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赤い靴ゥ〜はいてた〜女の子ォ〜の「きみちゃん」を考える。

01
きみちゃん

赤い靴はいてた、女の子、
異人さんにつれられて、行っちゃった。

おなじみの童謡だ。

横浜の波止場から、船に乗って、
異人さんにつれられて行っちゃった。

横浜の山下公園の波止場に、赤い靴をはいた、女の子のブロンズ像が、建っている。
異人さんに連れられて、船に乗って、外国に行ってしまった薄幸なイメージの少女の像だ。
あたりを散策する若いカップルや、昭和に郷愁を感ずる人たちなどの、人気になっている。

この話が、フィクションだったことは、わりと知られているのに、
なぜか人々の心に強く響くのである。

少女像のモデルは、実在していた。
悲しい物語もあった。
だが、少女は、横浜の波止場から、異人さんの国へは行かなかった。
像は、この歌の作詞者、野口雨情の童謡のイメージで製作されたものだった。
雨情は、友人から聞いた、ある悲しい少女の話をヒントにこの童謡をつくった。
少女の不幸な実話を、異国に去る女の子の不思議なイメージに変えて造形、素晴しい詩に昇華させた。
リアリティかアクチャリティか、強い表現方法の秀作であろう。
憂いをふくむ、印象的な曲は、本居長世が作曲した。


02

発掘された、事実について、すこし述べよう。
この少女の名前は、”岩崎きみ”ちゃん。
明治の末期に、静岡県清水市旧不二見村に生まれた。
両親に連れられて、北海道の開拓地(留寿都村)に入植する。
しかし、寒冷地で、痩せた土地という過酷な現実や、呼び寄せた弟の死、
それに、開拓小屋の火事など、さまざま不運に見舞われた。

耐えかねた母親は、夫と離婚し(このあたりの事実は不確か)、きみちゃんを連れ、開拓地を去った。
しかし、女手ひとつで、3才だった、きみちゃんを育てることは難しく
泣く泣く、函館のアメリカ人の宣教師チャールス、フュエット夫妻に養女として養育を託した。

3年後、フュエット夫妻は、日本での宣教を終えて、帰国することになった。
きみちゃん6才の時だった。
あとから思えば、きみちゃんにとっては、フュエット夫妻との、その3年間が、
せめてもの安らぎの人生だったのかも知れない。
夫妻は、きみちゃんを連れ、帰米しようとした寸前、
きみちゃんが、当時は、不治の病とされた結核に冒されていることがわかった。
病は船の長旅に耐えられぬ重いものだった。
やむなく、きみちゃんは、麻布十番にある、鳥居坂教会の孤児院に預けられ療養を続けた。


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鳥居坂教会の近くの鳥居坂

しかし、病状は、悪化の一途。
孤独と絶望に苛まれながら、きみちゃんは看取る人もないまま、
古ぼけた木造二階建ての片隅の病室で、9才の短い生涯を閉じた。
明治44年9月15日の夜だった。

その、孤児院は、今の十番稲荷神社のある旧永坂町50番地にあった。
そこへ、いってみた。
ぼくが写真を撮っていると、近隣の小学生が、神社の前をはしゃぎながら帰る。
なんの不自由もなさそうな、屈託のない少女達。
きみちゃんもこんな年頃だっただろうか、と胸が痛む。


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十番稲荷神社 きみちゃんのいた孤児院跡


この童謡が、発表されると、たちまち全国の人々に愛唱されたという。
母親の「かよ」は、きみちゃんを手放したことを悔い、行方を探したが、
その後の消息はつかめず、あきらめていたという。
きみちゃんの死も知らされていなかった。
かよは、雨情の童謡を、「きみちゃんのことを唄ったものですよ」と聞かされていた。
「赤い靴はいてた女の子」と、いつも口ずさみながら、フュエット夫妻のもとで、
しあわせに暮らすきみちゃんを偲んでいたという。
この悲話のゆかりの地、北海道(留寿都と函館西波止場)それに日本平にも、それぞれ像が作られていると聞く。

麻布十番の、きみちゃんの像は、この町のシンボリックな公園、パティオ十番に建てられた。
彫刻家の佐々木至氏の製作だ。
国際的な麻布十番に12ケ国の彫刻家の作品が、
パブリックアートとして、歩道を飾っているが、
きみちゃん像もそのひとつだ。


05
パティオ十番 右手奥にきみちゃんの像

きみちゃんの像が、設置されたその日の夕方、誰かがそこに18円を置いた。
それが、チャリテイの始まりになり、1日として醵金が途絶えることなく、今日まで続いている。
集まったお金は、ユニセフや、阪神大震災の義援金として贈られた。
その額は1000万円をこえたという。
きみちゃんの物語が、人の心をうち、きみちゃんの魂が、それを支えているのだろう。


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野口雨情(1882~1945)についてもふれねばなるまい。
この物語の最大の立役者なのだから。
雨情は、茨城県多賀郡出身で北原白秋や、西条八十と並んで「童謡界の三大詩人」と、いわれた。
雨情は、作曲の中山晋平や、本居長世と組んで、土の香りのする美しい自然詩の名作を残した。
"赤い靴"、をはじめ、"十五夜お月さん"、"七つの子"、
"青い眼の人形"、"船頭小唄"。
題名を聞いただけで、涙腺がゆるむような、曲ばかりである。
やさしい、やさしい人である。
「しゃぼんだま」という童謡も有名で、みなさんもご存知。

しゃぼんだま、消えた。
飛ばずに消えた。
生まれて、すぐに、
壊れてきえた。
風 風 ふくな。しゃぼんだま飛ばそ。

これは、雨情が、愛児を亡くしたときに、作った童謡だといわれている。
生まれて数ヶ月で、亡くなった深い悲しみが、痛切な思いでせまってくる。
「生まれて すぐに
 壊れて消えた」
ぼくにも、1才の妹を亡くした経験がある。

再び、きみちゃん。
きみちゃんの墓は、青山墓地にある、という情報がある。
不確かだが、こんど訪ねてみようと思っている。


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