« ぐるっと、谷根千。谷中その5。 | トップページ | 両国の今日この頃は、涙雨。両国その1。 »

いつのことだか、思い出してごらん。あんなこと、あったでしょ。

01_p1110797
江東橋幼稚園

02_p1110739
江東橋の公園


いつのことだか 思いだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと
いつになっても わすれない。

この歌、このメロデイが、流れると、
知らず知らずに涙腺がゆるんでくる。
人によって、瞼に浮かぶ光景は、さまざまだろうが、
やはり、幼いわが子の、あやうげながらも、ひたむきに生きる映像が、瞼に蘇るのだろう。
この歌をステージで歌ったとき、歌手の芹洋子は、初めて客席で、すすり泣く声を聞いたという。

「コンサートで歌っている最中、ボロボロ涙を流す、お母さんを見て、
 もらい泣きをしたこともしばしば、観客と同じ感情をもてる喜びを、
 この曲で知ることが出来ました。」(唱歌、童謡ものがたり、読売新聞文化部著、岩波書店刊)

保育園や、幼稚園に通う年頃の子というのは、いとおしくも、厄介な存在である。
母親にとって、この時期は苦闘のあけくれである。
もてあまし、思い悩みつつも、けなげに生き、成長していく、
そして、幾星霜。わが子の、卒園式を迎える。
あんなやんちゃで、手を焼かせたわが子が、ちょっと大人びた表情で
列に並んでいる。
そして、最後、お別れのこの曲になる。
だだっ子だった子供が成長し、歌う姿を見ながら、お母さんは、
万感の思いが、こみあげて、思わず瞼が潤んでしまうのである。


この「おもいでのアルバム」は、江東橋保育園の園長の増子としの作詞、
神代幼稚園園長の本多鉄麿の作曲で生まれたものだ。
すぐ気付かれた方もいるだろうが、これは、保育現場から生まれた音楽なのだった。
ふたりは、保育への理想、音楽教育への情熱で共鳴していた。
クリスチャンの増子と、常楽寺住職の本多という宗教家同士であることも、
不思議なくらい、共通の要素をもっていた。
本多は、芸大を目指した芸術青年でもあった。
後に、広田龍太郎に師事したこともある。


03_p1110783
江東橋保育園

04_p1110758
保育園にいた猫


この「おもいでのアルバム」は、歌としてではなく、ミュージカル
として構成されたものだった。
リズミカルプレイとして、演出のシナリオと楽譜とで成り立っている。
ところが、いつからか、オペラの序曲のように、
序曲だけが、単独で歌われるようになった。

いつのことだか おもいだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう

平易なわかりやすい歌詞である。
ふだん、大人が子供にやさしく話しかける言葉だ。
「ぞうさん」を作詞した、まど みちおさんを思い出す。
かれも、平易な言葉で、幼児の心をつかんでいる。
ぞうさん ぞうさん お鼻がながいのね
曲の本多鉄麿も、
「保母さんのピアノの演奏技術にあわせて作曲しているんだよ(ミヨ夫人の話)」と、
歌いやすさ、演奏のしやすさに、顧慮したことを語っている。

そのわかりやすく、相手をおもんばかる気持が、
あの心に響くメロデイになったのだろう。

05_p1110922_2
鉄麿と妻ミヨさん


鉄麿は、戦後、荒廃した時代、いち早く、子供のため「常楽文庫」(寺の名が、常楽寺)を開設、
書物を開放した。
美術館や博物館に子供を親しませたのも、
当時の混乱のなかでは、慧眼をもった人だった。
大人にも読書会、俳句会などや合唱団も組織した。
なかでも音楽への情熱は熱く、
持病の喘息で、苦しみながらも、寒い日でも、マフラーをなびかせて、大きな声で歌ったという。

かれは1966年に亡くなったが、人々はみな鉄麿を慕い1996年、
常楽寺内に歌碑を建立した。
「とても、おっとりした人でした」と、ミヨ夫人は、夫をそう評する。
写真で窺えるようにやさしそうな人である。
生涯で、生み出した童謡や、幼児むけオペレッタなど作品は、
なんと、2000曲にものぼるという。

06_p1110897
歌碑


一方、増子としは、幼児教育の専門家として活躍した。
「音楽で、のびのびと子供の表現意欲をひきだしたい」
これが、彼女のポリシーだった。
1951年に江東橋幼稚園の園長を勤めた時、保育の現場で子供と遊ぶための曲を集め、
楽譜と解説を付けた教材をつくった。
それは、なんと平成2年までに74版を重ねる、ロングセラーになった。
保育界で、これを超えるベストセラーはないという。


「おもいでのアルバム」ができたとき、増子は「今度出来た曲いいわよ」と、
顔をくしゃくしゃにして、うれしそうに担当編集者に原稿を渡した、という。
ところが、なんたる、不幸か。
発表から二年後、増子は、脳に障害を発生した。
退院後、目白台の自宅で、家族と静かな生活を送っていたが
日が経つにつれ、記憶が、どんどん薄れていった。
あるとき、朝のワイドショーで、TVから、芹洋子の「思い出のアルバム」が流れてきた。
それを聞いていた増子は、
「ああ、いい曲ねえ。この歌は……」と、つぶやいたという。
それが自作だと、気が付かない彼女に夫は、驚いて、
「これは、お前のつくった歌じゃないか」と大声をあげた、という。


本多鉄麿は、1966年に亡くなったが、この歌が爆発的な人気になったことはその後のことで、
増子としも、病気が自作の歌を忘れさせた。
存命中は、二人とも、歌がこれほどまで、世の人に愛されたことを知らなかった。
しかし、その不運な作者の代わりに多くの人々が、この名曲に酔いしれたのだ。


増子の保育園は、新しく建て変わった。
その江東橋保育園は、明るい日差しのなかで、こじんまりと存在していた。
幼児の親でもないぼくだが、下駄箱のカラフルな靴や、砂遊びの遊具などを
眺めているだけで、なぜか、ジーンと胸に迫るものがある。
幼児という時代が発する、いとおしさなのだろう。

07_p1110782
靴箱


京王線で、つつじヶ丘、北口から5分の、本多鉄麿の常楽院にでかけた。
緑が覆う、細い道の先に、緑豊かな落ち着いた寺があった。
ご子息の、本多慈昭氏と鉄麿夫人のミヨさんにおめにかかった。
お話を伺い、鉄麿の祈りの場、本堂に案内してもらった。
美しい菩薩像が、印象的だった。


08_p1110889
寺への細い道

09_p1110933
本堂

鉄麿の亡き後、45年間続いた神代幼稚園は、平成8年、歴史をとじた。
記念の思い出のアルバムに、閉園を惜しむ多くのメッセージが寄せられている。
創立当初から、鉄麿と園児の世話を続けた、小野洋子さんは、
「はだしでとびだして帰ってしまう子を追いかけて、息がきれたり、喧嘩を止めようとして、
 腕を噛みつかれたり、泣き止まない子を、なわとびの縄でおんぶしたり、
 田園風景の広々とした、畠や田んぼの畦道で、蛙やバッタを追いかけたり、
 レンゲで、首飾りをつくって遊びました」
と、園児と生きた、当時を懐かしむ。

 ……あんなこと こんなこと あったでしょう

やさしい鉄麿が、当時、
「こんな曲ができたよ」と聞かせてくれたのが印象的だった。
小野さんは、

 ……うれしかったこと おもしろかったこと いつになっても 忘れない

と、深い感慨を洩らしているのだった。

10_p1100065
花の道

|

« ぐるっと、谷根千。谷中その5。 | トップページ | 両国の今日この頃は、涙雨。両国その1。 »

あの歌の世界を訪ねて」カテゴリの記事

僕的、都市ウオーク&おいしい。」カテゴリの記事

写真」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1150352/35493747

この記事へのトラックバック一覧です: いつのことだか、思い出してごらん。あんなこと、あったでしょ。:

« ぐるっと、谷根千。谷中その5。 | トップページ | 両国の今日この頃は、涙雨。両国その1。 »