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2010年6月

いつのことだか、思い出してごらん。あんなこと、あったでしょ。

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江東橋幼稚園

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江東橋の公園


いつのことだか 思いだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと
いつになっても わすれない。

この歌、このメロデイが、流れると、
知らず知らずに涙腺がゆるんでくる。
人によって、瞼に浮かぶ光景は、さまざまだろうが、
やはり、幼いわが子の、あやうげながらも、ひたむきに生きる映像が、瞼に蘇るのだろう。
この歌をステージで歌ったとき、歌手の芹洋子は、初めて客席で、すすり泣く声を聞いたという。

「コンサートで歌っている最中、ボロボロ涙を流す、お母さんを見て、
 もらい泣きをしたこともしばしば、観客と同じ感情をもてる喜びを、
 この曲で知ることが出来ました。」(唱歌、童謡ものがたり、読売新聞文化部著、岩波書店刊)

保育園や、幼稚園に通う年頃の子というのは、いとおしくも、厄介な存在である。
母親にとって、この時期は苦闘のあけくれである。
もてあまし、思い悩みつつも、けなげに生き、成長していく、
そして、幾星霜。わが子の、卒園式を迎える。
あんなやんちゃで、手を焼かせたわが子が、ちょっと大人びた表情で
列に並んでいる。
そして、最後、お別れのこの曲になる。
だだっ子だった子供が成長し、歌う姿を見ながら、お母さんは、
万感の思いが、こみあげて、思わず瞼が潤んでしまうのである。


この「おもいでのアルバム」は、江東橋保育園の園長の増子としの作詞、
神代幼稚園園長の本多鉄麿の作曲で生まれたものだ。
すぐ気付かれた方もいるだろうが、これは、保育現場から生まれた音楽なのだった。
ふたりは、保育への理想、音楽教育への情熱で共鳴していた。
クリスチャンの増子と、常楽寺住職の本多という宗教家同士であることも、
不思議なくらい、共通の要素をもっていた。
本多は、芸大を目指した芸術青年でもあった。
後に、広田龍太郎に師事したこともある。


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江東橋保育園

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保育園にいた猫


この「おもいでのアルバム」は、歌としてではなく、ミュージカル
として構成されたものだった。
リズミカルプレイとして、演出のシナリオと楽譜とで成り立っている。
ところが、いつからか、オペラの序曲のように、
序曲だけが、単独で歌われるようになった。

いつのことだか おもいだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう

平易なわかりやすい歌詞である。
ふだん、大人が子供にやさしく話しかける言葉だ。
「ぞうさん」を作詞した、まど みちおさんを思い出す。
かれも、平易な言葉で、幼児の心をつかんでいる。
ぞうさん ぞうさん お鼻がながいのね
曲の本多鉄麿も、
「保母さんのピアノの演奏技術にあわせて作曲しているんだよ(ミヨ夫人の話)」と、
歌いやすさ、演奏のしやすさに、顧慮したことを語っている。

そのわかりやすく、相手をおもんばかる気持が、
あの心に響くメロデイになったのだろう。

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鉄麿と妻ミヨさん


鉄麿は、戦後、荒廃した時代、いち早く、子供のため「常楽文庫」(寺の名が、常楽寺)を開設、
書物を開放した。
美術館や博物館に子供を親しませたのも、
当時の混乱のなかでは、慧眼をもった人だった。
大人にも読書会、俳句会などや合唱団も組織した。
なかでも音楽への情熱は熱く、
持病の喘息で、苦しみながらも、寒い日でも、マフラーをなびかせて、大きな声で歌ったという。

かれは1966年に亡くなったが、人々はみな鉄麿を慕い1996年、
常楽寺内に歌碑を建立した。
「とても、おっとりした人でした」と、ミヨ夫人は、夫をそう評する。
写真で窺えるようにやさしそうな人である。
生涯で、生み出した童謡や、幼児むけオペレッタなど作品は、
なんと、2000曲にものぼるという。

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歌碑


一方、増子としは、幼児教育の専門家として活躍した。
「音楽で、のびのびと子供の表現意欲をひきだしたい」
これが、彼女のポリシーだった。
1951年に江東橋幼稚園の園長を勤めた時、保育の現場で子供と遊ぶための曲を集め、
楽譜と解説を付けた教材をつくった。
それは、なんと平成2年までに74版を重ねる、ロングセラーになった。
保育界で、これを超えるベストセラーはないという。


「おもいでのアルバム」ができたとき、増子は「今度出来た曲いいわよ」と、
顔をくしゃくしゃにして、うれしそうに担当編集者に原稿を渡した、という。
ところが、なんたる、不幸か。
発表から二年後、増子は、脳に障害を発生した。
退院後、目白台の自宅で、家族と静かな生活を送っていたが
日が経つにつれ、記憶が、どんどん薄れていった。
あるとき、朝のワイドショーで、TVから、芹洋子の「思い出のアルバム」が流れてきた。
それを聞いていた増子は、
「ああ、いい曲ねえ。この歌は……」と、つぶやいたという。
それが自作だと、気が付かない彼女に夫は、驚いて、
「これは、お前のつくった歌じゃないか」と大声をあげた、という。


本多鉄麿は、1966年に亡くなったが、この歌が爆発的な人気になったことはその後のことで、
増子としも、病気が自作の歌を忘れさせた。
存命中は、二人とも、歌がこれほどまで、世の人に愛されたことを知らなかった。
しかし、その不運な作者の代わりに多くの人々が、この名曲に酔いしれたのだ。


増子の保育園は、新しく建て変わった。
その江東橋保育園は、明るい日差しのなかで、こじんまりと存在していた。
幼児の親でもないぼくだが、下駄箱のカラフルな靴や、砂遊びの遊具などを
眺めているだけで、なぜか、ジーンと胸に迫るものがある。
幼児という時代が発する、いとおしさなのだろう。

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靴箱


京王線で、つつじヶ丘、北口から5分の、本多鉄麿の常楽院にでかけた。
緑が覆う、細い道の先に、緑豊かな落ち着いた寺があった。
ご子息の、本多慈昭氏と鉄麿夫人のミヨさんにおめにかかった。
お話を伺い、鉄麿の祈りの場、本堂に案内してもらった。
美しい菩薩像が、印象的だった。


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寺への細い道

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本堂

鉄麿の亡き後、45年間続いた神代幼稚園は、平成8年、歴史をとじた。
記念の思い出のアルバムに、閉園を惜しむ多くのメッセージが寄せられている。
創立当初から、鉄麿と園児の世話を続けた、小野洋子さんは、
「はだしでとびだして帰ってしまう子を追いかけて、息がきれたり、喧嘩を止めようとして、
 腕を噛みつかれたり、泣き止まない子を、なわとびの縄でおんぶしたり、
 田園風景の広々とした、畠や田んぼの畦道で、蛙やバッタを追いかけたり、
 レンゲで、首飾りをつくって遊びました」
と、園児と生きた、当時を懐かしむ。

 ……あんなこと こんなこと あったでしょう

やさしい鉄麿が、当時、
「こんな曲ができたよ」と聞かせてくれたのが印象的だった。
小野さんは、

 ……うれしかったこと おもしろかったこと いつになっても 忘れない

と、深い感慨を洩らしているのだった。

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花の道

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ぐるっと、谷根千。谷中その5。

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谷根千の古い家並に、若者がいる。
風景が、「オヤッ」と、新鮮な魅力に変わる。
古い風景が、新しい要素とからみあって、ガラリ楽しい。
この街の特徴は、古い家や風景を活用した若者のイベントやパフォーマンスが盛んなことだ。

いつだったか、面白い企画を耳にした。
「ぶらっと着物、着物で谷根千」という(古着屋さんの企画か?)
アイディアで、根津神社~ヒマラヤ杉~夕焼けだんだん、というコースを、
若者が着物で散歩する、イベントが、行われたらしい。
ぼくは、行けなかったが、面白そう!
細い道をぶらぶらしていたら、着物は着物でも、「ヤヤッ!」
玄関に、着物を飾ったフシギな風景に出合った。


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奇妙な着物

御殿坂通りを、左折して、朝倉彫塑館(改造中)の方角に向かう。
ギャラリーなど、文化的な店舗や施設が多い。
誰が名ずけたか、ここを「谷中アートストリート」というらしい。
古い民家の二階でウクレレをつまびく若者がいる。
いい風景になってるな?
不躾にカメラを向けたので、睨まれてしまった。
ごめんよ。
一階では、イベント企画でも練っているのだろうか。数人の若者がたむろしてた。
その民家は、間間間(さんけんま)と名ずけられている。
大正8年築の民家を利用して、多目的な運営をしているらしい。
聞くところ、一階は、曜日によって喫茶、バー、尺八教室など、
変幻自在な、店舗展開をしている。
二階は、下宿屋になっているのだそうだ。


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間間間


すぐ傍で、「天才ナカムラスペシャル」さんが、
路上の石に彩色し、その石でパターンを画くパフォーマンスをやっていた。
夕方、そこで舞踏家の中村達哉さんとの、コラボがあるのだそうだ。
ここで踊ったら、足がイテーダロウな。


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石のパフォーマンス

「小倉屋」という江戸時代から続いた質屋を利用したギャラリーがある。
文化庁の有形文化財登録に指定された(2000年指定)建物だ。
いまは、「スペース小倉屋」として、絵画が中心のギャラリーになっている。
ギシギシと、壊れそうな階段をあがり、日本間で、展示物を鑑賞するのも、
不思議な感じでいい。


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スペース小倉屋


いずれにしても、この通りは、ほかにも骨董屋とか賦力屋(ブリキ屋)などあり、
古い家屋や古い家財などを、損なわず活用していこうと、街をあげて、
雰囲気ずくりの努力をしている。

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ブリキ屋

初音小路の横にある、ネコグッズの「のら」の店先を撮影していたら、
店のご主人が、陰から現れて、「さ、どうぞどうぞ」と店内に招き入れられてしまった。
話好きな方で、ここに店を構えたいきさつをたっぷり語ってくれた。
このネコグッズの店を経営するにあたり、
一番住み良さそうな立地はこの街だと、確信して移ってきたのだそうだ。
なぜ、確信を?
「野良猫がゆうゆうと生息できる街なんて、あまりないでしょ。」
ご主人も、かなり野良猫に同化してるヨ。
そういえば、店の名も「のら」だ。

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猫グッズの、のら


明暦の大火後に江戸の中心部から、焼け出された多くの寺院が、
どかどかっと移転してきて、「谷中八丁に、九十八か寺」と呼ばれる程の巨大な寺町が、形成された。
寺が、8~90ある地域だから、ネズミが多い。
それで、猫が活躍、という構図もあるらしい。
人間と猫の関係は、いずれにしても、そんなからみで継続、深化したようだ。
「この谷中の人達の余裕の生活観や、人情には、長い歴史の積み重ねがある。」
うん。なかなかの蘊蓄話だ。
オレも賛成ですよ。
店のウリだろうか、「ダヤン」のグッズが多い。
ぼくも、攻撃的なダヤンの顔、好きだヨ。
ダヤンの生みの親、池田さんは、たしか谷中で育ったんだっけ。

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谷中の街


パワースポットが、流行りだ。
鬼門だの、ご利益、厄災がどうだとか、考え始めると面倒だから、
そこにいるだけで、くつろげたり、穏やかな気持ちになれる場所が、
心身に良いのだと決め、探す。
そういう安らぎのスポットをいくつか見つけた。
お寺だ。
一般の参拝客を拒む寺もあるが、その逆に、
参詣客を、くつろがせる雰囲気をつくっている寺もある。

まず第一に、天王寺(感応寺)だ。
由緒もあり、整然としているが、やさしく、居心地がいい。
ぼくは時々、古木の伸びた庭に近い、本堂の縁側に腰をかけ、
その枯れた味わいをゆったり楽しむ。
この寺は、波瀾万丈の歴史をくぐり抜けてきた。
さすが、大物の寺だ。
ドラマテイックな(幕命で改宗させられたり)法難の傷痕を窺わせることもなく、
静謐な空間は、悠久の時間の流れるのを感じさせる。
江戸時代は、谷中墓地のほとんどが天王寺の寺領で、門前町も栄え、
宝くじのもとである「富くじ」が、この寺で盛んにおこなわれたが、
その喧噪を偲ばせるムードなども、いまは、かけらもない。


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天王寺の境内

富士見坂を下る。
ここを下った先に、探し物がある。
画家、有元利夫さん(1946~1985)の家を探すのだ。
有元さんは、教会の漆喰壁などに描かれる、フレスコ画の質感を、
日本画で使う岩絵の具で表現し、注目された。
「花降る日」続いて「室内楽」と力作で、安井賞の特別賞と大賞を受賞した。


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花降る日。(1977)


有元さんの絵は、イコンの匂いがする。
しかし、パワフルな外国の宗教画と違う、おだやかでソフトな宗教的な、雰囲気がいい。
もう、何年、経つのだろうか。
雑誌の取材で、かれのアトリエを訪問したことがあった。
温和な方で、とても和やかに時間を過ごした印象があった。
残念だが、かれは早世してしまったが、その楽しいひとときの記憶、(ただ、それだけの、ことだが)
思い出され、かれのそのギャラリーがまだ存在しているのか、探した。

だいたい、アタリをつけてきたのだが、なかなかみつからない。
たしか、実家が、文房具屋を営んでいると聞いた記憶がある。
喫茶乱歩、武藤書店の両ご主人には、その、家捜しに大変お世話になった。
不忍通りの商店街を、クリーニングやさん、パン屋さんなど片っ端から
あたって、やっとそれらしき家を発見した。
呼び鈴を押したが留守らしい。
ふと、表札に気ずいた。
なつかしや。
もう、2~30年経つただろうか。
かれの書いたであろう、表札の字だ。
「有元利夫」
風雨に晒され、薄れていた。
「うーん」
思わず、感ずるものがあった。

そのアトリエは、いま、かれの奥さんが使用している、と後で知った。


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アトリエ。

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表札。

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ぐるっと、谷根千。谷中その4。

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根津駅ちかく。

指人形の「笑吉」の店がある。
人形作家は、露木光明さん。
谷根千のユニークなスポットだ。
粘土で造った、指人形が店内に並べられ、小さな演台でそれを操る。
キャラクターは、老人のコミカルな表情や仕草の人形が多い、
いろんな職業や、さりげない動作、政治家の顔も、リアルでコミカル。

思わず、吹き出す。
「表情の面白さは、歳とった方には、かないませんよね」
作者の露木さんは、いう。
根津の一角で、指人形の製作から、劇の公演から、販売まで、露木さんは頑張る。
似顔絵の指人形も一体、2万円程度で製作してくれるが、希望者が多く、2~3年は
待たされるようだ。

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人形作家、露木光明さん


「笑吉」は、どうして生まれたか?
ぼくには、露木さんが「笑吉」人形を生み出した、
苦労の経緯が、とても興味深い。
聞いてみた。

露木さんは、かって、縫製の会社のサラリーマンだった。
子供の頃から絵が好きで、日曜画家。
「ウーン。自分の絵画、花開かせたいなァ」誰でも抱く、人生の願望だ。
子供の絵画教室などバイトもやっていた。
ある時、教室でのカリキュラムの一環で、粘土細工をやってみようと、
教材のサンプルを造っていたところ、なかなか表情の面白い人形ができた。
「そうだ! この粘土細工は、オレに向いている」と小躍りしたという。
自分の才能、適性は、「絵画」より「これではないか」と、実感したのだ。


「13才のハローワーク」という職業適性の探索本が有名だが、
露木さんにとって、自分の適性と才能の発見は、中年以降まで遅れてしまったが、
じつに、ドラマチックな自分発見の瞬間だった。

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谷中に煎餅屋が何軒あるだろうか?
煎餅には、目がないぼくは、かたっぱしから、探して買ってみた。

三崎坂の「菊見せんべい」から、スタートした。
店先で、いきなりお使いワンちゃんに遭遇した。
首に袋をぶらさげ、心得えた顔をしているが、
うしろにおやじが、ひもで曳いてるから、お使いじゃなかった。
菊見せんべいは、創業1875年の老舗だが、煎餅の値段は庶民的。


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地元の常連客、「菊見煎餅」

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明治の菊見煎餅

不忍通りにでると、「八重垣煎餅」がある。
そこで、徳用袋を買い、善光寺坂に曲がる。
「大黒屋」だ。
いかにも、庶民的な「商い」といった小さな店だ。
薄暗い、奥の部屋から、もぞもぞっと、中年のおじさんが出てきた。
れっきとした、職人さん的な人だ。
買った。
高けえな!
でも、それだけ味に自信があるんだろう。


その足で、夕焼けだんだんに近い、「谷中せんべい」に寄った。
先代が亡くなって、そのあと、40代の跡継ぎが頑張っているらしい。
丁寧な物腰の若者。

トドメに、「谷中煎餅」裏の「初音小路」にある「都せんべい」に立寄った。
この「初音小路」は10数軒の小店舗のひしめく、昭和ムードたっぷりな小路だ。
「都せんべい」で、谷中の有名どころの煎餅は、あらかた踏破したかな?
立ち寄ったが、留守だった。
2~3日経っても、閉まっていた。

3回目。やっと、店が開いた。
「おばさん、3回目だぞオ」
「悪かったですね。おじさんが、ケガしちゃったんですよ。」
奥で、おじさんが、しゃがんで、黙々とせんべいを焼いている。
ヴィジュアル、つまり、煎餅の焼き加減の色合いから、堅焼きの厚いのは、僕好みだった。
谷根千の煎餅屋は、老舗揃いだけあって、どれも美味かったぞオ。


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初音小路の都せんべい

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だいぶ前に、画集で観た絵だが、印象に残った。
都市の暗い風景を描いた絵だが、
暗さの中に、リリカルな風情があって、寂しい。
画家の名は、松本竣介(1912~48)だった。


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松本竣介の作品


最近、谷中を歩き回っているうちに、
若い画家達の、溜まり場だった「りりおむ」という喫茶店が、
昭和初期の谷根千にあった、という情報をキャッチした。

場所は、団子坂と三崎坂のぶつかる、あたりだった。
無頼の画家、長谷川利行や、麻生三郎、あい.光、
などの画家達のほかに、松本竣介もグループ「赤荳会」のメンバー達と溜った。
峻介は、聴覚に障害があった。
あの暗い、音のない絵の世界は、多分、そこからくるように思われる。
勿論、ひたひたと迫ってきた、戦争への不安や絶望も、
あの暗さと悲しみに影響したに違いない。

ぼくが、注目したのは、もう一人。
「りりおむ」の経営者の中林政吉だった。かれは、画家達の力強い支援者で、かつ、
進歩的文化人であった。
「りりおむ」の経営は、昭和初期の短い間ではあったが、
その間、ラジカルな若い画家達の燃焼の場として、中林が支えた力は大きい。
しかし、あっという間に店は、権力によって、つぶされた。
画家や美校生の左翼活動の拠点となった嫌疑で、閉店を強いられたのだった。


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「りりおむ」中林敬治画

店をめぐる人々の、人間的な結束は固く、店主の中林が、政治活動の嫌疑で、
再三、警察に拘留された時も、峻介はじめ仲間が結束し店を守ったという。
強い友情と、芸術に対する熱い思いが、「りりおむ」に充満していたのだ。

店内には、ジョセフィン、ベーカーのシャンソンや、
チャップリンの「街の灯」などの曲が、流れていたそうである。
店は、ゆりかご、のような、安寧の空間でもあった。
そういう人々の熱い思いを谷中は、やさしく包みこんで、刻が流れてきたのだなア、
と思わず、吐息が洩れる。


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左上、俊介。左から二人目中林政吉


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「初音町」の名の町があった。
うるわしいひびきだが、そのあたり、鶯谷とよばれ、
鶯の初音を楽しんだところから生まれ町名だそうだ。
近くには、蛍坂もある。もち、蛍で有名だった。
このあたりは、豊かな自然の谷あいだったのだろう。
大木の林を一部残した初音公園があるが、運動公園で情緒はない。

そのあたりに「岡倉天心記念公園」(谷中5丁目7番)がある。
天心は、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、
近代日本画に、清新の気を与えた人だ。
住居跡が、小公園になっていて、平櫛田中作の天心の座像が、置かれている。

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岡倉天心


初音公園脇の坂を上ると、築地塀の観音寺がみえる。
この塀は、瓦と土を重ね合わせた、珍しい塀だが、
もう日本には、築地塀は、僅かしか残っていないそうである。

この観音寺には、もうひとつ由緒がある。
赤穂義士に名を連ねた、近松勘六行重と、奥田貞右門行高の、碑があるのだ。
なぜ?
義士と寺との関係はこうだ。
義士の行高は、この寺で修行していた文良と兄弟だった。
文良は、のちにこの寺の第六世の、朝山大和尚となった人物である。
寺伝によれば、僧の文良は、討ち入り前の浪士達の会合の便宜を諮り、寺内で、しばしば
かれらの謀議がおこなわれたという。
谷中という町では、
江戸から明治にかけて、義に加担した人々の逸話が多い。
そういう逸話に接するたびに、心を洗われるように思うのだ。

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観音寺の築地塀

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観音寺


観音寺から、日暮里に向かう途中で、数人の高校生らしい外人旅行客とすれちがう。
すると、また、向こうから三人の、外国人の女学生がやってきた。
通学中の女生徒と見間違うほど、町に溶け込んだ表情をして歩いている。
え!地元の学生かア?
いや、旅行客だろう。
それにしても、土地に溶け込んでいるなあ。
人けのない、寺の脇道で外人の老夫婦に出会った時も、さりげない会釈で、
土地の人のような、すれ違いをした。
区の広報によれば、谷中は、年間80カ国、13万人の外国人客が、訪れるという。
原宿や秋葉原で見かける外国人が、異邦人であるのに対し、
この町では、かれらは、土地に自然に溶け込んでいるのが微笑ましい。

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谷中をゆく女生徒

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ぐるっと、谷根千。谷中その3。

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今日は、千駄木からスタートした。
駅の2番出口を、地上に出る。
そこを左へ、更に最初の道を左。
こんもりと緑の大木に覆われた、高台の須藤公園(元、大聖寺藩の跡)に突き当たる。
長閑さや…………、などと出てきそうな、静謐な空間だ。

真ん中に池もある。
ベンチで、読書する男性が二人。
この涼風は、ご馳走だナ、ぼくも水辺まで下る。

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しばらく呼吸を整えて、ぐっと急な坂をのぼり、公園を後にする。
出たあたりは、千駄木の高級住宅街だ。
団子坂に出るまで10分、のんびりと向かう。
中年の女性が、二人、お屋敷の植え込みや、花壇を、あちこち覗き込み、
感想をしゃべりあいながら、楽しんでいる。

なるほど、こういう、借景的、ガーデンライフの楽しみ方もあるんだあ。
あとで、「いま、そういう流行りなのよ」、と知り合いの女性が教えてくれた。
フーン。


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おっと、もう団子坂だ。

「D坂殺人事件」………江戸川乱歩が団子坂上に住み、そして書いた推理小説だ。

「それは9月初旬のある蒸し暑い晩のことでした。
私は、D坂の中程にある白梅軒という喫茶店で…….

という書き出しで、古本屋の細君が殺されたことを、探偵、明智小五郎は知るのである。
そんな、ミステリーを、乱歩は書きあげたのだ。
左手に、かなり、古い石垣が、D坂下(団子坂下)方向に続く。
小説の描かれた時代の、証人としての風景は、この石垣くらいのものだろう。
酒屋の配達のおじさんに、こりゃあ、相当昔の石垣でしょうね、
と、話かけると、そうですね、昭和に出来たもんじゃないでしょう。
乱歩は、うでを組み、この坂をのぼり下りしながら、
プロットを練っただろうと、勝手に推測する。

これから、この坂に繋がる、三崎坂を上って、
喫茶店の「乱歩」にいこう。
ゆっくり、頭を冷やしながら、今日の「谷根千」散歩の段取りを考えよう。
またも、猫はいなかったが、ゆったりコーヒーを味わった。

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そうだ、根津神社にお参りしよう。
不忍通りから、細い道を神社に向かい、しばらく歩く。
左に金太郎飴の店、右手の表具屋、更に左手に染物屋があった。
この通りの店造りは、昭和初期、いや店によっては、江戸もありそう。(まさか)
六文銭でも、差し出さないと、売ってくれそうもないナ、などとくだらないことを
考える。
根津神社は、1900年前に、日本武尊が、創祀したと伝えられる古社で、
現在の神社を建立したのは、徳川綱吉。
権現造りの古い建物や水面の風情に、江戸の面影を残す、緑深い神社だ。
左手は丘になっており、そこの築山に、つつじの植え込みや、
奉納された赤い鳥居が並んでいる。
この、江戸の雰囲気の濃厚な境内は、T.Vのドラマ、「仕掛人シリーズ」などに
頻繁に登場するそうだ。
隣に、日医大関係の病院があるせいか、若い女性のドクターなど数人が、車椅子の
重症らしい患者さんに、ていねいに景色の説明をしている。


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根津神社、乙女稲荷の舞台。


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社殿を囲む透塀。全長200米、宝栄3年建立。


10人ほど、高齢者が、スケッチに没頭している。
絵画倶楽部だろうか。
覗き見すると、上手ウ。
帰りに、金太郎飴に寄って、ニッキと金太郎飴を買う。
小石川で創業(大正3年)したが、道路拡張で根津へ移り、いま、ぼくに、
接客するかれが、3代目だそうだ。
奥で一人で、コツコツ飴をつくっている。
話好きないい人だ。
「小石川では、樋口一葉の近所に住んだそうですよ」とおっしゃる。
谷根千には、こういう独り仕事の職人さんの店が、ちょくちょく見受けられる。


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スケッチに励む。

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金太郎飴。


これから、あかじ坂に狙い定め、歩く。
おや?
芋甚は、きれいなビルに変わっちゃったぞ。
谷根千人気で、来街客が集まるからか。
20年くらい前は、ちいさな、菓子屋だった。
「芋甚」という屋号がいい。
かってな想像だが、
昔は、芋を売っていたジンベイさんとでもいう人の、素朴な店だったのだろう。
調べてみたら、やっぱり、アタリだった。
大正初期にここで、焼き芋を売っていた、山田甚蔵さんが、芋甚の創業者。
で、2代目が、甘味処を開き、今、三代目に引き継がれたそうである。
でもご成功で、結構なことだ。
ぼくも、歩きながら小倉アイスの最中を、パクついた。
この、アイスの製法は、大正時代からの、レシピそのままのつくり
だそうで、あっさりした味で、おいしい。

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やや!外人さん人気の旅館「澤の屋」も立派になっちゃったぞ。
まわりの環境もこころなしか、奇麗に変わっちゃった。
地域猫を抱いた付近のおばさんが、町のムードの、変わり様にはちょっと寂しそうだ。
この坂を上ると、きれいな住宅街だ。
坂上から、外人のカップルが、くだってきて、ネコ喫茶を、覗いている。
澤の屋の泊まり客の散歩かな?
ぼくも、この喫茶へ寄るつもり。
ここは、猫好きの写真家のマンション、「風呂猫アートハウス」の1階にある、
猫喫茶「猫町カフェ29」だ。
猫ちゃんが三匹いるが、よく躾けられていて、客のテーブルに乗ったり、
卑しい振る舞いはしない、という。
店主は、周辺に生息する野良猫にも餌をやったり、
寝床のコーナーも用意してあげているが、
伝染病のケアなどで、客に「野良猫に触った場合は、手洗いなどをして店内に入るよう」に、
衛生面での配慮も細かい。
壁際には、猫が自由に外へ出入りするため、ジグザグの猫専用通路が出来ている。
モグラの道のようで、面白い。
猫の、日向ボッコ専用のテラスも屋根に設けている。
猫喫茶の、経営ノウハウは、相当、手の込んだもだという事に感心する。

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左手の建物が、澤の屋という旅館。


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猫町カフェ29。

さて最後は、丘の上の奇ッ怪なる館へゆく。
この、猫町カフェ29の、すぐ先だ。
D坂からきたとて、そこは怪人二十面の棲み家ではない。
だが、館の主人公は、奇怪なる人物であった。(と過去形だが)


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怪しげな、館。実は。

上口愚朗(1892~1970)、天才なのか、変人なのか、判別不能な人物だった。
宮内庁御用達の大谷洋服店で修行し、テーラーとして自立。
仕立ては完璧、斬新なアイデイア、値段は高い、などから人の度肝をぬくような
洋服の職人だったそうだ。
左右非対称の服や、裏返したような服、まさに、現代の自由な発想のデザインを、
すでに大正時代に先取りした、前衛的なクリエーターだった。
あるとき、突如、陶芸家に変身。
上野の地下鉄工事で、掘った土で茶碗を焼いたりした。
「エエ??」
だが、心配ご無用。
川喜田半泥子に師事しただけに、腕は素人の域を超えていた。
だが、前衛ぶりは、止まらない。
自宅の屋敷内の、樹の上に茶室を作ったり、ぐるぐる回る茶室を作ったり、
魯山人や、川端康成、藤田嗣治など、文化人を集めて茶会を開いたりした。
常識というメジャーの埒外。
並外れた才能と、自然児のように奔放に生きた希有な人物だ。
排便中の姿こそが、人間の自然体である、と「ウンコ哲学」を堤唱した、という。
もう、ぼくの頭のなかは、線香花火が、勝手に弾け回り、
この天才の脳みそに翻弄されてしまった。
でも、ホントはこいう人、大好き。
おそらく、著名文化人を集めるからには、単なる変人ではなかろう。
かれのもうひとつの大仕事は、江戸時代の和時計を集めた「大名時計博物館」
をつくったことだろう。
大木の鬱蒼と繁る大名屋敷跡に、この博物館はある。
貴重な、文化財ではないか。

門前で、体調をいたわりあっていた、ふたりの品のいい、老婆に訊ねた。
この近所に長く住む方だそうだ。
「ここのご主人だった人がつくったという、木の上の茶室って、まだ残って
いますかねえ。」とぼく。
「ああ、あの茶室は、ありませんよ。
かなりな重さなので、木が枯れてしまって、切り倒したんですよ。
みましたけど、こんな大きな切り株でしたよ。」両手を大きく、広げた。
「そうそう。ぐるぐる回転する茶室もありましたが、もう動かないでしょうね。」
ご近所のおばあさんだけに、よく、事情は、ご存知だった。

今日は、グッタリ疲れたぞオ。

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この奥の庭には、入れない。

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