« メガロポリス〜汐留シオサイト、迷宮の快感〜 | トップページ | 銀座。ぶらぶらと裏通りをゆき、なんかめっけた。 »

胸うつ、女性たちの歌。69年、東大安田講堂

01_img020
ガス銃と投石の争乱の痕


1969.1.19
その日、時計台は泣いていた。
火炎瓶と、ガス弾、投石、放水に包まれて、東大安田講堂は、
正義や秩序や、怒りや憎しみの渦巻くるつぼのなかにあった。
記憶はさだかではないが、ときおり、攻防のなかに、しじまがあって、
夕暮れ、籠城の約300人の学生達は集合し、それは、静かな祈りにみえた。

ぼくは講堂正面の文学部の屋上から、撮影をしていた。
講堂を取り巻く広場の学生群の中に、東大生の歌手、加藤登紀子さんもいた。
(以下、登場する人物の敬称は、略させていただく)
いつしか、8500人といわれた機動隊の突入が始まり、激しい攻防の末、
安田講堂は陥落した。
次々と、機動隊によって逮捕され、連れ出される学生たちは、ほとんど顔面などに
ひどい傷を負っていた。

02_img021
時計台への放水

03_img022
籠城する学生たち

04_img024
負傷した学生


籠城した学生たちのなかに、ひとりの女子学生がいた。
可愛い顔つきの女の子だった。
やはり彼女も、左目のあたりに血が滲んでいた。
痛々しい思いで、ぼくはシャッターを切った。
勿論、その時は、彼女が籠城した唯一の女子学生だったことも知らなかった。
彼女は、逮捕後、頑に黙秘を通し、拘留された菊屋橋の拘置所では、
「菊屋橋101号」と記号番号で呼ばれ、長い拘留期間中、完全黙秘を貫いた。
しかし素性を探るマスコミによって、氏名や写真を公表されてしまう。
その後、怜悧で毅然とした彼女は法廷で堂々と、闘ったといわれる。
この菊屋橋101号のことを偲ぶと、いつも「マキシーのために」の
歌の主人公を、勝手にだぶらせてしまうのだ。


この「マキシー」という女性は、作詞家の喜多條忠の、友人だった。
喜多條忠の作詞によれば、

(第二章)
マキシー 俺 今まじめに働いてんだよ
マキシー 風の便りに聞いたけど
マキシー どうしてah 自殺なんかしたのか
マキシー 睡眠薬を百錠も飲んでさ
渋谷まで一人で歩いていって
ネオンの坂道で 倒れたって
馬鹿な奴だったよ お前は最後まで
(喜多條忠 作詞、南こうせつ 曲、歌。)

安保の暗雲のたちこめる時代、マキ(浅川マキか?)のアパートで
鬱屈した若者たちがたむろしていた。
そのなかで、喜多條やマキシーたちは、夢をみていた。

(第一章)
マキシー それがお前のあだなさ
マキシー お前は馬鹿な女さ
マキシー 夢をみたことがあっただろう
マキシー 二人で金をもうけて
青山にでっかいビルを建てて、
おかしな連中集めて、
自由な自由なお城をつくろうと、

そんな自由への希求や憬れが、マキシーを突き動かしていたのだろう。
マキシーの行動記録や、詳細はわからない。
彼女は闘士だった。
喜多條さんによれば、
機動隊に食らいついて離れない激しさに「ピラニア」と渾名されていたという。


05_p1080714
マキシーの倒れた道玄坂

ふたたび、もうひとりのピラニア、菊屋橋101号に戻ってみよう。
彼女の拘置されていた菊屋橋拘置所に行ってみた。
10何年か前に、当時の拘置所は、建て替えられてしまったが、
道路を隔てた角の店で、50代の女性に当時の話を聞いた。
「当時私は、おかっぱの小学生だったのよ、詳しいことは判りません。
 ここは、女性専用の拘置所でしよ。
 学生さんが捕縄むきだしで連れてこられ、痛々しいと思いましたよ。
 時々、ヘルメットの学生達が、拘置所の前で「頑張れよ」とか、「一緒に戦うぞ」とか、
 閉った窓に向かって声をかけていましたね。」


06_p1180071
左、菊屋橋拘置所

07_dsc_0115
東大安田講堂

08_dsc_0179
本郷通り


歌手の加藤登紀子も、歌手としてデビューしたものの、60年代の学生紛争のただ中にいた。
1968年に彼女は卒業式を迎えたが、式の粉砕、ボイコットと学内は騒然としていた。
女性週刊誌は、登紀子に式当日は振り袖で式にでてくださいなどといっていたが、
彼女はこの状況を、そんな甘くはとらえられなかった。
私は何者なのか。
私は何のために生き、ここまできたのか。
彼女は自問し、一晩中悩んだあげく決意した。
そして、明日は、新しい自分のスタートにしよう、とジーパン姿で学生集会に出掛けた。
それが、雑誌に掲載され、それをみた全学連副委員長の藤本敏夫が、
学生集会で歌ってくれないか、と彼女を訪ねて来た。
加藤登紀子と藤本の初めての出会いだった。
藤本敏夫は、ヘルメットも被らず、いつも先頭に立って戦う、
男の美学を持ち味としてもっている魅力的な人物だった。
68~69年にかけて激しい闘争が繰り返され、
かれはデモの指導者として、しばしば逮捕され、留置所に拘束された。
二度目に登紀子と会った時、居酒屋で藤本は、「知床旅情」を歌った。

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるか国後に 白夜は明ける
(詩、曲、森繁久彌)

加藤登紀子は、初めて聞く歌だった。
おそらく、藤本はこれから牢獄生活の予想される人生をみつめ、
深い思いで歌ったのだろう。
そして藤本が自身のために心から歌うその歌に登紀子は感動した。
そして単に職業歌手として歌い続けてきた自分を恥じた。
この藤本のように
自分の心がまっすぐ届くような、自分のために歌う曲をひとつだけでも
持とうと思った。
そして生まれた歌が『独り寝の子守り唄」である。

ひとりで寝るときにゃよおー
ひざっ小僧が寒かろう
おなごを抱くように あたためておやりよ

ちょうどこの曲の録音が終わり、その日に出所してきた藤本と
飲み屋で会い、その唄をかれに聞かせた。
藤本は、
「寂しい歌だね。
 おれはいやだ。」
といって、ふいっと外へ飛び出してしまったという。

ぼくも、藤本の気持ちがわかる気がする。
権力との闘争や、セクト間の激しい憎悪にさいなまされる
そんな日常に、感傷の入り込む余地はなかったのだろう。
それはさておき、加藤登紀子は、コンサートの最後に
いつも「知床旅情」を歌うのだそうである。
藤本敏夫に、歌の原点を教えられ彼女は、
いつもそれを噛みしめているのだろう。
その愛と戦いの人生は、
「青い月のバラード」(小学館刊)に克明に描かれている。


09_p1190300
青い月のバラード

ぼくは東大の三四郎池に時折出かける。
ここは、深い緑に覆われた、東大ではいちばん静かで安らげる空間である。
マキシーも菊屋橋1号も加藤登紀子も、この異界のような世界に、心を休ませたことがあるに違いない。
きょう、出かけてみた。
安田講堂で、彼女たちの抱いた思い、そして三四郎池で感ずる神秘さを
ぼくも彼女たちと共有できたように思えたのだった。


10_p1190548
三四郎池

11_p1190587

|

« メガロポリス〜汐留シオサイト、迷宮の快感〜 | トップページ | 銀座。ぶらぶらと裏通りをゆき、なんかめっけた。 »

あの歌の世界を訪ねて」カテゴリの記事

僕的、都市ウオーク&おいしい。」カテゴリの記事

写真」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。

マキシのためにという歌の話題をblogに書いていて、検索していたときにこちらのblogに迷い込みました。

貴重な写真を拝見し…当時の様子がさらにイメージできた気がします。

事後報告になりますがblog記事にurlを貼らせていただきました。

問題がある場合は削除いたしますのでご面倒ですが御一報下さい。

宜しくお願いいたします。

投稿: Notttinghilll | 2011年2月 6日 (日) 13時54分

Notttinghilllさん

コメントありがとうございます。
パソコンに不自由な父のかわりに返信いたします。
遅れてすみません。
もちろんリンクも全く問題ありません。ありがとうございます。

69年というと私は3歳のころでその頃の様子はとうてい想像もできませんが
当記事やNotttinghilllさんの記事を拝見すると
それぞれに壮絶な思いがあったのだなぁと痛感いたします。

今後ともよろしくおねがいします。
ブログ主代理

投稿: ゲンゴロウ代理 | 2011年2月 7日 (月) 20時57分

ゲンゴロウ様
ゲンゴロウ代理様

お返事ありがとうございます。
私は代理様より七歳上のようなので学生デモを見た記憶はありますが中身は想像の域です。

二度とそういう現象は起こらない気がします…良くも悪くも。

すごい時代だったのですね。

またお邪魔いたします。

投稿: Notttinghilll | 2011年2月 9日 (水) 00時22分

子どもの頃、菊屋橋警察のすぐそばに住んでいました。記事中に出てくる50代女性はおそらく私の幼馴染み。
私は彼女よりも年下で69年1月当時は幼稚園生だったため、学生運動の人々が警察署前から声かけをしていた記憶は全くありません。
学生運動の記憶としてはその頃、母とまだ乳児だった妹と山手線を待っていたら、止まった車両にヘルメットの集団が乗っていたのです。母はかまわず乗車して、ヘルメットの方々に席を譲ってもらった記憶があります。
それで私も安心して、珍しいから見ていたかったのですが、次の駅でヘルメットの方々は降りてしまいました。
社会的事件の最初の記憶が、メキシコオリンピック、当時のデモ映像、三島事件、心臓移植事件あたりです。

菊屋橋警察は当時は、昭和のはじめ頃の建物だったはず。また前の浅草通りには都電菊屋橋駅もありました。

荷風の断腸亭日乗に都電に乗って菊屋橋を通りすぎる描写があったりします。
また、付近は基本寺町なのですが、幕末には勝海舟が通っていた道場もあったそうです。
多くの記憶を町は持っています。

投稿: 松清町 | 2016年9月21日 (水) 10時48分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1150352/36922541

この記事へのトラックバック一覧です: 胸うつ、女性たちの歌。69年、東大安田講堂:

« メガロポリス〜汐留シオサイト、迷宮の快感〜 | トップページ | 銀座。ぶらぶらと裏通りをゆき、なんかめっけた。 »