« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月

one coin essay  青空に残された、少年時代の夏模様。

01_dsc_0855
(写真はすべて小金井公園)


少年時代を語るというのも気恥かしいが、
なんとなく語っておきたいもの。
映画「三丁目の夕日」は、第三部が、製作されたらしい。
昭和という時代に、郷愁を感ずることに、肯定と否定があるようだが、
ボク自身の体験でいえば、「いま」と全く異なる、自由と放縦が許されたのびのびした
生きる実感があったから「昭和」を愛おしむ。

とにかく、ぼくはいたずらなガキだった。
幼稚園時代の記憶だが、並んだトイレの扉を片端から、バタンバタンと開け閉めして遊んでいた。
最後の扉を、思いっきり開けたら、西郷どんのような老齢の女性園長がしゃがんでいた。
半日、倉庫にほうりこまれ反省させられた。

子供どうしで、遊んでいて、
リヤカーに積んだ斜に切った竹に、頬をぶすりと刺して大出血し、母親をオロオロさせた。
いまも傷跡が残っている。
そんな、滅茶苦茶をやったが、近隣に三人いたワンパクの僕たちを、町の人達は、「三勇士」などと好意的に
笑いとばしてくれた。
気がつけば、戦争が日常化していた。
軍馬に跨がって、駿府城趾の連隊本部に出かける父が、いつも眩しくみえた。


そのうち父は出征し、母子3人で、長い寂しい時間が過ぎて行った。
小学校上級生になると、ボクはすこしいい子になった。
母のお供で、食料の買い出しに近郊の農家に出かけたこともあった。
唐草模様のおおきな風呂敷に米やスイカを包んで背中に担ぎ、昔の泥棒のような風体で、SLのデッキで黒い煙に咽せていた。
その後、戦争が激化して、通学路の一軒家に爆弾が直撃し、まわりにも死の風景が、現れた。
防空壕で、爆撃を避けるあけくれは、子供ながらに、フシギと死というものに慣れていくように思えた。
B29爆撃機の爆弾は、ざーっという音を立てて落ちてくる。
「よそに落ちる時は、音がするけど、自分の頭に落ちる時は、音がしないんだよ」
嘘かまことか、母親は防空壕のなかでそんな話を聞かせ、ボクと妹を抱きかかえた。
爆弾の落ちた、ずんずんずんという重い音と、振動は、決して気持ちのいいものではなかった。
それ故に、
敗戦の、あの開放感は、なにものにも代え難い、躍り上がるほどの喜びだった。

中学生になった。
マグロの油付けの缶詰工場に夏休みのバイトに出かけたこともあった。
蒸した鮪の身を缶にきれいに詰め込む、面白そうな作業は、おねえさん達の仕事。
ぼくら少年ふたりは、塩辛つくり。
まぐろの内蔵から、未消化の小魚の骨などを取り出す、臭くて、冷たくて、チクチク指を刺す痛い仕事だった。
だが、ふざけながら、やれる仕事だから苦にもならなかった。
食料難の時代だったが、女工のおねえさんたちは、いもや果物とか持ち寄って、ひもじい僕たちを喜ばせてくれた。
40日くらいのバイトだったが、たしか二千円(200円?かも)くらいの報酬をもらった。
もちろん大好きな母に、ゼンブ献上した。


02_p1060743


03_p1060734


04_dsc_0878


高校に進学した。
校舎は、戦災で消滅していた。
臨時校舎は、陸軍の使用したおおきなバラックで、前後左右、板張りが破れていて、足もとは厚い砂だった。
その教室を、「馬小屋」と、みんなが呼んだ。
時折、突風が吹いて、教室は砂塵で、白く霞んだ。
教師の眼を盗んで、板張りの割れ目から、ボクたちは、よくエスケープした。
その頃盛んだった、野球に夢中で、後にNHKのアナウンサーになる山川静夫は、けやきの大木に登り、
実況放送のまねごとをしていた。

夏休みは、友人の親戚の洋品店で商品を借りて、20キロほどの海岸をセールスして歩いた。
商品は、黄色のポロシャツで、一枚100円、一割がぼくらの儲けだった。
夏の日に、焼け付く暑さ。
だれも買ってくれない。
最後の清水港で、やっと一人の老いた漁師さんが、一枚買ってくれた。

「いいか、お前たちよ。
 おれは、こんな黄色いシャツなんか欲しくて買うんじゃないんだぞ。
 お前らが、この暑いさなか、そうやって働いているから感心して買ってやるんだ。
 こんな、チンドン屋みたいなシャツを、だれが好きで買うもんか。」

おじさんは、神々しくみえた。
利益の10円は、アイスキャンデイ二本に消えた。


05_dsc_0867

06_p1060744


遡るが、小学生の頃、母親が、時折、古本屋から世界童話全集やキンダーブック、講談社の絵本など、
大量に買ってくれた。
そのなかに、佐々木邦というユーモア作家の作品があった。
「スンガリーの朝」という、中国東北部の白系ロシア人社会の、のどかでほのぼのとした、明け暮れを
描いた小説が好きだったが、一番好きだったのは、「トム君サム君」というユーモア小説だった。
隣家に越して来たアメリカ人の双子の兄弟と日本人の少年との交流が、
とても、モダーンでユーモラスな関わりで楽しかった。
終盤、トム君サム君は、アメリカに帰国する。
ぼくも、読みながら、別離の寂しさを味わった。
太平洋戦争が勃発するのは、そのあとだったと思う。
だから、トム君、サム君とボクが、国家利害で、分断、乖離することにやや違和感があった。

きのう生まれた豚の子が、
蜂に刺されて名誉の戦死、

という、「湖畔の宿」のメロデイの替え歌が流行したことがあった。
小学生だったから知らずに唄ったそれが、特攻隊を揶揄した歌だ、という噂になって、
歌ったのはだれだという詮索が学校の教員室で始まった。
教員室に集結した教師がひとりずつ、教室に待機した生徒を呼び出した。
呼び出された者は、ほかに歌った者を、チクったら解放された。
戻ってくる者のなかには、木刀で殴られ、額にコブをつくった生徒もいた。
泣いた顔で、次に教員室にゆく、生け贄の子羊を指差すのだ。
じぶんが、学友をチクれば解放されるわけだ。
勝俣と高木は、いたずら者で、ぼくの仲間だった。
かれらは歌い、当然、ぼくも歌った。
ふたりとも、だれかに指さされ、教師に殴られ、青ざめた顔で帰って来た。
ぼくは、覚悟をきめていた。
だが、勝俣も高木もぼくを指ささなかった。

さすが、愚行に気ずいたのだろう、教師たちの演じたその魔女刈りは、しばらくして終わった。
そして、1~2年経て、戦争が終わった。
入道雲の踊る夏空だった。

夏が過ぎ  風あざみ
誰の  あこがれにさまよう
青空に残された  私の心は夏模様            
(井上陽水、詞、曲、唄。)

ボクの昭和は、焦土から始まり、食べ物、衣類も乏しかった。
ただ、人間だけが、おいしくて、愛おしい存在だった。

数年前、ボクは、写真集「望郷、寺山修司」を出版したが、あまり売れなかった。
故郷に住む親友の鈴木成美が、10冊、数万円も身銭をきって、本を購入し、高校のクラスメイトに
配った、とあとで知った。
ボクはもう、昭和からズリ落ちて、不甲斐ない都会のさすらい人に堕ちたのに、
成美は、まだ昭和に留まって、ボクにエールをおくってくれている。

07_p1060754

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神楽坂で、ガレットをつまみ、ザーズと鏡花を偲ぶ。

01_p1250407
神楽坂

I'm 14years oid I'm pretty
借り暮らしの [アリエッテイ]を唄うセシル・コルベルは、
フランス・ブルターニュの生まれだ。
ブルターニュといえばガレット。
妖精のささやきのようなセシルの歌を聞いているとガレットが、無性に食べたくなった。
ガレットは、そばの粉で焼いた質素な食べ物だが、味は深い。

 神楽坂の、「ル・ブルターニュ」に、ガレットを食べにでかけた。
ガレットにシードル(リンゴ酒)を添えて味わうのが、ブルターニュ地方のいわば
郷土食らしい。
「シードルは、辛口にしますか」
いや、甘口で。
客は、女性が多いが、男性は、ボク以外はフランス人のようだ。
隣も、正面のテーブルも「*&$%”~」フランス語。
そういえば、神楽坂は、フランス人の多い街だ。

 軽いこのランチを味わっていると、店内には、ZAZ (ザーズ)のハスキーな、
声が流れてきた。
モンマルトルの路上で、リズムをとりながら唄う彼女が眼に浮かぶ。
心地よい。
曲は、ぼくの好きな、「私の街で」、だ。
もう、きょうは、ガレットと、ザーズで、ぐにゃりと、背骨もとろける気分。

 神楽坂の坂を上ると、左右に葉脈のように、花街の料亭が、ひしめいている。
明治、大正、昭和にかけて賑わいのあったこの街は、古い面影も残っていて、
コクのある楽しさにひたれる。
ぼくの好きなのは、古都の雰囲気に加え、フランスの香りが、ミックスされているところだ。
喧噪から遠い、日仏学院付近の散歩や、アグネスホテルのアフタヌーンティーだけでも、
一日、贅沢にくつろげる。

02_p1380209
ル・ブルターニュ

03_p1370574
ガレット


 毘沙門天の横の藁店(わらだな)から、袖摺り坂をすり抜けて、
小説家、尾崎紅葉の邸跡に向かう。
この道筋あたり、漱石をはじめ名だたる作家たちの愛した田原屋(閉店)や相馬屋(文具)がある。

 紅葉の住んだ家に着く。
紅葉は、小説「金色夜叉」で、知られた作家だが、
この紅葉の家に弟子入りした泉鏡花の
波乱に満ちた人生の方に、ひときわ興味をそそられる。
鏡花は、紅葉に内緒で、神楽坂の芸者、福太郎とねんごろになり同棲する。
それが、露見し、紅葉は怒り狂い、鏡花を殴り、ふたりの仲を裂く。
「この家で、懲らしめられたのかな。」

04_p1380334
毘沙門天

05_p1380404
袖摺坂

06_p1380423
尾崎紅葉の家


 福太郎(本名、すず)は、5才で、母に捨てられ、芸者屋に売られた悲しい身だ。
薄幸の福太郎に情けをかけたやさしい鏡花は、仲を引き裂かれて、
辛く、やりきれない思いだったろう。
紅葉は、まもなく亡くなり、ふたりはまたもとの生活にもどれるが、鏡花はこの悔しさを、
「婦系図」(おんなけいず)という、自分たちをモデルにした悲しい物語に書き上げて、
世間の大喝采を得る。

湯島通れば  思い出す
お蔦(おつた)  主税(ちから)の心意気       

「婦系図の歌」
詞.佐伯孝夫.
曲.清水保雄.

新派、大悲劇の舞台としても演じられた。

 鏡花と、福太郎が、贔屓にした料理やの「うお徳」が、本多横丁と、軽子坂の角にある。
初代の主人の徳次郎は、「婦系図」の物語のなかで「め組」という渾名の威勢のいい魚屋で登場する。
気っ風のいい、繊細な料理の腕の魚屋だったらしい。

 その「うお徳」を探して、うろうろして、鳥料理の「三菊」のまえにいた女将に場所を尋ねた。
女将は、100メーターほど離れた「うお徳」までわざわざ案内してくれた。
「今度、うちへも来てね。きっとよ」
「はいはい、きっと」

神楽坂の路地に蝟集する格式ある料理屋でも、昼はランチを提供する店が、ちらほらある。
ご時世だナ。
静寂につつまれた粋な黒塀の店には、
ちょっと入りずらいが、リーズナブルな価格なので、サラリーマンが、腰をかがめて
暖簾をくぐっていく。

ぼくは、「トンボロ」で、コーヒーを味わい、梅花亭の「三色最中」を土産に買って帰った。
おっと、紀の善の「あんみつ」も、ってあの人にいわれたんだっけ?


07_p1380245
うお徳

08_p1380367
枯淡な店もある

09_p1380481
トンボロで、コーヒーを

| | コメント (0) | トラックバック (0)

BASHOO WHO?芭蕉に会いたい。1

01_p1380066
芭蕉


寅さん。
知り合いでも、なんでもないが、懐かしい。
70年、N.Y。オフ・ブロードウェイ。
東由多加の東京キッドブラザースの公演会場のラ・ママ付近で、
寅さんを見かけ眼が合った。
思わず会釈すると、あの笑顔で答えてくれた。
ただ、それだけのことだが懐しい。
それに似たほのぼのした気持って、芭蕉にも感じられる。

 芭蕉って暖かい人なんですね。
 
 芭蕉について、いろいろ文献をあたると、才能のみならず、人間性豊かな人だってことが
わかりますね。
俳人としての名声の反面、いろいろ下世話な苦労を重ねた人でもあった。
人間くさい芭蕉の魅力が、
どんどんするめを噛むように味わい深くなってくる。
深川の芭蕉庵跡で、ゆったりと、かれのイメージに浸ってみる。


芭蕉には変わった弟子も多いが、
乞食だった路通という男を拾い上げ、意気投合したこともある。
奥の細道に同行させようとして、弟子たちに猛反対を喰らった。
路通は、素朴で純粋な心根の男だったらしい。
だが、一面、素行が悪く、のちに師恩に背き、弟子たちの総スカンをくらった。
「先生、路通は破門しましょう」、弟子たちが喚いた。
それでも、芭蕉は最後まで彼を見捨てなかった。


弟子の指導には、こんなエピソードがある。
「猿蓑」撰の時、宗次という男が,作品を数句もってきた。
これが、どうしようもない句で、ダメだと言っても、宗次はネバって納得しない。
芭蕉は、「まあまあ、すこし楽にくつろぎなさい。わたしも寝転びますから」
といった。
宗次は、なかばやけ気味に
「じゃあ、じだらくに寝そべって涼みますか」と、ゴロリと横になった。
すると、すかさず芭蕉は、
「それだ、それが立派な発句だ」、と指摘した。
そして、

 じだらくに  寝れば涼しき   夕べかな

と句が、出来、入集した。
作意を嫌らい、自然に発想しなさいという、芭蕉らしい、指導の一コマだ。
俳句は、頭でひねりまわして作るもんじゃないぞ、というのが
芭蕉の言いたかったことだろう。


02_p1380098
隅田川に面し、芭蕉が住んだ。

03_p1380126
川に向かい、像が建てれている。


あちこち、地方にも蕉門の弟子が多かった。
したがって、弟子たちの争いも起きるし、芭蕉に仲裁を求めてくる。
大阪の弟子が深刻な対立を起こしてる。
ヤレヤレ。
仲裁のために、「どっこらしょ」と、芭蕉は、江戸から腰をあげた。
旅の疲れもかさなったのだろう、大阪の弟子宅で、馳走のきのこをたべすぎて
下痢に苦しみ、命を失った。

 旅に病んで   夢は枯野をかけめぐる    (辞世の句)

04_p1380174
芭蕉記念館にある、芭蕉庵模型。


小名木川が隅田川に合流する角、芭蕉の庵のあったあたりに、時折ボクは出かける。
そこであった昔の出来事だ。
1682年、江戸の大火で、芭蕉は、小名木川の泥水につかり、洲を這い上がり、死から逃れた。
地獄繪のような惨状だったようだ。

 弟子の其角によれば、芭蕉の「草庵、急火にかこまれ、潮にひたり苫をかつぎて、煙のうちに生きのびけん。」とある。

そして、この惨事で、芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発し」た、
と其角は述べている。
 芭蕉は、「人生無情の心境に傾いた」と、この高弟はいう。
この大災害は、芭蕉の人生観を一変させた。

  草深い庵の孤独。
この頃の芭蕉の句には、貧しさや寂寥感に満ちたものが多い。
庵の近辺は、江戸名所図会に描かれた万年橋から、隅田川、富士を
望む指折りの景観の地でもあったのに。

 雪の朝  独り干鮭を噛り  得たり
 櫓の声  波を打つて  はらわた氷る夜や涙

 ある夜は、烈しく屋外で荒れ狂う野分、割れるような芭蕉の葉の音、屋内に落ちる雨、盥を打つ水音。
そこに佇みつつ、句を詠む。
この庵でつくられた句からは、寒々とした日常しか浮かんでこない。

それにしても芭蕉は、多面性をもつ、魅力的な人物だった。


05_p1380084
万年橋。大火で、芭蕉はこの川に逃げた。

06_p1380135
描かれた、芭蕉の逃げる姿。

07_p1380140
芭蕉庵のあったと推定される、芭蕉神社。下は、芭蕉庵のスケッチ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »