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2010年4月

渋谷。都市に刻む、4つの詩。

01
渋谷109


 空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突抜け星になる
 火を吹いて 闇を裂き
 スーパーシティが舞いあがる

(TOKIO/作詞 糸井重里、作曲 加瀬邦彦、歌 沢田研二)

「TOKIO」が、ブラウン管にはじけた時、「有楽町で逢いましょう」や「新宿の女」などの
都市ソングの、湿り気のあるメッセージと違うパンチに驚いた。
これは、シブヤの歌ではないか。そう思った。
ほかの街にはない、マグマの炸裂したような目眩を覚えるのだ。
渋谷駅ハチ公銅像前のスクランブル交差点は、青信号40秒間に2000人が渡るという。
大音量の音楽、ビルの壁面に組みこまれた、いくつもの巨大なビデオ画面。
まさに沸騰する街だ。
大音響と、極彩色のこの渋谷で、
あるいは自己を顕示し、あるいは都市に溶け込んで自己を消去しようとした、
4人の影を追ってみた。

02
109とセンター街 左上 南条あや

1、南条あや。「卒業するまで、死にません。」

109には、少女が群れている。
7階の、レストゾーンにたどりつくのにも、おじさんは、
女性専用車に乗り込んでしまった冷や汗に近い困惑を覚える。
南条あや(18才)もそこの少女の群れのなかのひとりだった。

彼女は、リストカッターで苦しみぬいてきた。
ネット上の日記では、軽いノリで、
「いつでも、どこでもリストカッター」などと、おどけていたという。
ウイットやセンスに恵まれ、明るくて、マスコミにも注目されていた。
悩む自分を、客体化した、軽やかな日記は公開され、多くの少女の共感を呼んだ。
しかし、ホンネは、どう生きのびようか、とギリギリの瀬戸際のあけくれだった。

「なんで自分を虐げるのか。
 マゾフィストじゃあ、ありません。どうしたら治るの?
 どうしたら、痛いことがいやだと思えるようになるの?
 でも一番の疑問は。どうして自分を虐げるのか、という理由です。
 考えていると、わけがわからなくなって、涙がでます。」

リストカットと絶縁出来ない、深い苦悩が日記の行間に感じとれる。
3才のとき、両親が離婚、小学校でいじめにあい、中1の時、クラスで孤立し、
その時から、リストカットをはじめた。
高校は不登校、鞄には、大量の薬、自殺未遂。

渋谷センター街や109あたりは、少女たちの蝟集する聖域である。
南条あやの逃げ場は、ここしかなかったのかもしれない。
しかし、たったひとりで、都市のなかで生きていくには、内面の充実が必要だが、
18才の少女に、それを求めるのは酷だ。
何回かの自殺未遂をくりかえしたあと、
1999・3・30、カラオケボックスで、大量の向精神薬を飲み命を絶った。
自己表出か、透明な存在への逃亡か。
彼女の選択は、いずれにも出口がなかった。
父親は、日記をまとめて、「卒業するまで死にません」(新潮社)
という彼女のつぶやきを出版した。

03
円山町


2、円山町、夕闇の丘、東電OLの場合

「お茶しませんか」
一流企業に勤め、才能にも恵まれ、なんの不自由もないようにみえたハイミスの女性。
ひそかに夕暮れの丘の街、円山町の暗がりに立って、変身し、春を売っていた。
そして、ある夜殺された。
娼婦に変身した動機や理由、すべては、彼女の胸のなかに沈んだまま、闇に葬られた。
彼女が、大学在学中、一流企業の重役のポストを目前にした父親が急死した。
尊敬する父を失い、彼女は拒食症に陥ったという。
その後、父と同じ職場でエリートとして活躍するが、
同僚との競争に破れ、更に不本意な職場に移動させられるなど、
環境の激変のなかで、生き抜く意思が崩壊していったとみられる。


04
円山町


上昇志向と、高いプライド。
父親は彼女の価値観に大きな影響を与えてきたようだ。
「父の期待に答えられなかった」、と彼女は挫折感のなかで思いつめたのだろうか。
それが、彼女自らに懲罰的な生き方をさせたのではないか、という心理学者の分析もある。
彼女を支えた誇り高いものが崩れた。
春をひさぐだけでなく、帰宅途中の電車内で、人目をはばからず、
パンやそばをほうばるボロボロの彼女が目撃されている。
自分をゴミくずとして、捨て場所を都市の暗闇に選んだのか、
その途上で、ゴミのような男に殺された。
しかし、その前に彼女は、実質、死んでいたのだ。
戦死のような、そのストイックな決意には、心うたれるものがある。


05
渥美の銅像 柴又にある

3、代官山。渥美清の隠れ里。

俳優は、悪役でも善良な市民でも、さまざまな役を演ずるが、
観る人は、その役が俳優の実像だとは思わない。
しかし、まれに役柄が本人の実像に似かよっていると、誤認される場合がある。
渥美清と寅さんの間柄が、それだろう。
寅さんという役が、国民的に愛されたキャラクターということもあるだろうが、
寅さんイコール渥美清の図式が定着してしまった。
「寅さんが、田所康雄を飲み込んでしまう」と、渥美清が嘆いたという。
田所康雄は、渥美の本名だ。
彼が、自分と一体化してゆく寅さん像に違和感をもっていたのは事実のようだ。
やや、厭人癖のある渥美ではあるが、演技者としての自分と、生身の自分の区分けには、
ことのほか神経質だったらしい。

小林信彦氏は、渥美について、興味深いエピソードや、評伝をのこしているが、
渥美ほど実像と虚像の乖離が甚だしかった人は珍しいとのべている。
渥美はプライバシーにこだわり、私生活は、みせなかった。
「俺になにかがあったら、男は家を守れ、女は逃げろ」と家族に遺言したエピソードもあり、
知人に車で送られても、隠れ家は、見せなかった。
渥美は、野球帽を目深にかぶり、自宅とは別の、代官山の同潤会アパートにひそみ、
そっと孤独な人生を楽しんだ。
かなり老朽化したマンションだったが、いまは建て替えられた。
すぐ近所に洋食屋の「小川軒」があり、そこへはよく通ったという。
俳優のみならず、人間は、自己表出の願望の反面、
過度の自己表出に疲れ、逃げ場を求めることがある。
さて、渥美清は、どういう心境で、都市にひそんだのだろうか。

06
代官山

07
歩道橋上から夕日を眺めた


4、青山246通り。尾崎豊、17才の地図。

246沿いの渋谷駅近く、東邦生命ビルの一角。
尾崎豊の歌碑のプレートがある。
尾崎の通った青山の高校の道筋にこのビルと歩道橋があり、
そこからビル群を縫って沈む夕日を、尾崎少年はいつも眺めていたという。
少年にとって、偏差値支配のつよい風潮の灰色の時代だった。
かれは、学校や、家庭と自分との葛藤に苦しみ、絶唱とでもいうような
響きの歌で、若者の共感を呼んだ。
自分の居場所は、必然的に都市に向かうのだ。

~強く生きなきゃと思うんだ。
………歩道橋の上、振り返り、焼け付くような夕日がいま、心の地図の上で……
(17才の地図)

~落書きだらけの教科書と、外ばかり見ている俺………
とにかく、学校や家には帰りたくない………
(15の夜)

08
尾崎のレリーフ

悩みをふりしぼるような歌、ひたむきな心情は、多くの若者の胸に響いた。
かれは、完全主義者だったと聞くが、亡くなる数年前は、周辺と意思が通ぜず、
不完全な燃焼に苦しんだという。
小説や写真詩集も書いたが、歌詞は、音楽性より苦悩に満ちた叫びに走っていった。
今、歌碑のある歩道橋のれんが壁に、尾崎へ共感のメッセージが、数かぎりなく書きつらねられている。
そこに佇む若者は、いまも絶えることはない。

ーーー僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものが何なのか それがこの胸にわかるまで      

(「僕が僕であるために」尾崎豊)

渋谷。4人の刻んだ都市とのきずな。
それぞれの心音とどうひびきあったのだろう。

09
西に向けて記念碑、壁面に追悼のメッセージがいっぱい

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原宿。ブラームスの小径から、ちいワンダーランドへ。

01
ブラームスの小径はお好き


かなり前のことだが、
ぼくのバンカー時代のこと。
東京オリンピックを控えた2~3年前、「穏田」と呼ばれた、今の原宿に住んだことがある。
その頃、竹下通りには、八百屋や、そばやなど商店はちらほらで、
表参道や交差する明治通りには、セントラルアパートというビルだけががめだつ、
あたりは静かな、住宅街だった。

セントラルアパートには、巨人の長島茂雄が住んでいた、とか石原裕次郎が、
「フランクス」とかいうレストランを開いたとか、仄聞したが、
あまり興味がなかったので、事実は、確かめた訳ではない。
僅か、ぼくがくつろげる店は、明治通りの、竹下通り口にあった喫茶店だけで、
そこへ立ち寄る以外に、あまり縁のない街だった。
マロンと、いったかな、店の名は。いま、ふいに思い出した。
そこは二階だったが、店の女の子が、「巨人軍のひよこの人たちがくる」といっていた。
二軍の選手のことだろう。
しかし、ぼくには、なじみのない顔ばかりだった。

その後ぼくは、カメラマンに転じ、雑誌社の命ずるままに、この街や人を
撮影したが、オリンピック後に出来たコープオリンピアにも、
よく文化人や、芸能人の取材にきた。
個人的には、アンテイークの店や食事処など、なじみの店もできたが、
この街は、商店の栄枯盛衰が激しく、あっという間にでき、消える。
竹下通りは、ご存知のような姿になった。
来訪者は、近県の女の子や修学旅行の高校生が、多いそうだが、
一方、裏原宿や、表参道などは、ファッション系や、
芸術志向の店や若者達によって、コクのある雰囲気を醸し出している。

02


竹下通り。

まあ、とにかく、ここの混雑はスゴい。
高校生の群れ、呼び込みの黒人たち、国内や、海外からの旅行客が、
ギンギンな店舗や、コスプレチックな女の子を眺めている。
ツーリストには、野外劇のように映るのか、興味深がげな、グリグリまなこだ。
「たまらん」
喧噪と雑踏の、この通りから逃げ出して、
ひょいと横道にはいると、人けのすくない、大人びた「ブラームスの小径」に出逢う。
緑の多い小径に、レンガの洋館や、アンテイークの店が数軒並ぶ。
この静謐さに、ウーン、深呼吸。
右手の坂上には、瞬間、モンマルトルの丘を思わせる空間もある。

03

ほんの僅かなエリアではあるが、ここは、至福の空間だ。
中心は、フレンチレストラン「ジャルダン・ド・ルセーヌ」。
この静謐な空間を構想した建築家が、この小径の生みの親。
小説家サガン(ブラームスはお好き)が好きで、
そのイメージをベースにこの界隈をつくりあげたのだそうだ。
ブラームスの像も店の角にある。
ボク的には、ここは原宿の、イチオしといきたい。

04


さあ、明治通りを横切って、次に急ごう。
なんだ、あんなに並んだH&Mも、フォーエヴァー21も、
ねーちゃん達、もう行列していないじゃん。

05
評判店の行列は消えた

オットと。
目の前に、先端ファッションが、いるぞオ。
中世ヨーロッパ風のおどろ、おどろした黒ずくめの
ゴスロリファッションってこれかァ、みーつけたー。
え、違うの?
そうでしょ。「ゴシックロリータ」


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ゴスロリさん発見?

さあ、ちいさなワンダーランドへ行こう。
「デザインフェスタ・ギャラリー」だ。


07

ここは、ずうっと以前から、ぼくが立ち寄るところだ。
木造アパートの全館を、ポップなアートでデコレイトしている。
気分が高揚する、楽しいところ。
明るく、面白い企画で、一般に展示を開放している。
今回は、学生から、プロまで、「かわいい」をテーマに
いろいろオモロいことをやっている。
大人ももちろんだが、幼児も連れてってみて。
無料。

08

さあ、JR駅前に近い、「じょんがららーめん」で、からだあっためて、帰ろう。
二階の窓際の席で、表参道に面したコープオリンピアを眺めながら、そばをすする。

そういえば、この正面に「重よし」という割烹がある。
1981年の夏、台湾で事故死した向田邦子が、最後に外食した店だそうだ。
「明日から台湾にゆく」と、友人と二人で、ゆったりと、和食を楽しんだという。
この店に、彼女は、竹の柄の黒い傘を忘すれた、そうである。
忘れ物という些事ではあるが、消えてしまった、惜しい人を偲べば、
それすら印象的な出来事のようにも思われる。
そんな感慨をいだきながら原宿の駅にむかった。


09
コープオリンピア


10
重よし(1階にある)

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ぞうさん、ぞうさん、おはなが長いのね。はな子。

01
はな子


ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ
(まど みちお作詞、団伊玖磨作曲)


はな子は老いた象さんだ。
井の頭自然文化園にいる。
今年、63才で、日本にすむ象の最年長である。
4月5日、月曜だったが、井の頭池は、桜見の人々で、一杯だった。
その先に、はな子の園舎はあるが、そこは見物客は少ない。
はな子は、お尻をこちらにむけて、体をゆすりながら、なにか拾って食べている。
「ぞオー」
おかあさんに抱かれた、幼児が、口とんがらかす。

02
井の頭池


「はな子オ」
「はなちゃんー」
だれかが、2回呼んだら、ゆったり体を動かして、右目をこちらにむけた。
「歳だねエ」、一様に皆、同じ感慨を抱く。
想像を超える、老いにみえた。


03
資料室

時代は、一挙に、第二次大戦中にさかのぼる。
東京音楽学校に通う、作曲家の団伊玖磨さんは、ある日、
上野動物園の正面に葬儀用の幕が張ってあるのをみた。
1943年のことだ。
戦争が深化し、食糧難と爆撃の懸念から、
政府はサーカスや動物園の大型動物を、殺害するように命じた。
団さんがみた光景は、動物の処分が終わったあとの、戦時殉難動物慰霊祭の時だったのだ。
当時、猛獣類はもとより、3頭いたゾウも、殺処分の対象となった。
それぞれの飼育係は、泣きながら、毒の入ったエサを与えたという。
ゾウは毒入りのエサを察知するため、餓死させる手段をとった。
芸をすれば、エサがもらえることを知っているゾウは、必死で芸をしたという。
現場の飼育係たちの心痛は、想像を絶するするものだったに違いない。
約一ヶ月後、3頭は、命を絶った。
そのうちの一頭の名が、「花子」だった。


04

悪夢のような戦争が終わった。
昭和49年。
平和の親善大使のようなゾウが、やってきた。
タイからきた2才と、インドからきた7才のメスのゾウだった。

その2才のいたいけなゾウが、「はな子」だった。
はな子という名は、戦時に、無念の死をとげた「花子」を偲んでの命名だといわれた。
上野動物園に登場した二匹。
幼い、はな子は、7才の「インデイラ」に、
母のようなイメージで、甘えたのかもしれない。
昭和51年、まどみちおさんは、「ぞうさん」を作詞する。
そして、翌年、団伊玖磨氏によって作曲され、この唄は人気を拍す。
団さんは、この曲はわずか数分でつくりあげたという。
戦時の動物園での悲劇を見聞したことも、要素としてあったのだろう。
「詩が自然と、体にはいりこんできた」という。
まどさんは、
この唄の成功は、依頼者の酒田さんと、作曲の団さんのちからだと、いう。
「ぞうさん」の詩は、求められて、あわただしくつくりあげたものだ、(だから、たいしたものではない)
そう、まどさんは謙虚に語っているが、
まどさんの詩には、虚飾のない、ものの本質を凝縮した作品が多い。 
「やぎさん ゆうびん」や「一年生になったら」なども、シンプルで、楽しい。

ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ

05
子供


まどさんは、5才のとき家庭の事情で、両親と別れた。
朝、目を覚ますと、母や兄、姉がいなかった。
「食べるように」と、母から、手紙と饅頭が残されていた、という。
幼児体験が、やさしさと、虚飾のない心をもつ彼に、どんな影響を与えたのだろう。
詩のシンプルさと、実存を見抜く目の鋭さは、
山頭火の句を彷彿させる。

「酔うて こほろぎと 寝ていたよ」
                 山頭火

はな子、に話をもどそう。
はな子は、現在の井の頭自然文化園に移される。
上野動物園では、ジャンボー(メス)が加わり、象は三頭に増えていたが、
はな子がトラックで去るのを、互いに哭いて悲しんだという。
はな子の苦難は、そこからはじまった。
ゾウは群れで生活する動物である。
母ゾウからも、アンジェラからも離され、子ゾウの、はな子はストレスに陥った。
2年後深夜、侵入した酔客や、飼育担当者を、あやめてしまった。
人間不信に陥っていたのだろう。。
暗い象舎に足四本を鎖で繋がれて、はな子は餌も細くなり、ガリガリにやせた。
人前にでるのも拒み、6年も引き蘢った。
赴任してきた飼育員の山川清蔵さんは、すっかり心を閉ざしたはな子の気持ちを、
少しずつほぐしていった。
外にはな子を出すと、「人殺し」と、心ないヤジや、投石などが浴びせられた。
そんな時も清蔵さんは、はな子のそばでやさしく、体をさすってあげ続けたという。
30年つきそって、清蔵さんは、そこを去った。


06
はな子の苦悩


ゾウは利口で、情の厚い動物だといわれる。
いろいろな、エピソードにかこまれた、はな子というゾウの一生をかんがえる。
しあわせだったか、ふしあわせだったか。
まどさん的に考えれば、

ぞうは ぞうであって
ひとりきり のぞうとして
ぞうらしく 生きている

という禅問答のような答えがかえってきそうに思える。

はな子の園舎から離れて帰途につく。
なぜか、花々がやさしく、鳥や、小動物が、元気なのが、目についた。

07
はな子

08
自然文化園の動物たち

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静かなる廃市。洲崎。

01
洲崎全景

今は、そこは町名も変わり静かな住宅街に変わりつつある。
もとの名は、洲崎という。
隅田川の先、いまの深川が海に面していた頃の埋め立て地に、遊廓がつくられた。
明治20年のことである。
遊女が、2000人ともいわれた。
堀と海で逃亡をはばむ、収容所のような閉ざされた場所だった。

話はすこし、飛ぶ。
ぼくは、いま東雲に住んでいるが、
いつだったか、
「東雲のストライキ、さりとは辛いね、てなこと、おっしゃいまいしたかね。」
という戯れ歌を聞いたことがあった。
東雲に、工場があり、そこでの工員さんのストライキがあったのだと思っていた。
ところが、どっこい。
そうではなかった。
ものの本で、いわくを知る。
洲崎遊廓に「東雲」という大きな遊廓があり、そこで娼妓と雇い主の争いがあった話だった。
大正期に娼妓自由廃業運動の嵐が吹きまくり娼妓のストライキや、足抜けがあいついだ。
客がそれとも知らず店に立ち寄ると、娼妓のストライキで登楼がかなわず、やれやれ。
それから、この戯れ歌が、できたらしい。
「さりとは辛いね、」というのは、すかされた、客のぼやきだろうが、歌詞がなんとも面白い。

02
昭和初期の建物にはタイル貼りの装飾


この苦境の彼女達を助け、受け入れたのが救世軍だった。
洲崎には、遊女の救出のために、当時客にまぎれて救世軍の兵士が、うろついていた。
そのため警戒している妓楼の男衆や地回りに、兵士と間違えられた客が
半殺しの目にあうこともめずらしくなかったらしい。
女性の解放のために、救世軍の熾烈な戦いがあったわけだ。
つい最近も救世軍の兵士達をみかけた。神田神保町のあたりで社会鍋という献金箱を前に、
「悩めるものは来たれ、皆来たれ。」と楽器を奏らし、募金活動していた。
楽器を鳴らし、平和そうな活動をしている背景には、厳しいドラマがあったんだ。
脱帽。


03_2
洲崎神社

だが、廓の女たちも、暗い話ばかりではないのが救いだ。
この街の古い資料をみていると、富岡八幡宮の例祭で、
洲崎遊廓に繰り込んでくる神輿のねじり鉢巻きの若い衆に、
廓の女達が嬌声をあげエールをおくったという。
いかにも深川らしい粋で活力のあるエピソードである。

04
洲崎神社の弁天様


戦後、法改正により、制度は変わったが、
特殊飲食街として、ひき続き実態は、花街で、「洲崎パラダイス」とよばれた。
自由を得た女性達は、掘を渡り隣にある洲崎神社に詣でることができるようになった。
ちいさな神社だが、女性達は店明けの宵になると、出の支度をして、
三々五々、堀を渡って洲崎神社にお参りにゆく。
いわば、その日の縁起だった。
神殿裏の小さな弁天池の前に立ち、水面に鎮座する弁天様に視線をむけると、
当時の女性たちが、みつめただろう姿が彷佛として目に浮かぶ。

05
洲崎パラダイスの名残の商店街


この特飮街の周辺を描いた芝木好子の小説の題名が、同じく「洲崎パラダイス」。
映画化もされた。
小説は6つの小編で成り立っているが、ストーリーはほとんど特飲街の中ではなく、
居酒屋などの、周辺が舞台になつている。
戦後の改革で、人身売買に類する遊廓制度は廃止されるが、
赤線とよばれる自由な売春の商売が、行われた。
人身売買の苦から解放されたものの、女性が安易な道を選ぶ危険な環境でもあった。
生活苦やら、男女の哀切や、やりきれなさ、に悩む女たち。
しかし、あの世界に行ってはいけないよ。
芝木好子は、そんな女のドロドロした生き様を、赤線の対岸から、描写した。

6編のひとつ、
「洲崎界隈」では、主人公がその世界に落ちようとする女をたしなめる場面がある。
「橋を渡ったら、お終いよ。あそこは、女の人生の一番おしまいなんだから。」
しっかり者の徳子は、ふらついている文子をどやすようにそういう。

「蝶になるまで」には、鈴子という少女が居酒屋で働く話がある。
「橋を渡った埋め立て地は運河に囲まれて、特飲街になっている。
 三吉はあとからついてきた鈴子に、
 ”あっちへいってはいけないよ。あっちは娼婦がいるからな。” 
 橋の上から見ると、コンクリートの堤防で仕切られた運河の水は、案外にゆらめいている。
 上げ潮かも知れない。青や赤に点滅する橋の上のネオンを仰ぐと、洲崎パラダイスと書いてある。
 鈴子は16才の少女で、石川県から、小父の三吉を頼り、上京。
 三吉に、洲崎の特飲街の手前にある居酒屋街のひとつの店に雇いいれてもらったのだ。」
その居酒屋は、橋のむこうの特飲街へ、これから繰り込んでいく男たちの景気ずけの場でもあった。
田舎出の小娘は、歓楽の街の雰囲気に染まりつつ、したたかに成長していくのである。


06
さえずり通りの居酒屋街


その洲崎という世界が、昭和33年、売春防止法の施行で、町の名前もろとも消えてしまった。
その異界に渡る運河も埋め立てられ、散歩道に一変した。
だが 街に入る橋の手前に”さえずり通り”という道があり、鈴子の働いた居酒屋が今も、数軒並ぶ。
バラック仕立てでおぼつかない店だが、懐かしさをただよわす。

洲崎特飲街は、ほとんど取り壊されたが、タイル張りの門柱や窓枠などに
当時の独特なデザインの建物が少し残つている。
窓はアーチ型のアールデコ風な装飾で、そのままアパートや商店として使われている建物もある。
ここを廃市とよぶには、正確ではないが、
昭和の特飲街の名残が、ここ、そこに姿を覗かせ、
静かなる廃市をイメージさせるのだ。

07
昭和初期のユニークなデザインの建物


永代通りから大門通りの右角にそばの「志の田」がある。明治29年(1896)の創業だ。
あげかすと油揚げのつけ汁にそば、昼時にはいつもたてこんでいる。
もう一軒の老舗、10割そばの「やぶ正」は合鴨せいろがうまい。

移りゆく時代。
当時を残こす風景は、しだいに影をうすめていき、
空想や、残された映画の世界で偲ぶほかなくなった。
それにしても「洲崎」とは、ホントにあった世界なのだろうか。

08
直進する先にもと”洲崎パラダイス”があった。右角は老舗そば屋の”志の田”


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