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2011年9月

あの人の味覚、通いつめた店。新橋、銀座あたり。(その2)

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銀座の裏通り。不気味な雰囲気の小路に、著名なバーがある。
「銀座・ルパン」
その店に一枚の、写真が、飾られている。
カウンターの高椅子に座り、こちらに軍靴をむけている男。
林忠彦の撮った有名な太宰治のポートレイトだ。
この写真で、「ルパン」は太宰フアンにとって「太宰の聖地」になった。
1946年11月25日、坂口安吾、織田作之助と「無頼派3人衆」の座談会のあと、
ここに立ち寄った太宰のワンショットがその写真である。
衰弱した、織田作の影の薄い姿を、激写していた林に、太宰が声をかけた。
「おーい。織田作ばっかり撮らず、オレも撮れよオ」
聞けば、その男が著名な太宰だというじゃないか。
「よし、」
鞄をまさぐり、
林は、一個だけ残ったフラッシュを発火させ、あの一枚を撮った。
 この夜から僅か一年半たったあと、三鷹の玉川上水で、太宰は入水自殺した。
バー「ルパン」。
ここでの酒には太宰やニヒルな無頼派文士たちや小津安次郎など、著名人が
蝟集した重い時間が澱んでいる。

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バー・ルパン


賑やかな銀座4丁目の交差点に出る。
海外ブランド店や、大改装の三越など立ち並ぶなかに、餡パンの写真が、ぽつりと飾られたビルがある。
写真は、木村家のパンだ。
その餡パンの看板をずっと下にたどると、そこに、ある物語が息ずいていた。
昭和のはじめ、ひとりの少女が、その木村家の店頭で、ふくよかなパンを憬れのまなざしで見つめていた。
まるで、マッチ売りの少女みたいな寒々としたショットだ。
これは、
貧窮と、流浪の人生「放浪記」に描かれている、林芙美子の少女時代の実体験である。
そこには、ため息のでるような、思い出が詰まっている。

 「木村家の店さきでは、出来立てのアンパンが、陳列のガラスをぼおっとくもらせている。
いったい、何処のどなた様の胃袋を満たすのだろう……」。

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アンパンの看板

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店頭に並んだ、あんぱん


 芙美子の少女時代。
 銭湯の下足番、カフェの女給、セルロイド工場の女工員など、
食べる為の職業を転々とし、貧しさに悩みながらも、文学への夢を追い続けた。
そして、
作家としての栄光が訪れた。
「放浪記」。
この作品は、演劇でも森光子主演で、ロングランが続けられた。
芙美子は食べることに、難儀した半生だったが、
その後は、一流店をめぐり、自信の舌で数々の馳走を堪能する人生を掴んだ。

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木村家

銀座7丁目の「いわしや」は、彼女のおめがねに叶った店だ。
間口は狭いが、92の席がある、外人の客も多いそうである。

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いわしや


 銀座は、菓子店も豊富である。
銀座通りだけでも、虎屋、立田野など、一流店がずらり。
そのなかでも、並木通りの「空也」は、長い歴史の店だ。
文豪たちにも喜ばれた。
夏目漱石も、甘いもの好きで、いろんな老舗の菓子が、作品や文献のなかにも登場する。
空也最中も、そのひとつだ。
「空也」は、漱石の時代、上野の不忍池のたもとで、営業していた。
漱石が、友人の橋口五葉宅へ訪れるたび、橋口は空也から、菓子を取り寄せていたという。
「空也堂の最中にも感心する」という漱石の感想が残っている。
池の端の「空也」の店舗は太平洋戦争で戦災に遭い、銀座6丁目に移転した。
現在も、自家製で少量生産のため、客は、なかなか買い求めるのが大変だ。

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空也もなか


昼下がりの新橋駅前。
ほろ酔いのサラリーマンの、ユーモラスなT.Vインタヴューでおなじみの場所だ。
突如、広場に置かれたS .Lから汽笛が鳴って驚いた。
「なんだ?突然。」
傍にいた掃除のおじさんに尋ねると、
「時計代わりに鳴るんだよ。
こないだも、子どもが、びっくりして、脅えてたよ」
いやあ、おれも脅えたよ。

S.Lのその向こう側に、鶏料理で有名な「末げん」がある。
料理でも有名だが、三島由紀夫がひき起こしたあの事件の前夜に、
同士たちと、最後の晩餐を、囲んだ店としてもしられている。

 三島の思想や行動については、俗人の理解を越えるが、
かれの食へのこだわりという点からみると、興味深いものがある。
「盾の会」の4人の部下との最後の晩餐の二日前、三島は、家族との最後の晩餐も
この「末げん」での鶏料理だった。
人生最後の食事で、しかも大切な相手との密度の濃い時間を、
再度、この店で過ごしたということは、
余程、この店の料理や雰囲気が、気にいっていたのだろう。

最後の晩餐は、午後6時に食事が始まり、8時に退席する。
帰り際、「末げん」の若おかみが、
「またおいでください」と声をかけると、
三島は、「え?」と声をあげて、
「そういわれてもなあ。
また、あの世からでもくるか」
と、答えたという。
嵐山光三郎氏が、この重要なエピソードを、伝えている。

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「空也」は、もと不忍池のかたわらにあった。

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末げん

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あの人の味覚、通いつめた店。新橋、銀座あたり。(その1)

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 カメラマンのぼくは、
銀座にある情報関係の会社の仕事を長く続けた。
関わったある雑誌では、センスの違う重役にしんどい思いもしたが、編集者の仲間たちとは、
いつも勝ちゲームを続けるように高揚し、楽しかった。
その女性編集者三人のポートレイトを撮ってあげたことがある。
彼女たちは、お礼にマキシムのデイナーをプレゼントしてくれた。
ある夜、
妻とふたり、その豪華料理をいただいた。
その時、仲間の彼女たちの微笑ましいエピソードの話題に夢中なあまり、
申し訳ないが、肝心の料理の味の記憶が残っていない。
モチロン、これはぼくの味覚のつたなさで、マキシムの超一流の技量に文句をつけるわけではない。

 一方、素朴な食べ物に、ひどくこころをうたれたこともある。
東北の黒沢尻工業高校のラグビー部の取材の折、監督の先生に学校前の、
おばあちゃんの経営するちいさなカウンターだけの食堂に案内された。
そこで、揚げたての厚揚げを醤油をたらしてイタだいて、
素朴だが、感動的だった味の記憶が何十年経っても消えない。
なんでも、食堂の隣りが、妹の豆腐屋で、できたてホヤホヤの豆腐を即、食堂のおばあちゃんが、ごま油で揚げるのだそうだ。
たしか、メニューは、その厚揚げだけだったような気がする。

 食べ物の感動や価値観は、その人その人、それぞれだろうし、
その時の諸条件が、つくりあげるものだろうが、
銀座のような洗練された味覚の溢れる街で、ぼくは、過去あまり味の恩恵を受けるような人生は、選んでこなかった。
探求心と経済力のなかったせいだが、その気になれば最近では、一流の店でもリーズナブルな価格で
ランチなど提供するようになった。


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こんぱる通りを、4丁目方向にゆくと、寿司の「銀座久兵衛」の前で、女性が打ち水をしている。
著名なこういう老舗は、「お金持ちさん、どうぞご利用を」、と庶民は、パスしたいところだが、
ここは、巨星、北大路魯山人が愛した老舗である。
たとえお金持ちに占有される店だろうが、魯山人のお墨付きとあらば、庶民としてもゼヒ行かねばならぬ。
せめてランチでも。
生ちらし志野が、人気メニューだ。
味もさることながら、姿や色合いが美しい。日本の色、姿ッ。
その、料理の姿から連想してしまうのは、銀座菊迺舎(きくのや)本店の富貴寄赤丸缶である。
小箱の、菓子函だが、
なかは、色とりどりの小粒な干菓子が乱舞している。
これも、ニッポンの色。
色とりどりの、てんてんてんまり、てんてまりと、ニッポンの色への幻想は、どんどん広がってゆく。

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久兵衛の前で、打ち水する女性


外堀通りの有賀写真館のビルの一角に、いぶし銀のような洋食の「銀座キャンドル」がある。
1950年に、オーナーが、進駐軍のベースで、バスケットに盛られたフライドチキンをたべて
感動、この店を開いたのだという。
店名は、映画「哀愁」のなかの、キャンドルライトクラブから、つけた。
ここへ、開店早々から、作家の川端康成が、若かりし三島由紀夫を連れてしげしげと通った。

 遡る、川端の少年時代は、不幸だった。
川端は、満一才で、父が死に、その翌年、母。七才で祖母、そして、姉、14才で、最後の肉親の
祖父を失った。
孤児。
壮絶な人生である。
あちこち居候の身で、食べ物の不自由さでも、骨身に滲みたことだろう。
後年、その繊細な感覚で、日本と日本人の美の世界を描写し、ノーベル文学賞に輝いた。
しかし、そのやわらかな感受性は、孤児同然の少年時代からズタズタに切り裂かれたのかもしれない。
最後、ガス自殺で人生を閉じる迄、若い頃から睡眠薬に依存し、苦しんだ。

 一方、「キャンドル」に足繁く通った。
好物のチキンバスケットにについて、かれのどんな思いがあったのか。
こまかないきさつは、わからないが、人間だれでも「食」にかかわる
印象的な思い出はもっている。
こころに深く、秘めながら。

 帰途、キャンドルの階段に、ずらりと著名人のサインの並ぶなかに、寅さんがいた。
小川軒や、このキャンドルは、洋食屋さんといっていいだろう。
庶民派の寅さんは、味のある洋食屋が好きだったんだなあ、と感慨深い。


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銀座キャンドル

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おなつかしや、寅さんのサイン


銀座通り7丁目に、「カフェ、パウリスタ」がある。
日本の喫茶店文化は、ここから始まったと言われている。
明治末期、初代社長が、ブラジル移民団長として、現地に渡り、コーヒー豆の輸入を始めた。
喫茶を始めるや、
大正期のモダーンな、文化人や時代感覚を先取りする人々が、ここに集った。
そして時代は、だんだん重苦しく、戦争に傾斜してゆく、風潮だったが、ここには自由な風が吹いていた。
そういえば、有名な話だが、ジョンレノンとオノ、ヨーコ夫妻も、3日間ここに通い続けたという。
パリのカフェに似て、歴史をくぐり抜けてきた喫茶店が、いまもなお健在であるのも嬉しい。

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パウリスタ


偶然だが、パウリスタの前に、作家の山本一力さんの、ご愛用の店、「吉宗」がある。
これは、一力さんなればこその、珍らしい、懐かしい味である。
どんぶり鉢がふたつ。
ひとつは、錦糸玉子やそぼろなどの三色の蒸し寿司、もうひとつは、巨大な茶碗蒸し。
あわせて「夫婦蒸し」とは、なんちゅう上手なネーミング。
しかも、うまい。
なんてったって、庶民派の、一力さんのご推奨なんだから。


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吉宗

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もうひとつ。
これは、新規開拓だった。
K子ちゃんが、「行くべきよ」、と強制的に薦める店だ。
ベルギー生まれの、チョコレート店。行列店だそうだ。
「ピエールマルコリーニ 銀座」だ。
K子ちゃんの指示通り、ソルベ(シャーペット)に、狙いを定めた。
だが、どうも地番の場所がみつからない。
ウロウロして、そばにいた、ふたりの女性に尋ねた。
「わたしたちも探しているんですよぉ」
いっしょに探しません?
おれが言ったんじゃない、女性が言ったんだ。
「あ!あった」
おれが見つけた。


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ピエールマルコリーニ。探した女性ふたり。

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Blue Note , 思い出トランプ、スイングする坂道。南青山。

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  ブルーノート東京。
N.Y.の名門ジャズクラブの姉妹店だ。南青山6丁目。
重い木の扉を開いて、きれいな中年の女性が街路に出て来た。
奥から洩れるかすかな気配。
ジャズのスイングが、ふと耳をかすめたかに思えたが、それは店頭の
ナタリー・コールの笑顔のせいだったのかもしれない。
ナタリーかア。彼女のおやじを思いだすなあ。
ナット・キング・コール。
それに、アーム・ストロングか。ちょっとセピア色だが。
ぼくは、かれらにあんまり溺れはしなかったが、ブルーノートには、ジャズの聖地として、畏敬の念をもっている。

  個人的には、ナベサダが、ジャズへの興味を開いてくれた。
「カリフォルニア・シャワー」である。
いまでも、軽快で躍動的なこの曲に痺れている。

  ボクの好きな俳優のティム・ロビンスが、ミュージシャンとして、ブルーノート東京に登場するらしい。いや、したのかな。
「ショーシャンクの空に」で、フィガロの結婚の曲を刑務所中に大音響で流すティムの
知的で反逆的な横顔を思い出す。
かれと、音楽との因縁に違和感はない。
まして父親が、60年代に活躍したギルバート・ロビンスというミュージシャンだと聞けば、ティムの資質は充分期待出来るだろう。

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ナベサダ、カルフォル二ア・シャワー

  通りをへだてて、岡本太郎記念館にゆく。
なんだ、火曜日は、休館だよオ。
外から庭を覗き込んで、作品の点在するあたりで、晩年の太郎さんを撮影したことを
思い出す。
まだ、太郎さんが、病魔に襲われる前だったが、もう豹のような鋭さはなく、おだやかな人になっていた。
  撮ったフィルムは、3本くらいだったが、100ショットものシャッターが押されるたびに、
かれは足を踏ん張って、その都度、眼を大きく見開いた。
幼児のような素朴な、頑張りに思えた。
「これを崩そう」
シャッターのリズムを変え、言葉もかけてみた。
かれの構えは、崩れない。
太郎さんは、こちらの作画意図を拒否している。
「オレは、こうなのだ」
ということか。
そうボクは悟って、切上げようと思ったが、太郎さんは最後迄、同じ表情とポーズを崩さず、
こちらが撮影の矛を納める迄、協力してくださった。
太郎さん、あの時は、老いたりとはいえ、強い意志を守ろうとするあなたに撃たれた思いがしました。


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岡本太郎記念館

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記念館の庭


  根津美術館の竹林をすぎて、すぐ横にくだる「だらだら坂」にでる。
湾曲している白壁の連なりが美しい。
正しくは、「北坂」。
向田邦子の短編「思い出トランプ」のなかの一編に、「だらだら坂」が登場する。
北坂がモデルらしい。
  物語は、大柄で、鈍重の垢抜けない女「トミ子」が、鼠と渾名された、叩き上げの冴えない社長の囲い者で坂の中程に住んでいる。
男は、週2回、ここに通うが、素朴でつましいこの女を自分好みに育てることに満足している。
だが、トミ子は、隣家に住む洗練された年上女に影響され、マニキュアを始めたり、二重瞼の手術をしたり、少しずつ変貌してゆく。
囲われ女の、男への微妙な背離や、しょぼくれた男の反応が面白い。

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だらだら坂を下る


  晩年、 向田邦子は、この南青山に住んだ。
高級店のひしめく間にも、庶民的な店が息ずいている。
彼女は、魚屋、豆腐屋、花屋など、日常生活を彩どる店みせを利用したそうだ。
骨董通りにある、和菓子屋の「菊屋」で、彼女の好きだった、水羊羹を買う
ことにした。
彼女は、作品の「眠る盃」のなかで、この水羊羹を激賞している。
だが、庶民にはいささか高価だ。
「ウーン。」買い求め、家に帰って、味音痴のボクは、かみさんにいろいろ訊ねた。
「わたしは、和菓子が好きだから、このコクと繊細さは、とても深いと思うけど」
と、彼女は静かに味わっていた。


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和菓子の「菊家」

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菊家の水羊羹

  「菊屋」の近くにある、スイス伝統のチョコの店、「レダラッハ」。
アルプスでしか得られない牛乳、生クリーム、バター、と厳選された素材でつくられた、世界的に有名なミルクチョコだと聞けば、いかに味音痴なボクでも、
ぜひ、という衝動に駆られる。
「トリュフ・プラリーネ」の一粒を、女の子みたいにそっと口にした。
たとえ、ぼくでも特異なこのうまさは、わかる。


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レダラッハ

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レダラッハのミルクチョコレート

  帰りは、楡家通りにでて、絢爛豪華なブランド店に眼を見張りながら、表参道駅に
向う。
ブランド店のなかでも、プラダの威容には、ちょっと驚く。
店舗にカメラを向ける、老若女性が多い。
このあたり個人的には、かって、よちよち歩きの子ども達と、
家族4人で、ヨックモックの中庭のテラスや、アンデルセンの朝食に、通った記憶が懐かしい。
30年も前に通ったこの両店は、いまも健在だ。
途中で、お稲荷さんがあって、衝動的にお参りし、ちょっとした頼み事をした。
帰宅して、このお稲荷さんが、大松稲荷で、向田さんのマンションの隣だったという
ことを知った。

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プラダ

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南青山

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