、おにぎりに肉を巻いたニューウェーヴの食品に行列ができると思えば、
クラシカルな餃子の「王将」も、いつも満員だ。
若者に占領されたような、商店イメージのなかで、
カレーパン、みそぱんの、「アンゼリカ」には主婦や、老人がつめかける。
この街の魅力は、ワリとはっきりしている。
ポップな感覚と、カルチャーと、迷路の楽しさだ。

子供や、趣味人に、とって、素敵な店がある。
ドイツの製品のフィギユアーでプレイ・モービルの
専門店の「プレモランド」だ。
人形の顔がいい。
全部、ほほえんでいる。
大事な眼は、金太郎飴のように、奥まで通貫しているので、こすれて、
眼がなくなることはゼッタイない。
人形を主体に、駅、スポーツ、水族館など、900アイテムの、
世界を構築することが出来る。
ほかにも、精巧な動物フィギュアのシュライヒなどもある。
ウム!親として、刺激されるなあ。
いいものは、子供時代に体験させなくちゃあ。
そんな、決意を生じさせる店だ。


07
プレモランド

もうひとつ、ザ・スタディルームだ。
「知ること、学ぶこと」をテーマに、磁力で浮き上がるUFO、鳥を呼ぶ笛、
などメが丸くなるようなオイシイ素材が揃っている。
科学するココロを、きゃっきゃっっと、でんじろう先生的に楽しめる店だ。


08
ザ・スタディルーム

最後に、「マサコ」と同時に、ここだけは立ち寄りたかった、
「喫茶ミケネコ舎」だ。

古い建物の8畳間を三つ使い、ニュー感覚に仕上げた店だ、と聞いていた。
これも、壊されて工事中だった。
近くの八百屋さんで消息を聞いた。
知的な、美人の奥さんが、
「あそこの白いお店で、仮営業しているそうです。
 とても、おいしいそうですよ。」
明快、断定的だった。
そこへはいった。
スゴい、と思った。
八百屋の奥さん、侮れず。
立松和平をいい男にしたようなシェフが、ぼくの問いに、
控えめながら、蘊蓄をかたむけ、じつに深いコーヒーの、調理をしていた。
コーヒーを味わいながら、外を眺めている。
苔の生えたような屋根の、骨董屋が見える。
借景ながら、これが、またコーヒーの味を引き立てる。
至福のひとときだった。


09
ミケネコ舍仮店舗

10
骨董屋

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