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2010年7月

スカイツリーで、飲めるぞ、酒が飲めるぞオ。業平橋。

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街の中にズボリと

都バスで「業平橋」に近ずくと、右手の窓側に建設中の
スカイツリーが現れた。
いきなり、町の真ん中にズボリと巨塔が、打ち込まれた印象に驚く。
現場近くに寄れば、かなりな空間の中に建設中であることがわかるのだが。
人々は、みな自然に、タワーにカメラを向ける。
催眠にかかるように、空を仰ぎ、レンズを向けたくなる。
今はまだ、単なる工事現場でしかないのだが、
野球場や、劇場などに向かうわくわく感みたいな、軽い興奮を覚える。

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撮る、撮る撮る


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突如、面白い連想が浮かんだ。
酒がのめる、酒が飲める、酒が飲めるぞオ。
という、あの唄だ。
人は、なにかに、かこつけて、飲む。
そういっちゃあ悪いけど、ここは、いまはなんの変哲もない街にみえる。
しかし、タワー建設という、音頭取りで、町が元気なのだ。
気のせいか、案内所の、おねえさんも、町をゆく人々も浮き浮きしている。
ニュータワーで、酒が飲めるぞオ、ってな感じだ。
がぜん、ぼくもノリノリ気分になる。

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案内所の、タワーの模型

なぜか人力車が、二台いる。
工事のおじさんに、聞いた。
人力車で、どこへ連れてこうってぇの?
「ここで、田舎のお爺さん、おばあさんを捉まえて、浅草へ連れてくのォ」
へーェ?
浅草近いからね。
浅草案内という、営業の手もあるんだあ。


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二台の人力車

だいたい、この業平橋って、あの在原の業平に関係ないのかなあ?
業平橋(という橋がある)をくだって、川を埋め立てた公園で、
ジンベイ姿のおじさんに聞いてみた。
業平がいたのかなあ?

「そうなんだよ。
 在原の業平が、このあたりに住んでたの。
 なんとか都鳥、なんとか忘れるな、って短歌、あるでしょう!」

へぇ、おじさん、よく知ってるねェ。
在原業平っていえば、平安時代の歌人。
古今和歌集で有名だ。教科書にも載っている。
そして美女、小野の小町に対する美男の代表格だといわれる。

名にし負はば いざこと問わん都鳥 わが思う人は ありやなしや

都鳥よ、都という名がお前にふさわしければ、おまえに訊ねたい。
私の恋しい人は、無事でいるのか、どうだろうか。
平安期の隅田川を越えた、寂しい、ここで詠んだのだろう。
橋もない時代、ここは、すすきの生い茂るような場所だったに違いない。
いまも、人をめがけて飛んでくる、ゆりかもめ(都鳥)が、隅田川の風景だが、
それを眺め、鳥に語りかける心細いかれの心中は、いかに、だ。
現代の、冴えない業平橋の上に立って、昔を偲ぼうとするがイメージが湧かないなあ。
いざ言、問わん。は、のちに、隅田川にかかる、言問橋の名になった。


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業平橋の下にいた、おじさん

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業平橋、橋上


そう言やあ、落語の古今亭志ん生の、住んだ「なめくじ長屋」が、
このあたりにあったというじゃないか。
もう、当たるを幸い、じゃあないけど、通行人を捉まえて、その場所を聞く。
みんな知らない。
「志ん生?、なめくじ長屋?、知らねえなあ。」

やっと、それらしき跡地を見つけた。

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なめくじ長屋の跡付近


志ん生の住んだのは、昭和初期のことだった。
なにせ極貧に喘ぐ、志ん生が「タダで住めるよ」、と聞いて住んだ場所だが、
さすが、もう当時の面影はなにもない。
業平の湿地帯を埋め立てて建てた、8軒の長屋だったらしい。
志ん生が、当時の生活をしゃべったり、書いたりしたその当時の風景だから、
多少は誇張もあるだろうが、ひどい所だったようだ。
じめじめした湿地帯で、蚊やなめくじが一杯で、誰も入居する人がいない。
困り果てた大家が、タダでいいから住んでくれ、という話だったようだ。
なにせ、人の気配は志ん生宅、一軒だけだから夜になると、
灯りをめがけて蚊の大群が、ワット押し寄せる。

「いま、けえったよ」って、口あけると、そこへ蚊が、飛び込んでくる。
部屋の中だって、蚊帳つっても、あちこち破れてて、つぎはぎだらけだ。
その穴めがけて蚊は、出入り自由だった。
なめくじの大群も、壁を這い、デカイ奴は、10センチもあって、塩をかけても、
錐でブスリと刺しても平気だったという。
ああ、あ。

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志ん生(下)ポスター。谷中で


表通りの浅草通りに出る。
酒が飲めるぞ、じゃあないが、賑やかなお祭り騒ぎの好きだった、
「四世鶴屋南北」の眠る、
春慶寺が、スカイツリーの目の前にある。


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春慶寺。鶴屋南北の墓


鶴屋南北は、「東海道四谷怪談」の作者だ。
独創的で、破天荒な作家だった。
芝居のアイデアだが、殺人現場で、結婚式をあげるなど、
かなり、えぐい発想が好きだった。
四谷怪談の魔力的構想をみよ、だ。
生前に、自分の葬儀のシナリオも書いた。

めでたい万才(まんざい)の、はしゃいだ仕立てで葬式をやれ。
オレの棺をかついで、練り歩け、など、
自身を風刺化し、最後まで、狂言役者の精神を貫いた。
すげえなあ。
門前仲町の黒船稲荷に住んでいたが、そこで死んだ。


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黒船橋上。右手の森に南北の住まい

そこから、春慶寺まで裃をつけた役者衆の長い葬列が続いたという。
エロチシズム、スプラッタ、グロテスクが持ち味の、この不世出の作家に
肩を並べる現代のアーチストは、誰だろうか。

なんと、この鶴屋南北の眠る寺の一角で、
あの、王貞治さんが、少年時代を過ごした、という。
縁は異なもんだ。
その王さんの足跡をたどりつつ、次回は、吾妻橋、向島を散策する。

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南北の住居、黒船神社

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寿司屋の店頭にも模型が

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森に詰まった物語。小石川植物園界隈。

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小石川植物園

いや驚いた。
植物園というから、温室に毛の生えた程度のものを想像していったら、
多彩な植物はもとよりだが、美しい並木道や、緑の広場。
それだけではない。
池の多い、湿地帯から、崖をあがる。
奥へ、奥へ、多分、北西の方角か。
低地から登って進むと、
道が判らなくなりそうな、針葉樹林の生い茂る森に迷い込む。


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ふと、なにか気配を感ずる。
野良猫が、じっとこっちを凝視していた。

サバイバルゲームのマニアが、よだれを垂らしかねないほど、
野趣に富んだ森が、存在していた。

小石川植物園。48,000坪。
広大な面積だ。

入り口のパン屋さんで、
おばさんから330円の入場券を買って入るというのも、
意味がわからないが面白い。

かなり以前から、ここへ来てみたいと思っていた。
なぜか。


メンデルの遺伝の法則、とか、リンゴが落ちて、ニュートンが重力を発見。
そんな、なんだか判らないままに、幼児時代から、
キンダーブックなどで、なんとなくなじみの話があった。
長じて、そのメンデルや、ニュートンの、
ゆかりの、りんごやぶどうの木が、
ここにあるということを知った。
そうか、それは是非、見てみなければなるまい。
当然、そう考えていた。
で、やっと今出掛けてきた。

広大な森だとは、先に述べた。
案内のパンフには、木で鼻くくったような説明しかない。
園内の植物を鑑賞している、おばちゃん達に訊ねた。
ニュートンのリンゴの木って何処?
「エ!それ、何?」的で、おばちゃん達は、ニュートンなどについて、要を得ない。
やっと、学生らしい集団に話しかけて、一緒に探がして、その木を発見した、というわけだ。
木は、古木で、こぶりながら、よく手入れされている。
物理学者のニュートン(1822~1884)が、生家の庭で、
「万有引力の法則」を発見した、その木の一部を1964年に英国から贈られたものだ。
メンデルの木にも、同様な経緯がある。
青い未熟な、ぶどうや、リンゴであろうとも、巨大な「意味と歴史」を背負って生きている。
その果実に、壮大な過去への思いを遡らせる。
ちょっと、感動。

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ニュートンのリンゴの木

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リンゴの実

この園の歴史は、
要点のみでいうと、江戸時代、ここは「小石川御薬園」といって、
幕府直轄の薬草栽培地だった。
山本周五郎の代表作「赤ひげ診療譚」という物語がある。
貧しい、人々の病気を手当てした、赤ひげ医者、
小川笙船の江戸小石川養生所は、ここにあった。
いまも、当時の井戸が残っている。
黒沢明も、この史実をもとに映画「赤ひげ」を撮ったといわれる。
われら日本人は、こいう話、好きだ。


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赤ひげの井戸

また、青木昆陽が、ここで、さつまいもの栽培を手がけて、
飢饉の際の食料の確保を計った。
これもいい話。
このように、この森には、いろいろなドラマが、積み重なっている。
夏目漱石の弟子の寺田寅彦に、「団栗」(どんぐり)という随筆がある。
この、植物園で、寺田は妻の夏子と、どんぐりを拾った思い出がある。
夏子は、20才の若さで亡くなってしまったが、
寺田は、忘れ形見の6才の娘とここに遊びにきた。
娘は、母に似てどんぐりを拾い集めることを喜び、
加えて、折鶴の上手なところも夏子に似ている。
娘が、運命までも母に似ないように願いながら、薄幸の夏子を偲ぶという、
なんとも哀しい話を書いている。
ほかにも、
アインシュタインが、訪れたり、ベルツの歓送会が崖下で開かれたり、
東西古今の文人や、学者、要人が、ここで、くつろぎ楽しんだという。


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博物館の分館


植物園の出口に近く、赤い古い建物がある。
旧東京医学校本館で、国の重要文化財になっている。
本郷から、ここに移築したが、森鴎外などが学んだらしい。
いま、東大の博物館の分館になっている。
化石や動物の骨格などが、陳列されている。
それを、チラリと覗き、園外にでる。

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博物類を観る


バットケースを担いだ野球帰りの二人の高校生と出会う。
オット、おいしいアイスクリーム屋どこ?
「あ!そこです。そこです」
さんきゅう。植物園から直ぐだ。
北海道の牛乳と新鮮なフルーツのヘルシーな、アイスクリームの
「スペールフルッタ」で、K子ちゃんのご指名の店だ。
"そのオレンジのやつ”といって、ひとつ買い、食べた。シャレた味だ。

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湯立坂を上る。
100mほど左手に、啄木終焉の地がある。文京区小石川5-11-7。
そこは、マンションに変わって味もそっけもないが、そのかわり
啄木の亡くなった日時、時間と、立ち会った、人物の名など、
詳しく由緒が書かれている。

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啄木、終焉の地


湯立坂に戻る。
左手に、大正元年に、楠の木の一枚板で造られたという、
銅(あかがね)御殿、という国の重要文化財に指定された屋敷がある。
迫力のある門で、一見の価値あり。


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銅御殿

その右手は、カイザースラウテルン広場があって、一角獣やアンモナイトを、
モチーフにした、彫刻の並ぶ、面白い公園になっている。
広場の名は、区と姉妹都市の、ドイツの街の名だそうだ。


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カイザースラウテルン広場

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去年だったか、不況のあおりで、小林多喜二の小説、
「蟹工船」がブームになった。
この植物園あたりも、印刷会社が建て込んで、徳永直の「太陽のない街」という、
同じような悲惨な労働争議の小説が書かれ話題になった。
その印刷会社がひしめくあたり、植物園に添って長い道をゆく。

寺があった。
「わが心 鏡に映るものならば さぞや姿が醜くかるらん」
と門前の壁に書いてあった。


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新福寺

茗荷谷駅近く、藤坂がある。
傍らに、藤寺があり、門前に地蔵が立っている。
江戸時代、徳川家光が狩りの帰りに、ここを通り、
寺いっぱいを覆う、藤の花を見て感嘆し、まさしくこれが、藤寺だと述懐したという。
藤のシーズンにもう一度、来てみたい。


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藤寺

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両国、濃厚な江戸と、相撲色の街。両国その2。

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北斎通り

地下鉄、大江戸線の両国駅の地上に出ると清澄通りが、眼前を遮る。
その道を渡り、正面を真っすぐ、広い北斎通りが、伸びている。
北斎など江戸をテーマに、ここを両国の美しいメインストリートにしたい、
街当局の魂胆が窺える。
いいじゃん。
93回も転居した葛飾北斎(1760~1849)が、ここで、オギャーと呱々の声をあげたのだそうだ。

北斎は、日本を代表する作家の一人で、代表作は「富嶽三十六景」。
ジャンルや時代を超えて、世界中の人々を魅了した。
「東あられ」という、老舗の煎餅屋の角に、その由来の木札が、立っている。
エッ!それだけ?

とりあえず、北斎を語ろうとしているのは、付近の公衆便所の壁面である。
ぐるりにびっしりと、浮世絵や、北斎の横顔などが描かれている。


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北斎画のトイレ

このあたりには、ほかにも由緒のある史跡が、いくつもある。
1885年に高砂部屋の高砂浦五郎が祀った、相撲の神様の野見宿禰神社がある。
本場所には、ここで必ず相撲協会の神事が行われる、角界の聖地だ。
このあたり、江川太郎左衛門や、河竹黙阿弥などの終焉の地でもある。
いろんな由緒が、眠っている割りには、
情報の発信や、魅力の醸成に、チョッと力足らずだ。頑張れ。
やはり、北斎美術館が2012年に完成予定だというから、その時を期待。
ぼくは、北斎晩年の地、信州、小布施で、清貧のなか画道に突き進んだ、
鬼気迫る、かれの作品の迫力に打ちのめされたことがある。
是非とも、それに負けぬ美術館を目指してもらいたい。


吉良邸のあった裏道を、当時を偲びながらぶらぶらしていると、
北斎にからんだ史跡が、もうひとつあった。
「鏡師、中島伊勢 住居跡」と、ある。
北斎が、いっとき、この中島伊勢の養子だったとガイドにある。
一方、実は、北斎は伊勢の妾腹の子だったのでは?とか、面白い話が、書いてある。
結局、北斎はこの伊勢との養子縁組を、解消されるのだが、伊勢と北斎の関係が
ホントは、どうだったのか、その謎が興味深い。


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吉良邸跡

さあ、
土地柄、相撲一色の街だ。
賭博問題で、粛然とさせられたが、
元来、相撲界の根幹には神事がある。
力士の化粧回し姿など、厳粛な相撲世界のイメージだ。
横綱の品格を、と理想像を求めるのも当然の世界だろう。
それは、それで正しいことだ。
しかし、一方でぼくは、
浴衣で、草履ペタペタのコミカルな雰囲気の庶民的イメージが好きだ。
どうしても、ちば てつやのマンガ「のたり松太郎」などの愛すべき相撲の環境が、
目に焼きついて離れない。

かって、このブログでも、そういう少年力士の哀歓を取材、紹介した。
だから、垣添や、かっての、小兵力士の舞の海など、奇手を使ったり、
高見盛や、青ひげの(喜劇の悪役の役者にしたい)黒海など愛すべきキャラクターの
力士についつい、肩入れしてしまうのだ。

街でも、力士フィギアや、大相撲Tシャツ、タオル、携帯トラップ、など
コミカルな、かわいいイラストのグッズが多く売られている。
布団類の店「両国高橋」にも、その手の、面白い品が沢山ある。
若い、相撲取りも、女の子の好むようなグッズを買うのだそうだ。


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両国駅前

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布団の両国高橋

国技堂という小さな店の店頭で、「お出かけ前の、火打ち石」と、妙な品を売っている。
なんだよ。銭形平次やれってぇのかよ。
ライオン堂は、キングサイズの洋品がなんでも揃う。
大男が着る、オーバーオールなども、ある。
中国系の観光客らしきグループが、ショーウインドのデッケエ下着をみて、
びっくりしている。

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火打ち石

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デカ下着に驚く

大きい靴もあるイマムラ靴店。デカ下駄、草履も揃う岡田屋。
でかい、でかいと言い続けるのもくどいが、きわめつきは、これだ。
デカ足袋の注文をこなす老舗の喜久屋、お相撲さんのみならず、要人にも客が多い。
ほかにも、力士のイラストを暖簾的に使ったそばや、とか菓子店で力士の型取の
焼き菓子や、力士画の最中などを売る、「相撲抱きつき」で商売している店が多い。


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足袋の喜久屋

面白路線で紹介してきたが、
本格的な相撲愛好家が楽しむには、国技館隣接の「相撲博物館」は勿論だが、
「相撲写真資料館」という、相撲協会専属写真館ならではの、
貴重な写真が展示されているのも見逃せない。


相撲ゆかりの極めつけは、回向院だろう。
回向院では、江戸以降の諸霊の回向のため境内で勧進相撲が、興行されたが、
ここには力士や、行司の供養塔の「力塚」があり、力士の断髪した髷なども納められている。
オット。
もうひとつ、大事なこと。
例の、賭博騒ぎで、
いやみなわけじゃあないが、博打や、賭け事のお守りになることで有名な、
怪盗、鼠小僧次郎吉の碑を忘れてはいけない。
賭け事の好きな人は、墓石を削ってお守りにする。


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回向院


ちょっと、中断。
次郎吉の墓の前にお嬢さんが、ふたり丹念に石を削っているではないか。
ちょっと、ちょっと。
あんた方、なにか賭け事やるの?
「いいえ、ここパワースポットなんですよ。
 このあいだ、占いをやるお笑いタレントが、TVで、ここ、いいよって、
 やったんですよ、そうしたら翌日、10人位女の子が並んじゃたんですよぉ」
ふーん。
で、彼女達は、その後、週2日くらい、参拝にくるらしい。
「水難、火災、などの災難で亡くなった人が、こんなに沢山いるんです。
 犬猫、小鳥などの立派なお墓もありますよ。」
いやあ、詳しい。
しかも、墓標や、記念碑を丹念に巡り、参拝している。
彼女らの信仰オ、スゴい!
庭の水撒きをしているおばさんが、目を細めて、ふたりを眺めてる。
廃墟観光など、異色な流行りもある昨今だ。
さまざまなアングルから都市を眺め、こういう現場にも飛び込み、それがまた
副次的な効果を産んでいく不思議を感ずる。

次郎吉は、江戸後期の盗賊。
大名屋敷に忍びこんで、盗んだ金は、貧乏な庶民の家に投げ込んだ、と言われる。
作家の芥川龍之介は、この回向院のななめ前に住んでいた。
その所縁か、この次郎吉を素材にして、小説を書いたが、
嘘か、まことか、
「盗みに入った大名屋敷が76軒、盗んだ金が、3183両2分だ」と述べている。


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鼠小僧の墓

回向院の並び、もとは立派な国技館が建っていた。
その跡地に、両国シティコアがつくられ、
劇場と、ギャラリーを併設したX(かい)がある。
だいぶ前だが、ぼくがギャラリーXで展覧会の準備をしていると、隣のシアターXで舞台稽古をやっていた。
たしか出し物が「熱海殺人事件」で、演出家が、物凄い大声で、
役者を怒鳴り散し、演劇とは、かくも厳しいものか、と痛感させられたことがあった。

で、最後になったが、両国、最大の押しは、江戸東京博物館だろう。
いくつかのジオラマが、リアルに江戸東京の過去を語る。


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国技館


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シアター、かい。丸が、土俵位置の跡

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江戸東京博物館のジオラマ

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両国の今日この頃は、涙雨。両国その1。

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隅田川を、川下から船でのぼる。両国に船着き場がある。
かって、「家族ゲーム」(本間洋平原作、森田芳光監督)という映画で、
松田優作が、船に乗って川沿いのマンションに家庭教師の仕事に出掛けるシーン
があったのを思い出した。
それは、どうでもいいが、先ずは、両国の船着き場に着いたのだ。
(着いたことにする、今日、月曜は、船は出ないのだ)

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船着き場


場所中であれば、目の前の国技館に沢山の幟がはためき、
テレンコ、テンテンと太鼓の音が響いてくる。
7月は、名古屋場所だ。
従って、両国のきょうは、寒々として、相撲を思わせる風景ではない。
ふだんは、この町特有の風景で何処にでも若いお相撲さんがいる。
食い物屋と、パチンコ屋。
若いもんの町にしては、気の毒なくらい、遊び場のない地味な町だ。
相撲部屋は、両国だけで、10部屋くらいある。
相撲部屋の前で、四股踏んだり、自転車で、あちこち走る若い衆の姿を見かける。
微笑ましい、のどかな風景の町だ。

そんなところへ、
例の、野球賭博事件だよ。
船着き場から、国技館に向かうと、TVのカメラや報道陣で、わんわんしている。
なんだよ。あちこちで、協会の理事がつかまって、質問攻めだ。
一昨日、雨っぷりの日だったが、両国にきた。
国技館通りにある、力士の銅像は、びしょびしょに濡れながら土俵入りをしていた。
心なしか、相撲界の嵐のなかの無念の思いの土俵入りである。

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TVカメラが囲む


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雨の土俵入り


案内所のおねえさんに、大変だねと話しかけたら、
どうなるんでしょうね、と心配顔。
ちゃんこ屋あたりは、関係ないから、いいんじゃない、とトンチンカンに慰めたら、
「お相撲さん、ちいちゃくなって、いますよ。かわいそう。」
と、ちゃんこの営業の心配どころではないようだ。

たいやきを家人に頼まれたので、浪花屋本店へ向かう。
時津風部屋の横道に、4~5人、報道陣が張り込んでいる。
その先にある、錦戸、八角と並んだ相撲部屋を、ついでに覗いてみたが、
ここもひとけがない。
向かいのマンションの植え込みの手入れをしていた品のいいご老人に、
だれもいないんですかと訊ねた。

錦戸部屋も八角部屋も鉄筋マンションだ。
すげえな、いまどき、相撲部屋もマンションになったんだぁ!

「錦戸の部屋は、もと、大会社の社長の家でしたよ。」
 "へぇ。タニマチだったの?"
「いや、知りませんよ。もらったのかどうか。」
 "八角部屋もマンションだ、すごいね。"
「八角は、なんにも悪いことしてないのに、
 テレビにペコペコして、かわいそうだよね。」
 "生活指導部とか、広報とかの立場だったんだよ、ね。"
「そう、二人で、頭さげてる、あの禿げたほうの人だよ。八角は。マジメだよ」

ウム。近所の評判は、悪くなさそうだ。
頑張れよ。ハッケヨイ。

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八角部屋

たいやきやへ急ぐ。清澄通り、横綱町公園の筋向かいだ。
麻布十番と、同じ系統の鯛やきやだ。
十番の名物じいさんの神戸さんに、(このブログでも、泳げ鯛焼き爺さん、という
インタビューをやった)同じ屋号の他店舗について、いろいろ聞いてみたが、
いまいち事情がハッキリしなかった。

この両国の店は、「元祖、浪花屋本店」とある。
神戸さんも亡くなってしまったが、神戸さんと近い年頃の、ここのご主人に聞いてみた。
こっちの店が、本店なの?
「そうじゃぁ、ないんだんだよぉ。
 麻布とおれが、先代の弟弟子で、そんで、ふたり、暖簾分けしてもらったの。」
そうかぁ。
出自をめぐって、世間では虚実入り交じって語られ、このご主人も、
すこし苛ついてしまうのも無理はない。

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浪花屋本店


昭和初頭だろうか、100人ほどの旦那衆の集まった集合写真がかざってある。
これは、なんだろう?
「新年で、全部の店が、集まった時の写真だよ。」
系列店が、こんなにあるんだぁ。いやあったんだ、か?
で、麻布と同じたいやきの味なの?
「いやあ、型も違うし、味も少し違うよ。
ほれ、この型、すっきりしてるだろう。
あっちは、泳げたい焼きくんのブームで、売れまくって、型ぁ、つぶしちゃったんだ。
うちは、そのままだよ」


ウーム。
人気店だけに、どっちも、張り合ってきた様子が窺えるな。
そうして、競ってまた、味もよくなる。
ぼくも、麻布に住んだころ、神戸さんの店へよく行った。
繁盛して、30分待ってねぇ、とか、1時間とか、っていわれて、
「神戸さん、若葉のたいやきに鞍替えしちゃうぞ、」などと毒ずいたこともあった。
両国のたいやき、は、待たされず、かつ、旨い。150エン、だ。

よく、甘味抑えてなんていうけど、頃合いの甘味だし、やっぱり年期が入った味だ。
神戸さんも死んじゃったから、
ぼくは、これからここへ買いにこよう。
あれ?おやじさんの、うしろに神戸さんの写真が飾ってある。
しかも、位置的に、大事な場所だぜ。
互いに張り合っても、この年代のおじさん達は、情があるんだな。


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浪花屋店主


信号を渡って、東京都慰霊堂へいく。
ぼくは、ここへくると、林家三平(先代)の奥さんの海老名香葉子さんの、
悲痛な叫びを思い出すのである。

昭和20年3月10日東京は、アメリカの爆撃機の猛襲撃を受けた。
幼かった「かよちゃん」は、当日、沼津へ疎開していたが、兄ひとりを除き、
両親、兄弟全部、爆撃と大火災で殺された。


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慰霊堂

お手て つないで 野道をゆけば
みんな可愛い 小鳥になって
毎日、夕暮れ時、お母さんが、かよちゃんの手をひいて、晩飯のお惣菜を、
商店街に買いにゆくのだった。
お母さんの必ず歌う歌だ。
そのささやかな幸せから彼女は、一挙に、孤児にちかい境遇に突き落とされた。
とにかくその空襲は、ひどかったらしい。

昭和19、20年と続く、連日の空襲で、10万の命を奪われた。
4代目柳亭痴楽によると、彼も赤ん坊を背負いながら妻と逃げたという。
逃げても、逃げても、大量のB29爆撃機の焼夷弾が豪雨のようにふりそそぐ。
まわりは死体の山。
頭抱え、この絶望状態を「どうする?」
二人は、その死体の山をかき分けて、その中に潜り込んだのだという。
赤ちゃんは、着物も焼け爛れ、死んだ。

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慰霊堂を望む

さかのぼる、大正12年、
大震災は、東京市の大半を焦土と化し、58000人の市民が、業火の犠牲になった。
つまり東京の、近、現代は二度にわたり、大災害に見舞われたのだ。
震災記念堂
東京都慰霊堂
いずれも、その災害者を追悼し、忘れぬモニュメントとしてある。
26日にも、堂内で、その災難を忘れぬ集いが開かれていた。
敬虔な、バスツアーの人々も、平和祈年の碑の前で、追悼や、自らの
戒めを誓っておられたのだろう。
付近に震災の痕跡を証言する、すざましい証拠が、展示されている。
ビール工場の焼けつぶれた、釘の束の大熔塊や、同じく焼けつぶれた
100万馬力の電動機の残骸。
自動車の車両番号第一号という、銀座の明治屋で使っていた乗用車の
無惨にもシャシーだけが、残るのも痛々しい。
ナガサキ、ヒロシマだけじゃない。
忘れてはいけない、という自戒をもて、と天から突きつけられ、
唇を噛み締めて帰った。


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焼け爛れた釘の束

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焼けた明治屋の車

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追悼し、歴史を学ぶ

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