ワンコインエッセイ

なんでもかんでも思いついたことを「ねぇ、聞いてくんない?」というタッチでゆるーく書くエッセイ。

one coin essay  青空に残された、少年時代の夏模様。

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(写真はすべて小金井公園)


少年時代を語るというのも気恥かしいが、
なんとなく語っておきたいもの。
映画「三丁目の夕日」は、第三部が、製作されたらしい。
昭和という時代に、郷愁を感ずることに、肯定と否定があるようだが、
ボク自身の体験でいえば、「いま」と全く異なる、自由と放縦が許されたのびのびした
生きる実感があったから「昭和」を愛おしむ。

とにかく、ぼくはいたずらなガキだった。
幼稚園時代の記憶だが、並んだトイレの扉を片端から、バタンバタンと開け閉めして遊んでいた。
最後の扉を、思いっきり開けたら、西郷どんのような老齢の女性園長がしゃがんでいた。
半日、倉庫にほうりこまれ反省させられた。

子供どうしで、遊んでいて、
リヤカーに積んだ斜に切った竹に、頬をぶすりと刺して大出血し、母親をオロオロさせた。
いまも傷跡が残っている。
そんな、滅茶苦茶をやったが、近隣に三人いたワンパクの僕たちを、町の人達は、「三勇士」などと好意的に
笑いとばしてくれた。
気がつけば、戦争が日常化していた。
軍馬に跨がって、駿府城趾の連隊本部に出かける父が、いつも眩しくみえた。


そのうち父は出征し、母子3人で、長い寂しい時間が過ぎて行った。
小学校上級生になると、ボクはすこしいい子になった。
母のお供で、食料の買い出しに近郊の農家に出かけたこともあった。
唐草模様のおおきな風呂敷に米やスイカを包んで背中に担ぎ、昔の泥棒のような風体で、SLのデッキで黒い煙に咽せていた。
その後、戦争が激化して、通学路の一軒家に爆弾が直撃し、まわりにも死の風景が、現れた。
防空壕で、爆撃を避けるあけくれは、子供ながらに、フシギと死というものに慣れていくように思えた。
B29爆撃機の爆弾は、ざーっという音を立てて落ちてくる。
「よそに落ちる時は、音がするけど、自分の頭に落ちる時は、音がしないんだよ」
嘘かまことか、母親は防空壕のなかでそんな話を聞かせ、ボクと妹を抱きかかえた。
爆弾の落ちた、ずんずんずんという重い音と、振動は、決して気持ちのいいものではなかった。
それ故に、
敗戦の、あの開放感は、なにものにも代え難い、躍り上がるほどの喜びだった。

中学生になった。
マグロの油付けの缶詰工場に夏休みのバイトに出かけたこともあった。
蒸した鮪の身を缶にきれいに詰め込む、面白そうな作業は、おねえさん達の仕事。
ぼくら少年ふたりは、塩辛つくり。
まぐろの内蔵から、未消化の小魚の骨などを取り出す、臭くて、冷たくて、チクチク指を刺す痛い仕事だった。
だが、ふざけながら、やれる仕事だから苦にもならなかった。
食料難の時代だったが、女工のおねえさんたちは、いもや果物とか持ち寄って、ひもじい僕たちを喜ばせてくれた。
40日くらいのバイトだったが、たしか二千円(200円?かも)くらいの報酬をもらった。
もちろん大好きな母に、ゼンブ献上した。


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高校に進学した。
校舎は、戦災で消滅していた。
臨時校舎は、陸軍の使用したおおきなバラックで、前後左右、板張りが破れていて、足もとは厚い砂だった。
その教室を、「馬小屋」と、みんなが呼んだ。
時折、突風が吹いて、教室は砂塵で、白く霞んだ。
教師の眼を盗んで、板張りの割れ目から、ボクたちは、よくエスケープした。
その頃盛んだった、野球に夢中で、後にNHKのアナウンサーになる山川静夫は、けやきの大木に登り、
実況放送のまねごとをしていた。

夏休みは、友人の親戚の洋品店で商品を借りて、20キロほどの海岸をセールスして歩いた。
商品は、黄色のポロシャツで、一枚100円、一割がぼくらの儲けだった。
夏の日に、焼け付く暑さ。
だれも買ってくれない。
最後の清水港で、やっと一人の老いた漁師さんが、一枚買ってくれた。

「いいか、お前たちよ。
 おれは、こんな黄色いシャツなんか欲しくて買うんじゃないんだぞ。
 お前らが、この暑いさなか、そうやって働いているから感心して買ってやるんだ。
 こんな、チンドン屋みたいなシャツを、だれが好きで買うもんか。」

おじさんは、神々しくみえた。
利益の10円は、アイスキャンデイ二本に消えた。


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遡るが、小学生の頃、母親が、時折、古本屋から世界童話全集やキンダーブック、講談社の絵本など、
大量に買ってくれた。
そのなかに、佐々木邦というユーモア作家の作品があった。
「スンガリーの朝」という、中国東北部の白系ロシア人社会の、のどかでほのぼのとした、明け暮れを
描いた小説が好きだったが、一番好きだったのは、「トム君サム君」というユーモア小説だった。
隣家に越して来たアメリカ人の双子の兄弟と日本人の少年との交流が、
とても、モダーンでユーモラスな関わりで楽しかった。
終盤、トム君サム君は、アメリカに帰国する。
ぼくも、読みながら、別離の寂しさを味わった。
太平洋戦争が勃発するのは、そのあとだったと思う。
だから、トム君、サム君とボクが、国家利害で、分断、乖離することにやや違和感があった。

きのう生まれた豚の子が、
蜂に刺されて名誉の戦死、

という、「湖畔の宿」のメロデイの替え歌が流行したことがあった。
小学生だったから知らずに唄ったそれが、特攻隊を揶揄した歌だ、という噂になって、
歌ったのはだれだという詮索が学校の教員室で始まった。
教員室に集結した教師がひとりずつ、教室に待機した生徒を呼び出した。
呼び出された者は、ほかに歌った者を、チクったら解放された。
戻ってくる者のなかには、木刀で殴られ、額にコブをつくった生徒もいた。
泣いた顔で、次に教員室にゆく、生け贄の子羊を指差すのだ。
じぶんが、学友をチクれば解放されるわけだ。
勝俣と高木は、いたずら者で、ぼくの仲間だった。
かれらは歌い、当然、ぼくも歌った。
ふたりとも、だれかに指さされ、教師に殴られ、青ざめた顔で帰って来た。
ぼくは、覚悟をきめていた。
だが、勝俣も高木もぼくを指ささなかった。

さすが、愚行に気ずいたのだろう、教師たちの演じたその魔女刈りは、しばらくして終わった。
そして、1~2年経て、戦争が終わった。
入道雲の踊る夏空だった。

夏が過ぎ  風あざみ
誰の  あこがれにさまよう
青空に残された  私の心は夏模様            
(井上陽水、詞、曲、唄。)

ボクの昭和は、焦土から始まり、食べ物、衣類も乏しかった。
ただ、人間だけが、おいしくて、愛おしい存在だった。

数年前、ボクは、写真集「望郷、寺山修司」を出版したが、あまり売れなかった。
故郷に住む親友の鈴木成美が、10冊、数万円も身銭をきって、本を購入し、高校のクラスメイトに
配った、とあとで知った。
ボクはもう、昭和からズリ落ちて、不甲斐ない都会のさすらい人に堕ちたのに、
成美は、まだ昭和に留まって、ボクにエールをおくってくれている。

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あなたのこないクリスマス

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豊洲


昔の寒い話だ。
ぼくは高校生だった。
女子高生の友人がいた。
クリスマスの日、電車が2両で走る都市の郊外で、ほとんど客のいない駅のベンチに二人は座り
とりとめのない話を続けていた。
その頃、恋に恋していたぼくだったが、ふたりは恋人ではなかった。
クリスマスという甘美な幻想のなかで、愛をもたない虚しさを
そのとき程、感じたことはなかった。
かわいい彼女は、そこにいるのに、大切なものだけが不在。
彼女もまた、おなじ思いだったに違いない。
いまは幸い、静かであたたかなクリスマスを過ごす伴侶がいる。

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レインボーブリッジ

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ミッドタウン


イルミネーションが目立つ時期になった。
今年は、大切なひとのこないクリスマスになってしまった。
ぼくらふたり共通の友人が数日前、若くして亡くなった。
ショービジネスで活躍した平山高良さんである。
草月ホールのショーの企画演出が、かれの最後の仕事になった。
ぼくの観たかれの演出のなかで最高のエンターテイメントだった。
命と差し替えに創出したかのような怖い完成度の舞台だった。
選曲もステキで、やはり友人のダンサーの、のりちゃんやふみさんの
演技の流れにボクは、ぼろぼろと涙をこぼして隣席の彼女に気ずかれた。
その涙のCDのコピーを高良さんに送ってもらったっけ。
華やかなショービジネスの舞台。
ダンデイなかれの横顔が目に焼き付いている。
宝塚の「色は匂えど」のダンスヴァージョンだったと思うが、演出したかれに招待され、前列で一緒に観た。
幕が閉まると、演じたスターたちが、客席のかれにどっと集まった。
主演の愛華みれが、「高良先生!」とかれの手を握ったのが、鮮やかに目に残っている。
もう、かれはこない。


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豊洲

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昨年の六本木ヒルズ

ぼくのうろついた年末は、
六本木、や湾岸のどこでも
イルミネーションがやけに寂しかった。
氷の彫刻のような美しくも冷たい、その光の乱舞に、
心が馴染んでいくのは、残されたぼくたちの、虚しい思いに、あまりにも符合した風景だからだ。
パートナーの橘美枝子さんの心情は、いかばかりかと、冷たい光の影に思う。
高良さんと美枝子さんに贈ろう。

My Iove かえる場所は
ふたり過ごした カンパニュラの刻(とき)
そっと 降るはずのない雪が舞う  
平原綾香

クリスマス。
あなたのこないクリスマス。


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お台場

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お台場

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八重洲

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お台場

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霧の子孫に出会う。

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青山銀河。
霧の子孫である。
新田次郎氏の小説、霧の子孫たちは、霧ヶ峰の自然と、
遺跡を破壊する有料自動車道路(ヴィーナス、ライン)の建設に反対する男達の純粋な熱情の物語である。
青山銀河。
その小説の主要な役割を果たす人物だ。
世俗的野心も欲望もなく純粋な、心を洗われるような男だ。


小説の内容はさておき、ちょっと古い話になるが、
ライターの丸山寛之さんと、そのモデルになった青山正博医師のところへ取材に出掛けた。
(スコープ、日本アップジョンのPR誌の取材である。)
上諏訪駅で電車を降り、先生に電話で道順を聞いた。

なにしろ、霧の子孫である。緊張するなあ。
「すぐ、迎えにいくから、センベい屋(喫茶店)の二階で待て」との先生の指示だった。
あとで判るのだが、これが、大変なことの始まりだった。
丸さん(丸山さんのこと)が、時計で計ったら、「すぐ」が、2時間15分も待たされたのである。

そして、青山先生がきて5分でご自身の病院に着くと、この2時間15分の意味がはっきり判った。
先生は、大多忙なのだ。
患者がメジロ押し。
そして、良いことか悪いことか、わからぬが、
当面の問題に遭遇すると、先生はそれに集中し、時間や約束など、忘失してしまうのだ。
で、そうはいわなかったが、「エ?用件?なんだっけ。」てな感じなのだ。
もう普通の医師ではないナ。先生と呼ぶより、銀河氏と言おう。


Aoki
銀河氏


診療中、奥様が、銀河氏の全貌を克明に教えてくださったのである。
銀河氏は、東北大医学部を卒業、仙台の医局に在局。
その時、一週間の休暇をとって礼文島に日食を見に行ったという。
だがそのまま、一年も帰ってこなかった。
驚愕するような豪傑だった。
いきなり、強烈なパンチのご紹介だった。

もっと、重要で深刻なことがある。
幼児性を抜け出せぬ人だと、奥様はおっしゃるのである。
奥さんが言うのだから、間違いはない筈。
たとえば、学会や、東京の医学関係の用事に出かけるとする。
電車の発車直前まで、探し物をしたり、原稿を書いたりしている。
世話を焼いてくれるのは、奥さんだけである。
奥さんは、電車の発車ベルの鳴るさなか、銀河氏をやっと車中に押し込むのである。
これで一安心ではない。
帰りが大変だ。
新宿駅では、大体最終電車になる。
ウロウロ、銀河氏らしい所用をこなしていて、そんな時間になってしまうらしい。
奥さんは、真夜中、それらしき電車を待ちうけ、眠りホウけている銀河氏を、
たたき起こし、ホームにひきずり降ろすのである。
停車一分間で、先生の座席を探し車内を駆け回るというのだから神業に近い。

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銀河氏は、天文学者であり、
「日本星空を守る会」や「長野県自然保護の会」などの会長である。
自から、八ケ岳の南斜面に、「青木天文台」をつくった。
主鏡は、アストロカメラ(口径16cm,焦点距離803mm、)の本格的な天体望遠鏡らしいのだ。

これは、医師業務以上に銀河氏の情熱をかきたてるものだった。
車で、天文台まで約一時間。観測は勿論夜である。
天文台が出来たころは、ものめずらしさもあって、見学希望者も多かった。

ここで、みなさん、例の銀河氏の奇癖を忘れてはなりません。
奥さん、三人の娘さん、近所のおじさん、おばさん、青年達。
いそいそと山中の天文台に出掛けたが、みな一回で懲りてしまった。
なにせ、そこに出かけると、3時間、4時間はあたりまえ。
徹夜、夜明けまで、銀河氏の納得するまで、山奥に封じこめられる訳だ。
再度いう、みんな一回で懲りた。


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「おおい、山へいくか。」
声をかけられると、あわてて、断る若者がいた。
そんなこととは、知らず、われわれも銀河氏の餌食になった。
その恐怖の山へ、ぼくらも出掛けた。
何時間経っただろうか。
銀河氏は、観測に夢中で病院に帰る気配はなかった。
「ええイ。どうにでもなれ。」ぼくは銀河氏の、毒ッ気のない笑顔をみると
なんにも言えなくなるのだった。
ぼくらもあきらめて、天文の世界に遊ぶことにした。
「ホラ、覗いてごらんなさい」
銀河氏にすすめられて、覗くと、土星がきれいなリングをつけ、
どこかの小学校の校章のような、メタリックな金属に見えた。
それは、確かに新鮮な驚ろきだった。
「ネ!面白いでしょう。」


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銀河氏は、天体情報を記録し、研究家たちのデータの一助としたい、と考えているようだった。
その為にも、自然をそこねてはいけない。
保護運動も急務だ。
日常の些事に振り回されず、眼は、天体や自然に向き、悠久の時間と空間にたゆとう
銀河氏は、人間ではなく、銀河人だった。
そしてぼくに、我が身のみすぎ、よすぎにのみ、せかせか生きている人生を
恥ずかしいという感覚を目覚めさせてくれたのだった。

(註、文中に挿入した写真は、先生のポートレートを除き、
 青山先生の環境とは関係のない写真を使用しました。)


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秋深し。秋色、藤むら、なつかしや。

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清水観音堂。外人が撮影していた

秋、深し。
まだ、そんな深くはないが、ゴロがいいので、秋深しだ。
月曜日、かねて気になっていた、上野の清水観音堂に、
俳人の秋色の句碑をみにでかけた。


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秋色の句碑と、桜の木

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秋色の浮世絵

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芭蕉、基角などと、秋色。千代女も描かれている、浮世絵


動物園も博物館も休みだが、人がまばらなので気持ちがいい。
例の中南米の楽団が、ブカブカやっている。
東照宮の門前で、デブの外人のおばさんに、青年が、
「将軍ノオーお墓、ウーン、サムライ、エーッと、」などと一生懸命説明している。
いい風景だ。
観音堂では、カメラを向ける外人の男性。
秋色、こと、お秋は、大坂屋という(のちに、大坂家)和菓子屋のかわいい娘だ。


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三田の大坂家


13才ながら、基角の弟子となり、俳句をたしなむ。
春。
このお堂の脇にみごとな桜の木があり、お秋は、美しさにみとれた。
上野の山は、花見客にあふれている。
心ない酔客が、桜を散らしはせぬか、お秋はちいさな胸を傷めた。
そこで一句。

井戸端の 桜あぶなし 酒の酔

これが、元禄の江戸で評判になった。

とかなんとか、そんなことをダラダラ書いたが、
じつは、ぼくは、和菓子の「きみしぐれ」が大好きで、あちこち探し歩き、このお秋の大坂家と、
本郷の藤むらにいきついたのだ。
いや、なまいきにいきついたなどと書いたが、ことのなりゆきで、この二軒を知ったにしかすぎないが。

でも、はっきりいうとぼくの舌では、味の選別は出来ない。
いまは、門前仲町の、老舗の岡満津のきみしぐれで満足している。
で、言いたいことは、菓子を食べるんでも「秋色」のようなドラマがあったら
楽しいんじゃないか、ということだ。
どこの、デパートでも手に入る、機械化された和菓子じゃあ、美味いかもしらんが、味けがなさすぎる。
秋色のロマンを大切に、かたくなに、家族で店を守りぬく、そんな姿がいじらしいぞ。

もうひとつの華は、本郷三丁目の和菓子の藤むらだ。
藤むらは、きみしぐれも美味いが、羊かんが有名だ。
「どうみても、一個の美術品」と、夏目漱石も「草枕」のなかで、絶賛している。
「我が輩は猫である」のなかで迷亭先生が、美味そうに食べる場面があるので、
漱石はよほど、この羊かんを気にいっていたのだろう。
森鴎外や与謝野晶子をはじめ多くの文人も通ったというから、本当に美味い味なのだろう。

その藤むらが、閉店してしまったのだ。
400年近い歴史を誇る由緒ある店なのに、オイオイどうしたんだよ。
16代目の昌弘社長にお目にかかった時、
「継ぎたくなかったんだけどね」と言っていた。
「でも、夢に祖父と父が出て来て、次男だが、お前が継げ、といわれ継がされた。」
などと、本気か冗談かわからないことを言っていた。
「一家、一業、余業を許さず。」とか、「小豆は、無駄使いすべし」とか、
宣伝するな、とかストイックな、家訓をずっと守り続けてきたらしい。
昌弘社長が、亡くなったと何年か前に聞いた。
それからもう、何回、そこへ出掛けても、店は閉まったまま。
「ああ、藤むらのきみしぐれが食べたい。」
正確には、「黄味時雨」、というのだそうだ。
時雨だよ。奥ゆかしいじゃん。
そういえば、大坂家では、「君しぐれ」。
これも、ロマンチックだなあ。
藤むらの黄味時雨、もうどうしても食べれないのかなあ。
平井の方で、もとの職人さんが藤むらの味を細々伝えている、という噂を聞いた。
伝統の味を消さないでくれ、と願いつつ、今日も、藤むらの閉じた玄関を
うらめし気に眺めながら通り過ぎた。


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藤むらのお菓子


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閉まった店

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赤い橋、渡って「お札を納めに参ります」。

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隅田川の向こう、木場、門仲あたりを歩いていると、一週間に2度は、鳶職だった峰さんをみかける。
峰さんはもう70を越えているから、仕事の現場には出ないが、
長い間、慣れ親しんだこの木場の町を離れることは出来ない。
小柄で白髪ながら、背筋はシャンとして、あちこち人と和んだり、遊びあるいている。
ぼくを見かけると、「ヨッ、棟梁オ、元気かい。コーヒー飲もうぜ」と、いつもこうだ。
ぼくも楽しみで、いつもコーヒーを飲む。
なにが楽しいかというと、峰さんは、ここ深川の事情通で、
人の消息からうまいものの話まで、精度の高い情報で、いつも興味をそそられるからだ。

歌手の岩崎宏美が木場の大店のお嬢さんだということから、
木場公園のベンチにサンコンさんがいるよ、
とか、ご利益通りの老舗の武蔵やが、なぜ消えたか、
などなど。
友人が、政治家の運転手だ、とかふだんから居酒屋、雀荘で四方山話にあけくれ、
情報収集には事欠かない。

そんな峰さんに、「赤い橋」の話を聞いたのは、もう5年くらいまえだった。
永代通りを下り、木場の交差点を50メートルくらい過ぎたあたりに、右に折れる小さな路地がある。
この路地を抜けてゆく人は少ない。
船宿の看板のある家の傍に赤い橋が架けられている。


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この橋には、美しくも悲しい物語がある。
ある医者の話だ。

木場5丁目に新田清三郎という医師がいた。
彼は「医は仁術」、人情の厚い人で、赤ヒゲ先生と慕われた。
貧しい人からは、金をとらない。
家族は8人と大所帯だったが、頼ってくる人が、次々と現れて、
大勢の同居人をかかえこんでいた。
「あんた、誰?」という多さだ。
同郷の人や、失業している人など困窮した人々を居候させる、
そのため、いつも台所は火の車だった。
奥さんの苦労は並大抵ではなかった。

そんな新田さんを突然、不幸が見舞う。
昭和7年に、交通事故で、奥さんを喪ったのだ。
最大の協力者を失い、新田さんの悲嘆にくれるさまは、
近隣の人々や知人はとても見ていられなかったという。

苦しみ、悩んだ新田さんは、奥さんの供養として、赤い新田橋を大横川に架けた。
この町の、洲崎神社に詣るのに、一番便利な橋だ。
幅1、3メートル。長さ23、35メートル。
歩行者しか通れない橋、路地裏にひっそりと、架かっている。
赤い橋、渡るたびに思い出す。
その、美しい心の医者夫婦のことを。


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ぼくの仕事場が橋の近くにあり、毎年始め、昨年末のおかざりや、おふだなどを
この橋を渡ったすぐ先の洲崎神社に納めにゆく。
わざわざ、この橋を渡る。
遊女達の馴染みも深い洲崎神社の大鳥居、弁天池の二つの鳥居、新田橋、みな赤い色である。
どちらかといえばくすんだ色の町に烈しく咲く赤である。
だがこの赤色には、なぜかはかなさがつきまとい、歴史の深みが被う。


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峰さんは、
「てな、由来のある橋なんだよ。
だけど、もうそんな人情話の通ずる時代じゃあなくなったぁな。」
と、嘆く。

そうでもないさ。
木場は、
峰さんが、毎日、遊びほうけていられる、揺りかごのような町なんだから。

オット、この橋を撮影していると、地元のおじさんが、面白い話をきかせてくれた。
「新田先生の、親戚に小泉純一郎の奥さんがいるんだよ」
「エ?あの離婚した、奥さん?」
「そうだよ。」
世の中は、意外なからみがあるもんだ。

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タワシのフレンドパーク。

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TBSテレビの東京フレンドパークをよく観る。
ひとしきりゲームをたのしんだあと、
いよいよ、最後の、ダーツで、商品をはずすと、「ああア」と失望感の吐息が洩れる。
そして、「ハイ、タワシをどうぞ」
受け取る人の情けない表情。
でも、タワシ本人は、もっと情けないと思っていることだろう。
落胆の象徴にされて。

そんな時いつも、タワシつくりの現場にいった時を思い出す。
あのタワシは、滝野川の『亀の子束子西尾商店』の製造したものだと聞いた。

ぼくは、このフレンドパークの放映される何年か前、このタワシの会社を取材した。

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亀の子たわしは、年配の人のなかには、母親につながるイメージをもつ人もいよう。
木造やコンクリートの粗末な台所で、タワシで鍋、釜の汚れを落している、お母さんの後ろ姿だ。
亀の子たわしの誕生もそれに似た風景から発想された。


創業者の西尾正左衛門は、1907年、開発したシュロ製の靴拭きマットが、
欠陥品だったため、返品の山を抱え、途方にくれていた。
そんな時、妻のやすさんが台所でそのマットを使って、洗い物をしていた。
「お父さん、このシュロは、すごく汚れを落とすよ。」と言ったかどうかは知らないが、
まあ、そんな会話があったらしい。

らしいとかいたのは、ぼくはそう聞いたのだが、
10月5日の朝日夕刊には、妻のやすさんは、障子を洗っていたと書いてある。
つまりコマカイことは、はっきりしないが、まあそんな話だ。

それを聞いて、「シュロが汚れを落とすのか」
正左衛門は「これだ、」と台所用品のヒントを得た。
それが亀の子たわしの誕生につながるのである。


これは売れた。
製品は、改良を重ね、いまもココナツ椰子を原料にした
タワシが、100年近い年月を経ても、台所にどっこい生きている。
勿論、フレンドパークにも。


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それにしても、東京フレンドパークのプロデューサーのタワシのアイデイアは鋭い。
あのタワシを狂言まわしに使うとは、ふつうちょっと考えつかないぞ。


一方、西尾商店も、昔から、広報、広告にたけていた。
亀の子たわしの類似品が出て来て、特許侵害で泣かされたが、
正左衛門は違法業者に、法的報復などせず、
そんなことより「広告に全力を尽くせ。」というわけで、
大正時代でも、新聞や婦人誌に巨大な広告を打ち、
大道芸をPRに使うなど、広告というものを重視した。
いまの三代目社長がこのTVの企画に応じたのも、そういう血の流れがあるからだろう。

しかし、タワシにとっては、ちょっと、微妙な扱われ方である。
クライマックスに登場しスポットがあたるが、役割は、悲しいピエロだ。

タワシ君、いろいろ言いたいこともあろうが、
昔の唄にもこんなセリフがある。
「りんごは、なんにも言わないけれど、りんごの気持はよくわかる。」(作詩サトウハチロー)

タワシの気持ちもさることながら、作業している、屈託のないあのおばちゃん達も、
ニガ笑いしながら、フレンドパークを楽しんでいることだろう。

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カンパニュラ、風のガーデン。

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恵比寿ガーデンシネマ、に時折出かける。
直近では、りチャード・ジェンキンスの主演する「扉をたたく人」を観た。
要約すれば、こんな映画。

頭でしか、ものを考えて生きてこなかった初老の大学教授。
孤独な人生である。
それが、ジャンべとよぶ打楽器を演奏する男と出会い、
新しい自分や、生き方を発見していくというスト−リーである。

「ウ−ム。新しい人生かァ」

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帰り道、すぐ脇にある緑と花のガーデンに立ち寄る。
恵比寿ガーデンプレイスという、都会のど真ん中にありながら、
ここは、静謐で、ほとんど人がいない。
ここがぼくの安らぎの場所になったのは、倉本聡のT.Vドラマ「風のガーデン」を観てからである。

ぼくは、花の名前も知らない不粋な男である。
しかも、せっかちで、公園でゆったりできるような人間ではない。
それが、このドラマにハマり、このガーデンにはまったのだ。
中井貴一のかっこいい医師が、美女たちとの恋の遍歴を続けるうちガンに倒れるのである。
そして、カッコいい死を迎えるのだが、
死がそんな華麗なわけはないさ、と思いつつもそんな死に、だれも憧がれをもつのだろう。


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黒木メイサのツンとしたりりしさが、魅力だったし、
なにより挿入曲の平原綾香のカンパニュラの恋(作曲ショパン、編曲椎名邦仁)が心に沁みた。
昨年の冬の間をなぐさめてくれたのは、このドラマと「カンパニュラの恋」の曲だった。
そんな、年甲斐もないトレンディードラマへの、のめりこみに、
わが、パートナーは、どんな気持ちで眺めていたのかしらないけど、
あけて3月4日、ぼくの誕生日に「ハイ」とリボンのついた小箱が彼女から渡された。

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あけてみると、平原綾香のCDだった。勿論あの曲の組み込まれたものだ。
嬉しかった。
部屋を暗くして、ラジカセで、曲を聞く。
ラジカセは、ボーっと三色のやわらかな灯をともす。
好きな色を選べるが、青い光が好きだ。
綾香を聞く。
すると、いつも遠い青春が甦ってくる。


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それは、きまって、ところは、静岡の呉服町の「田園」という喫茶店である。
そのころ銀行員だったぼくは、その店にいつもわがパートナーに電話で呼び出された。
過ごす時間は、1時間のこともあれば、土曜などは、3〜4時間のこともあった。
いつも、彼女と向きあいながら、ぼくは、居眠りをしていた。
いつも、いつでも、だった。
まるで、えい児が、揺りかごで安心して眠るように。
そして、パートナーは、黙って、折り紙を折ったり、小声で、
なにかハミングしながら静かに時間を過ごした。
まるで、いまの賑やかな生活や時間を、老若それぞれの時代、
逆に使ってしまったかのように、その時は、不思議な静穏の時間の日々だった。


いま、隣で、キミも綾香を聞いている。
ぼくは、ひそかに昔を思い出している。
そんなぼくの思いを知ることもなく、
キミは、静かに曲にひたっている。


My Love
かえる場所は ふたり過ごしたカンパニュラの刻
そっと 降るはずのない雪が舞う(綾香)


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相撲の花見酒。

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長男夫妻が行く筈だった相撲の入場券が、「いけなくなった」と送られてきた。
仕事が忙しく行けないというわけだ。
可哀想だが、仕事優先だよ、というわけでぼく達夫婦で、
喜んでいってきた。
ぼくにとっては、3回目の両国国技館だ。
一回目は、亡き父と砂かぶりの枡席で。
二回目は、ぼくの銀行員時代、親友の風間と、なぜか、美智子皇后のお兄さんの正田さんと三人で。


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正田さんは、静かな方だ。
そして、今回は妻と。
だから、力士や土俵の印象より、同席した相手に、いろいろな思いがある。
この日、妻とは、門前仲町の喫茶店のトーアで待ちあわせた。
時間がすこしあったので、近くの富岡八幡宮の境内にある
大相撲の記念碑のあたりで、ひとりで涼んでいた。
ここは、大相撲にとって由緒のある場所だ。
このあたりは、上品な下町(へんな言い方?)で、
特に八幡様や、お不動さんには、いつ来ても気持ちが安らぐ。

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しばらくぶりの両国は、すっかり変わっていた。
江戸川乱歩の小説に登場するような、コンクリートに丸窓の、不気味な病院も消えてない。
西口の薄暗い改札口に、力士の肖像画だけが、ポツンとあった。
そんな不思議な空間も、もうない。
やたら、奇麗になっちゃって、面白くないぞオ。
途中で、虚無僧みたいな、乞食みたいなおじさんが、しゃがんでなんか食っているのに出会い、
「やっぱり両国は、これだよな」
と、ひとり悦にいった。

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館前は、すごい人出だ。
外人さんの多いこと、多いこと。
館内はやたら、奇麗でモダンになっちゃった。
はとバスのガイドみたいな、案内嬢に、「向15って席、どこ」ってたずねたら、
しずしずとゆっくり、そこの29へ案内してくれた。
もの腰がしとやかで、びっくり。
一番うしろの枡席で、ふたり席だった。
足は、伸ばしっぱなしで、まだおまけがでる。
楽だ。
「へえ。こんな席、出来たんだ。」
ひとり、感心することしきり。


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遠くから眺める相撲は、なかなかコミカルだ。
T.Vのフレームと、ちがって、なん千人の観客のかこんだ、ちいさな楕円の土俵、
人がちょこまか動いている様子が、ガリバーの小人国みたいで面白い。
紙相撲的、というか、子供時代に遊んだおもちゃの感覚。
T.Vと決定的にちがうのは、そこだ。
T.Vでは、力士の表情や、微妙な掛け引き、それに技、などをじっくり味わえる。
そんな、凝った相撲文化は、枡席のケツのほうにはない。
後ろの方で、でけえ声で、「高見さくらア」などと叫んでいるので振り返ったら、
おっさんが、ぐでんぐでんに酔っている。
高見盛じゃないの?隣席のねえちゃんが、またぁ、コマカイことをいう。
通路は、やきとりくわえたり、缶ビールもって、大勢うろうろしている。
枡席だって、出たり、入ったり、「おーい。め—ねーぞ」声がかかる。
分かったア。
これは、花見とおんなじだ。結局、遠くで相撲を眺めながら、
喰ったり飲んだりして、館内の、この雰囲気を、楽しむんだ。
「酒が飲める、酒が飲める、酒が、のめるぞオ」って感覚だ。
これだよ。日本文化は。
ここで相撲を見ているかぎりでは、頭ンなか、蒸気が沸騰して、
「横綱の品格とは」てなお上品な思考にはならない。
この猥雑な味。たまんねえな。
という、人々で一杯でした。

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多摩鶴牧、丘の上の雲。

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多摩ニュータウンに15年ちかく住んだ。
古い町も大好きだが、山野を切り開いた新しい都市に住むのも魅力的だ。
未完成の時点で住みはじめ、刻々変貌していく環境を楽しむのも大きな醍醐味だった。
ぼくの住んだ鶴牧といいう地区には、隣接して小高い丘があって、
四方八方さえぎるもののないのびのびと眺望がたのしめた。

ときどき、その丘の中腹で寝そべり、本など読むのだが、
ある時、「ヨオ!」っと、見知らぬ中年男が、声を掛けてきて、傍に座った。

「なんだい」と思ったが、元来こういう出会いは、嫌いじゃぁない。
「近くの落合に住む、北条てんだ」
すこし、酒がはいっていた。
なにか、しゃべりたいことがあるらしい。
「きいてくれる?」
しおらしい言い方だ。
いいよ。聞いてみることにした。

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ガキがねェ、高校生なんですよ。
これがね、てめえの子だって思えねえんですよ。
てめえの女房が生んだのはたしかだから、てめえの子供である確率は高えわけよ。
同じような目鼻たちで、おれのように五体満足だから、
同じ人間だと思って安心しきってた。
みにくいあひるの子じゃあねえけど、最初がおかしきゃあ、
こりゃあ俺達とはちがうぞって注意してみるんだけど、最初はこっちとおんなじ人間にめえたから、
心配しなかった。
犬猫みてえに腹んなかわからねえ動物が同じ家んなかにいたら、はなから警戒するわな。
だって、黙ってりゃあ、おぜんの上のもんは喰われちゃうは、
腹へりゃあ夜中にこっちの耳を齧んねえともかぎらねえしな。
だから、こりゃあまずいやと思ったら、はなからぶんなぐったり、粗相したら、そこで血がでるまで、
鼻こすりつけて、懲りさせるもんな。
だけどおれのガキャア俺とおんなじ顔してたから警戒心はなかったぁね。
オレ達が喰いもんがなくて苦労したからせっせとガキにゃぁ喰わせた。
だが、おかしいなあと思ったのは、15くれえの時かなあ。
からだっつきが、どうも俺と違うんだなア。
足は、カニみてえにやたら長くのびるし、顔もニキビもつくらねえでスベスベしている。
匂いはちがうし、やるこたあ勝手なことばっかり。
そのうち、俺の財布からゼニが、なくなったり、カード会社から買った覚えもない請求がきたりした。
このやろう、やったなと思った時にゃあ、やつは、歯ァむきだすようになっていた。
昔、貧乏があたりまえの頃ァ、親は喰わずとも子に喰わせたから、ホントに親はありがてえて思った。
それを、このがきゃぁ、
「いまあ、腹一杯喰える時代なんだ。それを喰え喰えって押しつけられたってちっとも有り難かあねぇ」
って、こうぬかしゃあがった。
学校は、さぼるし、夜中あほっつき歩くし、なにゆったって聞きゃしねえ。
ゼニは、女房ゆすってもってくし、俺が、商売やってこつこつ貯めたのだって
奴ァ、「てめえが、貯めたんなら、オレが貯める必要はねえよな」と、こうだ。
イギリスでも金にぎった人の二代目、三代目は働かないって聞いたね。
考えつくこたあ、遊ぶことばっかりだ。
オートバイぶっとばしたり、女のケツ追ったり、その程度のもんだ。
小言いやあ、デケエからだで親をおどかすしなあ。
「親ばっかいじめるもんじゃあねえ。もっと強ええ奴いじめてみろ。
国会議事堂の前で、てめえの身体あコンクリート漬けにして、社会をよくしろとかやってみろ」
っていったら、奴アァ、
「ナニぬかすか、このバカァ、てめえもあいつら(議員)みてえに、ふてえ金儲けしてみろ」
とこうぬかした。

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学校の先生にも、どうしたもんだろうって相談したことがあったわ。
「いまどきの子供は、知恵ばっかりつきすぎて、こっちでなに言っても、屁理屈いうから、話にならない」
っていうんだ。
ヨットスクールにぶちこんだらどうだろう(当時、戸塚ヨットスクールのスパルタ教育が、問題になっていた)
って言ったら、「おとうさん、そんなこしたら、殺されますよ」と、こうだ。
親ァ刺して血が出たって、あんまり感じねえような神経になっちゃったってゆうんだから、
おれにゃあもうわかんねえよ。
じゃあ、やりたい放題やらせるほかねえですか、というと、先生は、こっくり、うなずいたよ。

近所の絵描く人にも聞いた。
こう言ったよ。
「おやじさん、あんたは一生懸命喰うや喰わずで、いろいろ作りあげてきた。
それが、ちゃんと出来上がったんだよ。
だから、子供は、それをこわすの。
だって、自分が作ろうと思うものがなきゃあ、壊すことしか面白いことないでしょ。」
まあ、理屈にゃあなってないけど、ガキがそう思うんじゃあしょうがねえ。
絵描きさんは
「教育つうものは、いまの子供には効かないの。ヨットスクールでもスパルタでやって、
いろんな理屈はあるだろうけれど、結局、こりゃあ死ぬな、殺されるな、と自分が思った時、
人間はじめて変わるんじゃないの。
ヤクザの世界から逃げてくるガキが、そうだそうですよ。」


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菩提寺の和尚にも聞いた。
「息子のことは、もう考えちゃあいけないよ。
目の前、ホコリたてて歩いて行っても、それは、めえ(見え)なかったと思うこと。
悪態つかれても、あんたの耳は、都合のいいことしか聞こえないようになってるの。
そう思うこと。
あんたは、いいと思うことをやればいいの。
セガレでも近所でも、客にでも、黙ってよかれと思ってやっているのが一番いいの。
目えつぶって、何年かそうやって、目あけたら、世界はきっと変わっているよ。」
こう言ったよ。
ま、そういうことかな、ってこの頃、そう思ってるワ」


落合の北条さん、ながなが、お話ごくろうさんでした。
鶴牧の丘の上には、いつもぽっかり雲が浮いてます。


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ワン・コイン・エッセイ、はじめます。

1

ワン・コイン・エッセイって何だ?
ハイ。
べつに、たいした意味はありません。

先日、シネマズ@シャンテで、ミッキー・ロークの「レスラー」を観たあと、
昭和風喫茶の銀座の「ウエスト」で、コーヒーを飲んでいた時。

きのうの昼さがり、麻布十番のスタバで、くつろぎながら、
向かいのおでんの福島やのおばちゃんの所在なさそうな表情を眺めていた時。

この、時間の「ゆるさ」は、たまんないな、と感じた。
つまり、ワンコインのコーヒーでくつろいでいる時、(実際には、ウエストは、ワンコインではないが)
こんな軽さで、エッセイ書けたらいいな、と思ったのが、ワン・コイン・エッセイの発想のきっかけだった。

なんでも、かんでも思いついたことを、「ねえ、聞いてくんない」
というタッチで、やってみたい。
ぜひ、つきあってください。

2

1、ぼくの動物園。

動物が好きでたまらないのだが、いつも集合住宅住まいなので飼えない。
だから、なま身の動物体験はこのところない。
少年時代、田舎の家では、母が、動物好きで、常時、猫が、2〜3匹ごろごろしていた。

ある時、知り合いが、
「犬好きの老夫婦が、飼っている犬だが、もう自分達は、老いて充分な面倒をみれない。
 可愛がってくれる人がいないだろうか、」
と我が家に打診にきた。

猫もいたが、嬉んで飼うことにした。
スピッツで、メリーという名だ。
飼い主の老夫婦は、メリーが可愛がられているか、、毎日、心配で覗きにきていた、とあとで知り合いに聞いた。
バス停に隠れるようにして、一週間ほど、眺めていた、という。

メリーは、利口な犬だった。下校時間にはいつも、玄関でぼくの帰る方角に向き、待っていた。
ぼくは、ひまがあればいつも遊んで過ごし、夜は、一緒に寝た。
時にくさい息をふきかけてきて、閉口した。


3
メリー


多摩センターに住んだ時、十姉妹の老鳥が迷いこんできた。
二年ほどで、病気で倒れた。
片目が白濁してびっこをひいて、ぼくの左腕をよろよろ這い上がり、
ほっぺに近寄ってきたときには、泣けた。
翌日、死んだ。


4
十姉妹のピーコ


鳥でも魚でも飼いたいのだが、
「生き物に情をかけすぎる」といつも妻にたしなめられる。
だから、それからは、おもちゃを観賞することにしている。
さすが、人が気持ちわるがるだろうから、抱いたりなんぞしない。
おもちゃの動物は、まずユーモラスなものがいい。


5


つぎに、可憐さや寂寥感のあるもの、威厳のあるものなど、
わりと、はっきり意志表示をしたものがいい。
なるべく、人の持っていないキャラがいいが、金にあかせて買う余裕もなければ、
コレクションなどの執念もない。

パッと見て、オモロイと感じたら、縁だと思って、財布の許す範囲内で買う。

フリーマーケットで数百円で買ったものもあれば、
植草甚一のコレクションが市場に出た時、すこし頑張って買ったものもある。
デパートの台所用品売り場でみつけたものもある。
いずれにしても、たいした金額のものではない。


宇都宮のインデイアンの、研究家で、皮革製品の制作をしている人を取材したことがあった。
その時、小狸の顔を張りつけたポシェットを土産に買った。
小狸は、かわいかったが、なにせ本物で、家内が、こわがったので、人にあげた。

最近は、親しかった故高橋隆雄弁護士の奥さんから「傍に置いてあげて」、と
遺品のカメの置物が送られてきた。
アフガニスタンの金化石の彫り物で、愛蔵していた、のだという。
カメは首がひょいと長く、高橋さんを彷佛させる
ひょうひょうとした印象で、朝いつも話かけている。
てな、感じで、わが家の動物園というほど大げさなものではないが、
あちこちにヘンな動物が、チョロチョロして、ちょっぴり楽しいのだ。

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