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2011年6月

サムライ去って、品格なき人のワルあがき。

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 これまで、ビジネス雑誌や企業情報誌などで、多くの社長を取材してきた。
気合いのはいった社長が多かったが、なかには首をかしげたくなる人もいた。
かなり前だが、リクルートの社長としてスタートした江副さんと、大手石油会社の社長に
取材にいったことがあった。
もちろん石油のかかえる問題が焦点。
ところが、
話が、社長自身の仲人の自慢話しに終始し、経営論の態をなさなかった。
江副さんも呆れて、
「どう解釈したらいいでしょうか、禅問答みたいですねえ」などと、
一流会社の社長の、思わざる顔に、ニガリきっていた。

 最近TVで、福島県知事に叱られている東電の新旧社長の姿をみたが、なんとも
感想の述べようもない。
全宇宙的な危機。
経営の道には、かくも過酷な落とし穴が待ち受けていたことに愕然とする。
だが、
おびただしい数の社長を取材する過程で、経営者に経営手腕は当然だいじだが、
それにも増して、危機が到来した時、正しい人間的発露、品格が大切だなと、ボクは思い続けてきた。


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取材した社長さんたち

そういえば、
何代か前の東電の社長だった那須翔さんを、取材したことを思い出した。
日比谷公園で、おしゃべりしながら撮影して歩いた。
那須さんは、総務畑の経験が豊富で、人間への洞察の深い方とお見受けした。
若い頃からいつも社内外の難題処理に忙殺されていたと話していた。
言葉の端はしに、人への気ずかいを感じさせる方だった。
仮にいま東電の現職だったら、容赦ないメデイアの糾弾に
かれなら、どんな対応をされただろうか。


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那須さん

それにしても、菅さん、情けない。
要職にある人のもつべき哲学、人間力、品格。
それは言葉のちからによって発露される。
言葉のちからがあれば、、不幸のどん底にいてでも国民は奮い立つのに。
メデイアの糾弾の熾烈さもヒステリックなら、対するいまの総理の力のなさには、嘆め息をつくしかない。

 宮崎第一勧銀会長(当時)は品格のある経営者だった。
シーガイアの広大なヴューポイントで、理想や哲学を語ってくださったが、
宮崎さんは文化や芸術にも理解が深く、
「銀行も、多彩な個性の人が必要、小椋桂の採用もそのひとつ」と、その時音楽家の登用
の理由を話された。
話ははずみ、時の経つのを忘れさせた。

「宮崎さんのご自宅は、質素な家でしたよ。」
その時、同行したライターの小柳純二さんが、追加取材にお宅に伺い、その印象を伝えてくれた。
「宮崎さんが、これを幡谷さんに」と、なぜかテレフォンカードの束をプレゼントされた。
のちに、宮崎さんの経営上の責任をメデイアが、ヒステリックに責め、騒ぎ立てたことがあった。
いつものように、執拗に。
宮崎さんは、責任をとるべき、と考えられたのだろう。
自殺された。
宮崎さんなりの品格ある身の処し方だなと感じつつも、悔しかった。


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宮崎さん

多くの経営者におめにかかったが、ボクの個人的にご縁が深かったのはこの人だった。
橋本総業(株)の橋本会長だ。
管工機材のトップの企業家だ。

残念だが数日前、その会長の訃報を聞いた。
派手好きな会長らしく、品川の有名ホテルの一番おおきな会場でのお別れ会だった。
豪快で、人にやさしい、会長を惜しむ人々の長蛇の列ができた。


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橋本会長

会長とは、雑誌の取材でお会いしたのが最初だが、その時、話しが盛りあがった。
一カ月くらい経ち、会長から電話があった。
来てくれ、といわれ会社にいくと、突然、100周年の記念誌の製作をやれ、という。
「電通に決めかけたが、あんたやってくれ」
いきなり、一度会ったきりの人間に、普通はそんな大仕事を任せないだろう。
「冗談じゃないですよ。一匹狼のカメラマンに、そんな大変なことはできませんよ。」
資料整理、関係者取材、撮影、デザイン、印刷、等々、ひとりの手に負えるものではない。
しかも、予算も巨額だ。
しかし、いくら断っても、会長は強情だ。
そこまで、未知の人間を信用するのか。
「この人は、凄い人だ」
根負けして引き受けた。
そして、それをきっかけにボクは、ずるずるとこの剛胆で魅力的な会長にひかれて、
会社のいろいろなお手伝いをすることになった。
会社案内や、社内報の製作など引き受け、
最後には、採用や、広報にめくばりする顧問までさせられた。


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橋本、創立100周年記念誌

会長は、戦前の商船学校から海軍へと、筋金いりの海の男で、クル-ザ-を乗り廻す。
ものごとすべて即断、即決。

モットーは、
船での生活にこそ人間のありかたや経営の要諦があるという。

ヨットレースをみよ。
ヨツトは、風をうまく使い
レ-ス全体と自分の位置、勝負どころの判断が大切だ。
だが、
パ-トナ-と気持ちをぴったり合わせなければゼッタイ勝てない。
こころを合わせるという、ほんとうの意味がそこでわかるんだ。
ひとを大切に、というのは、空疎なスローガンじゃない。
会社組織もおんなじだ。

どっかの首相も、会長のツメの垢、煎じて飲んだらどうだ。

サムライが逝ってしまった。
だいじな人を喪った寂しさは、言葉にしょうがない。


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クルーザーの上で、会長と社長

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橋本会長

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明石町の外人居留地跡は、夢おぼろ。

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外人居留地跡

あり得ない風景がひとつの場所に重なる。

急ぎ足でゆく福沢諭吉と、空を仰いでいた浅野内匠頭がすれ違う。
そこで、しゃがんで遊んでいるのは、少年の芥川竜之介じゃないか。
地層が何層もの時代を重ねているように、
同じ土地の同じ場所に、違う時代を生きた人々が重なってみえる。

ファンタスジック!
歴史の重層化した、イメージをかき立てながらボクは明石町に立った。

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学問のすすめ、福沢諭吉


シーボルト。

「おお、いかめしい顔?」

オランダの、外交と医術の普及に貢献した、かれのこわいような胸像が、
まず、あかつき公園で迎えてくれる。


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シーボルト像

隅田川と築地に隣り合わせたこの明石町は、近代の黎明の町だ。
明治初頭、ここは外国人の居留地で、賑わった。
居留地が開設されのは明治元年で、たった30年しか存在しなかったが、
この僅かな間に近代文化の基盤が、ここで築かれた。

いまは、聖路加病院や、ツインタワーの聖路加ガーデンが、居留地だった中核を占めている。
みどりの大木が、街の全体を森のように覆う。


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古い洋館


 麻布善福寺にハリスが執務したアメリカ公使館は、その後ここに移り、その跡が残っている。
黒い石の彫刻だ。
シンボリックな8個の石標のうち、ここに3個残っているが、
それは、ナマナマしく、当時のアメリカ国家の意志を顕示していて興味深い。

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米公使館の石標


 ほかにこのあたり一帯、外国公使館や 医学、教会、教育など花開いた記念碑が、あちこちに散見される。 
杉田玄白や、前野良沢らが、人体解剖の「解体新書」を翻訳した記念碑がある。
当時、ここには、中津藩の奥平家の中屋敷で、福沢諭吉もこの屋敷の一角に蘭塾を開き、
それが慶応義塾に進展していった。
キリスト教の布教も、立教や、明治学院の萌芽をここに生んだ。
開明期の、ときめき。
そこに刻まれた碑には、こころなしか、若き幕末の士たちの興奮を感じさせる。


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解体新書の碑

 諭吉や、前野良沢などが仕えていた奥平家の屋敷の前は、ここは赤穂藩浅野家の上屋敷だった。
刃傷事件で、その浅野家は取りつぶしになった。
四十七士が仇討ちの首尾を遂げ、高輪泉岳寺に向かう途中、
取りつぶしになった、この浅野家の屋敷の前を通り、亡き主君を偲んだといわれる。
義士たちが、左に道を曲がろうとする角に後世、登場する、作家の芥川龍之介が、産声をあげた場所がある。
浅野、奥平と武家屋敷の跡は、現在は聖路加病院を中心に、ホテルや、看護大学やチャペルなどが、森閑としたたたずまいの
なかにある。


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立教学院発祥の地

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浅野内匠頭邸跡


かすむは春の青空か  あの屋根は
かがやく聖路加か
遥かに朝の虹もでた

「夢淡き東京」という歌謡曲がチャペルをロマンチックに描写した。

ルドルフ・トイスラー。
布教の傍ら、築地病院を買い取り、診療に従事し、それがのちに聖路加病院に発展する。
かれの執務した館は、いまもやわらかな風のなかに佇んでいる。
チャペルを仰ぐ。
古い歴史の重みに敬虔な気持ちにさせられて、荘厳な礼拝堂に参る。
不躾にカメラで、あちこちを舐めまわし、徘徊しているボクに、咎めるものはだれもいない。

若い女性が、静かに祈りをささげていた。


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輝く聖路加か

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トイスラー記念館

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祈り

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チャペルにて

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原宿。皇室駅あたり、風薫る。

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原宿、皇室駅


山手線、電車の窓外をボンヤリ眺めていると、
原宿駅の代々木寄りに、白い無人駅がポツンと佇んでいる。
まあ、そんな印象をもつほど、孤独な駅だ。
多くの人に知られているが、これは皇室専用のプラットホーム。
一時期、昭和天皇が、ご旅行の折ご利用されたと聞くが、最近は、
皇族の方々は、新幹線や航空機を直接ご利用になるようで、この白い駅は、ひとしお寂しげである。

きょうは、原宿竹下口の改札口をでて左折、その皇室ホームの静かな裏道を散歩することにする。
白いプラットホームのバックヤードには、お待合の貴賓室などあるらしく、
こんもりとした森のなかに、そこは一層静かな空間をつくりあげている。
かたわらの小径は、明治通りに向かい、裏通りの散歩道になっている。

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皇室駅、のホーム


コーヒー店のアンセーニュダングルは、この皇室ホームの森添いにある。
そして、皇室駅と一体で香ぐわしい風景をつくりあげている。
ぼくは、千駄ヶ谷3丁目に事務所を構えた70年代の終わり頃、
この店へ時折コーヒーを飲みに来た。
きょうも、地下のやわらかい日差しのこぼれる、
シックな雰囲気の窓際で、ゆったりと椅子に腰を沈めた。
客は、ボクひとり。

なんの雑誌だったか、泉麻人さんがこの店を紹介していた。
その時かれが飲んだのと同じメニューの
「琥珀の女王」という銘柄を注文することにした。

それはアイスコーヒーで、表面にクリームと少量のブランデーを垂らし、
ラリックのしゃれたグラスで、でてくる、とあったのが、印象に残っていたからだ。

でてきたそれには、麻人さんの説明に加え、
白いクリームの上に、ぽつんとひとつ黒い粒が浮いていた。
噛むと、それはよく炒ったコーヒー豆で、ふくいくとした香りが、口中に広がった。

「うーん。やるなあ」

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喫茶、アンセーニュダングル

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それは、地下にひっそり

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「琥珀の女王」


 ゆったりと、味わったちいさな贅沢は、この程度にして、
もといたボクの事務所の界隈をすこし歩いてみた。
付近には、お洒落なデザイン事務所や専門学校やファッションビルなどがあり、おしゃれな住民も多い。

そういえば、7~80年代、ぼくの事務所の近所のマンションに、
「ルパン三世」の作者、モンキーパンチ氏や、歌手の新沼謙治さんが住んでいたと聞いていた。

後日、雑誌の取材で、新沼さんに会ったとき、
「あのあたりのマンションに住んでいたでしょう。ぼくもすぐご近所にいたんですよ」
と話したら、
「そう、ぼく、住んでいましたよ。それは奇遇ですね。」
と笑った。

奇遇って、そうゆう意味なのって、思ったけど黙ってこの好青年の顔を眺めていた、
そんな当時のたわいもないやりとりを思いだした。

リクルートタイムスを編集していた西村茂樹さんが、
「すごい天才がでてきましたよ。ハブにらみという鋭い目つきをするそうで」
と、興奮気味で電話してきた。

すぐそばの将棋会館で、その羽生さんの若き頃の対局を撮影したこともあった。
やはり近くの幻冬社の付近で、殺害された英国人のルーシー、ブラックマンさんの
崩れるような質素なアパートを撮影に行ったことなども、いくつか、このあたりでの取材が思い出された。

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お墓を挟んだ、ファッションビルも

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デザイン事務所も多い

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居住される方も多い

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イトキンビル


思えば遠くへきたもんだ。
いや、時間が過ぎ去ったということです。
来た道をたどり、竹下口から、JRに乗った。
改札口で、振り返ると、商店街は、今日も若者たちであふれていた。
乗った電車が加速しだすと、
シャレた城のような建築物が窓外にぱっと現れた。
フイをつかれたが、かわいい絵のようだった。
ああ原宿らしいな。
ここは穏田と呼ばれた昔から、高層建築なんか似あわない街だからね。


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竹下通りは、若者で一杯。

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かわいいビル

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神田、多町司町。三軒のノスタルジー。

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神田、多町司町。

地下鉄丸の内線の淡路町で降りる。
久しぶりの町だ。
付近の神田多町と司町を歩く。
このあたりは、バブル期、すざましい地上げの嵐に遇い、
江戸以降続いた長い庶民の生活がずたずたに切り裂かれた町だ。
郊外に散っていった町の人達は、残った近隣の人々を懐かしみ、
ここに戻っては旧交をあたためたという。
当時、よくその話はバブル禍だと、マスコミにとりあげられた。
馴染んだ、近隣の人間関係が崩壊してゆく悲しい話だった。


 そして、東北。
隣人との暮らしや故郷の崩壊の姿は、バブルで、壊されたこの東京の町とも
つながる部分がある。
土地、家、人。
絆が、崩れて行く。
災害の暴力と、無能な政治に生活を揺さぶられる人々。
TVの映像は、住み慣れたふる里を退去させられ、青い森や、曲がりくねる畠の道に別れを告げる人々の、悲しげな顔を映し出す。

 神田の、この多町や司町には、災害や、戦災をまぬがれた、
明治以降の民家や商家が、すこし残っている。


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中林商店

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戦時中の防火用水

 栄ミルクホールという、古びた店舗がある。
昭和の初期から、暖簾を続けている軽食堂だ。
銅板の緑青がシブい。
愛想のいいおばちゃんとせがれが仲良く経営している店で、
三丁目の夕日の風景である。
戦後、そばが不足して、ミルクホールの営業に変えたが、
ラーメンが復活したあとも店名はそのままになっている。
ぼくが、ラーメンをすすりにはいった時刻は、三時近くだったが、
三々五々客がよどみなく出入りしている。
そばを楽しむこともさることながら、過ぎ去った昭和の残像を懐かしむように
店に人々が訪れる、てなマスコミのウリ文句に、ボクものせられたひとりだ。

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サカエヤ、ミルクホール


 その近隣に、これもギンギンの昭和がある。
65年前に行司の開いた甘味の店だ。(主力は奥さんだが)
行司は22代木村庄之助。
こぶりの気安い店で、典型的な昭和の風景である。
かれは栃、若時代といわれた、相撲の絶頂期の、立行司を7年半つとめた。
菓子は軍配を型どった「22代庄之助最中」が有名でおいしい。
それに発して、いまは20数種類の商品があるそうだ。
なかでもボクはここの懐中汁粉には、痺れている。
赤飯の、萬祝(まいわい)もあるが、なんと、これは秋篠宮や、愛子様がお召しあがられた逸品だそうだ。

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庄之助


もう一軒、忘れ難たい店と、人がいる。
いや、いた、あった。
「店は地上げで閉めた」
隣のビルの入り口にいた老人が、店の消息を尋ねたら、ぶっきらぼうに答えた。
3階屋で、外壁に緑青をふいた銅板の店、coffee AIKO という古めかしい喫茶店である。
80過ぎのおばあちゃんが、ひとりできりもりしていた。
昭和30年代には、亡くなったご主人が、銀座の「渡辺コーヒー」から極上の
豆を仕入れ、凝った味で評判のコーヒー店だったらしい。
蝶ネクタイのモダンなご主人は職人気質で毅然としていて、
マナーの悪い客は、追い出した、という。


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コーヒーAIKO


奥さんが、そのご主人の亡きあとを継いだ。
80いくつなのに、おばあちゃんは、元気だった。
下町ふうでユーモラスな人だったネ、と、おばあちゃんの印象を
「庄之助」のおばさんに話すと、
「かわいい顔で、郵便ポストのような体型でネ。」
と、おばさんの印象をズバッと付け加えた。
「あの、ストンと立った赤いポストのこと?」
と、ボク。
「かわいい人でしたよ。いま、神楽坂に越してってしまいましたけど」
おばさんは、懐かしむような目つきをした。


 ほかにも、もう取り壊し寸前の店や、かなり年期のはいった民家も頑張っている。
ビルが、割り込んで、古いコミュニテイはどうなんだろうと、気になるが、
「それが、ケッコウあとからくる人が協力的なんだ」と、地元の草土社の友人が教えてくれた。
この町もケッコウ集落のきずなは固いんだな、と思わせる。
その絆は祭りに凝縮される。
ことしは、震災の影響で、神田明神の祭りの神輿がでない。
町の人はみんな残念がってるよ、と「庄之助」で聞いた。
「なるほどね」
結びつきってことは、そういうことなんだろうね、と団地族のボクには、
聞いてはじめて合点のいくことだ。
東北地方の再建は、国のえらい人たちが、復旧ではなく復興だ、生活圏はここに、産業圏はあそこ、と
机の上で夢を描いているようだが、
そこに根ずいて生きてきた人々には、ちょっと違うぞ、
と違和感をもつことだろう。

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青果塩栄

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頑張っている家

 5/15.のN.H.K放映 の ETV 特集は、放射線汚染地の計測に身を賭す、
若い研究者と老科学者のドキュメンツで心うつものだった。
その、映像の最後には、家や家畜を捨てて去っていく老夫婦が登場する。
感情をおさえた老婆は、最後の餌を犬、猫に与えながら、
「やせたな」とポツリとつぶやく。
犬を玄関に繋ぐ。
そして、あわただしく立ち去る。
スピードをあげる車のリアウインドに、黒いかたまりのようなものが
車を追ってくる姿が写る。
飼い犬だ。
カメラもだれも、沈黙したままその映像だけ流れる。
それは、すべての絆を崩されてゆく象徴的な光景に思えた。


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NHK.5/15.ETV  特集

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放射能測定調査

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飼い主を追う犬

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