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2010年12月

〜漱石ハートにナビゲート5〜漱石の神楽坂

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神楽坂

漱石山房から早稲田通りを、神楽坂まで一直線だ。
漱石は、頻繁に神楽坂に出かけた。
したがって、彼の書き物には、神楽坂がよく登場する。
漱石は、1909年4月4日寺町へ下駄を買いにでかけて、途中で、
胃が痛くなってしまった。
しかたがなく、神楽坂の坂の途中で、毘沙門天に立寄り、
境内で腰をおろし、しばし痛みをこらえた。
まわりを見渡す。
柳が芽を吹き風にゆれる様子や門の傍のさくらの蕾みがふくらんでいるのを
目にする。
ボクは、この寺で漱石の腰をおろしたあたりを探した。
階段あたりしか、それらしき座り場所は見当たらなかったが、
ふと見ると、階段に「坐るべからず」の寺からの注意書きが貼ってある。
どうやら、みなここに坐り込むようだ。


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毘沙門天

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階段の禁止札

漱石は縁日も楽しんだらしい。
小説「坊ちゃん」にこんなことが書いてある。
「毘沙門天の縁日で8寸ばかりの鯉を針で引っ掛けて、しめたと思ったら
 ポチャリと落としてしまったが、これは今考えても惜しい、と言ったら、
 赤シャツは顎を前の方へ突き出してホホホホと笑った」


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毘沙門天の縁日はここで


寺の隣は、田原屋という牛鍋屋(のちにレストラン)だった。
漱石はじめ、永井荷風、菊池寛など文豪が贔屓にした。
息子の伸六が風邪をひくと、漱石はここからポタージュのスープや
メンチボールを取り寄せたという。
残念なことに、店は平成14年に閉店してしまった。

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もと田原屋があった


田原屋のあった斜め向かいには、漱石のオリジナルの原稿用紙を
作っていた相馬屋がある。
朝日新聞の小説の活版の組みに合わせて、マスは19字X10行だった。
相馬屋は、1659年の創業で、創業時は和紙を漉いて江戸城に納めていた。

相馬屋の正面には、地蔵坂(藁店わらだな)が伸びている。
明治時代にこのあたり寄席がいくつかあり、
この坂の中程にあった和良店亭(わらだなてい)には、
三代目小さんの至芸に魅せられた漱石が、足しげく通ったという。
いまその寄席はないが、飲食店で落語の席を設けている「もん」という店がある。

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原稿用紙の相馬屋

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地蔵坂、藁店は右

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和良店亭は坂の中程だった


当時は、神楽坂は、毘沙門天の門前町として賑やかで、
明治28年の暮れ、見合いを終えた4日後、漱石と鏡子夫人がこの坂を人力車ですれ違ったが、
互いに相手が声を掛けてくるだろうと思い、無言ですれ違ったという。
鏡子夫人は、著書「漱石の思い出」の中で、そのときお互いにもったいぶって知らん顔をした、と書いている。
しかし、どこか別な街で見合いをしたのだろうが、
再び、この坂で出会うフシギな因縁に、漱石は結婚のほぞを固めたという。
小説「それから」の舞台もこのあたりで、主人公の代助と三千代の日常に
神楽坂はしばしば登場する。

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神楽坂


神楽坂を下り外堀通りを右折すると、
「坊ちゃん」の出身校の東京物理学校(東京理科大学の前身)が、復元されてある。
坊ちゃんは、学校の前を通ったら募集広告がでていたので、これも縁だと、
すぐ入学してしまった。
カルい学校のように小説では描かれているが、
実態は、入学は簡単だが卒業は容易ではない厳しい学校だった。
坊ちゃんと同期の明治35年の入学者208名のなかで3年で卒業できたのは
25名だけだったと、関川夏央さんは調べている。
漱石は、ここの三代目校長の中村恭平と懇意だったので、この学校名を小説に
使ったのだろうといわれている。


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坊ちゃんの物理学校

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神楽坂の料亭


さて、かように神楽坂は、漱石に縁の深い街だった。
坂下から坂上を仰ぐと、葉脈のように神楽坂の左右に小路が
張り付いている。花街あり、老舗がひしめき、フランスの香りもあり、
漱石の時代以前から、今日に至る由緒の密集する街である。
ここを訪れる人々は深い情緒に誘い込まれる。

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神楽坂の小路

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あなたのこないクリスマス

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豊洲


昔の寒い話だ。
ぼくは高校生だった。
女子高生の友人がいた。
クリスマスの日、電車が2両で走る都市の郊外で、ほとんど客のいない駅のベンチに二人は座り
とりとめのない話を続けていた。
その頃、恋に恋していたぼくだったが、ふたりは恋人ではなかった。
クリスマスという甘美な幻想のなかで、愛をもたない虚しさを
そのとき程、感じたことはなかった。
かわいい彼女は、そこにいるのに、大切なものだけが不在。
彼女もまた、おなじ思いだったに違いない。
いまは幸い、静かであたたかなクリスマスを過ごす伴侶がいる。

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レインボーブリッジ

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ミッドタウン


イルミネーションが目立つ時期になった。
今年は、大切なひとのこないクリスマスになってしまった。
ぼくらふたり共通の友人が数日前、若くして亡くなった。
ショービジネスで活躍した平山高良さんである。
草月ホールのショーの企画演出が、かれの最後の仕事になった。
ぼくの観たかれの演出のなかで最高のエンターテイメントだった。
命と差し替えに創出したかのような怖い完成度の舞台だった。
選曲もステキで、やはり友人のダンサーの、のりちゃんやふみさんの
演技の流れにボクは、ぼろぼろと涙をこぼして隣席の彼女に気ずかれた。
その涙のCDのコピーを高良さんに送ってもらったっけ。
華やかなショービジネスの舞台。
ダンデイなかれの横顔が目に焼き付いている。
宝塚の「色は匂えど」のダンスヴァージョンだったと思うが、演出したかれに招待され、前列で一緒に観た。
幕が閉まると、演じたスターたちが、客席のかれにどっと集まった。
主演の愛華みれが、「高良先生!」とかれの手を握ったのが、鮮やかに目に残っている。
もう、かれはこない。


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豊洲

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昨年の六本木ヒルズ

ぼくのうろついた年末は、
六本木、や湾岸のどこでも
イルミネーションがやけに寂しかった。
氷の彫刻のような美しくも冷たい、その光の乱舞に、
心が馴染んでいくのは、残されたぼくたちの、虚しい思いに、あまりにも符合した風景だからだ。
パートナーの橘美枝子さんの心情は、いかばかりかと、冷たい光の影に思う。
高良さんと美枝子さんに贈ろう。

My Iove かえる場所は
ふたり過ごした カンパニュラの刻(とき)
そっと 降るはずのない雪が舞う  
平原綾香

クリスマス。
あなたのこないクリスマス。


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お台場

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お台場

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八重洲

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お台場

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〜漱石ハートにナビゲート4〜硝子戸の中

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漱石像


庭で子供たちが焚き火で遊んでいる。
漱石が、「そんなに焚き火に当たると、顔が真っ黒になるよ」というと、
末の子が「やだぁ」といった。(硝子戸の中)

漱石は、精神的な病の発作がなければ、怖くない優しい父親だった。
「もういくつ寝るとお正月」と子供と唄ったり、鞠をつき、散歩に連れ立って玩具を買ったり、
アイスクリームを一緒に舐めたり、子供とよく相撲もとった。
かるた取りも好きで、子供に混じって遊んだが、気にいったかるたは、誰にもとらせなかった。
それは、
「屁をひって尻つぼみ」
「頭かくして尻隠さず」
「臭いものにはふた」
という変な3枚にこだわり、だれにもそれをとらせないユーモリストだった。
しかし、いつ突然、病気が爆発するやもしれず、家族はいつも恐れていたという。

ある早朝、みなをたたき起こし、そのまま洗面所で髭を剃った。
「ギーギー」というカミソリを研ぐ音に、
みな震えあがったと孫の松岡陽子マックレインさんは、伝えている。

赤茶けた素焼きの鉢をたたき割った直後、漱石は悔悟する。

「……むごたらしく砕かれたその花と茎の哀れな姿をみるやいなや彼は、
 すぐまた一種のはかない気分に打ち砕かれた。
 なにも知らないわが子の、嬉しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは
 かれらの父親であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。」(道草)

と、病の発作に苦しんでいたのだ。

猫の千駄木の家から本郷近辺に1年弱住み、そして生まれた早稲田近辺に漱石は移り住んだ。
約10年ここで最後までの生活が続くのだが、吐血した修善寺の大患を経て、この漱石山房とよばれる
家で、妻や子供との暮らしや木曜会の若い人々との集いを楽しんだ。
作品の「硝子戸の中」は、その病後の日々の感想や、回顧を淡々と語ったエッセイで、
ぼくの好きな一篇である。


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漱石山房

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山房のベランダでくつろぐ

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後列右から3が漱石と前列左から6名が妻子

漱石は、その山房に近い場所で生まれた。
早稲田通りから夏目坂へおむすび型に道路を一巡りすると、当時の漱石の生い立ちから終末までの、
環境を偲ぶことが出来る。
生家の跡に碑が建っているが、その碑には見向きもせず若者は、隣家の牛丼屋に急ぐ。
そういえば、漱石は、牛肉がことのほか好物だった。
この牛丼屋はそんなことは知るまい。

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漱石山房跡

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漱石生家跡の碑


かどの酒屋は小倉屋、江戸時代からある店だ。
高田馬場の決闘に駆けつけた堀部安兵衛が、店で升酒をあをった、その升が残っているらしい。
公開していないからわからないが、漱石もそれをみたことがないなどと、書いている。
ただ、その酒屋の娘御北が長唄をさらうのを、少年時代の漱石は、家の土蔵の白壁にもたれながら、
ぼんやりと聞いていた。
「旅のころもは、鈴懸けの……」などという文句を自然と覚えてしまった。

近所の路地に、そんな感じのお師匠さんの立て看板があった。
ボーンという鐘の音が竹薮の奥から 聞こえて来た誓閑寺もすぐ近くである。

「……朝晩のおつとめの鉦の音はいまでも私の耳に残っている。
 ことに霧の多い秋から冬にかけて、カンカンと鳴る西閑寺(ママ)の鉦の音は、
 いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。」(硝子戸の中)


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右は夏目坂、左は小倉屋酒店

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お稽古所


かれは生まれ落ちてすぐ、
古道具屋にもらわれ、また別の家に養子に出され、三度目に生家に戻された。
こんな惨憺たる幼少時代を経て、グレもしなかった漱石は、その代償に内深く精神的な傷を負ったのだろう。
作品の中には、その境遇の恨みつらみは、洩らしていない。
だが、その生い立ちの悲しみと、近代日本の開明期の不安が、
漱石をひどく苦しめたに違いない。
だから、その人生に共感し、漱石を慕う人々が多いのだろう。
漱石の死後、17回忌も迎えたというのに、集まった小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平が、漱石を惜しみ、
その薫陶を得られた幸せを噛み締め、しみじみ泣いたという。
松岡譲の述懐だ。
漱石はいつまでも懐かしい人である。

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誓閑寺、左鐘楼

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木曜会の面々。津田青楓画

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山房周辺の家並

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明日はどっちだ。蘇る、あしたのジョー。

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映画あしたのジョー、ポスター


書店に女性誌のメンズ版が、ここにも、そこにも、あそこにも。
なんで?
ある株主総会で、中東の砂漠で現地の労働者を仕切る青年社員の苦悩を聞いた。
「いやぁ、死ぬ思いですよ。現地のことばと、かれらの働かせ方……」

国境紛争や、金融財政危機、それに北朝鮮はなにやってんだ。
ダイバーシティか、個別化か。
すべて、異和な現象が吹き出している。
底流には、太い怒濤の流れがあるのだろうが、いまはみえない。
個別の現象だけが、突き出している。
全体像や方向性は霞の中。
あしたはどっちだ。

山谷のいろは会商店街が、マンガ「あしたのジョー」を梃子に街おこしをやる、と聞いた。
行ってみようじゃないか。
このマンガ、この街を舞台に描かれている。
そこには、江戸時代から明治初期まで泪橋という橋があった。
小塚原処刑場にむかう罪人が、家族や知人と別れを惜しみ泪にくれた橋だ。
マンガにでてくるジョーの「丹下拳闘クラブ」はこの橋の下にあるという設定になっている。
高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画によるボクシングをテーマの熱血マンガだ。
1960年代後半から「週間少年マガジン」に連載され、大人気を博した。
ジョーのライバル、力石徹がリングで死んだ時には、寺山修司らの手で、力石の葬儀がリアルに行われた。


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商店街の一角

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映画のセットのスチール。泪橋下

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現在の泪橋の交差点

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力石徹、ちば てつや画

世間が燃えていた。
もう過去の話だ。
それが、どこでどう間違ったか、出版社から本が再発行されるわ、来年2月11日から東宝系で、
山下智久、伊勢谷友介主演の映画が上映されるわ、でジョーをもう一度蘇らせようというのだ。
商店街では
尾藤イサオが、群衆にかこまれて主題歌を熱唱。


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熱唱する尾藤イサオ


お!そばやがある。
マンモス西も減量に耐えかねて、屋台のうどんをすすったが、この店にも来ただろうか。
丹下段平の道場を模したリングでは、子供もおやじもグラブを手に興じている。


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映画のセットのスチール

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そばやの前の人たち

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拳闘に興ずる

ジョーと段平が運命の出会いをした玉姫公園にいってみよう。
滑り台がひとつポツンとあるだけの荒涼とした公園である。
力石をリングで殺したジョーが、苦悩でのたうちまわるのもここだ。
いまは山谷も商店街も、昔の暴動の起きたような活気はない。
ドヤは、外国人バックパッカーの仮寝の宿にもなっている。
たむろしている、おじさん達もやさしく人なつこくなってしまった。
果たして街は、ジョーのパンチで、時代の鬱屈を打ち破れるのか。


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玉姫公園、ジョーの思い出が詰まる

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いろは会商店街


ジョーはつぶやく。
「そこいらの連中みたいに、ブスブスとくすぶりながら
 不完全燃焼しているんじゃない。
 ほんの瞬間にせよ、まぶしいほど真っ赤に燃え上がるんだ。
 そして、あとは真っ白な灰だけがのこる……」

最後にジョーは、世界最強のボクサー、ホセとの闘いにやぶれ、灰のように真っ白に燃え尽きた。
主題歌は、寺山修司が書き、八木正生が曲、唄は尾藤イサオだ。
寺山修司は、ジョーに自分の人生を重ねあわせていたと思う。
そして、そう生きた。
二章目。

親のある奴は  くにへ帰れ
俺とくる奴は  狼だ
吠えろ!吠えろ!吠えろ!
俺らにゃ  荒野が欲しいんだ
だけど  ルルルー
あしたはきっと  なにかある
あしたは  どっちだ

庶民としてのボクは、生きることは質だ、と判っていても、日常は怠惰な消費の連続に終わっている。


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あしたはどっちだ

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