寺山修司、「それから」

寺山修司。1983年の没後から、彼の生きた世界を訪ね、彼の視線の先と体温のぬくもりを探し求めた「寺山修司への旅」である。

寺山修司、「それから」最終回 〜 さらば箱舟、さらば寺山修司。 〜

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ブラジルの作家ガルシア・マルケスの「百年の孤独」という小説がある。
なかなか読みにくい本で、終わりまで、読みとうせない、挫折率の一番高いといわれる小説だ。
私も挫折した。

寺山修司は、この小説に描かれた世界が、
かれの少年時代に体験した状況に酷似しているのに興味をもち、映画化した。
要略すれば、原初的な共同体が、近代化の波に襲われて崩壊していく、といったモチーフらしい。
寺山が住んだ古間木という田舎町に、アメリカの軍隊の進駐という「近代」が持ちこまれ、
田舎町の古い慣習や、しきたりが、ゆさぶられるというところに、
ガルシアの小説と類似するのを感じたのだった。


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「さらば箱舟」は、そんな発想の映画だった。
寺山は、映画の舞台の村落を沖縄にきめ、体調の悪化に耐えながら、精力的に撮影を進行した。
映画のラストが印象的だ。
村から追われるように去った人や、姿を消した人達が、モダーンに変わった現代の町に、
あちこちから、戻ってくるのである。
みんな、懐かしそうに、顔を見合せながら歩いていく。

私は、この場面を眺めながら、寺山修司が、ともに労苦をかさねてきた劇団員や、
友人達に愛惜の思いをこめて、描いているように思えてならなかった。
かれらとの懐かしい出会い、寺山もその群れのなかにいる。
涙がでた。

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撮影中、医者や、九条さん達をはらはらさせ、主役の山崎努に漢方薬をすすめられたり、
体調はかなり悪化していたようだが、楽しげな表情もみせていたという。

合田佐和子の話によると、この沖縄ロケの時、モーリス、ぺジャールのところのダンサーが、
ヘンな小節をきかせたベルギーなまりで、演歌の「みちのくふたり旅」をカセットテープに吹きこんだ、という。
これがメチャ面白い。
寺山は、朝、これを三回聞いて、大笑いしながら、「ヨーイ、スタート」を切った、という。

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寺山なきあと
「寺山の作品はいたるところで上演されてきた。
 だが、どれも寺山の(形の)踏襲でしかなかった。
 誰も、積極的に寺山の作品を、(革命的に)実験、検証しなかった。
 だれも、(政治を通さない、日常の現実、原則の革命)の目的のために
 寺山の作品を上演しようとはしなかった。」
と、二瓶龍彦は嘆いた。(括弧内は、勝手に私が書いた。)

その気持ちは、私にもよくわかる。
だが、時代は変った。
60年代というラジカルだが、まだ自由の残っていた時代が、帰ってこないように、
寺山修司が活躍した、なつかしい環境も再び甦ることはないだろう。
いまや、ぼくらは、あらゆる管理化や、サイバネテックスに支配され、もう息たえだえだ。

寺山、という山は、真実や価値を大量に埋蔵された奥深い山である。
その山を、掘ろうという、タフでピュアーな情熱がもう、この国にはないのだ。

「隣の町なんて、どこにもない、、、、、神様トンボはうそつきだ。
 両目とじれば、みな消える、、、、、隣の町なんかどこにもない、、、、
 百年たてば、その意味わかる!
 百年たっら、かえっておいで!」

 (寺山修司)


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寺山修司、「それから」36 〜 多摩丘陵のどよめき。 〜

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パルテノン多摩

1995年夏。
東京、多摩市のパルテノン多摩(劇場含む複合施設)と隣接する中央公園を舞台に、
スタッフ100人に公募の市民100人を加えて、
大掛かりな野外劇 「100人気球メトロポリス」が上演された。
 
これは、寺山修司原作、J.A.シーザーの綜合演出による近代否定とみられる呪術的な舞台で、
寺山フアンと思える3000人の観客を集めた。  
寺山修司は1983年に47才で世を去ったが、その後現在にいたるまで、
関連 書籍の刊行が相次ぎ、映画や演劇の上演は、あちこちでよどみなく続けられている。

いまだに、死せる寺山修司は、生ける若者達を引きつけているのだ。


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あるTV放送で「若者の生き甲斐とは」みたいなテーマで30代の論客が喧々諤々、議論していた。
よく、若者は生きる目標をもってないなどと言われる。
親からみれば、いつまでフラフラしてるんだ。
親子は、よくこんなやりとりをする。子供が、「東京へ行きたい」などというと、
「目的は持っているのか」と、おやじに詰問される。
目標や、生きる拠り所をしっかりもってから行動しろ、と攻めたてられる。
そうかあ。目的が先なんだ。

寺山は、それに対する解答めいたものをとっくの昔、述べていた。
「目的が見つからない時は、手段を持てばいい。」
わたし流に解釈すれば、
「旅をしたい、と思ったが、どこへいったらいいかわからない。」
そんな目的がハッキリしない時は、バイクでも買ってまず、走り出してみる。
または、列車にでも乗り、先ず動きだす。
景色も変わる、人にも出会う。
そんな、経験や時間が経過するうちに、「目的」が浮かびあがってくるかも知れないのだ。
寺山は、目的と手段に可逆性という自由をあたえたのである。

演劇についても、
市街劇や、書簡劇など、事実のなかに虚構を持ち込み、別の現実世界を生み出す。
演劇を武器に「政治によらない革命」をめざした。
それは過激で危険なものだったが(例えば、市街劇ノック)寺山の演劇観は、
時代を遥か超える前衛的なものだった。

かれの短歌も毀誉褒貶が激しかった。
発表した短歌が剽窃だと非難されたことも、しばしばだったが、
典型的な事例として、
60年代の、政治の混迷や学生運動など、激動のなかで、絶望した若者達の心情に
沁みた短歌

マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや

というかれの作品は、もとは

夜の湖 ああ白い手に 燐寸の火 (三鬼)
一本の マッチをすれば 湖 (赤黄男)
めつむれば 祖国は蒼き の上 (赤黄男) 

という、富沢赤黄男や、西東三鬼からの転用だ、と非難された。
しかし、歌人の塚本邦雄などは、「本歌より優れた本歌取りだ。」と擁護し、賞賛している。

もともと、寺山は、独創性などというものは、
「おれのものだ」などと声高にいうほど、個人の所有物ではない、と考えた。
文化や創造は、長い歴史の過程で、多くの先人の作品を、重層的に積み上げたものだ。
それらの断片をコラージュ(貼りあわせ)したものが自分の作品ではないか、という考えが彼にあった。
寺山の思想や哲学には、怠惰なぼくらを覚醒させる、驚くべきものが多かった。

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鳥居のような乳母車

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寺山修司、「それから」35 〜 母子道連れ。墓場まで何マイル?  〜

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パリ@モンマルトル

寺山修司は、亡くなる半年前、パリの古本屋で、
アンドレ・シャボの「墓」の写真集を買っている。
外国人の墓石のデザインは、ユニークで面白いものが多い。

「さまざまな墓は、私にとって、なかなか誘惑的だった。」
「今こうして病床に臥し、墓の写真集をひらいていると、
 幻聴のようにジョン、ルイスの「葬列」がきこえてくる。」
と、墓への興味を覗かせているが、
しかし、
「ぼくには、墓はいらない、ぼくのことばであれば充分。」
(昭和58年週刊読売5月22日号)

と、寺山の墓への興味は複雑だ。
母はつさんは、自分も病身だったこともあり、高尾山麓に墓を定めた。

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寺山の墓石 丈は身長と同じ


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高尾山の墓

その墓のことについては、すこし説明が必要だ。
はつさんは、長い間、修司との生活を願っていたが、なかなか実現できなかった。
渋谷に天井桟敷館ができた時、その一階ではつさんは喫茶店を営むことになって、
修司との生活がやっと叶えられた。
だが、それも7年ほどで館は閉鎖、はつさんも、店じまいを余儀なくされた。

はつさんの充実した日々は短かかった。
失意のはつさんはある日、市中をさまよい、
新宿駅でそこに来た電車に乗り、終点の高尾まで来てしまった。
そんな出来事が、高尾に墓を定める縁になった。

私は、はつさんに
「故郷の山に似ているのでここをえらんだのです。」
と聞いた。
故郷をあれほど嫌っていたはつさんだが、懐かしいのは山河だった、というわけだ。

寺山を溺愛したはつさんは、今、ようやく二人だけでそこに眠っている。
はつさんの生き甲斐は、修司とともに生きること。
それだけだった。
母と子の情愛には、凄みすら感ずる。


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寺山はつさん


寺山が、九条さんと結婚する時、はつさんは頑強に反対した。
吉祥寺カソリック教会での結婚式の集合写真には、はつさんの姿はない。

ある夜半、永福町の新婚の寺山宅にはつさんは、寺山の浴衣に火をつけて、投げこんだ。
寺山が飾った九条さんの写真に針を突き立てたこともあった。
それは、結婚前のことだったが、寺山も悩んでいた。
寺山の結婚は、はつさんには親子の別れのように、思えたのだろう。

「親を捨てるということがどんなつらいことか、聞いてくれ。」
友人の倉本聡に、相談すると、
(写真に針を立てられたくだりを聞いて)
「そこまでされちゃったら、そりゃ逃げるよりしょうがないよな」
倉本がそう言うと、修司はすごい剣幕で怒った。
「お前、そんなことを言うけれど、簡単に母親を捨てられるのか!」
長時間そんなやりとりを続けているうちに、倉本は光るものを目にした。
修司の涙だった。
喫茶店のテーブルをはさんで、修司はボロボロ泣きだしていた。
修司は号泣していた。
それは虚構に走りつずけてきた修司にとって現実の一番つらい悩みだったのだろう。
(虚人、寺山修司伝 田澤拓也 文芸春秋刊)

地平線揺るる視野なり 子守唄うたえる母の背にありし以後

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寺山修司、「それから」34 〜 寺山修司の親和力。高橋ひとみをよろしく。  〜

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  ニ、高橋ひとみをよろしく。
  
  昭和58年、
  寺山は死を予期して、親しい人々に別れを告げる行脚をした。
  親しい山田太一氏とは、溝ノ口の駅で会った。
  「もう僕は長いことないんだ」
  そんな病状を洩らした。
  
  そして、「自分の秘蔵っ子の高橋ひとみをよろしく。」
  と、頼んだそうである。
  
  寺山門下から、多くの逸材が花開いて行ったことは、よく知られている。
  高橋は、ご存じ個性的な女優で、山田作品では、「ふぞろいの林檎たち」が記憶に残る。
  
  寺山門下でも、彼女は優秀な人材なのだろう。

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  私はある雑誌から、高橋のインタビューの依頼を受けた時、
  彼女に、私のまとめた寺山アルバムを見せてみようと思った。
  柿の木坂の喫茶店の午後。
  高橋にそれを見せた。
  
  「ヘェー。寺山さんねえ。」
  そう言いながら、懐かしそうに彼女はアルバムのページを繰った。

  「寺山さん、変わった人でしたね。」と意外にあっさりした反応だ。
  「オイオイ。寺山は、あんたを秘蔵っ子だって、言ってるんだぜ。」
  私は、内心、怪訝に思った。
  だが、すぐに判った。

  彼女は、単純な、型どうりの、ものいいなどしない人なのだろう。
  あるページにさしかかると、彼女の視線がとまった。
  そして、なにかに思いを馳せるかのように、しばし、目を宙に浮かせた。
  そして、ていねいに全部見終わると、そのまま、黙っていた。
  すべて、寺山のことは自分の胸にたたんでおく、そんな意志に思えた。
  寺山との思い出話をしようとはしないし、
  私も、あえて寺山について触れるのはやめた。

  
  私は、おいしいケーキの話に話題を切り替えた。
  この店はケーキが評判の店だ。
  「ケーキ、どういうのが好みなの?」問うと、
  はにかんだように、彼女はちいさく笑った。 


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寺山修司、「それから」33 〜 寺山修司の親和力。J.A.シーザー、「万有引力」を立ちあげる。  〜

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J.A.シーザー

ハ、J.A.シーザー、「万有引力」を立ちあげる。


寺山の死で、九条さんは、やむなく「天井桟敷」の解散をきめたが、
シーザーたちは根本豊や、サルバドール、タリなどと「万有引力」という新劇団を立ちあげた。

拠点は隅田川を越えた下町の工場跡。
「ドウーブルの起源」を田中浩司脚本、シーザー演出で上演した。
「天井桟敷」の消滅に、寂しい思いをしていた人々が、どっとここに押し寄せた。

寺山は、自分の演劇のヴィジュアルは、粟津清、や横尾忠則、小竹信節などさまざま有能なクリエーターを登用、
変幻自在な世界を作りあげてきたが、音楽は1972年の「邪宗門」以来、シーザーが担当、
更に75年の「釘」からシーザーは寺山と共同演出することになった。
寺山演劇は、シーザーに負うところが多かった。
そもそもは、シーザーは自身、音楽の適性や資質に確信をもっていたわけではなかった。
新宿のヒッピー時代から人生のフォーカスを結ぶ日を探していた。


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「万有引力」の公演

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根本豊

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寺山の時計

天井桟敷入団後、ある日。
寺山が、シーザーに
「今日から音楽やってみたら?」
とすすめた。

その一言から、土に埋もれたなかから、きらりダイヤが現れた。
シーザーには、凄い才能が隠れていた。
掘りだした寺山の慧眼であった。
土俗的なものと、呪術性がからんだ、不思議な寺山のイメージ世界は、
そのまま、シーザーが資質としてもち合わせたものだったのだ。
二人は互いを必要とし、出会うべくして出会った。

シーザーは、
「寺山音楽学校には、生徒は私一人しかいず、私は、マン。ツウ。マンの教育をされていた。」
(下水道の音符。シーザー)と述べている。
寺山は、そんな探しものの上手な男だった。


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サルバドール・タリ

サルバドール・タリは、劇団入団後、
「渋谷の天井桟敷館の管理人になってくれ」
と、寺山に頼まれた。

そこに住みこんだ団員達を、朝、たたき起こし館内の清掃をさせるという役割だ。
タリさんの、そんなエピソードに、私は笑ってしまった。
寺山が、パッとひらめく、役柄のイメージは、鋭く、面白い。

タリさんは阿佐ヶ谷の駅裏にサイドワークでバーを開いていた。
店の名は忘れた。
だから、人に話す時は、勝手にタリ、ズ、バーと言っている。
夜中から明け方にかけて、タリさんと二人きりで飲んだことがある。
その酒場は、古びたビルの上階にあり窓からみえる裏町の風景は、
夜の暗い光のなかにぽーっと夢のように霞み、
まるで、古いフランス映画の一齣をみているようだった。
タリさんは無口で、寺山の話に「そうでしたね」とか、
「汲めど尽きせぬ井戸のような人ですよ」などと
短い印象めいた言葉しか洩らさなかった。
寺山を失った劇団の今後の行方を聞いてみた。
「これから、どうなっていくのやら。」
ポツンと、そんな言葉だけが帰って来た。

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寺山を喪った麻布@天井桟敷館

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寺山修司、「それから」32 〜 寺山修司の親和力。山田太一との青春  〜

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ハ、山田太一との青春 


山田太一さんと寺山修司は、
青年時代、早稲田大学で出会い、のち、それぞれの道に進みながら、
最後まで強いきずなで結ばれた。
それは、純粋で濃密な青春時代の友情があったからだろう。
山田さんはいま、寺山修司をどう思っているのだろう。
私の写真展「寺山修司への旅」に感想文を書いてもらったが、
山田さんは、その中でこう述べている。

「私にとって寺山修司は、なにより大学時代の同級生であり、目の光であり、
 仕草であり、姿であり、笑顔であったから、著作がいくら残っていても、
 その死で大半が失われてしまったという思いがある。」と。

やはり、山田さんにとっての寺山とは、多感な青春時代のイメージが強い
印象で残っているのだろう。


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二人の、往復書間がある。
ちょっとしたことでいさかいをおこした時の
手紙だ。19才、寺山入院中のことだ。

山田から寺山へ

そして、僕達の交遊は君の全快によって、いよいよ深められることはなく、
君の入院中、からくも二人を繋いでいた君の「病気」という心の靭帯が失われることによって
むしろ薄らいでゆくのではないか。
僕はしきりにそう思われてならない。もちろん(と僕はそう思うのだが、)
君は僕以上に、そう予見している、と思う。
「見舞われている」「相手は病人」という相互の気遣いが、
こわれる交友をうまく、つくろっている。
従って、そういう互いの我慢が、全快によって、とりはらわれたら、まず十中八、九
僕たちの交友は終わりだろうと思うが、どうだろう?

寺山から山田へ

僕はまもなく、詩を止すだろう。
でも僕は散文よりも音楽みたいな世界性のある芸術、
芸術よりも本物の人生をはじめたい。
君とまだ海へいったことはないね。
退院したら行こう。
ちかいうちにかならずおいでよ。
今日ぐらい元気なら僕はおしゃべりしたいことが一杯ありそうだ。
今日、実は鴨の肉を食った。
また。
(さよなら寺山修司 新書館刊)

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母はつさんは、当時、そんな寺山と山田さんを眺めていた。
山田さんからみて、そっけなく、怖い感じにみえたはつさんだが、
わが子が友達とかかわるのを鋭敏な目でみつめていたのだろう。
のちに、はつさんから、聞いたことがあった。
「あの人はダメ、この人はよくない」とひとしきり寺山の友人を批判したあと、
「私の信頼しているのは、山田太一さんだけです。」
と、そう言った。


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寺山のいた人力飛行機舎

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寺山修司、「それから」31 〜 寺山修司の親和力。九條今日子、との強い絆。 〜

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九條今日子さん

ロ、九條今日子、との強い絆。

「人それぞれの寺山修司像が勝手に世の中を徘徊している。」
と、九條今日子さんは、どこかで書いているが、寺山をテーマにした本が厖大な数、出版されているからだ。
主観の強い寺山論や寺山物語が花盛りだ。

私も「望郷」(求龍堂刊)を出したり、いまこんなブログも書いている。

出版されたたくさんの著作を興味深く読んでみたが、印象的だったのは、
深いかかわりをもつ九條さんと山田太一さんが、書いたものだった。

九條さんは、魅力的で有能な人である。
寺山作品が夥しくつくられた過程で、彼女のプロデユースを含むさまざまなサポートは
寺山芸術を支える大きなちからになっている。

寺山は、彼女と離婚したにも拘らず、なお伴侶的な役割と、芸術活動のパートナーとしての強い支えを求めた。
彼女以外で、それに答える支えができただろうか。


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麻布@天井桟敷館

本のことに戻ろう。
九條さんの「ムッシュウ、寺山修司」(筑摩書房刊)は、寺山像を一番正確にとらえているようで興味深い。
私が印象的だったのは、二人が離婚を決意するくだりである。
彼女の繊細で純粋な気持ちが率直に語られていて感動する。
この本は、寺山をヴィヴィットに語りつつ、なおかつ素敵な彼女自身をも語っている。

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寺山自宅アパート


あとがきで彼女は、彼女だけの寺山修司を、こう捉えている。


 思えば不思議な人だった。
 ある時はスーパーマンのように
 ある時はわがままな子供のように
 あるときはかけがいのない親友のように
 あるときは傲慢な家主のように
 ある時は影武者のように
 ある時は結婚サギ師のように
 ある時は純粋な天使のように


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寺山のコーヒーカップ

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寺山修司、「それから」30 〜 寺山修司の親和力。浅川マキのドア 〜

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ジャンジャン


イ、浅川マキのドア


寺山修司は懐かしい人、と評する人が多い。これは、寺山修司という人の親和力だろう。

東由多可は、寺山さんは、人の才能だけにしか興味をもたない人だ、といっているが、
だけか、どうかは別として寺山は、実に多くの才能を発掘し世に出した。

同時にかれの、他者の心の襞を覗く目の鋭さと温かさを感じずにはいられない。

ある夜。だだっ広いスタジオ。
歌手の浅川マキは、はじめて自分の演出をてがける寺山と、
プロデューサーの寺本幸司の会話をすこし離れた場所で聞いていた。
マキは、これから唄う寺山のその詩を唄える自信がなかった。
もう時間は深夜を過ぎていた。

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寺山は、マキに視線をむけ
「ね。あの女のこは、ぼく、最初にみたとき、本も読んでいるし、
 映画のことも知っている、そう思ったんだけど、ね、そんなふうに見えるでしょう。
 でも、ほんとうは、なにも知らないのね。それから、なんだろうってぼくには不思議でね。
 もし、男が女に捨てられて、それから仕事もうまくいかない、
 何処へも行くとこがなくなって、ポケットに10円玉ひとつ、そのとき、
 あのこのアパートに電話したら、黙ってドアを開けてくれる。
 最後に思い出す女、そんな、あのこは、そんな女のような気がだんだんしてきた。」

マキには、幽かにきこえたその言葉が、心に深く沁みた。
のちにマキは、Whos Knocking on My Door と、題して寺山の追悼文を
書いている。(現代詩手帖1983、11月号)

この浅川マキのエピソードを読むと、寺山修司の演出の考え方や、
人間の観察カが、そこによく表れているように思われる。 
数しれぬ才能が、寺山という才人の体内を駆け抜けて行った。


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寺山の遺品

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寺山修司、「それから」29 〜 新宿は燃えていた。その2。 〜

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トニコさん   
背景の絵は久里洋二氏


祝祭とフリークスは、寺山作品には欠かせない要素だ。
それに奇人変人の類いもかれは見逃さなかった。

面白い人、や、もの。大好き。
新宿には、いろんな人がいる。
女の酔っぱらい。賭博師。サラリーマン。野良犬。スケバン。


新宿2丁目のおかまバー「オベロン」のト二コという凄腕のおとうさんホステスに
私が度肝を抜かれているとき、すでに寺山は、かれを、作品の素材にしていた。


「セーラー服で売り出したオベロンのトニコさん。
白雪姫さながらに
『鏡よ、鏡、鏡さん。この世で一番美しいのは、誰。』
などといっているが、正体は、40過ぎの毛深い中年男。」(気球乗り放浪記、読売新聞社刊)
などと紹介している。


とにかく新宿は、60年代、アウトローや、寂しい人のひしめく町だった。
喫茶「白馬車」や「王城」は、行き場のない人々の孤独を
包み込むように、そびえたっている。

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喫茶店「王城」

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新宿飲み屋小路

 寺山はいう。
「ふしあわせという名の猫がいる
 いつもあたしにぴったり寄りそっている

 私は三年前に書いた自分の詩の一節を思い出した。
 新宿には、ふしあわせがよく似合う。」


「人なつかしさだけが、行き場を失って空っ風のように
 渦巻いている孤独な町。
 だが、私たちにとって、新宿は、最後の町なのだ。
 ここを失なったら、もう、どこも帰る『町』はないのである。」(気球乗り放浪記)   


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新宿2丁目飲屋街

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寺山修司、「それから」28 〜 新宿は燃えていた。その1。 〜

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1958年病院を退院した寺山は、「新宿」に興味をもった。

60年代、キナクサイ学園紛争が興こり、ドロップアウトしたヒッピーが町に群れた。
駅前や、歩道に若者が、ゴロゴロ昼間から寝ころんでいるのだ。
新宿駅ではフォークゲリラが歌で大衆を煽動し、
覚醒剤が蔓延し、サイケデリックな風俗が流行、
新宿は燃えていた。

この都市の混乱は、いったい、なんだ。
鬱屈した日常から逃げ出したい。
そんな人々のエネルギーがぶちまけられ、人も町も燃えているのだった。

寺山自身、活動は静的な短歌から、動的なラジオや映画の脚本に移り、
更に、演劇に軸足を伸ばしていく。

諏訪町の六畳一間のアパートは、部屋の壁面を書物で
埋め尽くし、アーサー、ミラーなどの演劇関係の本をびっしり並べた。

また、ビートジェネレ−ションの旗手ジャック、ケルアックの
「路上」などにも共感し、 
浅利慶太の創作劇「血は立ったまま眠っている」は寺山が脚本を書いて、評判になった。

この混迷や変化のなかで、さまざまな現実に対し、
寺山は、過激に発言していった。


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