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2010年8月

メガロポリス〜湾岸残照〜

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ぼくは、川べりに生まれ、育った。
いまも、川のみえる所に住んでいる。
この写真のあたりは、隅田川が、東京湾と融合する接点である。
美しい風景というわけではないが、
日中の平凡が、夕暮れにドラマテイックに変幻する。
光と闇の織りなす気配が、心地よく、ぼくを引き止める。
伝書鳩のように、すぐ自宅に帰りたがるぼくが、唯一、意味もなくうろうろするのは、ここだ。
この夕暮れの水辺が、なんとない荒廃感のただよう
寂しい風景で、それが根っから好きだからだ。


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君とよくこの店に来たものさ、学生街の….。お茶の水周辺。

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学生街の喫茶店


君とよく この店に来たものさ
訳もなく お茶を飲み 話したよ
学生でにぎやかな この店の
片隅で聞いていた ボブディラン
あの時の歌は聞こえない
人の姿も変わったよ 時は流れた 
(学生街の喫茶店。)(ガロ 歌。山上路夫 詞。すぎやまこういち 曲。)


ぼくは、毎日、キャンパスの取材で、駆け回っていた。
69年1月、バリケード封鎖されていた東大安田講堂が、
機動隊との攻防で陥落し、学生運動も収束に向かうようにみえた。
70年代にはいり、学生もぼくらも疲れて、放心した虚しい日々が続いた。
72年にガロが歌った、「学生街の喫茶店」は、
そんな頃の、友人との別れも織り込んだ、傷痕の歌のように聞こえる。


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あの頃は 愛だとは知らないで
サヨナラも云わないで別れたよ
君と


当時、時代の気分と、別れを歌う曲が多かった。
「神田川」「赤色エレジー」「なごり雪」……
そして「学生街の喫茶店」。
この歌のモデルは、とくにないと山上さんが、述べているそうだ。
この詩は、誰もが体験した、学生時代の思い出や風景の歌だから
舞台は、あそこだ、いやここだ、とみんなが自由に推測するのだろう。
ガロの大野さんは、早稲田の街路樹をイメージして歌っていたそうだ。
歌のモデルと自分の青春を重ねて、その喫茶店を探索したり、
空想して楽しむ人も多いのだろう。

ぼくは、60年代末から70年代にかけて、学生運動の撮影や、キャンパスの取材などで、
お茶の水、神田界隈に日参していた。
子供二人を、猿楽町の錦華小に通わせたこともあり、この街には、若干詳しかった。
「学生街の喫茶店」が流行し、即座に脳裏に浮かんだのは、お茶の水、神保町界隈だった。


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山上さんは当時、フランスに旅して、その折パリの喫茶店のイメージをからめ、作詞したという。
そんなエピソードを聞き、ぼくはお茶の水の「とちの木通り」(マロニエ通り)が目に浮かんだ。
お茶の水は、
周辺に多くの大学や専門学校のひしめく、学生街だ。
パリとの類似点もないことはない。
ここ駿河台周辺は日本のカルチェラタンといわれた。
マロニエの繁る、この並木道の尽きるあたりには、アテネフランセもある。


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お茶の水

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マロニエの並木道

まあ、それはともかく、今日は、マロニエ通り(勝手に言い換えた)を散策することにしよう。

お茶の水駅から駿河台を下り、すぐの右側にマロニエ通りがある。
右折し、坂を上る。
静かな、みどりの並木道だ。
明大のキャンパスが道の両側にあり、それを縫って道は伸びている。
この丘の上で、ぼくは、70年代に、未来の「ナベさん」とは知らず、
「コント赤信号」ほかの、明大落研の人達を、スナップしていた。

学祭の時で、彼らの青春真っ盛りだった。
毎年、同じような風景が展開されていた。


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丘の上。落研のグループ


先を急ごう。
すぐ左折すると、山の上ホテルにぶつかる。
ロビーや、随所にアールデコの意匠に飾られた、ちいさな、静かなホテルだ。
文豪や文化人達の愛用したホテル。
そこに立ち寄らずらず、ひき続きマロニエ通りを直進する。
右手に文化学院がある。
大正12年の創立、蔦の這う、アーチ型の学舎で、多くの芸術家や舞台人
などが巣立った。
ファサードに隣接した、ちいさな森のベンチ。
うーん、安らぐなあ。


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山の上ホテル

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文化学院

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隣接の小さな森とベンチ

その正面に、当時、喫茶「マロニエ」があり、そこも歌の有力モデルらしい。
「マロニエ」は消えたが、すぐそばに「れもん」が健在だ。
アールヌーボー風な扉、19世紀の雰囲気の喫茶店だ。
ここも歌詞にそぐう風景だナ、と勝手に空想する。
その店に入ってみた。すぐの脇に、ワインが、並べられている。
パリの雰囲気のただよう、素敵な店だ。
テーブルに着くと窓のむこうに、マロニエの葉がそよいでいる。
ボブ デイランこそ聞こえてこないが、

窓の外 街路樹が美しい
ドアを開け 君がくる気がするよ
あの時は 道に枯葉が
音もたてず舞っていた 時は流れた


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喫茶れもん

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店内から、マロニエの葉がみえる


「れもん」のマスターが、ポツリ、ポツリと語る。
あの歌のモデルの店が、ここだとおっしゃる方もいるようです。
でも、多分、違うでしょう。


ラジカルな60年代から70年代、ぼくがカメラマン仲間とたむろしたのは、
このハイブロウな「マロニエ通り」の喫茶店ではなく、
「さぼうる」や、「ミロンガ」など、「すずらん通り」裏の、狭いロッジ風な喫茶店が多かった。


時は流れて、
お茶の水駅に向かう帰途、「かえで通り」に出た。
賑やかな通りで、スタバなど、リーズナブルな新しい喫茶が、いくつか出来た。
全面ガラスで、明るい店内で客の出入りも多い。
こういう喫茶店から、どんな詩や曲想の歌が生まれるのだろう。
それはそれで楽しみだ。
変わる時代が、街の姿や、個人の思い出を織りなす。
その懐かしさの拠り所に、
名曲があって欲しいのはいうまでもない。


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「かえで通り」の喫茶店

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灼熱の午後、丘に、一隻の老船を訪ねて。第五福竜丸。

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第五福竜丸


八月。暑いですね。
躍動する雲の下、港はびっしりと小型クルーザーが密集し、停泊している。
その仲間に加わらず、
一隻の老船が、丘の上にいる。
1954年3月1日。南太平洋でビキニ環礁での、アメリカの水爆実験の、
死の灰を浴びた漁船だ。
静岡県の焼津港に拠点をもった、第五福竜丸。
奇禍に見舞われた、不幸な船の終着点。
今日は江東区夢の島公園内にある、その「第五福竜丸展示館」にやってきた。


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「その日、早朝、いきなりオレンジ色の光が空一杯にひろがり、黄色い閃光が走った。
 まもなく、ドドドドド、と轟音が地底から鳴り響き、船を激しく揺さぶった。
 地球にひびがはいったのか」

天変地変のような現象に恐怖したことを、乗組員だった、大石又七さんは述べている。(朝日夕刊、昭和史再訪)
2時間後、白い粉雪のようなものが、雨と一緒に降って来た。
死の灰を浴びた乗組員達は、焼けただれたように顔が黒ずみ、重篤なだるさ、歯茎からの出血、
半年後に無線長の久保山愛吉さんが亡くなり、ほかの乗組員も後遺症に苦しんだ。


船の展示館に入った。
入り口に、消毒液のようなものが置いてある。
「気になる方は、お使いください」みたいなことが書いてある。
ナナ?なんだ。
意味がわからない。
坊主頭の60代くらいの男性が、やはり消毒液を見た。
「放射能が、気になるようだったら、こんなとこ来るなよ。なあ。」
奥さんらしい人に、振り返って言った。
ウーン。
放射能だったら、消毒じゃあ、消えないから、なんのためだろうね。
久しぶりの第五福竜丸は、下から見上げるせいか、
白いペンキの躯体が随分デカくみえた。


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1961年だった、
ぼくは、サラリーマン生活の休日、焼津にでかけた。
カメラマンに転進しようとしている直前のことで、
「福竜丸と焼津」は、避けて通れぬ写真のテーマに思えた。
若かったぼくは、将来の不安だらけの
鬱屈した気分もかかえていて、カメラでそれを撥ね除けたい。
そんな思いも重なって、「焼津へいこう」
そう、思い立たったのだ。
その日、
昼過ぎだったこともあって、漁港には、ほとんど人は、いなかった。
なぜ、人がいないのかな。
あとで、
放射能禍で、マグロは廃棄させられ、焼津港全体が汚染されたかのような、心ない噂をする、
そんな風潮が続いたことを知らされた。
漁港を歩いていると、何回か来た町なのに、
萩原朔太郎の「猫町」に迷い込んだような、見たことのない町に思えた。
ぼくのカメラの捉える映像は、死や、喪失感の滲み出た、心象風景になってしまった。
寒々とした町に変わった、寂しさをいまも覚えている。


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1970年代にはいった頃、「夢の島」の廃船の捨て場に、
「第五福竜丸」が浮かんでいた。
その頃、大島4丁目に住んでいたぼくは、二人の幼い子供をつれて、
ときおり、ボール遊びの帰りに、そのそばを通った。
雑誌のグラビアで、赤瀬川原平さんを撮影することになった。
当時、赤瀬川さんは先鋭的アーチストで、千円札を使った芸術表現が、裁判沙汰になっていた。
ぼくは、グラビアの撮影現場を夢の島に選んだ。
夢の島といっても、埋め立て地でゴミの山である。
多分、闘争中の赤瀬川さんの心情も、
ここが、撮影の背景にふさわしいだろうと、勝手に推測したのだ。
その日。
廃船の捨て場に放置されている、荒廃した第五福竜丸を眺めながら、
スタッフはみな、無惨な姿になにかを感じていた。

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赤瀬川原平さんと。右上に第五福竜丸。

時間は遡るが、
第五福竜丸は残留放射能の消えたあとも、
せっせと働らき続けた。
時には、商船大学の教習の実習船として、
のちに、心臓部のエンジンは別の船に搭載され、働き続けたが、
その船は熊野灘で座礁し、エンジンは海底に沈んだ。
その、ぼろぼろのエンジンが、海中かれ引き揚げられ、
展示場の屋外広場に展示されている。
それは、まるで、墓標の並んだ姿のようにみえた。


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墓標のようなエンジン


廃船直前だった、第五福竜丸と、この波瀾万丈のエンジンも、
きちんと保存されることになってよかった。
正義と勇気ある人々が力を尽くして、展示館に収まったのだ。
やはり、船の前に立つとその存在感は、ただならぬものを思わせる。

2010年。いま。
かって、赤瀬川さんを撮影した廃船の捨て場、第五福竜丸の晒された場所。
そこは、きれいなクルーザーの繋留場所に変わった。
第五福竜丸が、メタンガスの臭う廃船置き場のここで、ゴミに
消える運命だったことは、あまり知られていない。
時間は、記憶をうすめるが、それであってはいけないと思いつつ…。


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クルーザーが並ぶ


クルージングを終え、数人の中年男性が、タオルや、小荷物を抱え、下船してきた。
「じゃあ、来週、和歌山..………」と一人が大声で告げ、仲間は、それぞれ散った。
ぼくは、ベンチに座って、しばらく体を休めた。
黒いトンボが、ぼくのサンダルに留まり、飛び立ち、また戻り、それを繰り返した。

「おい、黒ちゃん、いつまでここにくるの?
 おれが、帰れないだろ」

トンボが、飛び立ったすきに、腰をあげた。
涼風とトンボが、暑さ疲れをすこしやわらげて、ちょっぴりトクした気分だった。


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夏が過ぎ、風あざみ、王貞治、少年時代。業平、向島。

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王少年のホームグランド

夏が過ぎ 風あざみ
誰の あこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様
少年時代(井上陽水、詞、曲)

男の思い出のなかでも、少年時代の夏には、特別な懐かしさがある。
どこまでも青い空。力こぶのような、白い雲。
回想は、瀬戸内少年野球団(阿久悠作、篠田正浩監督)の、
白球を追う、少年時代の夏に、だぶる。


王貞治少年は、隅田川べりの、いくつかの野球場で、野球に明け暮れていた。
中学生にしては大柄で、怪力、ボールは隅田川にまで、飛んで波しぶきをあげた。
戦後、娯楽もない時代だったとはいえ、
単純な球遊びが、どうしてこんなにも少年の心を虜にしたのだろう。

個人的なエピソードで、恐縮だが、ぼくの少年時代も、野球漬けだった。
近所の野球嫌いの親に内緒で、友人を連れ出して、ボールに興じた。
ある日も、こっそり連れ出した彼だったが、
誤ってだれかが、バットで額を殴打してしまい、デカいコブをつくった。
彼を、自宅に送り届け、その家のオヤジに大目玉を喰らった思い出がニガい。
青空に残された わたしの心は夏模様 だ。


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王選手レリーフ


いま、
スカイツリー建設中の業平の広場は、もと東武鉄道の、電車の操車場だった。
広々とした鉄路の並んだ間を、子供達は、夢中で遊びまわっていたという。
王少年も、その子供達の中にいた。
「王さんも、真っ黒くなって遊んでいましたよ。」
王貞治の父親、王仕福の経営する、「中華五十番」の店員だった関五一さんはいう。
誰にも、夕焼け、と汗にまみれた、少年時代の思い出がある。
業平の王さんの住んだあたりは、小さな家内工業のひしめく、埃っぽい印象の、
新興地の下町らしい環境だった。


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スカイツリー、左手に王さんの店

このあたりの風景に似た、町は下町に多い。
白髭橋あたりや、ガスタンクなど望む川縁り、
それと山谷に近い、泪橋などの埃っぽい風景は、
ちばてつやの漫画、「あしたのジョー」や、ちばあきおの「キャプテン」に描かれた風景だ。
ちば兄弟は、業平の隣町の向島に住んでいた。
王少年とちば兄弟は、互いを知らずに育ったのかもしれないが、
同じ下町の、似通った「夏模様」のなかにいた。
王少年は、少年時代から運動センスが傑出していた。
在籍した、本所中学に野球部がなく、それを復活させたりしたが、
隅田川ベリのいくつかの野球グランドが、かれの活躍の場だった。

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本所中、グランド

台東の今戸グランドで、のちの巨人軍のコーチとなる、荒川博との出会う話も、この頃のことである。
やはり、「隅田公園少年野球場」には、王少年の銅板プレートが、刻まれており、
ここが、一番のゆかりの場所なのだろう。
素質に優れるとともに、黙々とトレーニングに励む、野球への
うち込みの激しさは、並みの人とは違った、というのが定説だ。
後年、王の素振りを覗き見た野村克也さんが、著書「巨人軍」のなかで、
「ただ、凄いと、思うのみ」と、絶句している。

印象的なのは、彼のやさしさだ。
王少年が、黄金時代の巨人軍選手にはじめて出会った時、
サインを求めたのに、川上哲治など、ほとんどの選手に拒否された。
応じてくれたのは、与那嶺選手、ただ一人だった、という。
かれはショックだった。
自分は、決してサインを断るまい、とその時決意したという。


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サインボール

王さんは、昭和15年に八広3丁目、中華の「五十番」に生まれた。
その、生家へ行ってみた。
いまは、人手にわたったが、シャッターが閉まったまま、ひっそりと、その家は存在していた。
道路をへだてた、正面の町工場のおじさんに、当時のことを訊ねた。
「エ?そこって、王さんの生まれた家だったのオ?、知らなかったア。」
驚いていた。
店は昭和21年に、そこから業平2丁目に移った。
店員だった、関五一さんに話を聞いた。
関さんは兵士として、中国から東南アジアに転戦させられた。
昭和23年、やっと帰国し、職探しを重ね、
業平橋の王さんの「中華料理店」に雇われたのだった。


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王さんの生家


当時、街は戦火に焼かれて、そのあたりは人家もまばらだった。
「中華五十番」は、江戸元禄の戯作者「鶴屋南北」の墓のある春慶寺の一角にあった。
150坪ほどの土地を寺から借り、営なんだ店だ。
裏庭の土を踏んで、王少年は、いつもバットの素振りをしていたという。
早実時代、野球の練習が終わると、好物の「肉そば」をおやつ代わりに食べた。
当時関さんは、夜9~10時ころ、練習に疲れて帰る、王少年の希望で、
その時刻に合わせ、材料を揃えておき、帰るとすぐ調理したという。
関さんは、仕福さんに信頼された、一番弟子だった。
いま業平4丁目で、中華五十番を営んでいる。
「のれんと、電話をあげるから、頑張りなさい」と、
王さんの味を引き継いでいるのだ。


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業平の五十番


当時、辛かったことはなんですか、と関さんに、なんとなく訊ねた。
日中戦争の話題を、かれは、不意に持ち出した。
かれの出征先の中国は、浙江省の北部だった。
王さんの祖先は同じ、浙江省の南部にあった。
なんと偶然だが、関さんは中国で主人の故郷へ、銃を向けていたのだ。
恩人である、雇い人の出自の地で、そこに住む人々を、戦いで苦しめたのだ。
関さんの罪ではないが、その話に触れるのが、一番、辛かった、と関さんはいう。
誠実な人である。

その関さんは、心から王仕福さんを尊敬していた。
仕福さんは、貞治少年に厳しかったという。
決して、子供に不誠実なことは許さず、
「人に迷惑をかけるな、人の役にたて。」と常に諭したという。
昭和の、中国人への、差別や貧困のなかで、仕福さんが、生きのびるためには、
誠実に生きる、ことのみが人々の信頼を得ることだと、考えたのだろう。
兄の鉄城さんも、厳格な人だった。
王さんが、高校時代、相手投手から、ホームランを奪い、ベース上で、小躍りした時、
「打たれた相手の気持ちも考えろ!」と、厳しくたしなめたという。
そういう、一家の厳しい躾もかれの人格を光らせた。
1998年、王貞治は国民栄誉賞を、受けた。


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関さんと店

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五十番の店内。関さんの息子さん

王さんの駆け抜けた、業平や向島は、新興地と古い花街という、別々な顔をもった街である。
埋め立てで生まれた新興の街のほかに、歴史のある花街や料亭や、古い昭和の建物もある。


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向島。料亭

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向島。工場


野球一筋の、王さんには、グランド以外、街には無縁だったのかもしれない。
かれの汗にまみれた「隅田公園少年野球場」のスグ隣には、江戸時代から続く、
「言問い団子」と、「長命寺の桜餅」の店がある。
竹久夢二の大正4年の日記には、「向島からおとみ来る。
こととひだんごが、とにかくおいしい」とある。
王さんも隣の「だんご」には、縁が深かったに違いない。

王さんは、いま、達観した心境だろうなア。
無心に白球を追った、あの少年時代をどう回顧するだろう。

背番号1の すごい奴が相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で
スーパースターのお出ましに ベンチのサインは敬遠だけど
逃げはいやだわ
(阿久悠、詞、都倉俊一、曲。サウスポー)

ピンクレデイの歌声は、軽快だ。


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言問いだんご

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長命寺の桜餅

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記念ギャラリーの、王貞治のふるさと墨田

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妖怪の季節、ゲゲゲの街。調布。

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以前、調布の、水木しげるさん(漫画家)の自宅に取材で、伺ったことがある。
車を転がして行ったこともあって、場所がどこだったかを忘れてしまった。
今日は歩きだ。
水木邸に用事があるわけではないが、周辺の取材をしてみたい。
うろうろしたあげく、何人かに水木邸の場所を尋ねたが、要をえない。
豆腐の仙台屋で、親切な老夫婦が、知っていた。
「そこの道、真っすぐなんだけど、ふたつあるお寺のこっち側だったな。」
とご主人。
おくさんが、
「水木さん達、引っ越してきて、奥さんが裏の戸を開けたら、墓がみえたって、
 テレビのドラマでやっていたから、お寺の裏じゃない?」
ぼくが、取材にきたのが、20年くらい前だ。
その時の印象と、あまり変わらない。
住宅がたてこんできたが、農地も結構、残っている。

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このところ、NHKの朝ドラ、「ゲゲゲの女房」(水木さんの奥さんの原作)
も放映され、調布も登場、ドラマも街もなかなか人気らしい。
貧乏時代に、傷んだバナナを大量に買い込んだ夫婦のフィギアなども、土産物屋でみかけた。
ぼくも、その人気に便乗して、今週のテーマは、「ゲゲゲの街」だ。


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水木邸近くの農園


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傷んだバナナで、飢えしのぐ


マンガのキャラクターイメージを、街おこしに活用している都市は、かなり多い。
この調布は、水木さんが気に入って長年住む街だ。
すべてが、水木好みの街のようにみえる。
妖怪と水木さんと、森や畠など自然と、多くの寺が混然と溶け合うような、フシギな環境だ。
「夜、暗い場所があるということ。
 これが、人にとっても、妖怪にとっても、大事なことなんです。
 東京には珍しく、調布には今もそれがあるんです。」(散歩の達人)
と、かれは述べている。
いうまでもなく、近代社会は、空間から暗がりを奪っていった。
「陰影礼賛」。
谷崎潤一郎は、渇を癒すように陰影の大切さ、を書いた。
暗闇を奪うべからず。
調布という小都市の周辺には、水木さんの安らげる、一時代前の環境が、
残っているのだろう。

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妖怪、勢ぞろい

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鬼太郎

それにしても、水木お化けって、こんなに面白くて、いいのかな。
げげげの鬼太郎。
「朝は、寝床でぐーぐーぐー。」
学校も勉強もないことを喜んでいるお化けなんて本物のお化けなの?
水木さんにお目にかかれば、これは、水木さん自身を歌にした、
「ぐーぐーぐー」だ、ということがわかる。

「ぼくは、8割は、趣味、2割は、サーヴィスで仕事しています。
 だらんとしているから、普通の仕事は、できないんですよ」
取材の時、そう言っていた。
「ぐーぐーぐー」の人生だ。
いいなあ。
だから、分身の、怖くないお化けが生まれるのだ。


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ネズミ男


「地獄は、世界でも日本の地獄がいちばん怖いですよ。目玉くり抜いたり、残忍ですよ。
 日本は、怖がらせることにかけては、天才ですよ」
当時のぼくの取材メモに水木さんの話が、そう書いてある。
怖いお化けは、嫌だから、かれは、妖怪を「お友達お化け」にイメージしたのだろう。
ぼくはそう思う。

お化けを守る会の会長だった、平野威馬雄さん(平野レミさんの父)にも、
「お化けを怖がらないで、親切にしてあげるの。
 その代わり、人間が死んだら、どうなるのかお化けに教えてもらうんだ。」
と、聞いたことがある。

水木さんも平野さんも、お化けにやさしく、親近感をもつ。 
水木さんのお化けが、ユーモラスなのは、水木さんのやさしい解釈である。

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鬼太郎茶屋

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水車小屋


それにしても、太平洋戦争中、マレーシアのジャングルで、現地人に
「水木しげるの妖怪画集」を見せたら、「これも、知ってる」「これも、これも知っている」と、
大いに共感されたという。
お化けは、世界共通のものか。
水木さんが、勝手につくりあげたものではないようだ。
世界の妖怪は、大体1000種類に集約され、世界各地で、共通していると、水木さんは、みている。
かれの子供時代、自宅に手伝いに来ていた、影山ふさという、「ののさん」(鳥取で神仏に仕える人をいう)
に、妖怪や、地獄という、もうひとつの世界を教えて
もらったことが、いまの自分の興味を、作り出しているという。


天神通り商店街に、鬼太郎はじめ、ねずみ男や、一反もめんなど、妖怪のモニュメントが並んでいる。
これは、どこの街の商店街にもあるパターンだが、活況を引き出すきっかけになればいいことだ。
そのなかでも、調布の場合、
鬼太郎茶屋(深大寺)の成功が町おこしの牽引力になったと、ぼくは、思う。
年代ものの、つぶれたそばやを買い取り、芝居仕立てのお化け屋敷をつくりあげた。
水木さんの故郷の境港の会社が、経営する、茶店兼、土産物屋である。
二階には、水木さんの、作品も展示され、鬼太郎茶屋らしい雰囲気をつくりあげている。
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ぎしぎしと鳴る階段のきしみも、大木の覆う家の暗さと、灯りの不気味さ。
マンガという、つくりものに、森と古寺と、つぶれかかりの古家のリアリテイが合体。
この立体的なだまし絵の世界を、一度、覗いてみたらどうだろうか。


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茶屋の二階

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ネコ娘

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鬼太郎茶屋

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茶屋のねずみ男

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