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夏が過ぎ、風あざみ、王貞治、少年時代。業平、向島。

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王少年のホームグランド

夏が過ぎ 風あざみ
誰の あこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様
少年時代(井上陽水、詞、曲)

男の思い出のなかでも、少年時代の夏には、特別な懐かしさがある。
どこまでも青い空。力こぶのような、白い雲。
回想は、瀬戸内少年野球団(阿久悠作、篠田正浩監督)の、
白球を追う、少年時代の夏に、だぶる。


王貞治少年は、隅田川べりの、いくつかの野球場で、野球に明け暮れていた。
中学生にしては大柄で、怪力、ボールは隅田川にまで、飛んで波しぶきをあげた。
戦後、娯楽もない時代だったとはいえ、
単純な球遊びが、どうしてこんなにも少年の心を虜にしたのだろう。

個人的なエピソードで、恐縮だが、ぼくの少年時代も、野球漬けだった。
近所の野球嫌いの親に内緒で、友人を連れ出して、ボールに興じた。
ある日も、こっそり連れ出した彼だったが、
誤ってだれかが、バットで額を殴打してしまい、デカいコブをつくった。
彼を、自宅に送り届け、その家のオヤジに大目玉を喰らった思い出がニガい。
青空に残された わたしの心は夏模様 だ。


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王選手レリーフ


いま、
スカイツリー建設中の業平の広場は、もと東武鉄道の、電車の操車場だった。
広々とした鉄路の並んだ間を、子供達は、夢中で遊びまわっていたという。
王少年も、その子供達の中にいた。
「王さんも、真っ黒くなって遊んでいましたよ。」
王貞治の父親、王仕福の経営する、「中華五十番」の店員だった関五一さんはいう。
誰にも、夕焼け、と汗にまみれた、少年時代の思い出がある。
業平の王さんの住んだあたりは、小さな家内工業のひしめく、埃っぽい印象の、
新興地の下町らしい環境だった。


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スカイツリー、左手に王さんの店

このあたりの風景に似た、町は下町に多い。
白髭橋あたりや、ガスタンクなど望む川縁り、
それと山谷に近い、泪橋などの埃っぽい風景は、
ちばてつやの漫画、「あしたのジョー」や、ちばあきおの「キャプテン」に描かれた風景だ。
ちば兄弟は、業平の隣町の向島に住んでいた。
王少年とちば兄弟は、互いを知らずに育ったのかもしれないが、
同じ下町の、似通った「夏模様」のなかにいた。
王少年は、少年時代から運動センスが傑出していた。
在籍した、本所中学に野球部がなく、それを復活させたりしたが、
隅田川ベリのいくつかの野球グランドが、かれの活躍の場だった。

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本所中、グランド

台東の今戸グランドで、のちの巨人軍のコーチとなる、荒川博との出会う話も、この頃のことである。
やはり、「隅田公園少年野球場」には、王少年の銅板プレートが、刻まれており、
ここが、一番のゆかりの場所なのだろう。
素質に優れるとともに、黙々とトレーニングに励む、野球への
うち込みの激しさは、並みの人とは違った、というのが定説だ。
後年、王の素振りを覗き見た野村克也さんが、著書「巨人軍」のなかで、
「ただ、凄いと、思うのみ」と、絶句している。

印象的なのは、彼のやさしさだ。
王少年が、黄金時代の巨人軍選手にはじめて出会った時、
サインを求めたのに、川上哲治など、ほとんどの選手に拒否された。
応じてくれたのは、与那嶺選手、ただ一人だった、という。
かれはショックだった。
自分は、決してサインを断るまい、とその時決意したという。


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サインボール

王さんは、昭和15年に八広3丁目、中華の「五十番」に生まれた。
その、生家へ行ってみた。
いまは、人手にわたったが、シャッターが閉まったまま、ひっそりと、その家は存在していた。
道路をへだてた、正面の町工場のおじさんに、当時のことを訊ねた。
「エ?そこって、王さんの生まれた家だったのオ?、知らなかったア。」
驚いていた。
店は昭和21年に、そこから業平2丁目に移った。
店員だった、関五一さんに話を聞いた。
関さんは兵士として、中国から東南アジアに転戦させられた。
昭和23年、やっと帰国し、職探しを重ね、
業平橋の王さんの「中華料理店」に雇われたのだった。


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王さんの生家


当時、街は戦火に焼かれて、そのあたりは人家もまばらだった。
「中華五十番」は、江戸元禄の戯作者「鶴屋南北」の墓のある春慶寺の一角にあった。
150坪ほどの土地を寺から借り、営なんだ店だ。
裏庭の土を踏んで、王少年は、いつもバットの素振りをしていたという。
早実時代、野球の練習が終わると、好物の「肉そば」をおやつ代わりに食べた。
当時関さんは、夜9~10時ころ、練習に疲れて帰る、王少年の希望で、
その時刻に合わせ、材料を揃えておき、帰るとすぐ調理したという。
関さんは、仕福さんに信頼された、一番弟子だった。
いま業平4丁目で、中華五十番を営んでいる。
「のれんと、電話をあげるから、頑張りなさい」と、
王さんの味を引き継いでいるのだ。


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業平の五十番


当時、辛かったことはなんですか、と関さんに、なんとなく訊ねた。
日中戦争の話題を、かれは、不意に持ち出した。
かれの出征先の中国は、浙江省の北部だった。
王さんの祖先は同じ、浙江省の南部にあった。
なんと偶然だが、関さんは中国で主人の故郷へ、銃を向けていたのだ。
恩人である、雇い人の出自の地で、そこに住む人々を、戦いで苦しめたのだ。
関さんの罪ではないが、その話に触れるのが、一番、辛かった、と関さんはいう。
誠実な人である。

その関さんは、心から王仕福さんを尊敬していた。
仕福さんは、貞治少年に厳しかったという。
決して、子供に不誠実なことは許さず、
「人に迷惑をかけるな、人の役にたて。」と常に諭したという。
昭和の、中国人への、差別や貧困のなかで、仕福さんが、生きのびるためには、
誠実に生きる、ことのみが人々の信頼を得ることだと、考えたのだろう。
兄の鉄城さんも、厳格な人だった。
王さんが、高校時代、相手投手から、ホームランを奪い、ベース上で、小躍りした時、
「打たれた相手の気持ちも考えろ!」と、厳しくたしなめたという。
そういう、一家の厳しい躾もかれの人格を光らせた。
1998年、王貞治は国民栄誉賞を、受けた。


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関さんと店

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五十番の店内。関さんの息子さん

王さんの駆け抜けた、業平や向島は、新興地と古い花街という、別々な顔をもった街である。
埋め立てで生まれた新興の街のほかに、歴史のある花街や料亭や、古い昭和の建物もある。


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向島。料亭

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向島。工場


野球一筋の、王さんには、グランド以外、街には無縁だったのかもしれない。
かれの汗にまみれた「隅田公園少年野球場」のスグ隣には、江戸時代から続く、
「言問い団子」と、「長命寺の桜餅」の店がある。
竹久夢二の大正4年の日記には、「向島からおとみ来る。
こととひだんごが、とにかくおいしい」とある。
王さんも隣の「だんご」には、縁が深かったに違いない。

王さんは、いま、達観した心境だろうなア。
無心に白球を追った、あの少年時代をどう回顧するだろう。

背番号1の すごい奴が相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で
スーパースターのお出ましに ベンチのサインは敬遠だけど
逃げはいやだわ
(阿久悠、詞、都倉俊一、曲。サウスポー)

ピンクレデイの歌声は、軽快だ。


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言問いだんご

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長命寺の桜餅

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記念ギャラリーの、王貞治のふるさと墨田

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