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形のおもしろいもの、なにか魅力を醸し出しているもの。 そんなのりものを見つけたりすると、すぐパチリととりたくなる。

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のりものと災難。

のりものにからんだ話をいろいろ書いた。
面白い「のりもの」が好きでそんな写真を撮るのが楽しみだったが、
のりものにからんだ話を書いていくと、のりもの本体より人との思い出話になってしまった。

最後に、のりもので災難に遭った話で終わろう。
65年頃だったろうか。
静岡で草野球を楽しんでいた頃、甲府に試合で遠征した。
身延線というデイーゼルの列車(だった気がする)の終列車で帰る途中
山の中の駅で、車掌にことわって水を飲みにホームに降りた。

水道の蛇口に口をつけ、ゴクゴク飲んでいると、スゥーッと列車が走り出してしまった。
終列車である。
駅は無人駅。
まわりは山が深く、一軒の民家もなかった。
その時、大げさだが運命というものは、突如ことわりなしにくるものだ、ということを知った。
運命の女神は、その日と翌日のぼくの自由を取り上げてしまった。

計画された明日の予定も、家族や約束のある人への連絡のすべても途絶え
ひたすら明日の一番列車を待つほかないのだ。
皆はその話をすると笑うが、ぼくには哲学的なくらい深刻な体験だった。
だからそれがトラウマとなり、地方出張でのりものの不便なところへゆくと
早く帰りたいと、もぞもぞするのである。

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谷岡ヤスジと戦艦大和

「きょうのインタビューの相手は、男のなかの男ですよ」
ライターの都築千穂さんが言った。
「男のなかの男?いまどきそんな男がいるの?」
そんなやりとりがあって向かった先は、下高井戸の漫画家、谷岡ヤスジさんの自宅だった。

「鼻血ブー」とか「アサー!」とか漫画から飛び出してくる面白いフレーズは知っていたが、読んだことはなかった。
谷岡はいまどき珍しい反骨精神の持ち主だった。
自作の漫画がブームになると、一流出版社はこぞって押し掛けてくるが
すこし人気が落ちるとパタっとこなくなるという。
ニ流、三流の雑誌は、そんな人気に関係なくずっと継続して依頼してくる。
谷岡はそういうマイナー誌を大切にしているという。

ブームがまたきた。
一流誌から早速「谷岡くん、5ぺージ連載でやりますからね」ときた。
彼は
「やらんよ。」

「え?」
出版社はあわててエライさんがふたりかけつけた。

「てめえ達の都合で、ふりまわされてたまるか。」
「そこのキタネエ絨毯にふたりして額をすりつけて、泣いて頼んできたが、
 おれはやらないと決めたらやらない。」
欲得より、意地だ。

彼の机の前には、軍艦の絵図面が張り付けてある。
戦艦、巡洋艦、駆逐艦、たくさんあるが軍艦は一本の仕事を意味してる。
しかし、火を吹いて炎上している艦も多い。
炎上は、仕事がなくなったという意味だ。
半年、ほとんど仕事がなかったこともある、
そんな時はプラモデルの戦艦大和を眺めながら、CDで「海ゆかば」を聞いた。

取材をきっかけに、ぼくは彼と意気統合し、ウイスキーを飲みながらポルノヴィデオを観たり、
くだらぬ話に花を咲かせた。
ある日、ぼろぼろのアパートの彼の仕事場に立ち寄った。
汚い四畳半の部屋にちゃぶ台と冷蔵庫がひとつ。
冷蔵庫には,缶ビールが詰まっていて、彼は二本とりだし、ひとつをぼくにさしだした。
「あ、これから仕事だから、いいよ」というと、彼は怒った。
「なんだよ。おれは、編集者なんかにには、絶対飲めなんてすすめないのに!
 幡谷さんだから、飲めっていってるんじゃないか。」
「飲め!」
怒った顔は、はんべそのようにもみえた。
ぼくは、こういう好意に出会ったのは、はじめてだった。

谷岡は死んでしまった。
強気で、意地っぱりにみえるが、繊細で弱い人のような気がする。
ぼくとは、短く、浅いかかわりだったが、忘れられない人である。

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プランクトン健太郎とドラム缶のヨット。

金子健太郎、冒険家。
名刺にいくつかの肩書きが並んでいる。
そのひとつに「プランクトン健太郎」と書いてある。
やや奇異な感じだが、この人はオキアミを食料化することに力を尽したパイオニアである。
それを意味する肩書きなのだろう。
彼の目標は大きい。
人類が食料問題で困らないようにしたい、という。
安全で無尽蔵な食材を発見すべく探検を続けているのだ。
62年南極のオキアミを探索すべく、ひそかにドラム缶39個でつくりあげたヨットで彼は密出国を図る。
千葉の沖合で日本脱出の寸前、海上保安庁の巡視船に拿捕されてしまった。
堀江謙一の太平洋横断成功の直前だった。
天が、くみしていれば、堀江謙一の栄光は金子健太郎にとって変わられたかもしれない。

87年9月11日、明日アフリカの熱帯砂漠に、栄養塩類の藻を探索に旅立とうとする彼を、茂原に訪ねた。
彼は多忙だった。
出発前日しかインタビューできない。
それも夜中になった。
山のなかの三畳一間の家。
冷蔵庫、洗濯機、風呂なし。
資金は肉体労働で稼ぎ、この冒険を続ける。
かたわらの菩薩のような奥さんが彼をささえる。
この夜冒険を前にし、淡々と準備を続けるこの夫婦に不思議な感動を覚えた。

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社長さんとのりもの、といえば船が大好きな橋本総業(株)の橋本会長と社長が思い浮かぶ。
会長は戦前の商船学校に学び、それから海軍と筋金いりの海の男でクルーザーを乗り廻す。
社長は、東大時代ヨツトで明け暮れた。
船へのこだわりが事業への成果につながっている。
二人とも、船での生活を通して人間のありかたや経営の要諦を知ったという。
この会社の事業は、管工機材を扱う商社だ。
戦後の灰のなかから、3代目の政雄会長が6人で会社を再興した。
流通革命でこの種の卸業は厳しい荒波に晒されて難破しても不思議ではない。
だが、それを乗り越え120年の歴史を刻み、ジャスダックにも上場した。
超不況のこの頃も、株価が下らない。
「人を大切にする橋本」というのが自他ともに認めるモットーだが、
ともすれば軽々しく発せられる「人を大切に」という言葉だが、橋本のそれは重みが違う。
エピソードは随分あるが、そのひとつ。
政昭社長の学生時代のヨット体験である。
大学の体育部の上下の関係は、服従の一言につきる。
ヨットは風をうまく使う。
レース全体と自分の位置、勝負どころの判断。
それを後輩と組むのだ。
おのずと主従関係じみてくる。
パートナーとの信頼が大切なのに後輩に「絶体服従」なんていっていたら勝てる筈がない。
彼は上級生になると、上下の封建制を取払いフランクな人間関係を築いた。
そして負け続きだった学生選手権で優勝を果たした。
体験、思考、理念。
そこまで深め、高めて、はじめて人間を大切にする、と言う言葉が光る。
私がこの二人から学んだことは、数多かった。

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随分いろいろな経営誌で、社長さんのインタビューや撮影をさせてもらった。
一人で何回も取材の機会があったのは、ダイエーの中内功氏で、
神戸のバラックのような質素な社屋での取材や、福岡ドームの建設現場での撮影など、
興隆期の姿がほとんどだったが、驕らずとても紳士的だった印象が残る。
取材者の分際で、社長さんと懇意になることはほとんどないが、
のりものに関連して、社長さんのあたたかな気持に触れた話をしよう。

西武の堤清二社長の現役時代のことだった。
インタビューの本筋から趣味の話に変わり、好きな写真家の話題になった。
私が、ユージン・スミスが好きだと言うと、堤さんは「私もそうだ」とその話題が大いにはずんだ。
社長の予定の時間がせまり秘書がうながしにきた。
社長は「銀座で次の仕事なのですが、お嫌でなかったら、車で続きのお話をしませんか」
と誘ってくださつた。
渋谷から銀座までとても楽しい時間だった。

もう一人、印象的なのはキャノンの御手洗肇社長だ。
シスコのスタンフォード大学内にあるキャノン研究所での撮影だった。
撮影に便利なようにと、立派なリムジンを用意してくれた。
その御手洗社長の記憶が強く消えないのは、リムジンのことではなくその取材直後に急死されたからである。
別れる朝、ホテルで朝食をご一緒した。
御手洗さんは、イチゴをのせたホツトケーキを注文した。
そして私に「おなじものにしますか?」
いたずらそうに、そう言った。
もちろん私もそれにした。
カナダだったか、シアトルだったか、そこに住まう娘さんのところへ立ち寄るのだ、と嬉しそうだった。
やさしい笑顔は、氷ついたように目交いにある。

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19世紀後半から20世紀前半にかけて、アメリカのあちこちで鉱山の発掘がさかんだった。
ここはネヴァタ州のヴァージニアシティで1859年に金銀の鉱脈が発見された。
鉱山資源の開発は、西部開拓など国の目標のなかでおこなわれたが
あらくれものや、無法者も多数流れ込んだ。

ザクザク金銀が掘り出された時代は、町はものすごい活気だったそうだ。
今は掘り尽くされてなにもない。
緑もほとんどないし、人の憩いの場所もない。
廃墟。

「夏草や、つわものどもの、夢のあと」
と男どもの戦いのあとのむなしさを詠んだ芭蕉の句がある。
ここもそんなことを感じさせる風景だ。

欲にとりつかれて、手にしたお金は身に付かない、といわれる。
金持ちになった人の話はあまり聞かない。
奇妙だが、この廃墟のような町になぜか教会がいくつも目につく。
金に目がくらみ人生を棒にふった男たちを神が救おうというのだろうか。
そういうわけでもあるまいが。
いまはこのあたり、観光地になっていて古い時代の郷愁を誘っている。

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堀江謙一とマーメイド号。

堀江さんとの出会い。
といっても、彼が私をよく知っているわけでも親しくしてもらっているわけでもない。
取材で3回お目にかかっただけである。
74年だったか78年か、手元に資料がないのでそのどちらかだが、
和歌山の小さな漁港で、二度目か三度目の冒険のため、
船の準備をしている堀江さんを取材すべく、そこを訪れた。

朝日新聞の編集委員の藤木さんがさりげなくその基地を教えてくれた。
秘密でもなかろうが、密かに作業していた彼は来訪に驚いたようだった。
頑なに、取材は出航日にしてくれと拒否された。
こちらも勝手だが、村の汚い旅館で一日彼がどこからか戻るのをじりじりしながら待っていたので
「そうですか」とあっさり引き下がるわけにはいかない。
激しい交渉になったが、むこうは100日も太平洋を彷徨うのが屁でもない大物だ。
やむなく、ひきさがった。

彼の何回かの取材で、さすがと思わせる信念や理論を聞いた。
航海で怖いのは、自分の想像力だという。
嵐や荒波に動転し、どうなるかという過度な想像で、自分を恐怖に追い込むことが一番危ないという。

航海中は暇をもてあますので、大量の本を読むのだそうだ。
それを読みきると、2度3度読み直し、更に、食料を包んだ古新聞を隅々まで読み尽くし、
それもなくなると、英語の辞書や薬の効能書きまで読むのだという。

芦屋の海岸近く、彼の住うマンションがある。
ベランダから見下ろす先に埠頭がある。
そこから、半世紀前、パスポート無しの彼の小さなヨットが密かな船出をした。
その成功者は、日頃、そこを眺めながら、次の冒険の野望を研ぎすましているのだ。

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サンフランシスコ。
海に面した埠頭は潮風にさそわれ、散歩する人も気持ち良さそうだ。
この街は、大平洋に面した海洋都市である。
国立海洋博物館があり、大平洋で活躍した船舶はじめ
海洋の発展につくした業績をたたえるいろいろな記録物が陳列されている。

ちいさなヨットが一艘ベランダに置かれている。
日本人、堀江謙一の大平洋横断の船、マーメード号だ。
1962年5月12日に神戸を出航し、海の猛威との言葉に尽くせない
戦いに勝ち、3ヶ月後の8月12日にシスコ湾に到達した。
よくぞ、こんな木の葉のようなちいさな船で、世界最初の横断に成功したものだと
ジーンと胸が熱くなる。
しかしこの当時日本では、この快挙に冷ややかな反応が多かった。
密航者だと非難したマスコミもあった。

サンフランシスコの人々は
この壮挙に感動し、街をあげて沸き立った。
こぞって若き冒険家を誉めたたえたという。

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ベンツ、運転手つきの取材。
とにかく駆け出し時代は、だれでも冷や汗のでるような出来事の連続だろう。
大森堅司さんの紹介で、女性自身のグラビアを撮らせてもらった。
芸能誌の仕事も半端なものではない。皇居前広場の夜のカップルの盗み撮りから、
ウエスタンカーニバルのファンの熱狂の取材など、
贅沢をいうわけではないが、さすが柄に合わない仕事で苦しかった。


ある日、萬屋錦之介の奥さんの出産にからみ、夜中じゅう、
伊皿子坂上の巨大な彼の屋敷の横道に張り込んだ。
運転手つきのベンツに潜んで、である。
やることも破天荒だが、ベンツの運転手つきの取材というのも、飛ぶ鳥落とす光文社ならではと思った。


夜中、錦之助が現れて、私に深々と一礼して言った。
「申し訳ないが、これは、自分にとってはじめての体験であり、心配でいろいろ気持ちを乱されたくない。
今後、必ずあなたに取材でお返しをするから、今夜は勘弁してもらいたい。」
ここでねばるべきだろうが、私にはできなかった。
運転手は眉をまげて、情けない顔をしていた。


翌日、担当の小井さんに謝った。
小井さんは、「いいですよ。」と、やさしかった。
私はもう雑誌に迷惑をかけられないと、やめることにした。
小井さんはその後、何回か私に仕事をまわしてくれたが、断りをいうことができず居留守で逃げた。
いまだにその心苦しさは消えない。

その後、10何年かして小井さんは、祥伝社の重役か社長になったと聞いた。
心からそのことを嬉こんだ。

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のりもの。
だれもがすき。
ぼくは、乗るのは好きではないけど、のりものの雰囲気が好きだ。
形の面白いもの、なにか魅力を醸し出しているもの。
そんなのりものを見つけたりすると、すぐパチリと撮りたくなる。
だから、「鉄子」の人たちとはちょっとちがう趣味だ。
よく、味のある顔の人をみかけると、「撮りたいな」と思うように、
存在感のあるのりものをみると、わくわくする。

最初にのりものを撮るチャンスは、tawnという月刊誌のグラビアを任された時だった。
好きな車を撮っていいよ、と編集長に云われた。
ぼくが、軽くこなせると思ったらしい。
「世界の名車かぁ」
こっちは、駆け出しだった。
「そんなの撮ったこたァねーんだけどなァ。」
腹の中で、すこしビビった。

でも…
「えーい、いけ!男だ!」


世界の名車を大洋自動車から、とっかえひっかえ借りてきてパチパチやった。
一番目は、アルファロメオ。
晴海の埠頭まで、冷や冷やころがした。
青い海を背景に、これもはじめての、大型カメラのリンフォフ、テヒニカをひねりまわして撮った。


なんとか撮れていた。
駆け出しで無鉄砲、思い出すたびに冷や汗がでる。
アメ車は嫌だ、などと生意気に、欧州車ばかり撮り、ある日
フォルクスワーゲンを広尾の貸しスタジオにいれて、
モデルにサンルーフの上に座らせた。
屋根のうえだ。
翌日、大洋自動車の広報から電話があった。

「屋根へこんでますけど、なにかやりましたか?」

「車の屋根って、うすいんだな、アハハ。」
「あのモデル、そんなに尻でかかったかな。」

編集部はみんな若く、無責任で、リニアのように突っ走っていた。

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