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日本橋。あなたは、どんな「江戸」に出会えましたか?

01


日本橋界隈。
江戸時代、ここは文化や商業の中心だった。
この町の歴史の重要性はいうまでもない。
だが、このところ、街の中心の高層ビル化が進んでいるのには、チと違和感がある。
「コンクリートから、なんとかへ」というスローガンがあったが、
お江戸は、だんだん遠くなるゥ、遠くなるゥ、だ。
地方には、江戸が、だいぶ残っている。
たとえば、お伊勢参りにゆくと、江戸風な町づくりに、安らぎを覚える。
だいぶ前だが、ここ地元「赤福」の社長に、
江戸ムードの「おかげ横丁」の建設現場を案内してもらったことがある。
江戸から明治にかけての、伊勢路の代表的な建築物が、4~50軒、移築、再現されている。
その構想、と情熱には、ドカンというほどの感動を覚えた。
反対に、日本橋は都市化の流れが急で、ビジネスビルの建築が止まらない。
江戸イメージの保存や再建を、と声高に叫んでも、東京の中心では、ままならないのかもしれない。
せめてもの、
街をあげて、お江戸日本橋イメージの広報戦略を頑張ろう、というわけか。
街のあちこちに、そんな試みが、見受けられる。


三越地下通路に「煕代勝覧」、200年前の日本橋の店舗や、住民の生活を描いた
複製絵巻が展示され、歴史散歩のグループが足を停めている。
老舗「ニンベン」が店舗前に昔の店の写真を掲示している、
ホホウっと、通行人が好奇の目で覗いていく。
三井の工事現場にも、浮世絵の拡大した写真を張り出しているが、
どんなビルに仕上がるのだろう。
江戸はイメージの中で、楽しむべし、と割り切ったほうがいいのかな。
ぼくも、江戸のイメージの楽しみにでかけよう。
とくに、今回は、人物を焦点に。


02
煕代勝覧を見る人たち ニンベン江戸時代
建築現場


個人的興味だが、伊賀上野から、花のお江戸に出てきた若き29才の芭蕉がおめあて。
かれは大都会で、新しい俳諧へ野心を燃やした。
江戸暮らしは、どんなだったか。
ユーモラスで、人情家、時代感覚の鋭い人で
作品のトーンは、いまに通ずるものがある。

03
芭蕉


秋深し 隣はなにを する人ぞ (芭蕉)


作者を知らなければ、現代の俳句かと、勘違いしそうだ。
没交渉の隣人の、気配に耳をそばだてる、ちょっとコミカルな味もある。
だが、この句は、芭蕉が亡くなる直前、句会欠席の挨拶につくられたものだというから、
句の意味するところは別にあり、深い。
芭蕉(29才)が、江戸に乗り込んだのは、1672年といわれている。
佃煮屋の日本橋鮒佐の角に、芭蕉の句碑がある。
「ヘエー。ここへ、わらじ脱いだんだ?」
当時、魚河岸に近い小田原町(現、日本橋室町1-2)にあった
小沢太郎兵衛(俳号、ト尺)の借家に芭蕉は住んだといわれ、
その後は、あとでふれる鯉屋、杉風の二階に移ったらしい。(諸説あるが)

日本橋の東側には、魚市場があり、活況を呈していた。
東海道名所図絵で、秋里籬島が、
魚市場から東へ、ふた筋目が(芭蕉の住んだ)小田原町だと解説。
魚屋が並らぶそこに、芭蕉の借家があった、と推測される。
その賑わいは、いまの築地場外に似た風景だっただろう。
芭蕉は、騒がしい場所に住んでいたんだナ。
この環境から想像すると、俳句の宗匠然として、上げ膳、据え膳的なた待遇をうけた
と、いうわけではないようだ。
のちに神田上水の水役をつとめて、収入を得たわけだから、日本橋でのくらしが、
楽だったとは思えない。
水路にかかわる仕事を済まし、俳句を教え、更に自分の作品も作る。
まるで、バイトで生活費を稼ぐ、現代の芸術青年に通ずるものがあるナ。
芭蕉も苦労したんだなア。


04
日本橋魚河岸跡と芭蕉の借家跡


ぼくの興味はもう一人。
芭蕉を支えた人物のことだ。
先に触れたが、この魚市場で、大店を張っていた、幕府御用達の魚問屋、
鯉屋市兵衛(俳号、杉風)だ。

05
鯉屋杉風

杉風(さんぷう)は、誠実な人で、終生、芭蕉の弟子として学び、
かつ、芭蕉の生活の援助を続けた。
杉風は、耳が悪かった。
同門で流行りものに鋭敏な基角が、
「杉風は、耳が悪いから、流行に3年おくれた」などと揶揄したため、
芭蕉は、ひどく不機嫌になったというエピソードがある。

頑なに 月みるやなお 耳遠し  (杉風)

ひとり、音のない世界で、句作する孤独な姿が、目に浮かぶ。
杉風の疾病に同情し、芭蕉は生涯、耳の悪いことにふれる句は作らなかったという。
また、杉風は、絵画も狩野派に学び、写実的な作品をつくった。
かれの描く芭蕉の肖像は、だれよりもよく特徴をとらえたため、みなに信頼された。
深川、万年橋先の隅田川沿いに芭蕉の座像がある。
杉風の芭蕉の肖像画を京都の画家、吉田堰武が忠実に模写し製作したという。
ぼくは、この像の表情が、実際の芭蕉に近いものと、固く信じている。

杉風の子孫である山口家は、栃木県の倭町で創業100年を超える老舗旅館
「ホテル鯉保」を開業していたが、平成17年に閉じた。
この山口家の長女が、女優の山口智子さんである。
山口智子さんもなかなかな文化人と聞くが、ご先祖の杉風について、
エッセイでも書いたら、どんな杉風論になるか楽しみだ。

ある春の日、世田谷区宮坂の成勝寺にある、杉風の墓詣でに出かけた。
「アア!杉風さんのお墓ネ!芭蕉さんの有名なお弟子さんよオー」
寺の若い元気な女性が、案内してくれた。
墓碑に、だれの筆になるのか、杉風の線描きの肖像が刻まれていた。
享保17年、かれは86才で没するが、辞世の句も添えられている。


06
杉風の墓


痩せがおに うちわをかざし 絶えしいき (杉風)

ウーン。高僧のような悟りを感ずるなあ。 
杉風は、一貫して芭蕉の庇護者であり続けた。
庵に門弟の北鯤が贈った5升入りの、ひょうたんがあり、それに杉風や門弟達が
米を入れ、副菜を持ち寄ったという。
庵での句会や、吟行は小名木川に船を浮かべ、芭蕉は弟子達と楽しんだ。
貧しくとも、同好の仲間のきずなは深い。
数年経て「奥の細道」に旅立つ芭蕉が、餞別の句を残した。

ゆく春や 鳥哭き 魚の目は涙   (芭蕉)(注、行春や 鳥啼魚の目は泪)
               
涙をながしている魚とは、旅立つ芭蕉を見送る杉風のことで、
別離の意味がこめられているといわれている。
杉風への、芭蕉の気持ちは何時も深い。
芭蕉は、奥の細道の旅のあと、弟子のトラブルの調停のため大阪に旅立つ。
そこで病に冒され、短い人生を閉じた。
臨終に際し、杉風に口述で遺言を残している。

杉風へ 申し候。
久々の厚志、死後まで忘れがたく存じ候。
不慮なる所にて相果て、お暇乞い致さざる段、
互いに、存念、是非なきことに存知候。
いよいよ俳諧御勉め候うて、老後のお楽しみになさるべく候。

まさに、杉風に対する芭蕉の万感の思いが、込められている。


07
深川芭蕉庵あたり(右側)


さて、現代の日本橋に戻ろう。
橋の四隅には、意外と、くつろげる空間がある。
そこで、ひとりポツねんと水面を眺めたりするが、
高速道の脚柱の間隙に木漏れ日の模様が美しく、やさしい気持になる。

08
日本橋室町

日本橋という街の象徴は、橋、三越、とすぐ浮かぶ。
僕的には、日本銀行を加えたい。
江戸時代ではないが、近代の黎明期を牽引した日本の代表的な建築物だ。
ノルウェーの中央銀行をモデルにして建てられたというが、
外敵からの侵入を防ぐ、堅固な城塞を思わせる。
日本中にバラまかれるお札を収納する金庫の総面積は、東京ドームほどある。
他に類のない、存在感のある建造物だ。
ぼくは、この建物に魅了され、撮影し、写真集にまとめた。

09
日銀ドキュメント「沈黙と凝視」


東京駅に向かいながら、創業、天保15年(1844)の和菓子の「長門」に寄ろう。
徳川家の菓子司を勤めた、名門の店である。
葵の家紋をいれるのを許された葵最中、久寿もちなどが有名。
吉宗の好きだった、単行本くらいの大きな焼き菓子「松風」という
菓子があるが、売れ足が早くて、なかなか手にはいらない。 

日本橋、あなたは、どんな江戸に出会えましたか。?


10
長門菓子司

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