旅行・地域

水難. アユタヤ残照。

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 「アユタヤ、大変なことになっているね。」

Tさんから、ひさしぶりの電話は、タイの洪水の話題だった。
タイの水被害のスザマしさは、連日、これでもかというくらい報道されている。
ウーン。
あそこが水浸しになっているのか。
Tさんとぼくは、かってアユタヤでの、ヘンテコな出来事を思い出していた。


 ずいぶん時間が経過したが、夏の強い日差しのなかで、
撮影が進行出来ず、みな困惑していた。
アユタヤ。

 あの廃墟と化した赤茶けた寺院の壁にもたれながら、
撮影前の、現地側との交渉がラチがあかず、2~3時間もすったもんだ、していた。
ある広告の撮影で、10人ほどのチームを組み、アユタヤとパタヤ沖の孤島で、
モデル撮影をしようという計画だった。
ところが、その撮影の衣装のコンセプトが当時流行していた、
キャミソールファッションでという部分で、むこうのチェックにひっかかった。

 タイ側は、タイ文化省だったか、役人が現場で撮影に立ち会い、
さらに軍の大佐がお付きを従えて、監視するという、一見ものものしい雰囲気だった。

「ここは、神聖な寺院である。見学の女性といえども、半袖のシャツ姿ではいけない」

というのが、タイ側の主張であった。
ましてや、キャミソールの撮影なんぞ、ノ.ノ.ノ……。
といった感じだった。


 この撮影のプロデユーサ-は、今日ボクに電話して来たTさんだった。
Tさんは、現地のコーデイネーターの財部さんに、当然のごとく事前許可をとる手配はしてある筈だ。
どこでどう、確認事項の食い違いが生じたのか、書類はどうなのか? どうも、話しが通じない。
ぎっちり詰まった、1週間の撮影スケデユ-ルで、のっけから躓いていたら、
これからどうなるんだ。

今日の予定の撮影時間は、日没を計算にいれても、3~4時間しかない。
モデルのオシタクにも相当時間はかかるだろうし、みんなもイライラしていた。
Tさんと、でっぷりした貫禄の財部さんとの話し合い、それにタイの役人の女性との話し合いは、
終焉を迎える兆しはない。

 口を出す権限もなかったが、ボクは、

「ここがかれらの聖地であって、その条件を守らなければ、ダメだというんだったら、
 キャミソールのコンセプトを変えるしかないでしょう。」

ボクは、横から口を挟み、そう言い切ってしまった。
だが、かれらも、詰まった話しを解くきっかけをまっていたかのように、

「そうしよう」

と、Tさんは、次の段取りに切り替えた。
さすが、タイ側もムリな原則のゴリおしはひっこめた様子で、あとはあ、うんのムード。
Tさんは、さすがベテランだった。

「撮影の迫力で、かれらに、わかってもらえばばいいよ」

Tさんはそう云うと、ぼくと、にゃっと、顔をみあわせた。

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 タイ文化省の女性は、50才がらみのインテリで、ボクは撮影の合間に通訳を通じて、
歴史や、文化の話題を楽しんだ。
タイの仏様や、涅槃像は、コミカルだったりおだやかな表情をしている。
日本の、仏像が、厳しいなかにも慈悲を感ずるおごそかなイメージと感ずるのとは随分、
異なるように思えた。
その点を尋ねると、彼女は、

「ウーン。そうですね、アユタヤの仏様の表情には、
 この土地の人々の顔や人間性を反影しているのかも知れませんね。」

という見解だった。
そういえば、ボクの機材を持ち運びしてくれた長身で素朴な「キーちゃん」も、車両関係や、
雑用をこなしてくれたタイ人たちもボクは、おだやかな好印象をもったものだった。


 役人の女性は、アユタヤの撮影が終わると、姿を消したが、監視役の大佐は、
几帳面に、早朝必ずホテルに顔を出し、撮影に同行した。
かれは、歳の頃、3~40才で、背はあまり高くなかったが、
ジョン・ローンに似たハンサムな青年だった。

わがチームのモデルや、へアメイク、スタイリストの女性たちは、大佐が、こっち向いたとか、
こんなしぐさをしたとか、撮影日程が終わる迄、じつにかまびすしく、
楽しそうに大佐を話題にしていた。

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 アユタヤの撮影のスタート時、トラブルに、ぼくが口出したことはさきに書いた。
その時なんとなく、タイの考え方を遵守した、イイ子のような立場に立ってしまったボクは、
大佐と、それをきっかけに、親近感を感じるようになった。

 パタヤのホテルでは、朝食のテーブルを一緒にした。
大佐は公務なのに、”彼女”をホテルに同宿させていたことをボクは発見し、
背中をつついてからかったこともあった。
パタヤから孤島に向うクルーザーには、ロイヤルシートが1席あって、
そこへかれを坐らせた。
かれは喜こんでいた。

 そんないきさつからというわけでもなかろうが、大佐は、撮影に口ひとつ挟まず、
ボクらはのびのび大胆な撮影を続けた。
時折、見回しても、ぼくらの視界に大佐がいない事が多かった。

 撮影が終わり、撮影済のフィルムチェックなど、最後の承認事務などが残っていたが、
帰国前日、
ボクは、バンコク市内を散策し、土産のタイシルクを探して歩いていた。
携帯が鳴って、通訳が、大佐がホテルにきてくれという。

「なにか、トラブルか?」

なんだろう、とホテルに戻ると、ロビーに正装した大佐が、従者をふたり従えて、
立っていた。

 通訳に尋ねると、公務の用事もあったが、

「ミスターに、お別れのあいさつをしようと思って」

とつけ加えた。

「ボクに、ワザワザごあいさつを?」

ボクは、胸があつくなって、思わず大佐の手を強く握りしめた。

 タイの洪水の被害に、ご同情申し上げると同時に、
あの時のタイの人々とのささやかなふれあいをなつかしく思い出した。

Tさんが電話をくれたのも、同じ気持ちからだったのだろう。

「また、なんかやりたいネ」

Tさんは、ふふっと笑って電話を切った。


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あの人の味覚、通いつめた店。新橋、銀座あたり。(その2)

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銀座の裏通り。不気味な雰囲気の小路に、著名なバーがある。
「銀座・ルパン」
その店に一枚の、写真が、飾られている。
カウンターの高椅子に座り、こちらに軍靴をむけている男。
林忠彦の撮った有名な太宰治のポートレイトだ。
この写真で、「ルパン」は太宰フアンにとって「太宰の聖地」になった。
1946年11月25日、坂口安吾、織田作之助と「無頼派3人衆」の座談会のあと、
ここに立ち寄った太宰のワンショットがその写真である。
衰弱した、織田作の影の薄い姿を、激写していた林に、太宰が声をかけた。
「おーい。織田作ばっかり撮らず、オレも撮れよオ」
聞けば、その男が著名な太宰だというじゃないか。
「よし、」
鞄をまさぐり、
林は、一個だけ残ったフラッシュを発火させ、あの一枚を撮った。
 この夜から僅か一年半たったあと、三鷹の玉川上水で、太宰は入水自殺した。
バー「ルパン」。
ここでの酒には太宰やニヒルな無頼派文士たちや小津安次郎など、著名人が
蝟集した重い時間が澱んでいる。

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バー・ルパン


賑やかな銀座4丁目の交差点に出る。
海外ブランド店や、大改装の三越など立ち並ぶなかに、餡パンの写真が、ぽつりと飾られたビルがある。
写真は、木村家のパンだ。
その餡パンの看板をずっと下にたどると、そこに、ある物語が息ずいていた。
昭和のはじめ、ひとりの少女が、その木村家の店頭で、ふくよかなパンを憬れのまなざしで見つめていた。
まるで、マッチ売りの少女みたいな寒々としたショットだ。
これは、
貧窮と、流浪の人生「放浪記」に描かれている、林芙美子の少女時代の実体験である。
そこには、ため息のでるような、思い出が詰まっている。

 「木村家の店さきでは、出来立てのアンパンが、陳列のガラスをぼおっとくもらせている。
いったい、何処のどなた様の胃袋を満たすのだろう……」。

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アンパンの看板

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店頭に並んだ、あんぱん


 芙美子の少女時代。
 銭湯の下足番、カフェの女給、セルロイド工場の女工員など、
食べる為の職業を転々とし、貧しさに悩みながらも、文学への夢を追い続けた。
そして、
作家としての栄光が訪れた。
「放浪記」。
この作品は、演劇でも森光子主演で、ロングランが続けられた。
芙美子は食べることに、難儀した半生だったが、
その後は、一流店をめぐり、自信の舌で数々の馳走を堪能する人生を掴んだ。

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木村家

銀座7丁目の「いわしや」は、彼女のおめがねに叶った店だ。
間口は狭いが、92の席がある、外人の客も多いそうである。

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いわしや


 銀座は、菓子店も豊富である。
銀座通りだけでも、虎屋、立田野など、一流店がずらり。
そのなかでも、並木通りの「空也」は、長い歴史の店だ。
文豪たちにも喜ばれた。
夏目漱石も、甘いもの好きで、いろんな老舗の菓子が、作品や文献のなかにも登場する。
空也最中も、そのひとつだ。
「空也」は、漱石の時代、上野の不忍池のたもとで、営業していた。
漱石が、友人の橋口五葉宅へ訪れるたび、橋口は空也から、菓子を取り寄せていたという。
「空也堂の最中にも感心する」という漱石の感想が残っている。
池の端の「空也」の店舗は太平洋戦争で戦災に遭い、銀座6丁目に移転した。
現在も、自家製で少量生産のため、客は、なかなか買い求めるのが大変だ。

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空也もなか


昼下がりの新橋駅前。
ほろ酔いのサラリーマンの、ユーモラスなT.Vインタヴューでおなじみの場所だ。
突如、広場に置かれたS .Lから汽笛が鳴って驚いた。
「なんだ?突然。」
傍にいた掃除のおじさんに尋ねると、
「時計代わりに鳴るんだよ。
こないだも、子どもが、びっくりして、脅えてたよ」
いやあ、おれも脅えたよ。

S.Lのその向こう側に、鶏料理で有名な「末げん」がある。
料理でも有名だが、三島由紀夫がひき起こしたあの事件の前夜に、
同士たちと、最後の晩餐を、囲んだ店としてもしられている。

 三島の思想や行動については、俗人の理解を越えるが、
かれの食へのこだわりという点からみると、興味深いものがある。
「盾の会」の4人の部下との最後の晩餐の二日前、三島は、家族との最後の晩餐も
この「末げん」での鶏料理だった。
人生最後の食事で、しかも大切な相手との密度の濃い時間を、
再度、この店で過ごしたということは、
余程、この店の料理や雰囲気が、気にいっていたのだろう。

最後の晩餐は、午後6時に食事が始まり、8時に退席する。
帰り際、「末げん」の若おかみが、
「またおいでください」と声をかけると、
三島は、「え?」と声をあげて、
「そういわれてもなあ。
また、あの世からでもくるか」
と、答えたという。
嵐山光三郎氏が、この重要なエピソードを、伝えている。

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「空也」は、もと不忍池のかたわらにあった。

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末げん

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あの人の味覚、通いつめた店。新橋、銀座あたり。(その1)

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 カメラマンのぼくは、
銀座にある情報関係の会社の仕事を長く続けた。
関わったある雑誌では、センスの違う重役にしんどい思いもしたが、編集者の仲間たちとは、
いつも勝ちゲームを続けるように高揚し、楽しかった。
その女性編集者三人のポートレイトを撮ってあげたことがある。
彼女たちは、お礼にマキシムのデイナーをプレゼントしてくれた。
ある夜、
妻とふたり、その豪華料理をいただいた。
その時、仲間の彼女たちの微笑ましいエピソードの話題に夢中なあまり、
申し訳ないが、肝心の料理の味の記憶が残っていない。
モチロン、これはぼくの味覚のつたなさで、マキシムの超一流の技量に文句をつけるわけではない。

 一方、素朴な食べ物に、ひどくこころをうたれたこともある。
東北の黒沢尻工業高校のラグビー部の取材の折、監督の先生に学校前の、
おばあちゃんの経営するちいさなカウンターだけの食堂に案内された。
そこで、揚げたての厚揚げを醤油をたらしてイタだいて、
素朴だが、感動的だった味の記憶が何十年経っても消えない。
なんでも、食堂の隣りが、妹の豆腐屋で、できたてホヤホヤの豆腐を即、食堂のおばあちゃんが、ごま油で揚げるのだそうだ。
たしか、メニューは、その厚揚げだけだったような気がする。

 食べ物の感動や価値観は、その人その人、それぞれだろうし、
その時の諸条件が、つくりあげるものだろうが、
銀座のような洗練された味覚の溢れる街で、ぼくは、過去あまり味の恩恵を受けるような人生は、選んでこなかった。
探求心と経済力のなかったせいだが、その気になれば最近では、一流の店でもリーズナブルな価格で
ランチなど提供するようになった。


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こんぱる通りを、4丁目方向にゆくと、寿司の「銀座久兵衛」の前で、女性が打ち水をしている。
著名なこういう老舗は、「お金持ちさん、どうぞご利用を」、と庶民は、パスしたいところだが、
ここは、巨星、北大路魯山人が愛した老舗である。
たとえお金持ちに占有される店だろうが、魯山人のお墨付きとあらば、庶民としてもゼヒ行かねばならぬ。
せめてランチでも。
生ちらし志野が、人気メニューだ。
味もさることながら、姿や色合いが美しい。日本の色、姿ッ。
その、料理の姿から連想してしまうのは、銀座菊迺舎(きくのや)本店の富貴寄赤丸缶である。
小箱の、菓子函だが、
なかは、色とりどりの小粒な干菓子が乱舞している。
これも、ニッポンの色。
色とりどりの、てんてんてんまり、てんてまりと、ニッポンの色への幻想は、どんどん広がってゆく。

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久兵衛の前で、打ち水する女性


外堀通りの有賀写真館のビルの一角に、いぶし銀のような洋食の「銀座キャンドル」がある。
1950年に、オーナーが、進駐軍のベースで、バスケットに盛られたフライドチキンをたべて
感動、この店を開いたのだという。
店名は、映画「哀愁」のなかの、キャンドルライトクラブから、つけた。
ここへ、開店早々から、作家の川端康成が、若かりし三島由紀夫を連れてしげしげと通った。

 遡る、川端の少年時代は、不幸だった。
川端は、満一才で、父が死に、その翌年、母。七才で祖母、そして、姉、14才で、最後の肉親の
祖父を失った。
孤児。
壮絶な人生である。
あちこち居候の身で、食べ物の不自由さでも、骨身に滲みたことだろう。
後年、その繊細な感覚で、日本と日本人の美の世界を描写し、ノーベル文学賞に輝いた。
しかし、そのやわらかな感受性は、孤児同然の少年時代からズタズタに切り裂かれたのかもしれない。
最後、ガス自殺で人生を閉じる迄、若い頃から睡眠薬に依存し、苦しんだ。

 一方、「キャンドル」に足繁く通った。
好物のチキンバスケットにについて、かれのどんな思いがあったのか。
こまかないきさつは、わからないが、人間だれでも「食」にかかわる
印象的な思い出はもっている。
こころに深く、秘めながら。

 帰途、キャンドルの階段に、ずらりと著名人のサインの並ぶなかに、寅さんがいた。
小川軒や、このキャンドルは、洋食屋さんといっていいだろう。
庶民派の寅さんは、味のある洋食屋が好きだったんだなあ、と感慨深い。


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銀座キャンドル

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おなつかしや、寅さんのサイン


銀座通り7丁目に、「カフェ、パウリスタ」がある。
日本の喫茶店文化は、ここから始まったと言われている。
明治末期、初代社長が、ブラジル移民団長として、現地に渡り、コーヒー豆の輸入を始めた。
喫茶を始めるや、
大正期のモダーンな、文化人や時代感覚を先取りする人々が、ここに集った。
そして時代は、だんだん重苦しく、戦争に傾斜してゆく、風潮だったが、ここには自由な風が吹いていた。
そういえば、有名な話だが、ジョンレノンとオノ、ヨーコ夫妻も、3日間ここに通い続けたという。
パリのカフェに似て、歴史をくぐり抜けてきた喫茶店が、いまもなお健在であるのも嬉しい。

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パウリスタ


偶然だが、パウリスタの前に、作家の山本一力さんの、ご愛用の店、「吉宗」がある。
これは、一力さんなればこその、珍らしい、懐かしい味である。
どんぶり鉢がふたつ。
ひとつは、錦糸玉子やそぼろなどの三色の蒸し寿司、もうひとつは、巨大な茶碗蒸し。
あわせて「夫婦蒸し」とは、なんちゅう上手なネーミング。
しかも、うまい。
なんてったって、庶民派の、一力さんのご推奨なんだから。


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吉宗

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もうひとつ。
これは、新規開拓だった。
K子ちゃんが、「行くべきよ」、と強制的に薦める店だ。
ベルギー生まれの、チョコレート店。行列店だそうだ。
「ピエールマルコリーニ 銀座」だ。
K子ちゃんの指示通り、ソルベ(シャーペット)に、狙いを定めた。
だが、どうも地番の場所がみつからない。
ウロウロして、そばにいた、ふたりの女性に尋ねた。
「わたしたちも探しているんですよぉ」
いっしょに探しません?
おれが言ったんじゃない、女性が言ったんだ。
「あ!あった」
おれが見つけた。


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ピエールマルコリーニ。探した女性ふたり。

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Blue Note , 思い出トランプ、スイングする坂道。南青山。

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  ブルーノート東京。
N.Y.の名門ジャズクラブの姉妹店だ。南青山6丁目。
重い木の扉を開いて、きれいな中年の女性が街路に出て来た。
奥から洩れるかすかな気配。
ジャズのスイングが、ふと耳をかすめたかに思えたが、それは店頭の
ナタリー・コールの笑顔のせいだったのかもしれない。
ナタリーかア。彼女のおやじを思いだすなあ。
ナット・キング・コール。
それに、アーム・ストロングか。ちょっとセピア色だが。
ぼくは、かれらにあんまり溺れはしなかったが、ブルーノートには、ジャズの聖地として、畏敬の念をもっている。

  個人的には、ナベサダが、ジャズへの興味を開いてくれた。
「カリフォルニア・シャワー」である。
いまでも、軽快で躍動的なこの曲に痺れている。

  ボクの好きな俳優のティム・ロビンスが、ミュージシャンとして、ブルーノート東京に登場するらしい。いや、したのかな。
「ショーシャンクの空に」で、フィガロの結婚の曲を刑務所中に大音響で流すティムの
知的で反逆的な横顔を思い出す。
かれと、音楽との因縁に違和感はない。
まして父親が、60年代に活躍したギルバート・ロビンスというミュージシャンだと聞けば、ティムの資質は充分期待出来るだろう。

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ナベサダ、カルフォル二ア・シャワー

  通りをへだてて、岡本太郎記念館にゆく。
なんだ、火曜日は、休館だよオ。
外から庭を覗き込んで、作品の点在するあたりで、晩年の太郎さんを撮影したことを
思い出す。
まだ、太郎さんが、病魔に襲われる前だったが、もう豹のような鋭さはなく、おだやかな人になっていた。
  撮ったフィルムは、3本くらいだったが、100ショットものシャッターが押されるたびに、
かれは足を踏ん張って、その都度、眼を大きく見開いた。
幼児のような素朴な、頑張りに思えた。
「これを崩そう」
シャッターのリズムを変え、言葉もかけてみた。
かれの構えは、崩れない。
太郎さんは、こちらの作画意図を拒否している。
「オレは、こうなのだ」
ということか。
そうボクは悟って、切上げようと思ったが、太郎さんは最後迄、同じ表情とポーズを崩さず、
こちらが撮影の矛を納める迄、協力してくださった。
太郎さん、あの時は、老いたりとはいえ、強い意志を守ろうとするあなたに撃たれた思いがしました。


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岡本太郎記念館

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記念館の庭


  根津美術館の竹林をすぎて、すぐ横にくだる「だらだら坂」にでる。
湾曲している白壁の連なりが美しい。
正しくは、「北坂」。
向田邦子の短編「思い出トランプ」のなかの一編に、「だらだら坂」が登場する。
北坂がモデルらしい。
  物語は、大柄で、鈍重の垢抜けない女「トミ子」が、鼠と渾名された、叩き上げの冴えない社長の囲い者で坂の中程に住んでいる。
男は、週2回、ここに通うが、素朴でつましいこの女を自分好みに育てることに満足している。
だが、トミ子は、隣家に住む洗練された年上女に影響され、マニキュアを始めたり、二重瞼の手術をしたり、少しずつ変貌してゆく。
囲われ女の、男への微妙な背離や、しょぼくれた男の反応が面白い。

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だらだら坂を下る


  晩年、 向田邦子は、この南青山に住んだ。
高級店のひしめく間にも、庶民的な店が息ずいている。
彼女は、魚屋、豆腐屋、花屋など、日常生活を彩どる店みせを利用したそうだ。
骨董通りにある、和菓子屋の「菊屋」で、彼女の好きだった、水羊羹を買う
ことにした。
彼女は、作品の「眠る盃」のなかで、この水羊羹を激賞している。
だが、庶民にはいささか高価だ。
「ウーン。」買い求め、家に帰って、味音痴のボクは、かみさんにいろいろ訊ねた。
「わたしは、和菓子が好きだから、このコクと繊細さは、とても深いと思うけど」
と、彼女は静かに味わっていた。


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和菓子の「菊家」

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菊家の水羊羹

  「菊屋」の近くにある、スイス伝統のチョコの店、「レダラッハ」。
アルプスでしか得られない牛乳、生クリーム、バター、と厳選された素材でつくられた、世界的に有名なミルクチョコだと聞けば、いかに味音痴なボクでも、
ぜひ、という衝動に駆られる。
「トリュフ・プラリーネ」の一粒を、女の子みたいにそっと口にした。
たとえ、ぼくでも特異なこのうまさは、わかる。


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レダラッハ

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レダラッハのミルクチョコレート

  帰りは、楡家通りにでて、絢爛豪華なブランド店に眼を見張りながら、表参道駅に
向う。
ブランド店のなかでも、プラダの威容には、ちょっと驚く。
店舗にカメラを向ける、老若女性が多い。
このあたり個人的には、かって、よちよち歩きの子ども達と、
家族4人で、ヨックモックの中庭のテラスや、アンデルセンの朝食に、通った記憶が懐かしい。
30年も前に通ったこの両店は、いまも健在だ。
途中で、お稲荷さんがあって、衝動的にお参りし、ちょっとした頼み事をした。
帰宅して、このお稲荷さんが、大松稲荷で、向田さんのマンションの隣だったという
ことを知った。

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プラダ

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南青山

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 「カレーの市民」。少年の心に帰れ、国際子ども図書館。上野。

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ロダン作、「カレーの市民」


 上野にいってみた。
西洋美術館。
ロダンの彫刻、「カレーの市民」の前で、ボランテイアのおじさんが、
子連れの母子に、「この老人の手にしている鍵は、なアんだア」などと声をかけていた。
おじさんは、それをきっかけに、この彫刻のいわれを語り出した。
ぼくも、それをきっかけに、
いままで、彫刻美としかみてこなかったこの「カレーの市民」に、もう一度、歴史の真実と
して向き合った。

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カレー市の鍵


14世紀に英仏の間でおきた100年戦争時代、ドーヴァー海峡に面するフランスの「カレー市」
は、英国軍に包囲され最後の攻撃を迫られていた。
ウスターシュ・サンピエールは、敵の攻撃を回避させるため、他の5人とともに、
英国王の陣営におもむき、首をさしだし、それを条件に攻撃をやめさせた。
後世、ロダンはこの勇気ある人々の彫像の制作を、市から依頼された。
ロダンは、絶望と苦悩のうちに市の鍵を手に、首に縄を巻いて裸足で市の門をでてゆく
ウスターシュたちの群像をつくりあげた。
じっくりみると、死に直面した男たちの、恐れや苦悩がナマナマしく迫ってきて、
胸をうつ。
「知らなかった?この話」
少年と母親に、おじさんはていねいに説明していた。


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説明を聞く、母と子


 暑い日が続いた。
しかし、上野の森は、美術館、博物館、科学博、みんな一杯の人だ。

「科学博物館で、恐竜展観たでしょう。」
科学博の付近にたむろしていた少年たちに声をかけた。
「あそこに、ハチ公の剥製があるって知ってる?」
「へえ、渋谷のハチ公の?」
少年たちは、一瞬目を光らせた。


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科学博前にいた子ども


国立博物館の西側の一角に不思議な建物がある。
白い建物の壁に、夜になると光の十字架がふたつ投影される。
一見、礼拝堂にみえるが、映画館だ。
「一角座」客席150席。
作った映画を配給を通さず即、自前の館で上映する。
「産直方式」というのだそうだ。
鈴木清順監督の作品、「ツゴイネルワイゼン」を、エアドーム型の移動式映画館で、
上映し、興行を成功させた、荒戸源次郎プロデユーサー。
かれが仕掛け、博物館の杉長敬治さんが賛同して
できあがった、インデイーズを刺激する画期的な映画館がこれである。
まあ、せちがらい営利主義の世の中で、ふたりはスゴいことをやってのけたものだ。
映画人の高い理想に、脱帽。
だが、
今日出かけたら、廃館になっていた。
日本の文化事業のはかなさを嘆いて、あえて無くなってしまったが、これに触れておく。

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一角座。朝日、戸村登氏撮影


時折、立ち寄るのだが、国際子ども図書館に今日も行ってみた。
ぼくのような大人でも、絵本を楽しむことのできる、すばらしい環境だ。
もちろん、ここは親子連れには、もってこいのすばらしい図書館だ。
広いテラスも喫茶ルームもある。
ぼくも、まだ乳児の、いとしい孫の望乃ちゃんを、いずれここに連れてくるのを夢みている。


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国際子ども図書館

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きょうは、ぼくの少年時代の懐かしい本の特別展が開かれていた。
「ジャガーの眼」「ああ、玉杯に花うけて」「注文の多い料理店」…………。
懐かしさが、こみあげてくる。
ア!
あった。
「苦心の学友」……大好きな、佐々木邦だ。

ひとけの、すくない館内で、すこしぼんやり、時を過ごす。

もうひとつ、黒田清輝の黒田記念館で、作品の「湖畔」を鑑賞して、帰ろう。

なんだ、なんだヨ。
何回かここへ来たが、今日は休館だった。
この作品の「湖畔」は、箱根芦ノ湖の湖畔に憩う美女の絵だ。
モデルは、のちに黒田夫人となる女性で。1897年の作品だ。
ボクは、上野の美術品のなかでも、相当気になる繪だ。
明治文学のドラマをTVで時折観るが、鴎外の「雁」や、漱石の「三四郎」などのヒロイン役は、
杏ちゃんが演じていると、ボク好みの明治の女性が描かれていて楽しい。
「やっぱり、杏ちゃんが、ぴったりだよなあ」
ひとりで、悦に入っている。
しかし、鹿鳴館以降、、急速に激変してゆく明治日本の先端を走る女性は、
杏ちゃんより、すこし激しさと意志の強そうなニュアンスの、この「湖畔」の女性だった
ような気がする。

ボクは、杏ちゃんのような安らぐ女性のほうがずっと好きだけど。

広大な緑の上野の森。
いろんな歴史的事件や、失意の詩人白秋が、子どもを抱いて散歩したり、
原っぱで野球に興じた子規など、夢のつまった場所が、ゴロゴロこのあたりに転がっている。
文学者や、将軍の歩いた森を、想像をたくましく、楽しむ。

山をくだって広小路口に来たら、中華飯店がポツンとあった。
「エ?、こんなとこに店なんか、あったっけ?」
はじめて、めっけた店だ。
店頭に、
「ここで、ゴチになります、のロケがありました」みたいな紙が貼ってあった。
ゴチも、こんな環境にまで、遠征しているんだナ。

すぐ近くの階段に、髭ずらのおじさんが、段ボールを片手に、茜空を眺めていた。
こころなしか、
ホームレスの人達も、なぜかのどかにみえる。


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黒田記念館

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黒田清輝「湖畔」

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旦妃楼飯店

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駄菓子屋の奥でピアノのの音、火の鳥が飛んだ。鬼子母神界隈。

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鬼子母神、入り口


 森閑とした、深緑の神社の境内。
8月も半ばだというのに、蝉の声がない。
今年はどうなっちゃたの。
この静けさ。
奇麗に菓子の並べられた駄菓子屋の奥の方から、
ピアノの音がこぼれたりするらしい。
鬼子母神堂の境内、である。
黙って店の前に立つと、奥からすっと年配の女性が顔を出した。
「ピアノ弾くんですか」
唐突な質問に、彼女は、当惑しながら、はにかんで、
「ええ、まあ」とあいまいに微笑んだ。
話しを切り替えて、
「えーと、駄菓子買おう。
これと、これと……」
駄菓子をあちこちからつまみだすと、
サッと、ちいさな篭がさしだされ、
「あ、酢蛸ですね、暑いと口が締まっていいですよ。
その乾燥菓子は、すこし甘いですよ。」
ボクがつまみあげるたびに商品説明が加わる。
5~6品種つまみ終わると、
「ハイ、322円ですネ。」計算が早い。
「ア、400円で、お釣いいです」と、ボク。
「すみませんね。じゃあ、これ、おまけ。」

駄菓子屋のおばさんとのハイテンポなやりとりに、子供時代の記憶が、
さっと、蘇ってきた。


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駄菓子屋


残ったコインを握りしめていると、
「ハイ」と、亡き母が小銭を渡すしぐさがふっと浮かんだりする。
同時に、わが子の幼なき昔。
時間をかけていつまでも選んでいる長男と、ささっと、決める次男の
性格の違いなど、脳裏に浮かびあがらせながら、ひとり笑いなどしてしまった。

この駄菓子の「上川口屋」は、なんと創業が1781年、この内山さんで13代目なんだそうだ。
法明寺の鬼子母神堂は、安産、子育ての神として江戸時代から、人々の
厚い信仰を得ているだけに、境内に駄菓子屋というのはうってつけなのかもしれない。


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駄菓子屋の山内さん


「このあたりに手塚治虫さんが、住んでいたそうですね」
内山さんに訊ねると、
「そう、黒いふちの、丸いメガネの人がよく散歩していました。
あとで、あれが、エライ漫画家さんだと聞いて、驚きましたよ。」
手塚さんの住居跡に行ってみることにした。


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樹齢、700年といわれる大イチョウ

「並木ハウス」というアパートがそれらしい。
参道からなか程の路地を右折したところに並木ハウスがある。
手塚さんは椎名町の「トキワ荘」からそこに引っ越し、
昭和29年から32年まで住んだ。
そのアパートの2階で、「鉄腕アトム」や「火の鳥」など名作が誕生したという。
当時家賃は、5000円だったといわれ、手塚さんは、当時めずらしいT.Vを購入
した折、近所の人々にも、どうぞ観てください、とやさしかったそうだ。

現在アパートに住む女性に、手塚さんの住んだ部屋(201号室)を教えてもらった。
入り組んだ裏道からしかその部屋は、みえなかった。
その部屋に隣接する民家は、かなり古めかしく、木々に覆われている。
手塚さんはこの秘めやか隣家を窓から眺めたのかもしれない。


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並木ハウスの表札

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手塚治虫は、ここで火の鳥などを創作した。

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階段の向こう側、201号室。

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すぐ隣の風景

都電.荒川線の鬼子母神駅に出てみた。
トコトコと、千登世橋をくぐって、電車が坂をのぼってきた。

最後に近くの雑司ヶ谷墓地で、ちょっと気になる墓を訪ねようと思って、
参道にある観光案内所で、場所を調べてもらったが、判らず、きょうは、35度の炎暑に
負けて帰ることにした。
でも、それについて書いておこう。
雑司ヶ谷霊園には、
夏目漱石、永井荷風、竹久夢路、ジョン万次郎など著名人が眠っている。
その夏目漱石だが、生前、小説のなかでこの墓地について触れている。
名作の「こころ」のなかだ。
その作品のなかに登場する先生は、ある事情を抱えて、友人の墓に毎月訪れている。
ある日、先生とわたしは、墓地の付近でバッタり出会った。
ふたりは、墓の間を抜けながら、墓碑銘に注意を向ける。
イサベラなになにだとか、神僕ロギンなどと変わった碑銘を眺めながら、
「安得烈」と彫られたちいさな墓の前で、
わたしは、「なんと読むのでしょう」と、先生に尋ねる。
「アンドレとでも読ませるんでしょうね」と、先生は苦笑する。

これは、
べつにたいした話ではないが、明治時代の小説のなかに描かれた墓の風景が、
いまどうなのかと、ちょっと確認してみたかった、というだけだ。
漱石フアンのボクの興味にすぎない。
たぶん、推測だが、これらの墓石は、付近にある雑司ヶ谷宣教師館に勤務された、
牧師さんたちのお墓かな、と考えている。
日をあらためて、訪れることにしょう。


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都電荒川線、鬼子母神駅。

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夏目漱石の、こころ。

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ねむの木の庭、プリンセス・ミチコが咲く。そこから白金へ。

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ねむの木の庭


もう、10年以上前だったが、夏、麻布の有栖川公園の坂上を、かみさんとふたりで散歩していた。
人影が全くない。
さらにゆくと、細い道路の信号機をひとりの警察官が、青信号に固定していた。

「どうしたんですか?」

尋ねると、

「天皇ご夫妻が、テニスにおいでになるんですよ」

と、笑って答えた。

まもなく、天皇ご夫妻だけのお車がひとつ、坂道をゆったり登って来た。
空いた窓から、天皇ご夫妻は、ぼくらふたりに笑顔で手を振ってくださった。
なんのしばりもない、ミカドと庶民、のどかな一瞬の風景。
警察官も笑顔で佇み、天皇ご夫妻も運転手だけのおでかけ。
こんな、ゆるやかなご日常が、すべてであれば、
いつも、天皇ご夫妻のみこころも安らかであられるのだろうに。

皇后様のご実家跡が、「ねむの木の庭」という、公園になっている。
五反田から、坂道の続くお屋敷の間を縫って、すこし息切れしながらそこにたどりついた。
175坪。こぶりな花壇公園だ。
庭には、約60種類の草花や木々が植えられているそうで、ていねいな手入れがされていた。
皇后には、ご自分の思い出の詰まったご生家である。
さぞや、取り壊しに、みこころを傷められたことであろう。
保存の希望が、あちこちから随分でたが、「皇后様は、保存をお望みでない」と
宮内庁は、ご決断されたことを公表した。
茶色の塔のようなものが建っているが、これは正田邸の暖炉のあった場所に、
設けたガス灯だそうだ。


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ねむの木の庭

皇后様ゆかりの花が、二種類、咲いていた。
ひとつは、「プリンセス・ミチコ」と名ずけられた薔薇である。
オレンジ系の美しき微笑の花は、妃殿下だった当時、訪英の折、
現地の園芸会社が、
新種のこの薔薇に妃殿下のお名前をいただき、それを贈呈したものだという。

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薔薇、プリンセス・ミチコ

もうひとつは、「ゆうすげ」。
皇后様のお好きな、花だそうだ。
ゆりの仲間で、夕方に花を開き、一夜でしぼむ、かれんな花である。
ちょっと、はかない想いに駆られるが、
楚々として香しい。

「もう、2回ほど、この花をご覧にみえましたよ。」

庭の手入れに余念のない老齢のおじさんが、皇后様の
おしのびでみえたご様子を教えてくれた。

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皇后様のお好きな「ゆうすげ」


やはりこのお庭は、波乱万丈の昭和を生き抜かれた美智子皇后の
みこころを偲ぶにふさわしいお庭となっている。


さあ、
蔦に覆われた民家の角を曲り、白金へ向かう。
外苑西通りをプラチナ通りとよぶ、メデイアの感覚は好きではないが、
ボクの思う素敵なところは、直線は平凡だが、湾曲するあたりの緑深い街、路だ。
そのあたりにひとつの魅力のエッセンスがある。
風そよぐアベニュー。
チョコレートのエリカ、イタめしのルクソールも近い。
だが、
「エリカ」
閉まっている。

8月いっぱいは、なぜかお休みだと、花屋のお兄さんが教えてくれた。
ミルクチョコレートのなかに、マシュマロとクルミのはいった「マ・ボンヌ」。
これは、以前、賞味して、しびれたことがある。
あーあ。今日はダメかア。


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風そよぐ、プラチナ通り

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レストラン


庭園美術館に急ごう。
いまは、エルミタージュの所蔵品を展示している。
「皇帝の愛したガラス」展だ。
エミール・ガレなどもあったが、18世紀中心のガラスコレクション。
いやあ、絢爛豪華。
この美術館はアール・デコの大好きなぼくの、くつろぎの場だが、
洋風庭園がまたいい。
巷で35度ともいうこの猛暑にも、ここは涼風を感じる広い庭で、読書にひたる淑女たちがいた。
優雅ア。
最後の目的地に向う。


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東京都庭園美術館

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美術館の庭園、読書する女

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もうひとり、読書する女

時代屋、おっと、ではなく時代物の着物を扱う「池田」だ。
ぼくは、19世紀の英国製の古椅子を一脚もっているが、ボロボロなので、
ここで古い帶地でも買って、張り替えようというわけだ。
3人の親切なおばあちゃんの店員が、あれこれ探してくれた。
「あったア!」
おばあちゃん三人も同時に笑顔になった。
この店では江戸時代から現代までの布が揃うという。
着物、浴衣、羽織からちりめんの端切まで多彩。
しかも、値段はリーズナブル。

きょうは、フシギな感覚の散歩になった。
いつもはセレブな街にまぎれこむ異物のような感じのボクだが、意外やきょうはそれなりに
楽しめた一日だった。

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時代着物店の池田

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「本郷館」も消える。明治は遠く、本郷三丁目。

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本郷館が消える。


 上野の不忍池から本郷に抜ける坂道、無縁坂。
その坂の途中にある格子戸の家に、おとなしくて気立のいい娘、お玉が高利貸しのお妾さんになって住んでいた。
お玉は、いつもその坂を通る医学生の岡田にほのかな想いを寄せ、
岡田がいつか自分をとらわれの身から救い出してくれはしないか、と夢想している。
これは、
森歐外の「雁」に描かれた悲恋の物語の風景だが、
その医学生の岡田の下宿しているという設定の、
「本郷館」が、築106年を経て、8月1日、取り壊されることになった。
関東大震災や東京大空襲にも耐えてきたが、建物の老朽化が激しく、
家主は、解体を決意した。(本郷6丁目、1905年、明治38年建築、木造三階建て、76室)
一見すれば、巨大軍艦を思わせる、存在感あふれる
この木造三階建てに、感嘆しない人はあるまい。
存続を願う人々と家主との間に訴訟まであったらしいが、
結果は、残念なことになってしまった。
あわてて、ぼくも、現場に駆けつけてみたが、同じような思いの若者や、年輩者が
名残をおしむように、カメラをむけ、坂に沿った建物のあたりをうろうろしていた。
この界隈は、旅館の鳳明館や、本郷会館はじめ古い民家など、明治大正が息ずいており、
この巨大な本郷館は、その中核としての風景を形成している。

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巨大な三階建て。

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反対派は、近所で、展覧会を展開。

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解体を惜しむ、街頭展覧会。

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旅館、鳳明館。


「先日の東北大震災でも、瓦ひとつ落ちなかったのにねえ」と、近隣に住むらしい老人も嘆いていたが、
「うーん。」ぼくも嘆息しか出てこない。
ふと、「人生は、レジグナテイオン(あきらめ)だ」という、鴎外の人生観を思い出した。

広大な東大キャンパスの前、本郷通りをへだてた本郷3~6丁目を中核としたエリアに、
多くの東大生や、文人、学者が、生活し歴史を育んで来た。
そのあたりに残存する明治や大正、の風景に浸りながら、ぶらぶら歩いた。

樋口一葉の住居あとに、しばし佇む。
彼女が暮らした、
手押しポンプや、狭い路地裏の空間に、遥か、明治への想像の絵を描いてみた。
質素で、美しい一葉。
冬、凍えた手で汲んだであろう、手桶をもった姿。
溢れるような才能を潰しにかかった貧困。
あえかな半井桃水への、慕情。
過去は痛ましく、いとおしい。


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一葉の暮らした路地裏と、ポンプ。

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明治に抜ける、鐙坂。

すぐ裏手の、
鐙坂で、坂上の白く抜けた空間をみつめてみる。
その空間は、そのまま明治に抜けていって欲しい幻想を想起させた。

菊坂に戻り、一葉の通った旧伊勢屋質店の前で、カメラを向けていると、自転車で、
きたおばさんが、荷台からごそごそと紙片を取り出して、
「11月の一葉さんの命日に、質屋さんのなかが見学できますよ」と教えてくれた。
紙片はこのあたりの案内図だった。
よく情報誌に推奨されている、すぐ近くのキッチン「まつば」で、チキンカツを食べた。
白髪のやさしそうなおばあちゃんが、店を仕切っている。
「本郷館なくなるんだってね」
語りかけると、
「ウン、寂しいね」
おばあちゃんは、ポツリと答えた。
下宿めしのような、素朴だが、ボリュームたっぷりの、こころ暖まる食事だった。

これも古い歴史の「万定」でフルーツジュースを、と寄ってみたが、閉まっていた。
外壁はアールデコの装飾が懐かしい、フルーツパーラーだ。
本郷通りの「ルオー」で、黄いろいタングステンのやわらかな光に包み込まれるように、
コーヒーをゆったりと味わった。
今日は、
妙な寂寥感で過ごしたが、一方、なんとなく慰められた気分の一日でもあった。


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一葉の通った伊勢屋質店。

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万定フルーツパーラー。

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喫茶、ルオー。

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one coin essay  青空に残された、少年時代の夏模様。

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(写真はすべて小金井公園)


少年時代を語るというのも気恥かしいが、
なんとなく語っておきたいもの。
映画「三丁目の夕日」は、第三部が、製作されたらしい。
昭和という時代に、郷愁を感ずることに、肯定と否定があるようだが、
ボク自身の体験でいえば、「いま」と全く異なる、自由と放縦が許されたのびのびした
生きる実感があったから「昭和」を愛おしむ。

とにかく、ぼくはいたずらなガキだった。
幼稚園時代の記憶だが、並んだトイレの扉を片端から、バタンバタンと開け閉めして遊んでいた。
最後の扉を、思いっきり開けたら、西郷どんのような老齢の女性園長がしゃがんでいた。
半日、倉庫にほうりこまれ反省させられた。

子供どうしで、遊んでいて、
リヤカーに積んだ斜に切った竹に、頬をぶすりと刺して大出血し、母親をオロオロさせた。
いまも傷跡が残っている。
そんな、滅茶苦茶をやったが、近隣に三人いたワンパクの僕たちを、町の人達は、「三勇士」などと好意的に
笑いとばしてくれた。
気がつけば、戦争が日常化していた。
軍馬に跨がって、駿府城趾の連隊本部に出かける父が、いつも眩しくみえた。


そのうち父は出征し、母子3人で、長い寂しい時間が過ぎて行った。
小学校上級生になると、ボクはすこしいい子になった。
母のお供で、食料の買い出しに近郊の農家に出かけたこともあった。
唐草模様のおおきな風呂敷に米やスイカを包んで背中に担ぎ、昔の泥棒のような風体で、SLのデッキで黒い煙に咽せていた。
その後、戦争が激化して、通学路の一軒家に爆弾が直撃し、まわりにも死の風景が、現れた。
防空壕で、爆撃を避けるあけくれは、子供ながらに、フシギと死というものに慣れていくように思えた。
B29爆撃機の爆弾は、ざーっという音を立てて落ちてくる。
「よそに落ちる時は、音がするけど、自分の頭に落ちる時は、音がしないんだよ」
嘘かまことか、母親は防空壕のなかでそんな話を聞かせ、ボクと妹を抱きかかえた。
爆弾の落ちた、ずんずんずんという重い音と、振動は、決して気持ちのいいものではなかった。
それ故に、
敗戦の、あの開放感は、なにものにも代え難い、躍り上がるほどの喜びだった。

中学生になった。
マグロの油付けの缶詰工場に夏休みのバイトに出かけたこともあった。
蒸した鮪の身を缶にきれいに詰め込む、面白そうな作業は、おねえさん達の仕事。
ぼくら少年ふたりは、塩辛つくり。
まぐろの内蔵から、未消化の小魚の骨などを取り出す、臭くて、冷たくて、チクチク指を刺す痛い仕事だった。
だが、ふざけながら、やれる仕事だから苦にもならなかった。
食料難の時代だったが、女工のおねえさんたちは、いもや果物とか持ち寄って、ひもじい僕たちを喜ばせてくれた。
40日くらいのバイトだったが、たしか二千円(200円?かも)くらいの報酬をもらった。
もちろん大好きな母に、ゼンブ献上した。


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高校に進学した。
校舎は、戦災で消滅していた。
臨時校舎は、陸軍の使用したおおきなバラックで、前後左右、板張りが破れていて、足もとは厚い砂だった。
その教室を、「馬小屋」と、みんなが呼んだ。
時折、突風が吹いて、教室は砂塵で、白く霞んだ。
教師の眼を盗んで、板張りの割れ目から、ボクたちは、よくエスケープした。
その頃盛んだった、野球に夢中で、後にNHKのアナウンサーになる山川静夫は、けやきの大木に登り、
実況放送のまねごとをしていた。

夏休みは、友人の親戚の洋品店で商品を借りて、20キロほどの海岸をセールスして歩いた。
商品は、黄色のポロシャツで、一枚100円、一割がぼくらの儲けだった。
夏の日に、焼け付く暑さ。
だれも買ってくれない。
最後の清水港で、やっと一人の老いた漁師さんが、一枚買ってくれた。

「いいか、お前たちよ。
 おれは、こんな黄色いシャツなんか欲しくて買うんじゃないんだぞ。
 お前らが、この暑いさなか、そうやって働いているから感心して買ってやるんだ。
 こんな、チンドン屋みたいなシャツを、だれが好きで買うもんか。」

おじさんは、神々しくみえた。
利益の10円は、アイスキャンデイ二本に消えた。


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遡るが、小学生の頃、母親が、時折、古本屋から世界童話全集やキンダーブック、講談社の絵本など、
大量に買ってくれた。
そのなかに、佐々木邦というユーモア作家の作品があった。
「スンガリーの朝」という、中国東北部の白系ロシア人社会の、のどかでほのぼのとした、明け暮れを
描いた小説が好きだったが、一番好きだったのは、「トム君サム君」というユーモア小説だった。
隣家に越して来たアメリカ人の双子の兄弟と日本人の少年との交流が、
とても、モダーンでユーモラスな関わりで楽しかった。
終盤、トム君サム君は、アメリカに帰国する。
ぼくも、読みながら、別離の寂しさを味わった。
太平洋戦争が勃発するのは、そのあとだったと思う。
だから、トム君、サム君とボクが、国家利害で、分断、乖離することにやや違和感があった。

きのう生まれた豚の子が、
蜂に刺されて名誉の戦死、

という、「湖畔の宿」のメロデイの替え歌が流行したことがあった。
小学生だったから知らずに唄ったそれが、特攻隊を揶揄した歌だ、という噂になって、
歌ったのはだれだという詮索が学校の教員室で始まった。
教員室に集結した教師がひとりずつ、教室に待機した生徒を呼び出した。
呼び出された者は、ほかに歌った者を、チクったら解放された。
戻ってくる者のなかには、木刀で殴られ、額にコブをつくった生徒もいた。
泣いた顔で、次に教員室にゆく、生け贄の子羊を指差すのだ。
じぶんが、学友をチクれば解放されるわけだ。
勝俣と高木は、いたずら者で、ぼくの仲間だった。
かれらは歌い、当然、ぼくも歌った。
ふたりとも、だれかに指さされ、教師に殴られ、青ざめた顔で帰って来た。
ぼくは、覚悟をきめていた。
だが、勝俣も高木もぼくを指ささなかった。

さすが、愚行に気ずいたのだろう、教師たちの演じたその魔女刈りは、しばらくして終わった。
そして、1~2年経て、戦争が終わった。
入道雲の踊る夏空だった。

夏が過ぎ  風あざみ
誰の  あこがれにさまよう
青空に残された  私の心は夏模様            
(井上陽水、詞、曲、唄。)

ボクの昭和は、焦土から始まり、食べ物、衣類も乏しかった。
ただ、人間だけが、おいしくて、愛おしい存在だった。

数年前、ボクは、写真集「望郷、寺山修司」を出版したが、あまり売れなかった。
故郷に住む親友の鈴木成美が、10冊、数万円も身銭をきって、本を購入し、高校のクラスメイトに
配った、とあとで知った。
ボクはもう、昭和からズリ落ちて、不甲斐ない都会のさすらい人に堕ちたのに、
成美は、まだ昭和に留まって、ボクにエールをおくってくれている。

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神楽坂で、ガレットをつまみ、ザーズと鏡花を偲ぶ。

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神楽坂

I'm 14years oid I'm pretty
借り暮らしの [アリエッテイ]を唄うセシル・コルベルは、
フランス・ブルターニュの生まれだ。
ブルターニュといえばガレット。
妖精のささやきのようなセシルの歌を聞いているとガレットが、無性に食べたくなった。
ガレットは、そばの粉で焼いた質素な食べ物だが、味は深い。

 神楽坂の、「ル・ブルターニュ」に、ガレットを食べにでかけた。
ガレットにシードル(リンゴ酒)を添えて味わうのが、ブルターニュ地方のいわば
郷土食らしい。
「シードルは、辛口にしますか」
いや、甘口で。
客は、女性が多いが、男性は、ボク以外はフランス人のようだ。
隣も、正面のテーブルも「*&$%”~」フランス語。
そういえば、神楽坂は、フランス人の多い街だ。

 軽いこのランチを味わっていると、店内には、ZAZ (ザーズ)のハスキーな、
声が流れてきた。
モンマルトルの路上で、リズムをとりながら唄う彼女が眼に浮かぶ。
心地よい。
曲は、ぼくの好きな、「私の街で」、だ。
もう、きょうは、ガレットと、ザーズで、ぐにゃりと、背骨もとろける気分。

 神楽坂の坂を上ると、左右に葉脈のように、花街の料亭が、ひしめいている。
明治、大正、昭和にかけて賑わいのあったこの街は、古い面影も残っていて、
コクのある楽しさにひたれる。
ぼくの好きなのは、古都の雰囲気に加え、フランスの香りが、ミックスされているところだ。
喧噪から遠い、日仏学院付近の散歩や、アグネスホテルのアフタヌーンティーだけでも、
一日、贅沢にくつろげる。

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ル・ブルターニュ

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ガレット


 毘沙門天の横の藁店(わらだな)から、袖摺り坂をすり抜けて、
小説家、尾崎紅葉の邸跡に向かう。
この道筋あたり、漱石をはじめ名だたる作家たちの愛した田原屋(閉店)や相馬屋(文具)がある。

 紅葉の住んだ家に着く。
紅葉は、小説「金色夜叉」で、知られた作家だが、
この紅葉の家に弟子入りした泉鏡花の
波乱に満ちた人生の方に、ひときわ興味をそそられる。
鏡花は、紅葉に内緒で、神楽坂の芸者、福太郎とねんごろになり同棲する。
それが、露見し、紅葉は怒り狂い、鏡花を殴り、ふたりの仲を裂く。
「この家で、懲らしめられたのかな。」

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毘沙門天

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袖摺坂

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尾崎紅葉の家


 福太郎(本名、すず)は、5才で、母に捨てられ、芸者屋に売られた悲しい身だ。
薄幸の福太郎に情けをかけたやさしい鏡花は、仲を引き裂かれて、
辛く、やりきれない思いだったろう。
紅葉は、まもなく亡くなり、ふたりはまたもとの生活にもどれるが、鏡花はこの悔しさを、
「婦系図」(おんなけいず)という、自分たちをモデルにした悲しい物語に書き上げて、
世間の大喝采を得る。

湯島通れば  思い出す
お蔦(おつた)  主税(ちから)の心意気       

「婦系図の歌」
詞.佐伯孝夫.
曲.清水保雄.

新派、大悲劇の舞台としても演じられた。

 鏡花と、福太郎が、贔屓にした料理やの「うお徳」が、本多横丁と、軽子坂の角にある。
初代の主人の徳次郎は、「婦系図」の物語のなかで「め組」という渾名の威勢のいい魚屋で登場する。
気っ風のいい、繊細な料理の腕の魚屋だったらしい。

 その「うお徳」を探して、うろうろして、鳥料理の「三菊」のまえにいた女将に場所を尋ねた。
女将は、100メーターほど離れた「うお徳」までわざわざ案内してくれた。
「今度、うちへも来てね。きっとよ」
「はいはい、きっと」

神楽坂の路地に蝟集する格式ある料理屋でも、昼はランチを提供する店が、ちらほらある。
ご時世だナ。
静寂につつまれた粋な黒塀の店には、
ちょっと入りずらいが、リーズナブルな価格なので、サラリーマンが、腰をかがめて
暖簾をくぐっていく。

ぼくは、「トンボロ」で、コーヒーを味わい、梅花亭の「三色最中」を土産に買って帰った。
おっと、紀の善の「あんみつ」も、ってあの人にいわれたんだっけ?


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うお徳

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枯淡な店もある

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トンボロで、コーヒーを

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