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one coin essay  青空に残された、少年時代の夏模様。

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(写真はすべて小金井公園)


少年時代を語るというのも気恥かしいが、
なんとなく語っておきたいもの。
映画「三丁目の夕日」は、第三部が、製作されたらしい。
昭和という時代に、郷愁を感ずることに、肯定と否定があるようだが、
ボク自身の体験でいえば、「いま」と全く異なる、自由と放縦が許されたのびのびした
生きる実感があったから「昭和」を愛おしむ。

とにかく、ぼくはいたずらなガキだった。
幼稚園時代の記憶だが、並んだトイレの扉を片端から、バタンバタンと開け閉めして遊んでいた。
最後の扉を、思いっきり開けたら、西郷どんのような老齢の女性園長がしゃがんでいた。
半日、倉庫にほうりこまれ反省させられた。

子供どうしで、遊んでいて、
リヤカーに積んだ斜に切った竹に、頬をぶすりと刺して大出血し、母親をオロオロさせた。
いまも傷跡が残っている。
そんな、滅茶苦茶をやったが、近隣に三人いたワンパクの僕たちを、町の人達は、「三勇士」などと好意的に
笑いとばしてくれた。
気がつけば、戦争が日常化していた。
軍馬に跨がって、駿府城趾の連隊本部に出かける父が、いつも眩しくみえた。


そのうち父は出征し、母子3人で、長い寂しい時間が過ぎて行った。
小学校上級生になると、ボクはすこしいい子になった。
母のお供で、食料の買い出しに近郊の農家に出かけたこともあった。
唐草模様のおおきな風呂敷に米やスイカを包んで背中に担ぎ、昔の泥棒のような風体で、SLのデッキで黒い煙に咽せていた。
その後、戦争が激化して、通学路の一軒家に爆弾が直撃し、まわりにも死の風景が、現れた。
防空壕で、爆撃を避けるあけくれは、子供ながらに、フシギと死というものに慣れていくように思えた。
B29爆撃機の爆弾は、ざーっという音を立てて落ちてくる。
「よそに落ちる時は、音がするけど、自分の頭に落ちる時は、音がしないんだよ」
嘘かまことか、母親は防空壕のなかでそんな話を聞かせ、ボクと妹を抱きかかえた。
爆弾の落ちた、ずんずんずんという重い音と、振動は、決して気持ちのいいものではなかった。
それ故に、
敗戦の、あの開放感は、なにものにも代え難い、躍り上がるほどの喜びだった。

中学生になった。
マグロの油付けの缶詰工場に夏休みのバイトに出かけたこともあった。
蒸した鮪の身を缶にきれいに詰め込む、面白そうな作業は、おねえさん達の仕事。
ぼくら少年ふたりは、塩辛つくり。
まぐろの内蔵から、未消化の小魚の骨などを取り出す、臭くて、冷たくて、チクチク指を刺す痛い仕事だった。
だが、ふざけながら、やれる仕事だから苦にもならなかった。
食料難の時代だったが、女工のおねえさんたちは、いもや果物とか持ち寄って、ひもじい僕たちを喜ばせてくれた。
40日くらいのバイトだったが、たしか二千円(200円?かも)くらいの報酬をもらった。
もちろん大好きな母に、ゼンブ献上した。


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高校に進学した。
校舎は、戦災で消滅していた。
臨時校舎は、陸軍の使用したおおきなバラックで、前後左右、板張りが破れていて、足もとは厚い砂だった。
その教室を、「馬小屋」と、みんなが呼んだ。
時折、突風が吹いて、教室は砂塵で、白く霞んだ。
教師の眼を盗んで、板張りの割れ目から、ボクたちは、よくエスケープした。
その頃盛んだった、野球に夢中で、後にNHKのアナウンサーになる山川静夫は、けやきの大木に登り、
実況放送のまねごとをしていた。

夏休みは、友人の親戚の洋品店で商品を借りて、20キロほどの海岸をセールスして歩いた。
商品は、黄色のポロシャツで、一枚100円、一割がぼくらの儲けだった。
夏の日に、焼け付く暑さ。
だれも買ってくれない。
最後の清水港で、やっと一人の老いた漁師さんが、一枚買ってくれた。

「いいか、お前たちよ。
 おれは、こんな黄色いシャツなんか欲しくて買うんじゃないんだぞ。
 お前らが、この暑いさなか、そうやって働いているから感心して買ってやるんだ。
 こんな、チンドン屋みたいなシャツを、だれが好きで買うもんか。」

おじさんは、神々しくみえた。
利益の10円は、アイスキャンデイ二本に消えた。


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遡るが、小学生の頃、母親が、時折、古本屋から世界童話全集やキンダーブック、講談社の絵本など、
大量に買ってくれた。
そのなかに、佐々木邦というユーモア作家の作品があった。
「スンガリーの朝」という、中国東北部の白系ロシア人社会の、のどかでほのぼのとした、明け暮れを
描いた小説が好きだったが、一番好きだったのは、「トム君サム君」というユーモア小説だった。
隣家に越して来たアメリカ人の双子の兄弟と日本人の少年との交流が、
とても、モダーンでユーモラスな関わりで楽しかった。
終盤、トム君サム君は、アメリカに帰国する。
ぼくも、読みながら、別離の寂しさを味わった。
太平洋戦争が勃発するのは、そのあとだったと思う。
だから、トム君、サム君とボクが、国家利害で、分断、乖離することにやや違和感があった。

きのう生まれた豚の子が、
蜂に刺されて名誉の戦死、

という、「湖畔の宿」のメロデイの替え歌が流行したことがあった。
小学生だったから知らずに唄ったそれが、特攻隊を揶揄した歌だ、という噂になって、
歌ったのはだれだという詮索が学校の教員室で始まった。
教員室に集結した教師がひとりずつ、教室に待機した生徒を呼び出した。
呼び出された者は、ほかに歌った者を、チクったら解放された。
戻ってくる者のなかには、木刀で殴られ、額にコブをつくった生徒もいた。
泣いた顔で、次に教員室にゆく、生け贄の子羊を指差すのだ。
じぶんが、学友をチクれば解放されるわけだ。
勝俣と高木は、いたずら者で、ぼくの仲間だった。
かれらは歌い、当然、ぼくも歌った。
ふたりとも、だれかに指さされ、教師に殴られ、青ざめた顔で帰って来た。
ぼくは、覚悟をきめていた。
だが、勝俣も高木もぼくを指ささなかった。

さすが、愚行に気ずいたのだろう、教師たちの演じたその魔女刈りは、しばらくして終わった。
そして、1~2年経て、戦争が終わった。
入道雲の踊る夏空だった。

夏が過ぎ  風あざみ
誰の  あこがれにさまよう
青空に残された  私の心は夏模様            
(井上陽水、詞、曲、唄。)

ボクの昭和は、焦土から始まり、食べ物、衣類も乏しかった。
ただ、人間だけが、おいしくて、愛おしい存在だった。

数年前、ボクは、写真集「望郷、寺山修司」を出版したが、あまり売れなかった。
故郷に住む親友の鈴木成美が、10冊、数万円も身銭をきって、本を購入し、高校のクラスメイトに
配った、とあとで知った。
ボクはもう、昭和からズリ落ちて、不甲斐ない都会のさすらい人に堕ちたのに、
成美は、まだ昭和に留まって、ボクにエールをおくってくれている。

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