日記・コラム・つぶやき

そこには、ただ「空白の時間」が流がれているだけ。

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胃の痛みを一ヶ月こらえた。
漢方薬へ依存しすぎ、それが長い時間、苦痛に苦しんだ理由だった。
それへの依存がなければ2、3日で、たまらず西洋医に転がり込んでいたことだろう。
漢方薬局であれこれ取っ替え、引っ替え、薬を調合してもらったがどれも効かず、
やっと、それをあきらめ、大病院に出かけた。

 
 即、入院だという宣告。
なんだよ。
一旦、家に帰る時間もないのかよ、などと、ナマイキな思いも一瞬よぎったが、
あきらめ、ベッドの人となった。
二週間、とりあえず検査ずくめの缶詰だ。
その間、胃がメインではあったが、複合的な病状で、外科、心臓医、ほかの医師が鳩首議論を重ねて、
治療の手順に苦慮したらしい。
心臓がもたないかもしれないが、手早く胃から切ってしまはなければ、というのが、
はしょっていえば、先ずはの結論だったらしい。

 この無知な患者野郎が、知る由もなかったがが、手術直前、家族は、
相当深刻な医師の宣言を聞かされたらしい。

しかし、この無知な患者野郎も、そんな事態を全く感じとっていなかったわけではない。
家族への思い、かれらにやり残している事、それへの焦燥感はあったが、わが死への近さは、
まぎれもなく現実に認識していた。
フシギと、死への恐怖はなかった。
スピリチュルアルな文献をあれほど読み漁ったのに、よく話題として出てくるナルホドといったシーンは
脳裏に浮かばず、いとしい亡き父母も、思いの片隅に現われなかった。
あるのは、ただ病室の白い天井の認識だけ。
過去のことも、未来の空想も、頭になにも浮かんでこないのだ。

 ふと、アラスカ山中の廃バスのなかで死を待つ、クリス・マッカンドレスを思い起こした。
ジョン・クラカワーのノンフィクション「荒野へ」の実在の青年である。
かれも、バスの天井の白い空間をみつめたことだろう。

わが日常は、
ブログやら、撮影やら、イメージや記憶に頭が加熱していたのだったが、
死を意識した瞬間、頭に浮かびあがるものが、なにもなくなってしまったのだ。

「空白」

これは、不思議な体験だった。
空想も湧かなければ、なにもない。
絵が描けない、真っ白なのだ。

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これが数日続いた。
その間、第一関門の大手術は人智を越えた力で、幸い切り抜けてくれた。
「助かった」
アイ、シー、ユーで、傷の痛みに唸りながら、ふと食い物のイメージが、浮かんだ。
T.V.のグルメ番組が流れていたからだ。
銀座キャンドルのフライドチキンの味が脳裏に浮かんだのが、「空白」から
の脱出第一歩だった。
大袈裟にいえば、意識の「生」への生還だった。
だから、アリスの「なにもいいことがなかったあの街で」なんて、センチな歌のことを、
思いおこすなんてずっとあとのことだった。

 つくづく思ったのは、人間の生きるあかしは、「夢がみれる」と、いうことだった。
若くて、明日があり、そこには否応のないしんどさものしかかってくるが、隙間からは、
青い、夢が見えるじゃない。
夢が見れる、ということは「スゴイ」ことだゾ。
「うーん」  
唸った。
よく平凡に語られている、「夢や希望」が描けるなんてことが、どんなに素晴しいことか、
この体験で、痛切に、思い知らされた。
人生、終わりにきて。
もうアトがなくなると、どんなにいきんでも、アタマには、なにも浮かんでこない、
そんな慄然たる事実に出会った、凄い教訓だっだ。

さきに述べたが、手術直前、家族は医師に厳しい覚悟を迫られたと、あとで聞いた。
かれらに苦痛を強いてしまったことを知り、「ただ、風のように」 しか存在してこなかったつもりの
自分を、そんなに重く受け止めていたのか、と涙がでた。
絆 という、言葉は好きではなかったが、いまさらながら、その意味の深さを痛感させられたものだった。

 渥美 清のように、誰にも語らず、ひっそり消えようと思ったのに、やっぱり皆にお知らせせざるを得ないものだ。
友人や彼女たちが、こころに滲みる思いを寄せてくれた。
なにもいいことをやってあげてこなかったのに、きみたちはどうしてそんなにやさしいの。

M,N,K,I,T,A,S,さん、あるいは、ちゃん。
こころに響いた。

 死を待つバスのなかで、クリス・マッカンドレスは、書物の余白に書き込んだ。
もう、別世界に踏み込む決断した彼だが、そこに、
「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ。」*****と。


かれは生きる意欲は喪ったが、「生きる」意味とは、これだったんだ、という認識だけは、この世に残した。

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水難. アユタヤ残照。

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 「アユタヤ、大変なことになっているね。」

Tさんから、ひさしぶりの電話は、タイの洪水の話題だった。
タイの水被害のスザマしさは、連日、これでもかというくらい報道されている。
ウーン。
あそこが水浸しになっているのか。
Tさんとぼくは、かってアユタヤでの、ヘンテコな出来事を思い出していた。


 ずいぶん時間が経過したが、夏の強い日差しのなかで、
撮影が進行出来ず、みな困惑していた。
アユタヤ。

 あの廃墟と化した赤茶けた寺院の壁にもたれながら、
撮影前の、現地側との交渉がラチがあかず、2~3時間もすったもんだ、していた。
ある広告の撮影で、10人ほどのチームを組み、アユタヤとパタヤ沖の孤島で、
モデル撮影をしようという計画だった。
ところが、その撮影の衣装のコンセプトが当時流行していた、
キャミソールファッションでという部分で、むこうのチェックにひっかかった。

 タイ側は、タイ文化省だったか、役人が現場で撮影に立ち会い、
さらに軍の大佐がお付きを従えて、監視するという、一見ものものしい雰囲気だった。

「ここは、神聖な寺院である。見学の女性といえども、半袖のシャツ姿ではいけない」

というのが、タイ側の主張であった。
ましてや、キャミソールの撮影なんぞ、ノ.ノ.ノ……。
といった感じだった。


 この撮影のプロデユーサ-は、今日ボクに電話して来たTさんだった。
Tさんは、現地のコーデイネーターの財部さんに、当然のごとく事前許可をとる手配はしてある筈だ。
どこでどう、確認事項の食い違いが生じたのか、書類はどうなのか? どうも、話しが通じない。
ぎっちり詰まった、1週間の撮影スケデユ-ルで、のっけから躓いていたら、
これからどうなるんだ。

今日の予定の撮影時間は、日没を計算にいれても、3~4時間しかない。
モデルのオシタクにも相当時間はかかるだろうし、みんなもイライラしていた。
Tさんと、でっぷりした貫禄の財部さんとの話し合い、それにタイの役人の女性との話し合いは、
終焉を迎える兆しはない。

 口を出す権限もなかったが、ボクは、

「ここがかれらの聖地であって、その条件を守らなければ、ダメだというんだったら、
 キャミソールのコンセプトを変えるしかないでしょう。」

ボクは、横から口を挟み、そう言い切ってしまった。
だが、かれらも、詰まった話しを解くきっかけをまっていたかのように、

「そうしよう」

と、Tさんは、次の段取りに切り替えた。
さすが、タイ側もムリな原則のゴリおしはひっこめた様子で、あとはあ、うんのムード。
Tさんは、さすがベテランだった。

「撮影の迫力で、かれらに、わかってもらえばばいいよ」

Tさんはそう云うと、ぼくと、にゃっと、顔をみあわせた。

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 タイ文化省の女性は、50才がらみのインテリで、ボクは撮影の合間に通訳を通じて、
歴史や、文化の話題を楽しんだ。
タイの仏様や、涅槃像は、コミカルだったりおだやかな表情をしている。
日本の、仏像が、厳しいなかにも慈悲を感ずるおごそかなイメージと感ずるのとは随分、
異なるように思えた。
その点を尋ねると、彼女は、

「ウーン。そうですね、アユタヤの仏様の表情には、
 この土地の人々の顔や人間性を反影しているのかも知れませんね。」

という見解だった。
そういえば、ボクの機材を持ち運びしてくれた長身で素朴な「キーちゃん」も、車両関係や、
雑用をこなしてくれたタイ人たちもボクは、おだやかな好印象をもったものだった。


 役人の女性は、アユタヤの撮影が終わると、姿を消したが、監視役の大佐は、
几帳面に、早朝必ずホテルに顔を出し、撮影に同行した。
かれは、歳の頃、3~40才で、背はあまり高くなかったが、
ジョン・ローンに似たハンサムな青年だった。

わがチームのモデルや、へアメイク、スタイリストの女性たちは、大佐が、こっち向いたとか、
こんなしぐさをしたとか、撮影日程が終わる迄、じつにかまびすしく、
楽しそうに大佐を話題にしていた。

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 アユタヤの撮影のスタート時、トラブルに、ぼくが口出したことはさきに書いた。
その時なんとなく、タイの考え方を遵守した、イイ子のような立場に立ってしまったボクは、
大佐と、それをきっかけに、親近感を感じるようになった。

 パタヤのホテルでは、朝食のテーブルを一緒にした。
大佐は公務なのに、”彼女”をホテルに同宿させていたことをボクは発見し、
背中をつついてからかったこともあった。
パタヤから孤島に向うクルーザーには、ロイヤルシートが1席あって、
そこへかれを坐らせた。
かれは喜こんでいた。

 そんないきさつからというわけでもなかろうが、大佐は、撮影に口ひとつ挟まず、
ボクらはのびのび大胆な撮影を続けた。
時折、見回しても、ぼくらの視界に大佐がいない事が多かった。

 撮影が終わり、撮影済のフィルムチェックなど、最後の承認事務などが残っていたが、
帰国前日、
ボクは、バンコク市内を散策し、土産のタイシルクを探して歩いていた。
携帯が鳴って、通訳が、大佐がホテルにきてくれという。

「なにか、トラブルか?」

なんだろう、とホテルに戻ると、ロビーに正装した大佐が、従者をふたり従えて、
立っていた。

 通訳に尋ねると、公務の用事もあったが、

「ミスターに、お別れのあいさつをしようと思って」

とつけ加えた。

「ボクに、ワザワザごあいさつを?」

ボクは、胸があつくなって、思わず大佐の手を強く握りしめた。

 タイの洪水の被害に、ご同情申し上げると同時に、
あの時のタイの人々とのささやかなふれあいをなつかしく思い出した。

Tさんが電話をくれたのも、同じ気持ちからだったのだろう。

「また、なんかやりたいネ」

Tさんは、ふふっと笑って電話を切った。


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フランシスの荒野とワン・ウイーク

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 9月29日、
この一ヶ月あまり。
胃の激痛に苦しみながらも、キャベジンや漢方薬などで、だましだまし、ごまかしてきたが、ついに病院の門をたたいた。
ながい間、酷使してきた胃だ。

 20代、新宿歌舞伎町で、友人たちと生ビールをあをったあと、
アツアツのラーメンを胃に流し込んで、倒れたこともあった。
胃を大切にした記憶はない。
そんな長年にわたる不摂生に胃は、悲鳴をあげたが、それでもまだボクは「どの病院へいこうか」、
いくつか、候補の病院に迷っていた。
 わが愛妻は、病院にあまり知識はないようだったが、「聖路加へ行ったらどう」と勧めた。
その愛妻の助言が天の声のように聞こえ、「ハイっ」と、ボクは、それに従った。

 いろいろ検査の結果、胃の傷み方はひどいし、糖尿病だの心臓もなんだのかんだので、いい話はなく、
これからは、多臓器不全に陥るまで、こつこつメンテナンスに励む人生しかないように悟らされた。

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 ケータイで、「入院だってよ」と、家に連絡した。
総勢、駆けつけてくれた。
内心のさまざまな思いを、かみ殺してベット傍に立っている家族に、
申し訳ない思いでいっぱいだった。

 それにしても、胃痛に苦しんだ、じぶんが、じぶんだけの苦しみだと勝手な思いこんでいたのだが、
帰ってゆく家族の背中が、静かに反省の時間を蘇らせてくれた。

 病室の窓から、みえる勝鬨橋あたりの空に、カモメが2~3羽舞って、音もない夕暮れをみていると、
ふと、遠い知らない街に迷い込んだ感覚に襲われた。
……遠くで汽笛を聞きながら
「何もいいことが、なかったこの街で……」なぜか、アリスの一節が浮かび感傷を呼んだ。


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 2~3日、経っただろうか、
T.Vを観ていると、日野原先生の100才の誕生日だ、と報じている。
ボクの病室は792号室だ。下の何階かで、医師や看護婦さんやフアンに囲まれて、
ケーキの蝋燭を先生は消していらっしゃることだろう。

 一角獣のように、髪をまるめた、かわいい看護婦の前田さんが、TVで流れている
ノーベル賞の選考のニュースに「村上春樹は、どうなんでしょうね」
と、体温計をもちながらつぶやいた。

「そういえば、’風の歌を聞け’を讀んだのが、春樹体験のはじめでしたよ」とボクは思い出した。
コーヒーブレイクのように、音楽を聞くように、あんなに楽に讀んだ純文学もなかったなあ。
楽しい思いが蘇った。
「フフフ。」彼女は、わたしも似たような体験を思い出したワ、と笑った。

 後藤繁雄の「写真という名の幸福な仕事」という著作を長男が、置いていった。
そんな重い話しは、読めないよ、といったらかれは怪訝な顔をしていた。ゴメンね。
 じじつ、ぼくは、いま病床で読めるのは、デイック・フランシスしかなかった。
妻に4~5冊もってきてもらっていた。
苦痛を強いられるような時や、悩みにめげている時、フランシスの冒険小説は、いつも不屈の闘志と、
高いプライドで、読者を励ましてくれるのだ。
ぼくは、いろいろな人との出会いから、フランシスの熱狂的なフアンをめっけるのを楽しみにしている。
 いつぞや、仕事を一緒にしたジャーナリストの千葉望さんが、
「わたしも、フランシス大好き!」と、眼を大きく見開いた。
思わず美しい彼女と共感のエールを交わしたっけ。


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 自分が思うよりからだにガタがきていことを思いしらされた入院だが、
どうやら一週間あまりで退院する事が出来そうだ。

 6週間は、とんかつやラーメンは、ダメですよ。と医師に戒められて、
ぼくは、せめて、おいしいたべものの幻想のなかにひたり続けた。
意外とその幻想と、現実の飢餓は、あい闘うこともなく、ボクの脳味噌と、胃袋
は、平和に妥協し沈静化していた。

 しばしの闘病中にボクのカメラマン意欲を刺激したのは、東日本の惨状への想いもあるが、
天の啓示のように、「きみは、カメラマンとしてのテーマをいつまで見失っているのか?」
という、鋭い指摘が蘇ったことだ。

 1才に満たないが、かわいい、孫の望乃ちゃんは、いま、ぼくの最大の関心事である。
だがこの子は、次男夫婦の長い苦労の果てに得た珠玉のような存在である。
ぼくの横取りできる存在ではない。
ふと、この子は、不思議な眼でこちらを眺めることがある。
それは父祖からの視線のように思えることがある。
 そんな時、この子を連れて、木曽福島の山村や、佐渡のたそがれた港町を、
彷徨いながら彼女の成長のドキュメントをまとめあげてみたいという幻想が浮かんだ。
 これには、連関する体験があった。
 それは、戦争で傷を負った父が、伊豆の吉奈温泉で療養していた時のことだった。
白衣の傷病服をまとい、太平洋戦争で失った部下の慰霊のため幼いぼくを連れて、
何日も、伊豆の遺族の家々をめぐった体験が、響きあったと思われる。


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 病気は、いろいろ荒野をかけめぐる幻想や、意識の変化をせまってくる。
 病院傍の、隅田川べりの夕暮れは、病める人々の影などで風景は寒い。
ボクは、貧血のせいか、陽光もないのに、いやに視野には白く光が散っている。

 湾岸のドックの広場にやってきた。
太陽がいっぱい、だ。
若い生命が躍動している風景に、やっと生命の輝きを感じとることができた。
「ああ、生きるということって!………」

 退院の日、ベットの上でフランシスの「標的」を読み終えた。
冒険をくぐり抜けた主人公。
最終ページ、かれは作業台の上にある本に、ふと、眼が触れた。
そこには、「荒野から無事かえる」というタイトルが書かれていた。


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BASHOO WHO?芭蕉に会いたい。1

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芭蕉


寅さん。
知り合いでも、なんでもないが、懐かしい。
70年、N.Y。オフ・ブロードウェイ。
東由多加の東京キッドブラザースの公演会場のラ・ママ付近で、
寅さんを見かけ眼が合った。
思わず会釈すると、あの笑顔で答えてくれた。
ただ、それだけのことだが懐しい。
それに似たほのぼのした気持って、芭蕉にも感じられる。

 芭蕉って暖かい人なんですね。
 
 芭蕉について、いろいろ文献をあたると、才能のみならず、人間性豊かな人だってことが
わかりますね。
俳人としての名声の反面、いろいろ下世話な苦労を重ねた人でもあった。
人間くさい芭蕉の魅力が、
どんどんするめを噛むように味わい深くなってくる。
深川の芭蕉庵跡で、ゆったりと、かれのイメージに浸ってみる。


芭蕉には変わった弟子も多いが、
乞食だった路通という男を拾い上げ、意気投合したこともある。
奥の細道に同行させようとして、弟子たちに猛反対を喰らった。
路通は、素朴で純粋な心根の男だったらしい。
だが、一面、素行が悪く、のちに師恩に背き、弟子たちの総スカンをくらった。
「先生、路通は破門しましょう」、弟子たちが喚いた。
それでも、芭蕉は最後まで彼を見捨てなかった。


弟子の指導には、こんなエピソードがある。
「猿蓑」撰の時、宗次という男が,作品を数句もってきた。
これが、どうしようもない句で、ダメだと言っても、宗次はネバって納得しない。
芭蕉は、「まあまあ、すこし楽にくつろぎなさい。わたしも寝転びますから」
といった。
宗次は、なかばやけ気味に
「じゃあ、じだらくに寝そべって涼みますか」と、ゴロリと横になった。
すると、すかさず芭蕉は、
「それだ、それが立派な発句だ」、と指摘した。
そして、

 じだらくに  寝れば涼しき   夕べかな

と句が、出来、入集した。
作意を嫌らい、自然に発想しなさいという、芭蕉らしい、指導の一コマだ。
俳句は、頭でひねりまわして作るもんじゃないぞ、というのが
芭蕉の言いたかったことだろう。


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隅田川に面し、芭蕉が住んだ。

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川に向かい、像が建てれている。


あちこち、地方にも蕉門の弟子が多かった。
したがって、弟子たちの争いも起きるし、芭蕉に仲裁を求めてくる。
大阪の弟子が深刻な対立を起こしてる。
ヤレヤレ。
仲裁のために、「どっこらしょ」と、芭蕉は、江戸から腰をあげた。
旅の疲れもかさなったのだろう、大阪の弟子宅で、馳走のきのこをたべすぎて
下痢に苦しみ、命を失った。

 旅に病んで   夢は枯野をかけめぐる    (辞世の句)

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芭蕉記念館にある、芭蕉庵模型。


小名木川が隅田川に合流する角、芭蕉の庵のあったあたりに、時折ボクは出かける。
そこであった昔の出来事だ。
1682年、江戸の大火で、芭蕉は、小名木川の泥水につかり、洲を這い上がり、死から逃れた。
地獄繪のような惨状だったようだ。

 弟子の其角によれば、芭蕉の「草庵、急火にかこまれ、潮にひたり苫をかつぎて、煙のうちに生きのびけん。」とある。

そして、この惨事で、芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発し」た、
と其角は述べている。
 芭蕉は、「人生無情の心境に傾いた」と、この高弟はいう。
この大災害は、芭蕉の人生観を一変させた。

  草深い庵の孤独。
この頃の芭蕉の句には、貧しさや寂寥感に満ちたものが多い。
庵の近辺は、江戸名所図会に描かれた万年橋から、隅田川、富士を
望む指折りの景観の地でもあったのに。

 雪の朝  独り干鮭を噛り  得たり
 櫓の声  波を打つて  はらわた氷る夜や涙

 ある夜は、烈しく屋外で荒れ狂う野分、割れるような芭蕉の葉の音、屋内に落ちる雨、盥を打つ水音。
そこに佇みつつ、句を詠む。
この庵でつくられた句からは、寒々とした日常しか浮かんでこない。

それにしても芭蕉は、多面性をもつ、魅力的な人物だった。


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万年橋。大火で、芭蕉はこの川に逃げた。

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描かれた、芭蕉の逃げる姿。

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芭蕉庵のあったと推定される、芭蕉神社。下は、芭蕉庵のスケッチ。

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サムライ去って、品格なき人のワルあがき。

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 これまで、ビジネス雑誌や企業情報誌などで、多くの社長を取材してきた。
気合いのはいった社長が多かったが、なかには首をかしげたくなる人もいた。
かなり前だが、リクルートの社長としてスタートした江副さんと、大手石油会社の社長に
取材にいったことがあった。
もちろん石油のかかえる問題が焦点。
ところが、
話が、社長自身の仲人の自慢話しに終始し、経営論の態をなさなかった。
江副さんも呆れて、
「どう解釈したらいいでしょうか、禅問答みたいですねえ」などと、
一流会社の社長の、思わざる顔に、ニガリきっていた。

 最近TVで、福島県知事に叱られている東電の新旧社長の姿をみたが、なんとも
感想の述べようもない。
全宇宙的な危機。
経営の道には、かくも過酷な落とし穴が待ち受けていたことに愕然とする。
だが、
おびただしい数の社長を取材する過程で、経営者に経営手腕は当然だいじだが、
それにも増して、危機が到来した時、正しい人間的発露、品格が大切だなと、ボクは思い続けてきた。


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取材した社長さんたち

そういえば、
何代か前の東電の社長だった那須翔さんを、取材したことを思い出した。
日比谷公園で、おしゃべりしながら撮影して歩いた。
那須さんは、総務畑の経験が豊富で、人間への洞察の深い方とお見受けした。
若い頃からいつも社内外の難題処理に忙殺されていたと話していた。
言葉の端はしに、人への気ずかいを感じさせる方だった。
仮にいま東電の現職だったら、容赦ないメデイアの糾弾に
かれなら、どんな対応をされただろうか。


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那須さん

それにしても、菅さん、情けない。
要職にある人のもつべき哲学、人間力、品格。
それは言葉のちからによって発露される。
言葉のちからがあれば、、不幸のどん底にいてでも国民は奮い立つのに。
メデイアの糾弾の熾烈さもヒステリックなら、対するいまの総理の力のなさには、嘆め息をつくしかない。

 宮崎第一勧銀会長(当時)は品格のある経営者だった。
シーガイアの広大なヴューポイントで、理想や哲学を語ってくださったが、
宮崎さんは文化や芸術にも理解が深く、
「銀行も、多彩な個性の人が必要、小椋桂の採用もそのひとつ」と、その時音楽家の登用
の理由を話された。
話ははずみ、時の経つのを忘れさせた。

「宮崎さんのご自宅は、質素な家でしたよ。」
その時、同行したライターの小柳純二さんが、追加取材にお宅に伺い、その印象を伝えてくれた。
「宮崎さんが、これを幡谷さんに」と、なぜかテレフォンカードの束をプレゼントされた。
のちに、宮崎さんの経営上の責任をメデイアが、ヒステリックに責め、騒ぎ立てたことがあった。
いつものように、執拗に。
宮崎さんは、責任をとるべき、と考えられたのだろう。
自殺された。
宮崎さんなりの品格ある身の処し方だなと感じつつも、悔しかった。


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宮崎さん

多くの経営者におめにかかったが、ボクの個人的にご縁が深かったのはこの人だった。
橋本総業(株)の橋本会長だ。
管工機材のトップの企業家だ。

残念だが数日前、その会長の訃報を聞いた。
派手好きな会長らしく、品川の有名ホテルの一番おおきな会場でのお別れ会だった。
豪快で、人にやさしい、会長を惜しむ人々の長蛇の列ができた。


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橋本会長

会長とは、雑誌の取材でお会いしたのが最初だが、その時、話しが盛りあがった。
一カ月くらい経ち、会長から電話があった。
来てくれ、といわれ会社にいくと、突然、100周年の記念誌の製作をやれ、という。
「電通に決めかけたが、あんたやってくれ」
いきなり、一度会ったきりの人間に、普通はそんな大仕事を任せないだろう。
「冗談じゃないですよ。一匹狼のカメラマンに、そんな大変なことはできませんよ。」
資料整理、関係者取材、撮影、デザイン、印刷、等々、ひとりの手に負えるものではない。
しかも、予算も巨額だ。
しかし、いくら断っても、会長は強情だ。
そこまで、未知の人間を信用するのか。
「この人は、凄い人だ」
根負けして引き受けた。
そして、それをきっかけにボクは、ずるずるとこの剛胆で魅力的な会長にひかれて、
会社のいろいろなお手伝いをすることになった。
会社案内や、社内報の製作など引き受け、
最後には、採用や、広報にめくばりする顧問までさせられた。


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橋本、創立100周年記念誌

会長は、戦前の商船学校から海軍へと、筋金いりの海の男で、クル-ザ-を乗り廻す。
ものごとすべて即断、即決。

モットーは、
船での生活にこそ人間のありかたや経営の要諦があるという。

ヨットレースをみよ。
ヨツトは、風をうまく使い
レ-ス全体と自分の位置、勝負どころの判断が大切だ。
だが、
パ-トナ-と気持ちをぴったり合わせなければゼッタイ勝てない。
こころを合わせるという、ほんとうの意味がそこでわかるんだ。
ひとを大切に、というのは、空疎なスローガンじゃない。
会社組織もおんなじだ。

どっかの首相も、会長のツメの垢、煎じて飲んだらどうだ。

サムライが逝ってしまった。
だいじな人を喪った寂しさは、言葉にしょうがない。


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クルーザーの上で、会長と社長

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橋本会長

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佃の沈みかかった舟。

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K君、その後、どんな調子ですか。
若いK君の、ひきこもりを心配しつつ、ふと、振り返れば、
ボクも東日本大震災のあと、心身ともに変調をきたして腑抜けのようになっていた。
まず、ものごとに執着する気持ちが薄れた。

病院に出かけたら、A 1c もクレアチニンも滅茶苦茶な数値ですよ。

「からだ、どうすんですか」

と、医者にも、文句言われた。
なんか、深刻なありさまのようだが、
人ごとのような出来事に思える。
家にゴロゴロしている。

奥で、かみさんがなんか言っている。
ボクはこう答える。

「なんにも欲しくないよ」
「任せるよ」
「動きたくない」

この2カ月、反応は、この3つのパターンになった。
からだが、自立性をなくした。
腹痛や下痢が襲う。
K君に、えらそうな顔をしていたかもしれぬが、いま、自分が自分の統治能力を失しなっている。
欲しいもの、見たいもの、やりたいこと。
すべてが薄いヴェールの向こうに、かげろうのように遠い。

まずいぞ。

なにか
ひとつひとつ、執着できるものを、瓦礫のなかから掘り起こさなければネ。
いまやっとこ立っているのに、チョッピリ風でも受けたら、ボロボロに崩れそうだ。

ふと、考えた。
記憶喪失者のことである。
突如、記憶を失った男は、自分はなにものか、どんな欲望や、目的をもっていたのか
懸命に探そうとするだろう。
そんな迷子の状態に自分も陥ったように思えてきた。

うーん。
これが、空虚っていうやつか。
ヤバイぞ。
すこし動いてみよう。
とりあえず、あてもないがバスに乗ってみた。
そのとき、

「そうだ、佃にいってみう」

と、ピピっとひらめいた。

ぼくの生家は、いま話題の浜岡原発から30キロ程先にあるちいさな町の小川のほとりにある。
少年時代、その川を上って田畑の耕作に急ぐ、「べか舟」の人の姿をよくみかけたものだ。
川べりには、佃の堀のべか舟のように、沈みかかった舟がいく艘か見受けられた。
ぽっかりと空洞化した気分には、
こういう時を超えたた風景は、瓦解した気持ちに馴染むものだ。

佃で、ゆったりと午後の時間が流れた。
べか舟のみならず、
芝居の書き割りのような、この町のたたずまいにボクは吸い込まれていた。

そして、
この潤沢な癒しの時間を費やして、すこしボクは元気を取り戻したみたいに思えた。


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さくらの野辺と、浜の風。

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桜は咲いたけど

さくらは、被災地でも、なにごともなかったかのように今年も咲いている。
さくらは、いつもの場所で、明るく咲いている。
さくらを歌う悲しい唄があるのか、どうか、ぼくにはあまり記憶がない。
しかし、こんなに明るく、さくらが咲いてくれようと災害の悲しみは消えることはない。
この、明るさと美しさが、なんとも複雑な思いをいだかせる。

さまざまなの事 思い出す 桜かな     芭焦

一方、砂浜の広がる浜辺には、悲しい詩や旋律が沢山ある。

青い月夜の浜辺には
親を探して鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
ぬれた翼の 銀のいろ

浜千鳥(鹿島鳴秋)

親や、愛娘に先立たれた鳴秋が洩らす痛恨の唄である。
また、加藤まさをの
九十九里浜にヒントを得た、「月の砂漠」をゆく死の旅のような情景は、
かれの失意の明け暮れのなかで生まれたといわれている。

広い砂漠をひとすじに
二人はどこへ行くのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対のらくだはとぼとぼと
砂丘を越えて行きました
黙って越えて行きました

なんと絶望に満ち満ちている情景ではないか。
浜辺をモチーフにした多くの詩に、悲しい思いが多いのには考えさせられたものだった。
ぼくらは、あの東日本の無惨な浜辺も忘れてはいけない。
被災者の方々にの、しあわせを取り戻されることを祈り続けなくてはいけない。


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普通の日常、黙ってみている青い空。

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八重洲の桜

4月10日、東京八重洲から有楽町、銀座まで歩いてみた。
お花見、被災地救援市に集う人々、銀ブラ、原発反対デモ。
思い思いに街を楽しみ、思い思いに自己主張している。
空は抜けたように青く、災害の悲劇を悼みながらも、街には皆の連帯感や
心情が溢れているように思えた。
TVでは、時にヒステリックな、人を誹謗するのをみて、うんざりすることもあるが、
東北の野菜や果物を買い込んでいる人々をみると、やはり、日本人て
やさしいくていいなあと思う。
TVの公共広告では、
こんにちわ、ありがとう、ぽぽぽぽーんと、AC ジャパンのCMが流れて好評だ。
映像がアニメのせいか、なんとなく感覚的に共感や連帯を抱かせるいい作品だ。
太平洋戦争が終わって、廃墟と虚脱感のなかで流行した「リンゴの唄」がこれに似ている
ことを思いだした。

赤いリンゴに  くちびるよせて
黙ってみている  青い空
リンゴはなんにも言わないけれど
リンゴの気持ちはよくわかる
リンゴ可愛いや  可愛いやリンゴ
(サトウ ハチロー詞、万城目正 曲、並木路子 唄)

という時代の気分を抽象化した歌に人々が共感したのに似ている。
こんにちわ  ポポポポーン。
と歌っている「ショピン」というバンドのボーカルの「ののほ」ちゃんが、
マスコミの取材を受けない、というのもなんとなくいい感じ。
それにしても、街じゅうマスク人間があふれているのには驚いた。

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東北救援野菜市

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野菜市

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有楽町

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銀ブラ

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有楽町

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銀座

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銀座

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有楽町

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ことば、ひと、こころ。

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4月9日、朝日新聞の、福島第一原発、免震重要棟で対策を練る人達の映像にショックを受けた。
この50人ほどの人以外にも炉に近い現場に張り付いている多くの人々の
ナマの現実の一端が、ここにある。

ぼくは、このひとり、ひとりの表情を目をうるませながら眺めた。
静けさと、緊張感。
家族への思いをめぐらせながらも、かれらは、ミッションを貫ぬこうとしているのだろう。

それにしても、内外からの震災の義援金、ボランテイア、消防、警察、自衛隊、政府と地方自治体、
それに外国の救援隊、あらゆる機構や個人が、じつに感動的な活動をしている。
いち早く、巨額な義援金を拠出した久米さんや、石川遼クンの凄さや、それに貧しい
お笑い芸人の陰徳など、心打たれることの連続だ。
ただ、こんな事態に陥っても、政治が一体化して国難に当たる事が出来ないのは本当に情けない。
そのなかで、小さいが党を超えた善意で、心をなごませるできごとがあった。

3月末、防災服を着た細野豪志首相補佐官とすれ違った自民党の河野太郎衆議院議員は、
海外に持つ広い人脈をもとに耳打ちした。

「その服を着て会見するのはやめた方がいい。
 海外から、『東京も危ないのか』という声がよせられ、誤った印象を与えている」

と、忠告した。(朝日4月4日)

枝野官房長官のだぶついた防災服が消えた背景がこれである。
その枝野さんのことだが、
国難のさなかで、政治家でも業界人でも、理性を失ったり、つい感情的になったりする
そんな場面は、TVにも散見されるが、
枝野さんの沈着、理性的なスポークスマンぶりは見事である。
英紙デイリー・テレグラフ(電子版)でも、よく頑張っている、と評しているそうだ。


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沈着、といえば、先発出動の福島第一原発に向かう自衛隊の記者会見での、
統合幕尞長の折木良一さんの貫禄と確信に満ちたメッセージを聞いていて、ホントに安心した。
久しく日本から消えた、風格ある統率者の出現を見た思いだった。
それにしても消防、警察、自衛隊と組んだ日本のデイフェンスは実に心強かった。

放射能障害のことを考えよう。
心配はつのるが、事故最悪のケースのチェルノブイリのデータに学ぶのも大切だ。
チェルノブイリ事故は、汚染区域で10~20ミリシーベルト。
個人の意志で、強制移住地区に住み続けた人の積算値は50ミリシーベルトを超えたという。
しかし、やや、安堵感をさそう注意深いデータがある。

国際機関と共同でチェルノブイリでの健康調査を実施してきた山下俊一、長崎大教授(被爆医療)
によると、セシュウム137の影響を受けた健康被害については確認されていないというのだ。
山下さんは

 「現地の人は汚染されたキノコや野菜を食べ続け、
  体内にセシュウム137を500~5万ベクレルぐらいを持っているという。
  しかし、なんら疾患が増えたという事実は確認されていない」

と述べているのだ。(データは朝日新聞、4月8日)

ぼくたちは、食べ物のことにもっともっと注意深く向き合わねばならないが、
ぼくはもう歳だし、この際、山下教授の調査データを信じて、
放射能の過度な心配はしないことにした。

交通会館で販売している被災地産の野菜や果物などを
買って食べ続けてみようと思っている。


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どんな情報を、信じますか?

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避難所でお手伝い


東関東の被災情報には、国民みな釘ずけになった。
大変なことが起った。
原発はとんでもないことになっている。
どうしたら、事故を解決できるのか。
国民全てに、最終的な「解」がみえない。
目にみえない恐怖、水道や食い物に放射能を検出、との報道には驚愕した。

なにせ、東電が浮き足だっているし、保安院は、なんのためのスポークスマンなのか不明だし、
学者は教科書を読んでいるようにみえるし、菅さんの傍を固めるセカンドオピニオンの学者や原子力関係者に、
最終決断を任せてもいいのか不安だ。
ぼくたちは、どの人物の情報に頼ったらいいのか、
たとえば、ガンだと宣告された時には、この人物、この医者の治療法に委ねる、というように。
それにしても、東電の狼狽や、学者の覚束ない説明には、国民は、一様に不安に陥っている。

4月1日の朝日川柳(西木空人選)でも、そんな不安が一杯だ。

覚えられないよう  学者日替わりに   (福岡、石井氏)
不安員と呼びたい気にもなってくる   (三鷹、二瀬氏)
東電を叩けば泣かす作業員   (横浜、平松氏)
と、みな嘆き節だ。

結局、この難局が収まったあと、いまTVを賑わせている多くの学者や識者は、
キレのいい分析や、総括をすることだろう。
すべてが終わった「あと」の分析や評価には、たいそうな能力を発揮するだろう。
だが、かれらはいま起きている危険な現象の、いま手を打つべき対策、処理には、なぜ踏み込んだ
主張をしないのだろう。


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モーニングショー


ツイッターなどでは、ガセ情報が流されたようだが、大筋、情報の共有がなされ、支援活動の立ち上がりにも大変役立ったという。
そして、各ジャンルの専門家のなかではソーシャルメディアではなく、
ネットで真実を求めたナマナマしい議論が、激しく交わされたという。
いずれ時間が経てば、自分の理論や見識が、批判の対象になるかも知れぬリスクを背負った勇気ある発言だったようだ。
ソーシャルメディア、なかんずく、TVでも勇気ある発言をした学者もいないではないが、
多くは、腰砕けの状態に陥っている。
これらは、あと検証を恐れた、卑怯な自己保身のコメントにみえることさえある。
しかし、自説を強行させ、結果責任には頬かむりの厚かましい人間もいる。

例えば、ひとつの例がある。
香川県の多度津町には、世界最大級の原発の耐震テストの施設が造られ、
それは老朽化した発電設備の耐震性の実地テストが出来る、日本では唯一可能な施設だった。
05年に「そんな施設は必要ないだろう」
ということで、その施設は民間に売却されスクラップされた、という。
時の、原子力安全委員会委員のS氏や小政党のY氏は、危機感をもち存続のため奔走したが、だめだった。(資料は、11、4、4、AERA )
これが、今回の大被害に関係があるといいはるつもりも知識もないが、
重要なポディションにあった人は、こういう重要事項については充分な説明をする義務があるのではないか。

ぼくたちは、一般的に責任ある人々の結果責任について寛大すぎないか。
その甘さが、重大な事象の情報リテラシイや、人間評価の眼を曇らせているように思えてならない。
いまや専門家や言論人に求められている役割も変わった、とみるべきだ。
(それらの人々が)
「メディアに言論を提供する役割から、自らメディア「になる」役割へ。
事件を事後的に分析し評価する役割から、リアルタイムで変化する現実に介入し
リスクを取る役割へ 」(3、31朝日、東 浩紀)
闘い、かつリスキーな言論行動へと
変わらざるを得ない、厳しい時代に突入したことを感じさせる。

あなたは、信ずる情報リテラシイをもっていますか?


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