« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »

2010年5月

ぐるっと、谷根千。谷中その2。

01_p1100466

きょうは、富士山が見えるという、「富士見坂」を探しに行く。
日暮里駅、南口の墓地前で、いつも谷中の地理案内をしてもらう、
花売りのおじさんに、今日も聞いた。
ほんとに、見えるの?
「今日は、見えないよ」
いつでも、なんでも教えてくれる気さくなおじさんのご託宣だ、
やはり見えなかった。


02_p1100948
富士見坂


都内から、富士山を眺望できるポイントもだんだん少なくなったといわれる。
貴重な坂だ。
だが、富士は見えなくとも、富士見坂にむかう、細い道(諏訪台通り)は、
経王寺の長い塀沿いに、古風な三軒長屋など、戦前の懐かしい日本家屋
が散見され、懐かしさを感じる。
近所の奥さんが、
「長屋はお寺の貸し家ですよ。
若い人も借りてますけど、古い家が面白いんでしょうかね。」
このあたり、昭和好みの人には、必見の、通りだ。


03_p5141163
経王寺の塀

04_p1100898
古い長屋

坂のそばの諏訪神社に(信州、上諏訪神社と同じ、建御名方命を祀る)お参りし、
ついでに、すぐ隣の、道灌山公園に立ち寄った。
ここは、もう谷中じゃないが、昔から、景観の名所で、
緑に覆われた、涼風が心地よい高台だ。
「虫聴きの名所」という、由緒説明の立て札がある。
この、見晴らしのいい高台で、江戸時代から、花見、月見、雪見、など
四季折々の、風情を人々は賞でたのだという。
秋は、虫の鳴き声が美しく、鈴虫、馬追い虫、くつわ虫など、賑やかだ。
とくに松虫が多く、澄んだ音色が楽しめたそうである。
説明板に添えて、明治末頃の、虫聴きを楽しむ人々を描いた、
緒方月耕という画家の絵がある。
情感のある絵だ。


05_p1100941
道灌山、虫聴きの絵。


よくみると、主人公は、虫篭を持参して、篭の虫と、野の虫たちと唱和させようと、
しているのだろうか、風流だ。
それとも、その篭は、虫を捕まえて帰る魂胆かな、などと勘ぐった。
余計なことを考えて、隣の紳士に同意を求めたら、
「いや、虫篭じゃあないでしょう。
 蚊取り線香じゃあないの。」と、おっしゃる。
そうかなあ。
いずれにしても、芸がこまかい絵だね。
ここの木陰で、しばらくのんびりしたいな、と思ったが、
予定通り、三崎坂を散策することにする。

ユニークな、注文靴の靴屋さんがある。おばあちゃんたちが、ゾロゾロ。
「あ、ここ、この前、テレビでやってた靴屋さんだよ。」
「わたしも、観た、みた。」
ぼくも、みたよ。
SONOMITSU という店だ。


06_p1100374

若者の経営らしく、一階は、コーヒ、二階は靴屋さんで繋がっている。
ウリは、靴のフィッテイングの技術が、ユニークとかだったかな、
あいまいな情報で申し訳ないが、つぎにいく。

喫茶「乱歩」で、マスターから色々情報をもらう。
それと、名物のネコの良介の登場を待つが、16才のご老体だけあって、
気が向かないと、奥の自宅から、店の方へ、出勤されないようだ。
女性の店員さんが、「その日の体調次第で」という。
テーブルの上に、昔の電話帳のような、分厚い「楽我記帳」がある。
客の落書き、ネコのイラスト、
小劇団の公演の予告など、さまざまな、いたずら書き、雑情報満載で面白い。
店内は、ジャズに包まれた、懐かしい時代の匂いがして、ここちいい。
6~70年代には、こういう文化人の喫茶店主が、コーヒーの味と、誇りにこだわる経営をしていた。
店には、禁止事項がいくつか書いてある。
「店で、カップルがキスなどしたら、水をかけます」的なマナー警告だ。
若い女性など、それを読んでビビるむきもあるようだが、
要は、常識と、文化の感覚を持ち合わせていれば、咬みつくような店主ではない。


07_p1100394
喫茶「乱歩」

「乱歩」の正面近くに興味深い寺がある。
大円寺。
江戸時代、(1764~72)人気ものだった、お仙という女性の碑がある。
お仙は、鍵屋という水茶屋で働いていた、たいへん美人の女性で、

「向こう横町の、お稲荷さんへ、
 一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋へ………」

という、手まり唄に歌われたほど有名な女性だった。
浮世絵師の鈴木春信が、彼女を浮世絵に描いたことで有名になり、
お仙はスターになった。
お仙双六や、お仙手ぬぐい、などアイドルグッツまで売り出され、
茶屋は、お仙めあての客で大繁盛だったそうだ。
春信は、なかなか商売上手で、浮世絵を錦絵にし、桐の箱にいれ高価格で売ったそうだ。
それが参勤交代で、国に帰る武士たちの格好の江戸土産にもなったという。


08_p1110043
お仙の浮世絵


後日談がある。
ある日、お仙は、突如、姿を消した。
謎が謎を呼び、それも大変な話題になったが、
実は、幕府のお庭番(スパイ)と結婚したために、姿をくらましたので、
余生は、幸せだったという。
お仙の碑には、永井荷風が、碑文を書いている。


09_p5100910
春信とお仙の碑

江戸話のついでに、近くの「いせ辰」に寄る。
「いせ辰」(創業、1864年)は、手ずくり江戸千代紙を守る貫禄の老舗だ。
一枚の仕上げに、多いものは、何十という版木を使うらしい。
その精度には、なみなみならぬ技と熟練が必要であることは、いうまでもないだろう。
手ぬぐいや、水引などの小物も豊富だ。
繁盛店でありながら、素朴な古い店舗で、職人芸を守り頑張っている。

10_p5211336
いせ辰


先週、ヒマラヤ杉の風景を書いたが、この杉の2軒先に、
アラン・ウエストさんのアトリエ兼、店舗がある。
かれは、アメリカ人でありながら、
屏風画など、日本の古典絵画の製作をしているベテランの絵師だ。

先日は、アトリエに立ち寄ったら、留守だった。
今日は、いた。
1982年来日、美大の大学院で、日本画を学んだ。
そして、金箔、銀箔を駆使した、豪華絢爛たる琳派の伝統や、狩野派の筆法を受け継ぎつつ、
現代的かつ独創的な、センスで、自然を描いている。

12_p1100651

ぼくが、個人的にかれをスゴイと思うのは、
絵だけでなく、
このヒマラヤ杉の立地を住まいに選んだことだ。
めがいい!。


あとは、経済的幸運を祈りたい。
ぼくは、貧乏人だから買えないが、
今日も、ご婦人のお客が、
作品をご購入くださりそうだ。

ぼくは帰ろう。
「アランさん、じゃあまたネ」
かれは、ご婦人と、作品談義に夢中で、
こっちどころではない。


11_p1110136
アラン・ウエストさん


谷中の墓地を通って、人気の洋菓子店に寄る。
アレ?
鳩山首相のおじいさんの、お墓の前に、パトカーがいるじゃん。
どうしたの?
離れたところに、太ったやさしそうなお巡りさんが立っていた。
ああ、あの事件かア。

「ペンキかけられたんだってね」
「ウン、しかも、墓標にね」
「どんな色の?」
「黄色だよ」
「墓地や、区で、きれいにしたの?」
「いや、家族が、すぐ奇麗にしたよ」
「ほう!いや、まったく、ごくろうさん」

いや、お巡りさんもだよ。

12_p5271372


その、墓地の裏手。
上野桜木町2、「パティシエ・イナムラ・ショウゾウ」で、洋菓子を買う。
K子ちゃんはじめ、あらゆる人から、
「あそこの行列は凄いよ」とおどされてきた。
あんまり大勢、並んでいたら、そのまま買わずに帰るぞ、と自分に言い聞かせながら、出かけた。
思わざる小雨がチラツイタせいか、客は、若いカップル二人だけ。
モンブランにチョコレートケーキという、平凡な選択で買い求め、帰宅してたべた。
さすが、おいしかった。


13_p5271452


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ぐるっと、谷根千。バックトゥーザフューチャーに嵌まる。「谷中」その1。

01_dsc_0594

JRの日暮里駅の南口を出る。
すぐ左手の丘には、広大な谷中墓地が広がっている。
そのまま、御殿坂を直進する。
なだらかな坂の先は、商店街に下る有名な階段の「夕焼けだんだん」がある。

あ!「谷中せんべい」
煎餅好きの僕の目に、大きな看板が飛び込んできた。
スイカ型の丸いガラス瓶が並び、小さなのや、四角やら、醤油せんべいが詰まってる。
旨そう。
からだが、ダダダと店の側に傾れていく。
おっと、いきなりそっちへ行っちゃあいけないよ。
買い物はか・え・り。

煎餅屋の前の寺で、ドキンとする、歴史的な「あるもの」をみるのだ。
大黒天、経王院。
門扉に残る、銃弾の痕だ。


02_p5141159

上野戦争(慶応4年、1868)という、上野の山で戦いがあった。
政府軍と彰義隊の戦い。
敗れて、寺へ逃げ込んだ彰義隊士を寺側は、匿った。
このため、山門は政府軍の銃撃を浴びたのだ。
義を貫いた寺当局は、その歴史的な証言物を保存してきた。
皆、興味深くその門の銃弾の穴を眺める。
「これも銃弾の痕よ。あ、これもそうだ。」
若い女性が、その弾痕の穴を指で、ぐりぐりっと
こね回し、
「ほら、みんながやるから、穴が、まん丸くなっちゃったア」
などと言っている。
おいおい、それって、文化財の損傷じゃないの?
「えへへ」だってさ。

さあ、ぼくは、「夕焼けだんだん」に行くぞ。
夕焼けが望める、階段がそれだ。
ここを下ると、細く長い商店街が延びている。
丘の上から、下界を見おろす気分、なんともいいもんだ。

考えてみれば、東京で、こんな景観が望める場所は、もう少ないのかもしれない。
雑誌などで、その「だんだん」を散歩しているネコの写真をみかける。
坂の途中で、カップルが、ネコちゃん、発見。激写だ。

03_p5040672
夕焼けだんだんで、ネコ発見。

「ほら、こっこちだ、こっち。」

ネコといえば、谷中は、放し飼いのネコだらけ。
墓地だろうが住宅街だろうが、
どこにでも、もそもそと歩いている。

「あ!商店の屋根にもいるぞ。」

あれはつくりもんだよ、と店員さんが教えてくれた。
あ、そうなんだぁ。しかし、リアルぅ!


04_p5040701_3

店頭に、でかい招きネコを置いてある店もある。


05_p5040690_2


なんと、10匹くらいの捨て猫を飼っている寺もあった。
日蓮宗、龍谷寺だ。
寺の玄関口で、のたりのたりしているネコ達を発見、パチリとやっていると、
若い女性が、すいっと、賽銭箱に近寄る。
のたり達が、瞬間、豹に変わった。
ネコは、全員、全速で、女性をめがけて走った。

「参拝客は、餌をやるので、賽銭箱のあたりに近寄る人に、
 狙いをつけているのよ。」

寺の、おかみさんが、いう。

なんだァ。ぼくは、ハナから、ネコに読まれて、無視されていたってわけだ。
おかみさんが、あはは、と笑った。

10匹のネコは、もともと2匹の捨て猫が増殖したものだという。
もう、谷中の猫熱には、驚くほかはない。
ほかに、ねんねこ家とか猫町カフェ29とか、猫にからんだ沢山の店があり、
その探索は、別の機会にしょう。


06_p5100934
龍谷寺のネコたち。

話は、歴史に変えよう。
世間は新タワー建設に、湧いている。
谷中にも、タワーがあった、
昭和まで、残っていた五重塔である。
しかし、その塔で男女が心中し、その道ずれに塔は放火され、消失した。

塔は、当初、(仮に第一次と言おう)1644年に創建され、1772に火災で消失、その後、
職人魂の権化の、大工棟梁の八田清兵衛が48人を指揮、
渾身の技術で再建したものだ。

塔建設の挿話に感動した作家、幸田露伴は、
明治24年に「五重塔」というテーマで、清兵衛の職人魂を小説に書いた。
その塔が消滅したのは、昭和32年7月だった。
地域の人々は、荘厳の美や、誇りのシンボルを失い、
いまだに、深い喪失感に傷ついている人が多いという。
映画監督の舩橋 淳さんは、ここに住みついて、それに気付いた。
消滅した塔を、いまも心の拠りどころとする、人々の多いことを。

それが動機で、かれは映画「谷中暮色」を撮りあげた。

塔の跡地は谷中の墓地にある。
墓地の50メーター程、手前で、自宅の庭を掃いていた老人をみつけた。

焼ける前の塔をご覧になりましたか?と訊ねた。

「ご覧になったもなにも、小学生の頃だったからね。
 いまで言やあ、ロケットの打ち上げってなもんで、空へ火柱が抜けて行くみたいで、
 腰がぬけたよ。」

いやぁ、そうだろうな。
跡地に行ってみた。
礎石だけ残っており、そこに説明板がある。
塔の由緒と、写真で「健在だった塔、燃焼中の火柱、残骸」と3枚が添えられている。
この写真をみると、
ああ、塔が実在したんだな、放火のショックはすごかっただろうなと、
しばし迫力のリアリテイを、追体験させられる。


07_p5040619
五重塔の跡。


08_p5040618
塔消失の写真。

上野桜木通りを言問通りにむかって下る。
右手に、和菓子の「岡埜栄泉」がある。これは、文化財レベルの建物だ。
思わず、引き寄せられる。
重いガラス戸をあける。
ショウケースには、菓子がすくない。
2~3の和紙に包まれた干菓子らしきほかには、豆大福が、ひとつだけ置いてある。
声をかけても返事がない。
だが、奥から、大柄な店主らしき人物がぬっと現れた。
これだよ、昔の職人は。無愛想なほど腕がいいって言うじゃん。
豆大福を一箱(1個230円)買った。
さらに根津駅にむかい、一軒の甘味屋で(1個130円)
大福を一箱買い、帰宅後、どのくらいの違いか味比べをした。
問題にならなかった。


09_p5141243
岡埜栄泉

老舗といえば、
言問通りに面し、江戸時代以来、昭和61年まで営業していた吉田酒店の旧店舗が、
公開展示されている。
真っ黒で、がっちりした建物だ。
なかには、沢山の展示物がある。
懐かしいポスター、帳場が意外に狭いのが面白い。
外人の老人夫婦が、目をきょろきょろさせながら、丹念に見物していた。
面白いと思える感覚は同じなのだな。

10_p5141229
吉田酒店

ここから、すぐの左手に、小さな店だが田辺文魁堂がある。
筆で有名な店だ。
ウインドウには、巨匠のピカソや、ミロがこの店で買い求めたのと、
同じ筆が、ぶらさげてある。
ボタッ!という四角、小太りの筆で、
この筆を、ピカソが使ったのかあ!
どんな絵を描いたのかなあ。
ガキのように、いろいろ想像を巡らせてしまう。

11_p5141271
中央の筆をピカソは買った。

もう陽が落ちた。
「夕焼け、小焼けで日が暮れてェ」
谷中一丁目、蛇行する細い道の先に、
昔みた、もう思い出の中にしか存在しない風景があった。
町はずれの三叉路。
大きなヒマラヤ杉が、民家を傘で守るように立っている。
迷路のような小径で、ひょいと出会った風景だけに、嬉しさは格別だ。
ちいさな感傷を、だいじに抱えながら、帰路についた。


12_p1100651
ヒマラヤ杉の三叉路。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

知らない町を歩いてみた。終着駅、小島新田と川崎大師。

01
知らない町 川崎小島新田

もう、あまり帰ることもない、ふる里。
東京に住んだ時間が、少年時代の故郷の時間を超えた。
夕焼けと、おかあさんの呼び声も消えた。
あの少年時代と、低い家並の連なる、ふる里が消えた。

いま、ぼくが立っている、ここは、
我がふる里とは似ても似つかぬ、風景だが、高架の長く延びた
道と、そのむこうに、沈む夕日を眺めていると、
背中から、ゾクゾクと、郷愁の想いが、こみあげてきた。


今日(5月8日)、
知らない町へ行くことになった。
厳密ににいうと、川崎のお大師さんと、大師線の終着駅の、ふたつの町だ。
息子(川崎に住む)が毎年、東雲に住むぼくのため、川崎大師に健康祈願をしてくれる。
おかげで、元気だ。
そのお礼参り、がひとつ。
もうひとつは、友人の、吉本由美ちゃん(ご主人は、もとカクスコの隆さん)が、
パフォーマンスを、小島新田の根本造船所で、
やるというので、それを観に行くのだ。


02
大師仲見世

まず、「あらゆる厄を祓って下さる」お大師さんに詣うでる。
成田山、高雄山と並び「関東三山」のひとつで、正式には、金剛山金乗院平間寺だ。
初詣うでには、300万人(全国3位)の善男善女がお参りするそうだ。
「すごい!」
ご加護を感謝して、しばし堂内に佇む。
今日は土曜日なのに人出がすくないな。
まばらな客でも、仲見世の呼び込みは元気がいいぞ。
飴や、葛餅や、だるまさんの三種類の店が、どどどと並んでいる。
著名な、飴の松屋、久寿餅の住吉屋、だるまの、かどや開運堂。
判ってますよう。
大師だるまは、鼻筋が通っているんでしょう。

ととんとんとん、これは、あめを刻む音だ。
「え!ロボットがやってんの?ほんとオ?」
この音が、日本の音100選に入ってるんだってさ。

「ほれ、こっち、こい。」キョロキョロ、好奇心旺盛なワンちゃんに、
太ったおばさんが曳きずられてゆく。
「ほらネコちゃんが寄って来たア。」(これは、ぼくのいたずらだ、ヨ。)


03
参道のおばちゃんと犬

門前の松月庵(1884創業)で、てんぷらそばを食べる。
お礼参りの、帰りはいつも、ここの天ぷらそばだ。
由美ちゃんのパフォーマンスが午後7時なので2時間ほど、町を散策する。
思えば、お寺以外、そば屋にしか立ち寄ったことがなかった。
だから、町のことはほとんど知らない。
緋色で鮮やかな塗りあげた、お寺があった。ウーム、目がチカチカするほどだが、
見事である。

04
あざやかな朱塗りのお寺


門前で、しばし、佇む。
さっと、歌謡メロデイが、耳元を通り過ぎた。
ふりかえると、おじいさんが、ラジカセを満開にして、自転車で走り過ぎたのだった。
「ウーン。爺ちゃん、やるなあ」
緑の、繁るにまかせたボロボロの家がある。
奇怪な人物が、その家のわきから現れる。
撮影しているぼくを鋭い目つきで、ギョロリと睨んで去る。
やはり、都心と違い、このあたりは不思議な雰囲気で面白い。


駅前から、3本の道がのびているが、
栄えある表参道の商店街に外れて、レレレのレの方角に、ちょっと侘びしい商店街がある。
「よし、そっちへいってみよう」
造作のしっかりした店があるぞ、ここは、老舗のようだ。
石渡燃料店と看板にあり、隣に石渡パン屋がある。
当然、これは、この燃料屋の息子が、パン屋を開いたであろうと推測する。
「ネ。そうでしょ?」
近くの喫茶「じゅん」で、コーヒーを飲みながら、高齢の女性オーナーに
そう訊ねると、
「よく、ご存知ねえ。そのとうり。
 石渡さんは、大地主でしてね。このあたりの土地は、だいぶお持ちなのよ。
 店では、いまでも練炭や、たどん、売ってるのよオ。
 わたしは、横浜から、ここへきて、30年になるんだけど、
 土地もちでないと、とてもじゃないけど、商売やってらんないですよ。」
「ご苦労わかります。」と、ぼく。
「コーヒー、いいお味」妻も世辞をいう。


05
フジギな緑の家(右上)
石渡燃料店(左下)喫茶じゅん(右下)

大師駅にゆく。
夕暮れの、ローカル線の上りの駅は、人がまばらだ。
女性が、メールをみながら、上りの電車を待っている。
おっと、こっちの電車が先に来ちゃった。


06
18時の川崎大師駅

大師駅から、終点、小島新田まで、4分だった。
どん詰まりの駅や町って、寂寥感があっていいね。
何十年かまえ、やはり、夕暮れの根室の町の、うら寂しい風景に、しびれたものだった。
陸橋を渡ろうとして、階段を上ると、長い道が西に延びていた。
そこで、冒頭に書いた、子供の頃の郷愁に浸った話になるのである。
このあたりは、京浜工業地帯に繋がって行くのかな?
ケバケバしい光や色がない。
つつましい町。
その寂寥感が、心地いい。
「おうちがだんだん、遠くなる。遠くなる。
いまきた、この道、帰りゃんせ。帰りゃんせ。」
子供時代の、あの歌のムードだ。

07
小島新田駅あたり


その風景をあとにして、由美ちゃんの、パフォーマンス現場に急いだ。
根本造船所。
ちいさい造船所だが、ここのさびれた感じもまた、いい。
はがねのロープや、鉄の固まりなど、「もの」に人間の汗の混じった現場には、
人を不安と同時に、郷愁に引き込む魔力がある。
海から吹きあがってくる風は、意外に冷たい。
昼間、20度を超えた気温が急激に落ちて、半袖の観客は、襟を立て始めた。
「これは、なにかアクシデントがありますよ」
友人の岡光さんが、いう。
「ウン。だれか海にのみ込まれるとか」と、ぼく。
「そ、そう」
ふたりで、くだらない冗談を言いながら、寒さをまぎらす。
坂本さん(チェロ奏者)、コスマス カピッツアさん(パーカッショニスト)
オブジェの津田さん、照明の阿部さん、といずれも一線で活躍している人と、
由美ちゃんとのコラボレーションだ。
ちなみに、由美ちゃんの衣装は、わが愛妻が、縫った。

08
根本造船所


鉄のレールが海にすべりこむ引き込み線で、いきなり由美ちゃんの、パフォーマンスが始まった。
大きな薔薇のオブジェが、クレーンから吊り下がる。
美しく華奢な、からだが、ダイナミックな踊りを展開する。
瞬く間に舞台が移動する。
硬質、無機質な舞台のむこうに、工場群の光芒が冷えた抒情を奏でる。
しなやかな姿態。
それが無機物と闇に、からみつき、対話をしかける。
漆黒の海から、湧き出るものはなんだ?
闇の王へ、踊れ、踊れ! 歓喜のリフレーン。
イメージは、全く違うが、
ウヒッツでみた、「ヴィーナスの誕生」を、ふと、思い出す。
ほかのアーチストも、その小さなエナジーの爆裂に連鎖する、
雄叫びの響き、や、アクションだ。
「#%<*!$』
もう、どこへでも飛んでゆけ。


09
吉本由美さんのパフォーマンス

パフォーマンスもよかったが、彼女が、この現場を選んだとき、
すでに成功は、予見されていたといっていいだろう。
ぐったり疲れたぞ。
ぼくも。
造船所の前で、息子が買ったばかりのブルーのかわいい車で、待っていてくれた。
「ありがとよ」
寂寥に彩られた町よ、さようなら。
由美ちゃん、しばしの夢を、ありがとう。

10
吉本由美さん

| | コメント (0) | トラックバック (0)

唄を忘れたカナリアは、上野の森をさまよった。

01
教会

唄を忘れた カナリヤは
うしろの山に 棄てましょうか
いえいえ  それはなりませぬ

生活に押しひしがれて、落ち込んだ気持ちの時だった。
詩人の西条八十は、まだ5カ月の長女の「ふたばこ」を抱いて、
上野の東照宮の境内を散策していた。
ふいに、ある記憶が蘇った。脳裏に浮かんだのは、
14~5才のころ親に連れられて行った教会のクリスマスのことだった。
堂内の灯りが、いくつも華やかにともるなかに、
ひとつだけポツンと消えている電燈があった。
きらびやかのなかの、喪失感。
それをみていると、自分だけが歌うべき唄をわすれた小鳥をみるような、
さみしい気持ちに襲われたのだった。

02
上野東照宮

ぼくは、4月の雨のそぼ降る日、上野の東照宮のあたりと、不忍池のまわりを歩いてみた。
西条八十の心情を偲びつつ。
日頃は、人出が多いのに、この日は、まばらだった。
枯れ草に覆われた不忍池。
ここは、都会の真ん中でありながら、静けさをただよわせている。


03
不忍池


西条八十は、池のほとりのアパートに住んでいた。
不忍池は、
春先の今頃は、当時も、こんなおだやかな風景に映っていたのだろう。
ただ、かれの心のうちは、違っていた。
東京、牛込の裕福な家に生まれながら、父の急死、兄の放蕩、財産の散逸、
さまざな不運に見舞われ、八十は、深い絶望に陥っていたのだ。

ただ、チャンスは、かれの気づかぬところで、用意されつつあった。
おりしも、夏目漱石の門下で作家の鈴木三重吉は、
子供にいい童謡を与えたい、と1917年に児童雑誌「赤い鳥」を創刊した時だった。
その雑誌は、子供の歌を、教訓的な「学校唱歌」から、「創作童謡」へ変える、画期的な児童文芸誌だった。


八重吉は、伝統的な「わらべ歌」と違う、欧風な香りの西条八十の
「鈴の音」(王様の馬の、黄金の鈴……)が既に評判になっていて、かれに注目していたのだった。
八重吉は、直接、八十の自宅を訪れ、新しい童謡の作詩を依頼した。
「芸術的な子供の歌を」
しかし、いままでそんな童謡を書いた人なんて、だれもいない。
悩みに悩んだ末、西条八十は、童謡にフランス象徴詩の手法を取り入れよう、と考えた。
子供に「高貴なる幻想」を与える。

04
ヨーロッパ王宮

難しそうに思えるが、要するに、「童謡とは、芸術的な内容をもった詩だ」
と結論ずけたのである。

唄を忘れた カナリヤは
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄を思い出す

夢幻のファンタジーを紡ぎだしたこの唄は、国中の子供や親から大きな反響を呼んだ。
八重吉は、とても喜んだという。
この時の「カナリヤ」の唄の感動を、娘のすずさんは、よく覚えている。
当時、大きなラッパのついた蓄音機を懸命に廻して、父八重吉が聞かせて
くれたという。


05
大きなラッパの蓄音機 手でまわす


不忍池のほとりに、この、歌碑がある。

06

西条八十の童謡は、都会の少年のマインドが匂う。
僕の印象に深いのは、「きりぎりす」という童謡である。

「夕べ、夢で、姉さんの赤い手箱に
 『きりぎりす』を入れておいた。
 どうなっただろうか。
 それを、確かめようと、
 朝、ふたをあけると、
 『きりぎりす』は、
 緋鹿子(ひがのこ)のきれいな、
 ひすいの櫛(くし)になってころげでた。
 これは、夕べの夢にみた
 『きりぎりす』なのだろうか。」


姉の持ち物とはいえ、赤い絞り染めの、ひすいの櫛はなまめかしい。
若い女性の持ち物をめぐって、ときめく思春期の少年の、危うさがファンタスジックだ。

西条八十は、その後、童謡をつくり続けるが、だんだん
童謡から、少年詩の方向にむかっていく。

母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね?
ええ、夏、碓井から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

                    
この、「ぼくの帽子」という詩は、森村誠一の小説「人間の証明」(1976)で、
一躍、有名になった。
エレベーターのなかで殺された黒人が、西条八十の詩集をもっていて、
事件の解決に、この詩が重要なてがかりになるという、ストーリーだ。


ぼくもこの詩が好きだ。
不思議な非現実のイメージのこの詩は、少年詩の新ジャンルを予感させたが、
大震災を経て、西条八十は、大胆な方向転換をしていった。
大衆歌謡の方向に切り替えてゆくのだ。
関東大震災のがれきの中で、人々は虚脱状態に陥っていた。
そんな時、上野の山で、少年が大衆歌謡をハーモニカで吹いていた。
人々がそれに引き込まれるように聞き入っている。
それをみて、西条八十は、なにかを感じとったのだった。

07
下町風俗資料館 昭和の喫茶店


昔恋しい銀座の柳
仇な年増を誰が知ろ
ジャズでおどってリキュルで更けて
あけりゃダンサの涙雨
    (東京行進曲1929)

あなたのリードで、島田も揺れる
チークダンスの悩ましさ
乱れる裾も恥ずかし嬉し
芸者ワルツは 思い出ワルツ
   (芸者ワルツ、1952)


「え?これ西条八十の唄なの?」
フランス象徴詩の影響から発し、童謡、それから少年詩、最後は、大衆のなかに
ひたり、ともに肩組み歩むようなパワフルな歌謡曲をつくっていった。
「誰か故郷を想はざる」「青い山脈」「王将」など、
大衆に愛された、童謡,歌謡曲は2500曲に及んだという。


ぼくは、帰りがけに不忍池のほとりの「下町風俗資料館」に立寄り、
大正、昭和の道具や玩具など生活の品々をみながら、
いや、さわりながら(さわっていいそうだ)西条八十の時代の匂いにひたった。
人間が人間臭く、貧しさ、や災害、戦争に苦しめられた、大正、昭和。
そのあけくれが、涙や、あきらめの歌に、滲みでた。
すぐれた作詞、作曲家たちが、素晴しい作品を生み出し、
いまも、ぼくたちを癒してくれるのである。

08
伊東深水の画


09
昭和の駄菓子屋

八十の散歩道の東照宮そばに新鶯亭という、だんご屋がある。
抹茶、餡、白餡の三色だんごだ。
大正4年(1915)からの名物茶屋なので、八十も食べたかもしれない。
それと、この前も紹介したが、K子ちゃんご推奨の上野の「みつはし」で、
おいしいあんみつを買って帰った。


10

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本橋。あなたは、どんな「江戸」に出会えましたか?

01


日本橋界隈。
江戸時代、ここは文化や商業の中心だった。
この町の歴史の重要性はいうまでもない。
だが、このところ、街の中心の高層ビル化が進んでいるのには、チと違和感がある。
「コンクリートから、なんとかへ」というスローガンがあったが、
お江戸は、だんだん遠くなるゥ、遠くなるゥ、だ。
地方には、江戸が、だいぶ残っている。
たとえば、お伊勢参りにゆくと、江戸風な町づくりに、安らぎを覚える。
だいぶ前だが、ここ地元「赤福」の社長に、
江戸ムードの「おかげ横丁」の建設現場を案内してもらったことがある。
江戸から明治にかけての、伊勢路の代表的な建築物が、4~50軒、移築、再現されている。
その構想、と情熱には、ドカンというほどの感動を覚えた。
反対に、日本橋は都市化の流れが急で、ビジネスビルの建築が止まらない。
江戸イメージの保存や再建を、と声高に叫んでも、東京の中心では、ままならないのかもしれない。
せめてもの、
街をあげて、お江戸日本橋イメージの広報戦略を頑張ろう、というわけか。
街のあちこちに、そんな試みが、見受けられる。


三越地下通路に「煕代勝覧」、200年前の日本橋の店舗や、住民の生活を描いた
複製絵巻が展示され、歴史散歩のグループが足を停めている。
老舗「ニンベン」が店舗前に昔の店の写真を掲示している、
ホホウっと、通行人が好奇の目で覗いていく。
三井の工事現場にも、浮世絵の拡大した写真を張り出しているが、
どんなビルに仕上がるのだろう。
江戸はイメージの中で、楽しむべし、と割り切ったほうがいいのかな。
ぼくも、江戸のイメージの楽しみにでかけよう。
とくに、今回は、人物を焦点に。


02
煕代勝覧を見る人たち ニンベン江戸時代
建築現場


個人的興味だが、伊賀上野から、花のお江戸に出てきた若き29才の芭蕉がおめあて。
かれは大都会で、新しい俳諧へ野心を燃やした。
江戸暮らしは、どんなだったか。
ユーモラスで、人情家、時代感覚の鋭い人で
作品のトーンは、いまに通ずるものがある。

03
芭蕉


秋深し 隣はなにを する人ぞ (芭蕉)


作者を知らなければ、現代の俳句かと、勘違いしそうだ。
没交渉の隣人の、気配に耳をそばだてる、ちょっとコミカルな味もある。
だが、この句は、芭蕉が亡くなる直前、句会欠席の挨拶につくられたものだというから、
句の意味するところは別にあり、深い。
芭蕉(29才)が、江戸に乗り込んだのは、1672年といわれている。
佃煮屋の日本橋鮒佐の角に、芭蕉の句碑がある。
「ヘエー。ここへ、わらじ脱いだんだ?」
当時、魚河岸に近い小田原町(現、日本橋室町1-2)にあった
小沢太郎兵衛(俳号、ト尺)の借家に芭蕉は住んだといわれ、
その後は、あとでふれる鯉屋、杉風の二階に移ったらしい。(諸説あるが)

日本橋の東側には、魚市場があり、活況を呈していた。
東海道名所図絵で、秋里籬島が、
魚市場から東へ、ふた筋目が(芭蕉の住んだ)小田原町だと解説。
魚屋が並らぶそこに、芭蕉の借家があった、と推測される。
その賑わいは、いまの築地場外に似た風景だっただろう。
芭蕉は、騒がしい場所に住んでいたんだナ。
この環境から想像すると、俳句の宗匠然として、上げ膳、据え膳的なた待遇をうけた
と、いうわけではないようだ。
のちに神田上水の水役をつとめて、収入を得たわけだから、日本橋でのくらしが、
楽だったとは思えない。
水路にかかわる仕事を済まし、俳句を教え、更に自分の作品も作る。
まるで、バイトで生活費を稼ぐ、現代の芸術青年に通ずるものがあるナ。
芭蕉も苦労したんだなア。


04
日本橋魚河岸跡と芭蕉の借家跡


ぼくの興味はもう一人。
芭蕉を支えた人物のことだ。
先に触れたが、この魚市場で、大店を張っていた、幕府御用達の魚問屋、
鯉屋市兵衛(俳号、杉風)だ。

05
鯉屋杉風

杉風(さんぷう)は、誠実な人で、終生、芭蕉の弟子として学び、
かつ、芭蕉の生活の援助を続けた。
杉風は、耳が悪かった。
同門で流行りものに鋭敏な基角が、
「杉風は、耳が悪いから、流行に3年おくれた」などと揶揄したため、
芭蕉は、ひどく不機嫌になったというエピソードがある。

頑なに 月みるやなお 耳遠し  (杉風)

ひとり、音のない世界で、句作する孤独な姿が、目に浮かぶ。
杉風の疾病に同情し、芭蕉は生涯、耳の悪いことにふれる句は作らなかったという。
また、杉風は、絵画も狩野派に学び、写実的な作品をつくった。
かれの描く芭蕉の肖像は、だれよりもよく特徴をとらえたため、みなに信頼された。
深川、万年橋先の隅田川沿いに芭蕉の座像がある。
杉風の芭蕉の肖像画を京都の画家、吉田堰武が忠実に模写し製作したという。
ぼくは、この像の表情が、実際の芭蕉に近いものと、固く信じている。

杉風の子孫である山口家は、栃木県の倭町で創業100年を超える老舗旅館
「ホテル鯉保」を開業していたが、平成17年に閉じた。
この山口家の長女が、女優の山口智子さんである。
山口智子さんもなかなかな文化人と聞くが、ご先祖の杉風について、
エッセイでも書いたら、どんな杉風論になるか楽しみだ。

ある春の日、世田谷区宮坂の成勝寺にある、杉風の墓詣でに出かけた。
「アア!杉風さんのお墓ネ!芭蕉さんの有名なお弟子さんよオー」
寺の若い元気な女性が、案内してくれた。
墓碑に、だれの筆になるのか、杉風の線描きの肖像が刻まれていた。
享保17年、かれは86才で没するが、辞世の句も添えられている。


06
杉風の墓


痩せがおに うちわをかざし 絶えしいき (杉風)

ウーン。高僧のような悟りを感ずるなあ。 
杉風は、一貫して芭蕉の庇護者であり続けた。
庵に門弟の北鯤が贈った5升入りの、ひょうたんがあり、それに杉風や門弟達が
米を入れ、副菜を持ち寄ったという。
庵での句会や、吟行は小名木川に船を浮かべ、芭蕉は弟子達と楽しんだ。
貧しくとも、同好の仲間のきずなは深い。
数年経て「奥の細道」に旅立つ芭蕉が、餞別の句を残した。

ゆく春や 鳥哭き 魚の目は涙   (芭蕉)(注、行春や 鳥啼魚の目は泪)
               
涙をながしている魚とは、旅立つ芭蕉を見送る杉風のことで、
別離の意味がこめられているといわれている。
杉風への、芭蕉の気持ちは何時も深い。
芭蕉は、奥の細道の旅のあと、弟子のトラブルの調停のため大阪に旅立つ。
そこで病に冒され、短い人生を閉じた。
臨終に際し、杉風に口述で遺言を残している。

杉風へ 申し候。
久々の厚志、死後まで忘れがたく存じ候。
不慮なる所にて相果て、お暇乞い致さざる段、
互いに、存念、是非なきことに存知候。
いよいよ俳諧御勉め候うて、老後のお楽しみになさるべく候。

まさに、杉風に対する芭蕉の万感の思いが、込められている。


07
深川芭蕉庵あたり(右側)


さて、現代の日本橋に戻ろう。
橋の四隅には、意外と、くつろげる空間がある。
そこで、ひとりポツねんと水面を眺めたりするが、
高速道の脚柱の間隙に木漏れ日の模様が美しく、やさしい気持になる。

08
日本橋室町

日本橋という街の象徴は、橋、三越、とすぐ浮かぶ。
僕的には、日本銀行を加えたい。
江戸時代ではないが、近代の黎明期を牽引した日本の代表的な建築物だ。
ノルウェーの中央銀行をモデルにして建てられたというが、
外敵からの侵入を防ぐ、堅固な城塞を思わせる。
日本中にバラまかれるお札を収納する金庫の総面積は、東京ドームほどある。
他に類のない、存在感のある建造物だ。
ぼくは、この建物に魅了され、撮影し、写真集にまとめた。

09
日銀ドキュメント「沈黙と凝視」


東京駅に向かいながら、創業、天保15年(1844)の和菓子の「長門」に寄ろう。
徳川家の菓子司を勤めた、名門の店である。
葵の家紋をいれるのを許された葵最中、久寿もちなどが有名。
吉宗の好きだった、単行本くらいの大きな焼き菓子「松風」という
菓子があるが、売れ足が早くて、なかなか手にはいらない。 

日本橋、あなたは、どんな江戸に出会えましたか。?


10
長門菓子司

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »