あの歌の世界を訪ねて

思い出の歌、心に残る歌の生まれた源をたどって、いろんなエピソードなど歌の背景を探る。

さくらの野辺と、浜の風。

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桜は咲いたけど

さくらは、被災地でも、なにごともなかったかのように今年も咲いている。
さくらは、いつもの場所で、明るく咲いている。
さくらを歌う悲しい唄があるのか、どうか、ぼくにはあまり記憶がない。
しかし、こんなに明るく、さくらが咲いてくれようと災害の悲しみは消えることはない。
この、明るさと美しさが、なんとも複雑な思いをいだかせる。

さまざまなの事 思い出す 桜かな     芭焦

一方、砂浜の広がる浜辺には、悲しい詩や旋律が沢山ある。

青い月夜の浜辺には
親を探して鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
ぬれた翼の 銀のいろ

浜千鳥(鹿島鳴秋)

親や、愛娘に先立たれた鳴秋が洩らす痛恨の唄である。
また、加藤まさをの
九十九里浜にヒントを得た、「月の砂漠」をゆく死の旅のような情景は、
かれの失意の明け暮れのなかで生まれたといわれている。

広い砂漠をひとすじに
二人はどこへ行くのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対のらくだはとぼとぼと
砂丘を越えて行きました
黙って越えて行きました

なんと絶望に満ち満ちている情景ではないか。
浜辺をモチーフにした多くの詩に、悲しい思いが多いのには考えさせられたものだった。
ぼくらは、あの東日本の無惨な浜辺も忘れてはいけない。
被災者の方々にの、しあわせを取り戻されることを祈り続けなくてはいけない。


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胸うつ、女性たちの歌。69年、東大安田講堂

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ガス銃と投石の争乱の痕


1969.1.19
その日、時計台は泣いていた。
火炎瓶と、ガス弾、投石、放水に包まれて、東大安田講堂は、
正義や秩序や、怒りや憎しみの渦巻くるつぼのなかにあった。
記憶はさだかではないが、ときおり、攻防のなかに、しじまがあって、
夕暮れ、籠城の約300人の学生達は集合し、それは、静かな祈りにみえた。

ぼくは講堂正面の文学部の屋上から、撮影をしていた。
講堂を取り巻く広場の学生群の中に、東大生の歌手、加藤登紀子さんもいた。
(以下、登場する人物の敬称は、略させていただく)
いつしか、8500人といわれた機動隊の突入が始まり、激しい攻防の末、
安田講堂は陥落した。
次々と、機動隊によって逮捕され、連れ出される学生たちは、ほとんど顔面などに
ひどい傷を負っていた。

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時計台への放水

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籠城する学生たち

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負傷した学生


籠城した学生たちのなかに、ひとりの女子学生がいた。
可愛い顔つきの女の子だった。
やはり彼女も、左目のあたりに血が滲んでいた。
痛々しい思いで、ぼくはシャッターを切った。
勿論、その時は、彼女が籠城した唯一の女子学生だったことも知らなかった。
彼女は、逮捕後、頑に黙秘を通し、拘留された菊屋橋の拘置所では、
「菊屋橋101号」と記号番号で呼ばれ、長い拘留期間中、完全黙秘を貫いた。
しかし素性を探るマスコミによって、氏名や写真を公表されてしまう。
その後、怜悧で毅然とした彼女は法廷で堂々と、闘ったといわれる。
この菊屋橋101号のことを偲ぶと、いつも「マキシーのために」の
歌の主人公を、勝手にだぶらせてしまうのだ。


この「マキシー」という女性は、作詞家の喜多條忠の、友人だった。
喜多條忠の作詞によれば、

(第二章)
マキシー 俺 今まじめに働いてんだよ
マキシー 風の便りに聞いたけど
マキシー どうしてah 自殺なんかしたのか
マキシー 睡眠薬を百錠も飲んでさ
渋谷まで一人で歩いていって
ネオンの坂道で 倒れたって
馬鹿な奴だったよ お前は最後まで
(喜多條忠 作詞、南こうせつ 曲、歌。)

安保の暗雲のたちこめる時代、マキ(浅川マキか?)のアパートで
鬱屈した若者たちがたむろしていた。
そのなかで、喜多條やマキシーたちは、夢をみていた。

(第一章)
マキシー それがお前のあだなさ
マキシー お前は馬鹿な女さ
マキシー 夢をみたことがあっただろう
マキシー 二人で金をもうけて
青山にでっかいビルを建てて、
おかしな連中集めて、
自由な自由なお城をつくろうと、

そんな自由への希求や憬れが、マキシーを突き動かしていたのだろう。
マキシーの行動記録や、詳細はわからない。
彼女は闘士だった。
喜多條さんによれば、
機動隊に食らいついて離れない激しさに「ピラニア」と渾名されていたという。


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マキシーの倒れた道玄坂

ふたたび、もうひとりのピラニア、菊屋橋101号に戻ってみよう。
彼女の拘置されていた菊屋橋拘置所に行ってみた。
10何年か前に、当時の拘置所は、建て替えられてしまったが、
道路を隔てた角の店で、50代の女性に当時の話を聞いた。
「当時私は、おかっぱの小学生だったのよ、詳しいことは判りません。
 ここは、女性専用の拘置所でしよ。
 学生さんが捕縄むきだしで連れてこられ、痛々しいと思いましたよ。
 時々、ヘルメットの学生達が、拘置所の前で「頑張れよ」とか、「一緒に戦うぞ」とか、
 閉った窓に向かって声をかけていましたね。」


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左、菊屋橋拘置所

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東大安田講堂

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本郷通り


歌手の加藤登紀子も、歌手としてデビューしたものの、60年代の学生紛争のただ中にいた。
1968年に彼女は卒業式を迎えたが、式の粉砕、ボイコットと学内は騒然としていた。
女性週刊誌は、登紀子に式当日は振り袖で式にでてくださいなどといっていたが、
彼女はこの状況を、そんな甘くはとらえられなかった。
私は何者なのか。
私は何のために生き、ここまできたのか。
彼女は自問し、一晩中悩んだあげく決意した。
そして、明日は、新しい自分のスタートにしよう、とジーパン姿で学生集会に出掛けた。
それが、雑誌に掲載され、それをみた全学連副委員長の藤本敏夫が、
学生集会で歌ってくれないか、と彼女を訪ねて来た。
加藤登紀子と藤本の初めての出会いだった。
藤本敏夫は、ヘルメットも被らず、いつも先頭に立って戦う、
男の美学を持ち味としてもっている魅力的な人物だった。
68~69年にかけて激しい闘争が繰り返され、
かれはデモの指導者として、しばしば逮捕され、留置所に拘束された。
二度目に登紀子と会った時、居酒屋で藤本は、「知床旅情」を歌った。

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるか国後に 白夜は明ける
(詩、曲、森繁久彌)

加藤登紀子は、初めて聞く歌だった。
おそらく、藤本はこれから牢獄生活の予想される人生をみつめ、
深い思いで歌ったのだろう。
そして藤本が自身のために心から歌うその歌に登紀子は感動した。
そして単に職業歌手として歌い続けてきた自分を恥じた。
この藤本のように
自分の心がまっすぐ届くような、自分のために歌う曲をひとつだけでも
持とうと思った。
そして生まれた歌が『独り寝の子守り唄」である。

ひとりで寝るときにゃよおー
ひざっ小僧が寒かろう
おなごを抱くように あたためておやりよ

ちょうどこの曲の録音が終わり、その日に出所してきた藤本と
飲み屋で会い、その唄をかれに聞かせた。
藤本は、
「寂しい歌だね。
 おれはいやだ。」
といって、ふいっと外へ飛び出してしまったという。

ぼくも、藤本の気持ちがわかる気がする。
権力との闘争や、セクト間の激しい憎悪にさいなまされる
そんな日常に、感傷の入り込む余地はなかったのだろう。
それはさておき、加藤登紀子は、コンサートの最後に
いつも「知床旅情」を歌うのだそうである。
藤本敏夫に、歌の原点を教えられ彼女は、
いつもそれを噛みしめているのだろう。
その愛と戦いの人生は、
「青い月のバラード」(小学館刊)に克明に描かれている。


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青い月のバラード

ぼくは東大の三四郎池に時折出かける。
ここは、深い緑に覆われた、東大ではいちばん静かで安らげる空間である。
マキシーも菊屋橋1号も加藤登紀子も、この異界のような世界に、心を休ませたことがあるに違いない。
きょう、出かけてみた。
安田講堂で、彼女たちの抱いた思い、そして三四郎池で感ずる神秘さを
ぼくも彼女たちと共有できたように思えたのだった。


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三四郎池

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君とよくこの店に来たものさ、学生街の….。お茶の水周辺。

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学生街の喫茶店


君とよく この店に来たものさ
訳もなく お茶を飲み 話したよ
学生でにぎやかな この店の
片隅で聞いていた ボブディラン
あの時の歌は聞こえない
人の姿も変わったよ 時は流れた 
(学生街の喫茶店。)(ガロ 歌。山上路夫 詞。すぎやまこういち 曲。)


ぼくは、毎日、キャンパスの取材で、駆け回っていた。
69年1月、バリケード封鎖されていた東大安田講堂が、
機動隊との攻防で陥落し、学生運動も収束に向かうようにみえた。
70年代にはいり、学生もぼくらも疲れて、放心した虚しい日々が続いた。
72年にガロが歌った、「学生街の喫茶店」は、
そんな頃の、友人との別れも織り込んだ、傷痕の歌のように聞こえる。


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あの頃は 愛だとは知らないで
サヨナラも云わないで別れたよ
君と


当時、時代の気分と、別れを歌う曲が多かった。
「神田川」「赤色エレジー」「なごり雪」……
そして「学生街の喫茶店」。
この歌のモデルは、とくにないと山上さんが、述べているそうだ。
この詩は、誰もが体験した、学生時代の思い出や風景の歌だから
舞台は、あそこだ、いやここだ、とみんなが自由に推測するのだろう。
ガロの大野さんは、早稲田の街路樹をイメージして歌っていたそうだ。
歌のモデルと自分の青春を重ねて、その喫茶店を探索したり、
空想して楽しむ人も多いのだろう。

ぼくは、60年代末から70年代にかけて、学生運動の撮影や、キャンパスの取材などで、
お茶の水、神田界隈に日参していた。
子供二人を、猿楽町の錦華小に通わせたこともあり、この街には、若干詳しかった。
「学生街の喫茶店」が流行し、即座に脳裏に浮かんだのは、お茶の水、神保町界隈だった。


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山上さんは当時、フランスに旅して、その折パリの喫茶店のイメージをからめ、作詞したという。
そんなエピソードを聞き、ぼくはお茶の水の「とちの木通り」(マロニエ通り)が目に浮かんだ。
お茶の水は、
周辺に多くの大学や専門学校のひしめく、学生街だ。
パリとの類似点もないことはない。
ここ駿河台周辺は日本のカルチェラタンといわれた。
マロニエの繁る、この並木道の尽きるあたりには、アテネフランセもある。


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お茶の水

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マロニエの並木道

まあ、それはともかく、今日は、マロニエ通り(勝手に言い換えた)を散策することにしよう。

お茶の水駅から駿河台を下り、すぐの右側にマロニエ通りがある。
右折し、坂を上る。
静かな、みどりの並木道だ。
明大のキャンパスが道の両側にあり、それを縫って道は伸びている。
この丘の上で、ぼくは、70年代に、未来の「ナベさん」とは知らず、
「コント赤信号」ほかの、明大落研の人達を、スナップしていた。

学祭の時で、彼らの青春真っ盛りだった。
毎年、同じような風景が展開されていた。


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丘の上。落研のグループ


先を急ごう。
すぐ左折すると、山の上ホテルにぶつかる。
ロビーや、随所にアールデコの意匠に飾られた、ちいさな、静かなホテルだ。
文豪や文化人達の愛用したホテル。
そこに立ち寄らずらず、ひき続きマロニエ通りを直進する。
右手に文化学院がある。
大正12年の創立、蔦の這う、アーチ型の学舎で、多くの芸術家や舞台人
などが巣立った。
ファサードに隣接した、ちいさな森のベンチ。
うーん、安らぐなあ。


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山の上ホテル

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文化学院

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隣接の小さな森とベンチ

その正面に、当時、喫茶「マロニエ」があり、そこも歌の有力モデルらしい。
「マロニエ」は消えたが、すぐそばに「れもん」が健在だ。
アールヌーボー風な扉、19世紀の雰囲気の喫茶店だ。
ここも歌詞にそぐう風景だナ、と勝手に空想する。
その店に入ってみた。すぐの脇に、ワインが、並べられている。
パリの雰囲気のただよう、素敵な店だ。
テーブルに着くと窓のむこうに、マロニエの葉がそよいでいる。
ボブ デイランこそ聞こえてこないが、

窓の外 街路樹が美しい
ドアを開け 君がくる気がするよ
あの時は 道に枯葉が
音もたてず舞っていた 時は流れた


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喫茶れもん

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店内から、マロニエの葉がみえる


「れもん」のマスターが、ポツリ、ポツリと語る。
あの歌のモデルの店が、ここだとおっしゃる方もいるようです。
でも、多分、違うでしょう。


ラジカルな60年代から70年代、ぼくがカメラマン仲間とたむろしたのは、
このハイブロウな「マロニエ通り」の喫茶店ではなく、
「さぼうる」や、「ミロンガ」など、「すずらん通り」裏の、狭いロッジ風な喫茶店が多かった。


時は流れて、
お茶の水駅に向かう帰途、「かえで通り」に出た。
賑やかな通りで、スタバなど、リーズナブルな新しい喫茶が、いくつか出来た。
全面ガラスで、明るい店内で客の出入りも多い。
こういう喫茶店から、どんな詩や曲想の歌が生まれるのだろう。
それはそれで楽しみだ。
変わる時代が、街の姿や、個人の思い出を織りなす。
その懐かしさの拠り所に、
名曲があって欲しいのはいうまでもない。


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「かえで通り」の喫茶店

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夏が過ぎ、風あざみ、王貞治、少年時代。業平、向島。

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王少年のホームグランド

夏が過ぎ 風あざみ
誰の あこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様
少年時代(井上陽水、詞、曲)

男の思い出のなかでも、少年時代の夏には、特別な懐かしさがある。
どこまでも青い空。力こぶのような、白い雲。
回想は、瀬戸内少年野球団(阿久悠作、篠田正浩監督)の、
白球を追う、少年時代の夏に、だぶる。


王貞治少年は、隅田川べりの、いくつかの野球場で、野球に明け暮れていた。
中学生にしては大柄で、怪力、ボールは隅田川にまで、飛んで波しぶきをあげた。
戦後、娯楽もない時代だったとはいえ、
単純な球遊びが、どうしてこんなにも少年の心を虜にしたのだろう。

個人的なエピソードで、恐縮だが、ぼくの少年時代も、野球漬けだった。
近所の野球嫌いの親に内緒で、友人を連れ出して、ボールに興じた。
ある日も、こっそり連れ出した彼だったが、
誤ってだれかが、バットで額を殴打してしまい、デカいコブをつくった。
彼を、自宅に送り届け、その家のオヤジに大目玉を喰らった思い出がニガい。
青空に残された わたしの心は夏模様 だ。


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王選手レリーフ


いま、
スカイツリー建設中の業平の広場は、もと東武鉄道の、電車の操車場だった。
広々とした鉄路の並んだ間を、子供達は、夢中で遊びまわっていたという。
王少年も、その子供達の中にいた。
「王さんも、真っ黒くなって遊んでいましたよ。」
王貞治の父親、王仕福の経営する、「中華五十番」の店員だった関五一さんはいう。
誰にも、夕焼け、と汗にまみれた、少年時代の思い出がある。
業平の王さんの住んだあたりは、小さな家内工業のひしめく、埃っぽい印象の、
新興地の下町らしい環境だった。


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スカイツリー、左手に王さんの店

このあたりの風景に似た、町は下町に多い。
白髭橋あたりや、ガスタンクなど望む川縁り、
それと山谷に近い、泪橋などの埃っぽい風景は、
ちばてつやの漫画、「あしたのジョー」や、ちばあきおの「キャプテン」に描かれた風景だ。
ちば兄弟は、業平の隣町の向島に住んでいた。
王少年とちば兄弟は、互いを知らずに育ったのかもしれないが、
同じ下町の、似通った「夏模様」のなかにいた。
王少年は、少年時代から運動センスが傑出していた。
在籍した、本所中学に野球部がなく、それを復活させたりしたが、
隅田川ベリのいくつかの野球グランドが、かれの活躍の場だった。

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本所中、グランド

台東の今戸グランドで、のちの巨人軍のコーチとなる、荒川博との出会う話も、この頃のことである。
やはり、「隅田公園少年野球場」には、王少年の銅板プレートが、刻まれており、
ここが、一番のゆかりの場所なのだろう。
素質に優れるとともに、黙々とトレーニングに励む、野球への
うち込みの激しさは、並みの人とは違った、というのが定説だ。
後年、王の素振りを覗き見た野村克也さんが、著書「巨人軍」のなかで、
「ただ、凄いと、思うのみ」と、絶句している。

印象的なのは、彼のやさしさだ。
王少年が、黄金時代の巨人軍選手にはじめて出会った時、
サインを求めたのに、川上哲治など、ほとんどの選手に拒否された。
応じてくれたのは、与那嶺選手、ただ一人だった、という。
かれはショックだった。
自分は、決してサインを断るまい、とその時決意したという。


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サインボール

王さんは、昭和15年に八広3丁目、中華の「五十番」に生まれた。
その、生家へ行ってみた。
いまは、人手にわたったが、シャッターが閉まったまま、ひっそりと、その家は存在していた。
道路をへだてた、正面の町工場のおじさんに、当時のことを訊ねた。
「エ?そこって、王さんの生まれた家だったのオ?、知らなかったア。」
驚いていた。
店は昭和21年に、そこから業平2丁目に移った。
店員だった、関五一さんに話を聞いた。
関さんは兵士として、中国から東南アジアに転戦させられた。
昭和23年、やっと帰国し、職探しを重ね、
業平橋の王さんの「中華料理店」に雇われたのだった。


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王さんの生家


当時、街は戦火に焼かれて、そのあたりは人家もまばらだった。
「中華五十番」は、江戸元禄の戯作者「鶴屋南北」の墓のある春慶寺の一角にあった。
150坪ほどの土地を寺から借り、営なんだ店だ。
裏庭の土を踏んで、王少年は、いつもバットの素振りをしていたという。
早実時代、野球の練習が終わると、好物の「肉そば」をおやつ代わりに食べた。
当時関さんは、夜9~10時ころ、練習に疲れて帰る、王少年の希望で、
その時刻に合わせ、材料を揃えておき、帰るとすぐ調理したという。
関さんは、仕福さんに信頼された、一番弟子だった。
いま業平4丁目で、中華五十番を営んでいる。
「のれんと、電話をあげるから、頑張りなさい」と、
王さんの味を引き継いでいるのだ。


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業平の五十番


当時、辛かったことはなんですか、と関さんに、なんとなく訊ねた。
日中戦争の話題を、かれは、不意に持ち出した。
かれの出征先の中国は、浙江省の北部だった。
王さんの祖先は同じ、浙江省の南部にあった。
なんと偶然だが、関さんは中国で主人の故郷へ、銃を向けていたのだ。
恩人である、雇い人の出自の地で、そこに住む人々を、戦いで苦しめたのだ。
関さんの罪ではないが、その話に触れるのが、一番、辛かった、と関さんはいう。
誠実な人である。

その関さんは、心から王仕福さんを尊敬していた。
仕福さんは、貞治少年に厳しかったという。
決して、子供に不誠実なことは許さず、
「人に迷惑をかけるな、人の役にたて。」と常に諭したという。
昭和の、中国人への、差別や貧困のなかで、仕福さんが、生きのびるためには、
誠実に生きる、ことのみが人々の信頼を得ることだと、考えたのだろう。
兄の鉄城さんも、厳格な人だった。
王さんが、高校時代、相手投手から、ホームランを奪い、ベース上で、小躍りした時、
「打たれた相手の気持ちも考えろ!」と、厳しくたしなめたという。
そういう、一家の厳しい躾もかれの人格を光らせた。
1998年、王貞治は国民栄誉賞を、受けた。


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関さんと店

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五十番の店内。関さんの息子さん

王さんの駆け抜けた、業平や向島は、新興地と古い花街という、別々な顔をもった街である。
埋め立てで生まれた新興の街のほかに、歴史のある花街や料亭や、古い昭和の建物もある。


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向島。料亭

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向島。工場


野球一筋の、王さんには、グランド以外、街には無縁だったのかもしれない。
かれの汗にまみれた「隅田公園少年野球場」のスグ隣には、江戸時代から続く、
「言問い団子」と、「長命寺の桜餅」の店がある。
竹久夢二の大正4年の日記には、「向島からおとみ来る。
こととひだんごが、とにかくおいしい」とある。
王さんも隣の「だんご」には、縁が深かったに違いない。

王さんは、いま、達観した心境だろうなア。
無心に白球を追った、あの少年時代をどう回顧するだろう。

背番号1の すごい奴が相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で
スーパースターのお出ましに ベンチのサインは敬遠だけど
逃げはいやだわ
(阿久悠、詞、都倉俊一、曲。サウスポー)

ピンクレデイの歌声は、軽快だ。


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言問いだんご

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長命寺の桜餅

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記念ギャラリーの、王貞治のふるさと墨田

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いつのことだか、思い出してごらん。あんなこと、あったでしょ。

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江東橋幼稚園

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江東橋の公園


いつのことだか 思いだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと
いつになっても わすれない。

この歌、このメロデイが、流れると、
知らず知らずに涙腺がゆるんでくる。
人によって、瞼に浮かぶ光景は、さまざまだろうが、
やはり、幼いわが子の、あやうげながらも、ひたむきに生きる映像が、瞼に蘇るのだろう。
この歌をステージで歌ったとき、歌手の芹洋子は、初めて客席で、すすり泣く声を聞いたという。

「コンサートで歌っている最中、ボロボロ涙を流す、お母さんを見て、
 もらい泣きをしたこともしばしば、観客と同じ感情をもてる喜びを、
 この曲で知ることが出来ました。」(唱歌、童謡ものがたり、読売新聞文化部著、岩波書店刊)

保育園や、幼稚園に通う年頃の子というのは、いとおしくも、厄介な存在である。
母親にとって、この時期は苦闘のあけくれである。
もてあまし、思い悩みつつも、けなげに生き、成長していく、
そして、幾星霜。わが子の、卒園式を迎える。
あんなやんちゃで、手を焼かせたわが子が、ちょっと大人びた表情で
列に並んでいる。
そして、最後、お別れのこの曲になる。
だだっ子だった子供が成長し、歌う姿を見ながら、お母さんは、
万感の思いが、こみあげて、思わず瞼が潤んでしまうのである。


この「おもいでのアルバム」は、江東橋保育園の園長の増子としの作詞、
神代幼稚園園長の本多鉄麿の作曲で生まれたものだ。
すぐ気付かれた方もいるだろうが、これは、保育現場から生まれた音楽なのだった。
ふたりは、保育への理想、音楽教育への情熱で共鳴していた。
クリスチャンの増子と、常楽寺住職の本多という宗教家同士であることも、
不思議なくらい、共通の要素をもっていた。
本多は、芸大を目指した芸術青年でもあった。
後に、広田龍太郎に師事したこともある。


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江東橋保育園

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保育園にいた猫


この「おもいでのアルバム」は、歌としてではなく、ミュージカル
として構成されたものだった。
リズミカルプレイとして、演出のシナリオと楽譜とで成り立っている。
ところが、いつからか、オペラの序曲のように、
序曲だけが、単独で歌われるようになった。

いつのことだか おもいだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう

平易なわかりやすい歌詞である。
ふだん、大人が子供にやさしく話しかける言葉だ。
「ぞうさん」を作詞した、まど みちおさんを思い出す。
かれも、平易な言葉で、幼児の心をつかんでいる。
ぞうさん ぞうさん お鼻がながいのね
曲の本多鉄麿も、
「保母さんのピアノの演奏技術にあわせて作曲しているんだよ(ミヨ夫人の話)」と、
歌いやすさ、演奏のしやすさに、顧慮したことを語っている。

そのわかりやすく、相手をおもんばかる気持が、
あの心に響くメロデイになったのだろう。

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鉄麿と妻ミヨさん


鉄麿は、戦後、荒廃した時代、いち早く、子供のため「常楽文庫」(寺の名が、常楽寺)を開設、
書物を開放した。
美術館や博物館に子供を親しませたのも、
当時の混乱のなかでは、慧眼をもった人だった。
大人にも読書会、俳句会などや合唱団も組織した。
なかでも音楽への情熱は熱く、
持病の喘息で、苦しみながらも、寒い日でも、マフラーをなびかせて、大きな声で歌ったという。

かれは1966年に亡くなったが、人々はみな鉄麿を慕い1996年、
常楽寺内に歌碑を建立した。
「とても、おっとりした人でした」と、ミヨ夫人は、夫をそう評する。
写真で窺えるようにやさしそうな人である。
生涯で、生み出した童謡や、幼児むけオペレッタなど作品は、
なんと、2000曲にものぼるという。

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歌碑


一方、増子としは、幼児教育の専門家として活躍した。
「音楽で、のびのびと子供の表現意欲をひきだしたい」
これが、彼女のポリシーだった。
1951年に江東橋幼稚園の園長を勤めた時、保育の現場で子供と遊ぶための曲を集め、
楽譜と解説を付けた教材をつくった。
それは、なんと平成2年までに74版を重ねる、ロングセラーになった。
保育界で、これを超えるベストセラーはないという。


「おもいでのアルバム」ができたとき、増子は「今度出来た曲いいわよ」と、
顔をくしゃくしゃにして、うれしそうに担当編集者に原稿を渡した、という。
ところが、なんたる、不幸か。
発表から二年後、増子は、脳に障害を発生した。
退院後、目白台の自宅で、家族と静かな生活を送っていたが
日が経つにつれ、記憶が、どんどん薄れていった。
あるとき、朝のワイドショーで、TVから、芹洋子の「思い出のアルバム」が流れてきた。
それを聞いていた増子は、
「ああ、いい曲ねえ。この歌は……」と、つぶやいたという。
それが自作だと、気が付かない彼女に夫は、驚いて、
「これは、お前のつくった歌じゃないか」と大声をあげた、という。


本多鉄麿は、1966年に亡くなったが、この歌が爆発的な人気になったことはその後のことで、
増子としも、病気が自作の歌を忘れさせた。
存命中は、二人とも、歌がこれほどまで、世の人に愛されたことを知らなかった。
しかし、その不運な作者の代わりに多くの人々が、この名曲に酔いしれたのだ。


増子の保育園は、新しく建て変わった。
その江東橋保育園は、明るい日差しのなかで、こじんまりと存在していた。
幼児の親でもないぼくだが、下駄箱のカラフルな靴や、砂遊びの遊具などを
眺めているだけで、なぜか、ジーンと胸に迫るものがある。
幼児という時代が発する、いとおしさなのだろう。

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靴箱


京王線で、つつじヶ丘、北口から5分の、本多鉄麿の常楽院にでかけた。
緑が覆う、細い道の先に、緑豊かな落ち着いた寺があった。
ご子息の、本多慈昭氏と鉄麿夫人のミヨさんにおめにかかった。
お話を伺い、鉄麿の祈りの場、本堂に案内してもらった。
美しい菩薩像が、印象的だった。


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寺への細い道

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本堂

鉄麿の亡き後、45年間続いた神代幼稚園は、平成8年、歴史をとじた。
記念の思い出のアルバムに、閉園を惜しむ多くのメッセージが寄せられている。
創立当初から、鉄麿と園児の世話を続けた、小野洋子さんは、
「はだしでとびだして帰ってしまう子を追いかけて、息がきれたり、喧嘩を止めようとして、
 腕を噛みつかれたり、泣き止まない子を、なわとびの縄でおんぶしたり、
 田園風景の広々とした、畠や田んぼの畦道で、蛙やバッタを追いかけたり、
 レンゲで、首飾りをつくって遊びました」
と、園児と生きた、当時を懐かしむ。

 ……あんなこと こんなこと あったでしょう

やさしい鉄麿が、当時、
「こんな曲ができたよ」と聞かせてくれたのが印象的だった。
小野さんは、

 ……うれしかったこと おもしろかったこと いつになっても 忘れない

と、深い感慨を洩らしているのだった。

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花の道

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唄を忘れたカナリアは、上野の森をさまよった。

01
教会

唄を忘れた カナリヤは
うしろの山に 棄てましょうか
いえいえ  それはなりませぬ

生活に押しひしがれて、落ち込んだ気持ちの時だった。
詩人の西条八十は、まだ5カ月の長女の「ふたばこ」を抱いて、
上野の東照宮の境内を散策していた。
ふいに、ある記憶が蘇った。脳裏に浮かんだのは、
14~5才のころ親に連れられて行った教会のクリスマスのことだった。
堂内の灯りが、いくつも華やかにともるなかに、
ひとつだけポツンと消えている電燈があった。
きらびやかのなかの、喪失感。
それをみていると、自分だけが歌うべき唄をわすれた小鳥をみるような、
さみしい気持ちに襲われたのだった。

02
上野東照宮

ぼくは、4月の雨のそぼ降る日、上野の東照宮のあたりと、不忍池のまわりを歩いてみた。
西条八十の心情を偲びつつ。
日頃は、人出が多いのに、この日は、まばらだった。
枯れ草に覆われた不忍池。
ここは、都会の真ん中でありながら、静けさをただよわせている。


03
不忍池


西条八十は、池のほとりのアパートに住んでいた。
不忍池は、
春先の今頃は、当時も、こんなおだやかな風景に映っていたのだろう。
ただ、かれの心のうちは、違っていた。
東京、牛込の裕福な家に生まれながら、父の急死、兄の放蕩、財産の散逸、
さまざな不運に見舞われ、八十は、深い絶望に陥っていたのだ。

ただ、チャンスは、かれの気づかぬところで、用意されつつあった。
おりしも、夏目漱石の門下で作家の鈴木三重吉は、
子供にいい童謡を与えたい、と1917年に児童雑誌「赤い鳥」を創刊した時だった。
その雑誌は、子供の歌を、教訓的な「学校唱歌」から、「創作童謡」へ変える、画期的な児童文芸誌だった。


八重吉は、伝統的な「わらべ歌」と違う、欧風な香りの西条八十の
「鈴の音」(王様の馬の、黄金の鈴……)が既に評判になっていて、かれに注目していたのだった。
八重吉は、直接、八十の自宅を訪れ、新しい童謡の作詩を依頼した。
「芸術的な子供の歌を」
しかし、いままでそんな童謡を書いた人なんて、だれもいない。
悩みに悩んだ末、西条八十は、童謡にフランス象徴詩の手法を取り入れよう、と考えた。
子供に「高貴なる幻想」を与える。

04
ヨーロッパ王宮

難しそうに思えるが、要するに、「童謡とは、芸術的な内容をもった詩だ」
と結論ずけたのである。

唄を忘れた カナリヤは
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄を思い出す

夢幻のファンタジーを紡ぎだしたこの唄は、国中の子供や親から大きな反響を呼んだ。
八重吉は、とても喜んだという。
この時の「カナリヤ」の唄の感動を、娘のすずさんは、よく覚えている。
当時、大きなラッパのついた蓄音機を懸命に廻して、父八重吉が聞かせて
くれたという。


05
大きなラッパの蓄音機 手でまわす


不忍池のほとりに、この、歌碑がある。

06

西条八十の童謡は、都会の少年のマインドが匂う。
僕の印象に深いのは、「きりぎりす」という童謡である。

「夕べ、夢で、姉さんの赤い手箱に
 『きりぎりす』を入れておいた。
 どうなっただろうか。
 それを、確かめようと、
 朝、ふたをあけると、
 『きりぎりす』は、
 緋鹿子(ひがのこ)のきれいな、
 ひすいの櫛(くし)になってころげでた。
 これは、夕べの夢にみた
 『きりぎりす』なのだろうか。」


姉の持ち物とはいえ、赤い絞り染めの、ひすいの櫛はなまめかしい。
若い女性の持ち物をめぐって、ときめく思春期の少年の、危うさがファンタスジックだ。

西条八十は、その後、童謡をつくり続けるが、だんだん
童謡から、少年詩の方向にむかっていく。

母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね?
ええ、夏、碓井から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

                    
この、「ぼくの帽子」という詩は、森村誠一の小説「人間の証明」(1976)で、
一躍、有名になった。
エレベーターのなかで殺された黒人が、西条八十の詩集をもっていて、
事件の解決に、この詩が重要なてがかりになるという、ストーリーだ。


ぼくもこの詩が好きだ。
不思議な非現実のイメージのこの詩は、少年詩の新ジャンルを予感させたが、
大震災を経て、西条八十は、大胆な方向転換をしていった。
大衆歌謡の方向に切り替えてゆくのだ。
関東大震災のがれきの中で、人々は虚脱状態に陥っていた。
そんな時、上野の山で、少年が大衆歌謡をハーモニカで吹いていた。
人々がそれに引き込まれるように聞き入っている。
それをみて、西条八十は、なにかを感じとったのだった。

07
下町風俗資料館 昭和の喫茶店


昔恋しい銀座の柳
仇な年増を誰が知ろ
ジャズでおどってリキュルで更けて
あけりゃダンサの涙雨
    (東京行進曲1929)

あなたのリードで、島田も揺れる
チークダンスの悩ましさ
乱れる裾も恥ずかし嬉し
芸者ワルツは 思い出ワルツ
   (芸者ワルツ、1952)


「え?これ西条八十の唄なの?」
フランス象徴詩の影響から発し、童謡、それから少年詩、最後は、大衆のなかに
ひたり、ともに肩組み歩むようなパワフルな歌謡曲をつくっていった。
「誰か故郷を想はざる」「青い山脈」「王将」など、
大衆に愛された、童謡,歌謡曲は2500曲に及んだという。


ぼくは、帰りがけに不忍池のほとりの「下町風俗資料館」に立寄り、
大正、昭和の道具や玩具など生活の品々をみながら、
いや、さわりながら(さわっていいそうだ)西条八十の時代の匂いにひたった。
人間が人間臭く、貧しさ、や災害、戦争に苦しめられた、大正、昭和。
そのあけくれが、涙や、あきらめの歌に、滲みでた。
すぐれた作詞、作曲家たちが、素晴しい作品を生み出し、
いまも、ぼくたちを癒してくれるのである。

08
伊東深水の画


09
昭和の駄菓子屋

八十の散歩道の東照宮そばに新鶯亭という、だんご屋がある。
抹茶、餡、白餡の三色だんごだ。
大正4年(1915)からの名物茶屋なので、八十も食べたかもしれない。
それと、この前も紹介したが、K子ちゃんご推奨の上野の「みつはし」で、
おいしいあんみつを買って帰った。


10

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渋谷。都市に刻む、4つの詩。

01
渋谷109


 空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突抜け星になる
 火を吹いて 闇を裂き
 スーパーシティが舞いあがる

(TOKIO/作詞 糸井重里、作曲 加瀬邦彦、歌 沢田研二)

「TOKIO」が、ブラウン管にはじけた時、「有楽町で逢いましょう」や「新宿の女」などの
都市ソングの、湿り気のあるメッセージと違うパンチに驚いた。
これは、シブヤの歌ではないか。そう思った。
ほかの街にはない、マグマの炸裂したような目眩を覚えるのだ。
渋谷駅ハチ公銅像前のスクランブル交差点は、青信号40秒間に2000人が渡るという。
大音量の音楽、ビルの壁面に組みこまれた、いくつもの巨大なビデオ画面。
まさに沸騰する街だ。
大音響と、極彩色のこの渋谷で、
あるいは自己を顕示し、あるいは都市に溶け込んで自己を消去しようとした、
4人の影を追ってみた。

02
109とセンター街 左上 南条あや

1、南条あや。「卒業するまで、死にません。」

109には、少女が群れている。
7階の、レストゾーンにたどりつくのにも、おじさんは、
女性専用車に乗り込んでしまった冷や汗に近い困惑を覚える。
南条あや(18才)もそこの少女の群れのなかのひとりだった。

彼女は、リストカッターで苦しみぬいてきた。
ネット上の日記では、軽いノリで、
「いつでも、どこでもリストカッター」などと、おどけていたという。
ウイットやセンスに恵まれ、明るくて、マスコミにも注目されていた。
悩む自分を、客体化した、軽やかな日記は公開され、多くの少女の共感を呼んだ。
しかし、ホンネは、どう生きのびようか、とギリギリの瀬戸際のあけくれだった。

「なんで自分を虐げるのか。
 マゾフィストじゃあ、ありません。どうしたら治るの?
 どうしたら、痛いことがいやだと思えるようになるの?
 でも一番の疑問は。どうして自分を虐げるのか、という理由です。
 考えていると、わけがわからなくなって、涙がでます。」

リストカットと絶縁出来ない、深い苦悩が日記の行間に感じとれる。
3才のとき、両親が離婚、小学校でいじめにあい、中1の時、クラスで孤立し、
その時から、リストカットをはじめた。
高校は不登校、鞄には、大量の薬、自殺未遂。

渋谷センター街や109あたりは、少女たちの蝟集する聖域である。
南条あやの逃げ場は、ここしかなかったのかもしれない。
しかし、たったひとりで、都市のなかで生きていくには、内面の充実が必要だが、
18才の少女に、それを求めるのは酷だ。
何回かの自殺未遂をくりかえしたあと、
1999・3・30、カラオケボックスで、大量の向精神薬を飲み命を絶った。
自己表出か、透明な存在への逃亡か。
彼女の選択は、いずれにも出口がなかった。
父親は、日記をまとめて、「卒業するまで死にません」(新潮社)
という彼女のつぶやきを出版した。

03
円山町


2、円山町、夕闇の丘、東電OLの場合

「お茶しませんか」
一流企業に勤め、才能にも恵まれ、なんの不自由もないようにみえたハイミスの女性。
ひそかに夕暮れの丘の街、円山町の暗がりに立って、変身し、春を売っていた。
そして、ある夜殺された。
娼婦に変身した動機や理由、すべては、彼女の胸のなかに沈んだまま、闇に葬られた。
彼女が、大学在学中、一流企業の重役のポストを目前にした父親が急死した。
尊敬する父を失い、彼女は拒食症に陥ったという。
その後、父と同じ職場でエリートとして活躍するが、
同僚との競争に破れ、更に不本意な職場に移動させられるなど、
環境の激変のなかで、生き抜く意思が崩壊していったとみられる。


04
円山町


上昇志向と、高いプライド。
父親は彼女の価値観に大きな影響を与えてきたようだ。
「父の期待に答えられなかった」、と彼女は挫折感のなかで思いつめたのだろうか。
それが、彼女自らに懲罰的な生き方をさせたのではないか、という心理学者の分析もある。
彼女を支えた誇り高いものが崩れた。
春をひさぐだけでなく、帰宅途中の電車内で、人目をはばからず、
パンやそばをほうばるボロボロの彼女が目撃されている。
自分をゴミくずとして、捨て場所を都市の暗闇に選んだのか、
その途上で、ゴミのような男に殺された。
しかし、その前に彼女は、実質、死んでいたのだ。
戦死のような、そのストイックな決意には、心うたれるものがある。


05
渥美の銅像 柴又にある

3、代官山。渥美清の隠れ里。

俳優は、悪役でも善良な市民でも、さまざまな役を演ずるが、
観る人は、その役が俳優の実像だとは思わない。
しかし、まれに役柄が本人の実像に似かよっていると、誤認される場合がある。
渥美清と寅さんの間柄が、それだろう。
寅さんという役が、国民的に愛されたキャラクターということもあるだろうが、
寅さんイコール渥美清の図式が定着してしまった。
「寅さんが、田所康雄を飲み込んでしまう」と、渥美清が嘆いたという。
田所康雄は、渥美の本名だ。
彼が、自分と一体化してゆく寅さん像に違和感をもっていたのは事実のようだ。
やや、厭人癖のある渥美ではあるが、演技者としての自分と、生身の自分の区分けには、
ことのほか神経質だったらしい。

小林信彦氏は、渥美について、興味深いエピソードや、評伝をのこしているが、
渥美ほど実像と虚像の乖離が甚だしかった人は珍しいとのべている。
渥美はプライバシーにこだわり、私生活は、みせなかった。
「俺になにかがあったら、男は家を守れ、女は逃げろ」と家族に遺言したエピソードもあり、
知人に車で送られても、隠れ家は、見せなかった。
渥美は、野球帽を目深にかぶり、自宅とは別の、代官山の同潤会アパートにひそみ、
そっと孤独な人生を楽しんだ。
かなり老朽化したマンションだったが、いまは建て替えられた。
すぐ近所に洋食屋の「小川軒」があり、そこへはよく通ったという。
俳優のみならず、人間は、自己表出の願望の反面、
過度の自己表出に疲れ、逃げ場を求めることがある。
さて、渥美清は、どういう心境で、都市にひそんだのだろうか。

06
代官山

07
歩道橋上から夕日を眺めた


4、青山246通り。尾崎豊、17才の地図。

246沿いの渋谷駅近く、東邦生命ビルの一角。
尾崎豊の歌碑のプレートがある。
尾崎の通った青山の高校の道筋にこのビルと歩道橋があり、
そこからビル群を縫って沈む夕日を、尾崎少年はいつも眺めていたという。
少年にとって、偏差値支配のつよい風潮の灰色の時代だった。
かれは、学校や、家庭と自分との葛藤に苦しみ、絶唱とでもいうような
響きの歌で、若者の共感を呼んだ。
自分の居場所は、必然的に都市に向かうのだ。

~強く生きなきゃと思うんだ。
………歩道橋の上、振り返り、焼け付くような夕日がいま、心の地図の上で……
(17才の地図)

~落書きだらけの教科書と、外ばかり見ている俺………
とにかく、学校や家には帰りたくない………
(15の夜)

08
尾崎のレリーフ

悩みをふりしぼるような歌、ひたむきな心情は、多くの若者の胸に響いた。
かれは、完全主義者だったと聞くが、亡くなる数年前は、周辺と意思が通ぜず、
不完全な燃焼に苦しんだという。
小説や写真詩集も書いたが、歌詞は、音楽性より苦悩に満ちた叫びに走っていった。
今、歌碑のある歩道橋のれんが壁に、尾崎へ共感のメッセージが、数かぎりなく書きつらねられている。
そこに佇む若者は、いまも絶えることはない。

ーーー僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものが何なのか それがこの胸にわかるまで      

(「僕が僕であるために」尾崎豊)

渋谷。4人の刻んだ都市とのきずな。
それぞれの心音とどうひびきあったのだろう。

09
西に向けて記念碑、壁面に追悼のメッセージがいっぱい

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ぞうさん、ぞうさん、おはなが長いのね。はな子。

01
はな子


ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ
(まど みちお作詞、団伊玖磨作曲)


はな子は老いた象さんだ。
井の頭自然文化園にいる。
今年、63才で、日本にすむ象の最年長である。
4月5日、月曜だったが、井の頭池は、桜見の人々で、一杯だった。
その先に、はな子の園舎はあるが、そこは見物客は少ない。
はな子は、お尻をこちらにむけて、体をゆすりながら、なにか拾って食べている。
「ぞオー」
おかあさんに抱かれた、幼児が、口とんがらかす。

02
井の頭池


「はな子オ」
「はなちゃんー」
だれかが、2回呼んだら、ゆったり体を動かして、右目をこちらにむけた。
「歳だねエ」、一様に皆、同じ感慨を抱く。
想像を超える、老いにみえた。


03
資料室

時代は、一挙に、第二次大戦中にさかのぼる。
東京音楽学校に通う、作曲家の団伊玖磨さんは、ある日、
上野動物園の正面に葬儀用の幕が張ってあるのをみた。
1943年のことだ。
戦争が深化し、食糧難と爆撃の懸念から、
政府はサーカスや動物園の大型動物を、殺害するように命じた。
団さんがみた光景は、動物の処分が終わったあとの、戦時殉難動物慰霊祭の時だったのだ。
当時、猛獣類はもとより、3頭いたゾウも、殺処分の対象となった。
それぞれの飼育係は、泣きながら、毒の入ったエサを与えたという。
ゾウは毒入りのエサを察知するため、餓死させる手段をとった。
芸をすれば、エサがもらえることを知っているゾウは、必死で芸をしたという。
現場の飼育係たちの心痛は、想像を絶するするものだったに違いない。
約一ヶ月後、3頭は、命を絶った。
そのうちの一頭の名が、「花子」だった。


04

悪夢のような戦争が終わった。
昭和49年。
平和の親善大使のようなゾウが、やってきた。
タイからきた2才と、インドからきた7才のメスのゾウだった。

その2才のいたいけなゾウが、「はな子」だった。
はな子という名は、戦時に、無念の死をとげた「花子」を偲んでの命名だといわれた。
上野動物園に登場した二匹。
幼い、はな子は、7才の「インデイラ」に、
母のようなイメージで、甘えたのかもしれない。
昭和51年、まどみちおさんは、「ぞうさん」を作詞する。
そして、翌年、団伊玖磨氏によって作曲され、この唄は人気を拍す。
団さんは、この曲はわずか数分でつくりあげたという。
戦時の動物園での悲劇を見聞したことも、要素としてあったのだろう。
「詩が自然と、体にはいりこんできた」という。
まどさんは、
この唄の成功は、依頼者の酒田さんと、作曲の団さんのちからだと、いう。
「ぞうさん」の詩は、求められて、あわただしくつくりあげたものだ、(だから、たいしたものではない)
そう、まどさんは謙虚に語っているが、
まどさんの詩には、虚飾のない、ものの本質を凝縮した作品が多い。 
「やぎさん ゆうびん」や「一年生になったら」なども、シンプルで、楽しい。

ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ

05
子供


まどさんは、5才のとき家庭の事情で、両親と別れた。
朝、目を覚ますと、母や兄、姉がいなかった。
「食べるように」と、母から、手紙と饅頭が残されていた、という。
幼児体験が、やさしさと、虚飾のない心をもつ彼に、どんな影響を与えたのだろう。
詩のシンプルさと、実存を見抜く目の鋭さは、
山頭火の句を彷彿させる。

「酔うて こほろぎと 寝ていたよ」
                 山頭火

はな子、に話をもどそう。
はな子は、現在の井の頭自然文化園に移される。
上野動物園では、ジャンボー(メス)が加わり、象は三頭に増えていたが、
はな子がトラックで去るのを、互いに哭いて悲しんだという。
はな子の苦難は、そこからはじまった。
ゾウは群れで生活する動物である。
母ゾウからも、アンジェラからも離され、子ゾウの、はな子はストレスに陥った。
2年後深夜、侵入した酔客や、飼育担当者を、あやめてしまった。
人間不信に陥っていたのだろう。。
暗い象舎に足四本を鎖で繋がれて、はな子は餌も細くなり、ガリガリにやせた。
人前にでるのも拒み、6年も引き蘢った。
赴任してきた飼育員の山川清蔵さんは、すっかり心を閉ざしたはな子の気持ちを、
少しずつほぐしていった。
外にはな子を出すと、「人殺し」と、心ないヤジや、投石などが浴びせられた。
そんな時も清蔵さんは、はな子のそばでやさしく、体をさすってあげ続けたという。
30年つきそって、清蔵さんは、そこを去った。


06
はな子の苦悩


ゾウは利口で、情の厚い動物だといわれる。
いろいろな、エピソードにかこまれた、はな子というゾウの一生をかんがえる。
しあわせだったか、ふしあわせだったか。
まどさん的に考えれば、

ぞうは ぞうであって
ひとりきり のぞうとして
ぞうらしく 生きている

という禅問答のような答えがかえってきそうに思える。

はな子の園舎から離れて帰途につく。
なぜか、花々がやさしく、鳥や、小動物が、元気なのが、目についた。

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はな子

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自然文化園の動物たち

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秋でもないのに、「ちいさい秋」みつけに散策、弥生町。

01
異人坂


ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた。

秋でもないのに、サトウハチロー(1903~1973)に逢いたくなって、
小さい秋みつけにかれの自宅あたりを散策に出掛けた。

ハチローは、自宅の庭の「はぜの木」が、夕日に赤く映える情景に、ちいさい秋をみつけた。

ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた。
(サトウ ハチロー作詞、中田喜直作曲)1955年


根津から弥生町に向かって、言問通りが延びている。
その裏道に「異人坂」がある。
ゆったりと、その坂を上る。
後ろから来た母子が、なにか話している。
「お約束したでしょ」
「ネ、したでしょ」
1~2才の子供が、だだをこねてなにか、ぐずついている。
写真を撮りながら、坂を登るぼくを、母子はやりすごす。
ボクが、ニッと、笑ったら、
こちらをむいた子供が、ニコッとした。
「いま鳴いたカラス」
母親も、僕を見て微笑んだ。

02
異人坂 母と子

この異人坂の上には、かって、開明期の明治に外国人の学者達が、居住していた。
日本の医学の発展に寄与したベルツ(1876年)もここを行き来したのだ。
ベルツは、この街や、不忍池をたいへん好んだという。
ハチローも、この近所に住んでいた。
自宅周辺のこのあたりは、かれの散歩道だっただろう。
坂道沿いには、名前は判らないが、白や、黄色や、ピンクなど、色ずいた木々が、連なり、和ませる。
ちょい、横道にそれてみた。
枯れた蔦が這う、古ぼけた旅館や古風な民家が、ひとけのない沈黙で、
昭和初期の時間で止まってる。

03
ハチロー邸周辺


サトウ邸は、もう壊されて、なかった。
2~3軒手前のデイサービスのマンションにいた年配のご婦人に、
ハチロー氏の印象を訊ねた。
「きさくで、おっもしろい、方だったですよ。」
むこうから、「ちいさい秋」の話題に触れた。
「歌ができたとき、だれに唄わそうか、と大声で、電話で話していたのが
 ご近所でも聞こえたそうですよ」


ハチロー邸跡は、ふたつに区分され、半分住居、残りの駐車場の角に、碑が建てられていた。
数人の、文学散歩らしい女性のグループが、説明を聞いている。

04
文学散歩の人々 ハチロー邸跡

「ぼくは、ハチローのお妾さんの息子と、小学校の同級生だったんだ」
と、案内人のレアな情報にご婦人達はざわついた。
「オモロイな」
それにしても、サトウ ハチローという、仮名書きの名前がいいね。
本名は、佐藤八郎と漢字だが、ペンネームでサトウハチローと、なぜ変えたのかネ。
理由は、群馬県で同名の強盗が、静岡県でやはり同名の詐欺師が捕らえれたのに、
嫌気して仮名書きに変えたのだそうである。

ある日の午後、ハチローは、いつものように、
敷きっぱなしの布団に腹這って障子越しに庭を眺めていた。
よく繁った「はぜ」の木に、夕日が注ぎ、真っ赤な色にかがやいていた。
ちいさい秋は、そのとき見つけたのだ。
ハチロー邸が壊されて、「はぜ」の木は、地下鉄の後楽園そばの、礫川公園に移築された。
その公園に立ち寄ってみたが、いまは葉を落として「はぜ」は淋しそうだった。
手前のベンチで、老人や営業マンらしき人達が、浮かぬ顔ですわっているせいか、
「はぜ」は、一層、寒々としてみえた。

05
礫川公園の「はぜの木」

話は、ハチロー邸に戻ろう。
「ちいさい秋をみつけた」の詩は、朝日のBeの伊藤千尋さんの取材によると、
隣家の水野陽一さん(68)の少年時代が、モデルになっているらしい。

誰かさんが 誰かさんが 誰かさんがみつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋みつけた

亡くなったハチローの奥さんの房枝が、
「あの童謡のモデルは、あなたですよ」
と水野さんに語ったという。
水野さんも
「北向きの部屋で、くもりのガラスから、「はぜ」の木が見えるのは、うちしかありませんね」
と、うなずいたという。

確かに、現地に立つと、その通りの風景だとわかる。
水野さんちの、二階の曇りガラスの、窓がみえる。
蒸気でミルクのように融けた窓ガラスを通して、「はぜ」の木を眺めている、
うつろな瞳の水野少年の姿が、目に浮かぶ。
そんな少年の姿を、ハチローは眺めたのだろう。
ふと、のぞきみた印象が、詩になった。
一方で、裸で過ごすことが好きで、客が訪れると、うちわで、前を隠しながら
応対したという、ハチローの姿を少年は目撃しただろうか。

06
水野少年は2階左の部屋にいた。くもりガラスの窓だ。


ハチローは、少年時代不良で、ゆすり、暴行など、悪いことのかぎりを尽くし、
そのため無数の痛い目にあった。
落第、転校、勘当など数知れず、手のつけられぬ程、反抗し、荒れた。
それも、父紅禄の浮気や離婚が原因だった。
大好きだった母親から、もぎとられるように離され、自暴自棄に陥ったという。
アア、母恋し。

かれの詩に「母想う日の わが心 すなおなり」と、かわいい一章がある。
母と別れたハチローは、約3500編もの母を偲んだ詩をつくった。
その「おかあさん」の詩を読んで、元首相の田中角栄は、思わず涙を流した。
そして、感動のあまり、ハチローの自宅を衝動的に訪れたという。


07
弥生町から根津への展望


ハチロー宅跡に、詩碑を建てたのは、向かいに住む、岡本春枝さん(79)である。
岡本さんも、母を恋うハチローの詩への、想いは深い。
碑に刻む、彼女の選んだ詩は、

此の世のなかで
唯ひとつのもの
そは母の子守唄

サトウ ハチロー

移植された「はぜ」の木は、秋になるとすばらしい輝きで、赤く色ずくそうである。

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岡本さんの建てた碑

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赤い靴ゥ〜はいてた〜女の子ォ〜の「きみちゃん」を考える。

01
きみちゃん

赤い靴はいてた、女の子、
異人さんにつれられて、行っちゃった。

おなじみの童謡だ。

横浜の波止場から、船に乗って、
異人さんにつれられて行っちゃった。

横浜の山下公園の波止場に、赤い靴をはいた、女の子のブロンズ像が、建っている。
異人さんに連れられて、船に乗って、外国に行ってしまった薄幸なイメージの少女の像だ。
あたりを散策する若いカップルや、昭和に郷愁を感ずる人たちなどの、人気になっている。

この話が、フィクションだったことは、わりと知られているのに、
なぜか人々の心に強く響くのである。

少女像のモデルは、実在していた。
悲しい物語もあった。
だが、少女は、横浜の波止場から、異人さんの国へは行かなかった。
像は、この歌の作詞者、野口雨情の童謡のイメージで製作されたものだった。
雨情は、友人から聞いた、ある悲しい少女の話をヒントにこの童謡をつくった。
少女の不幸な実話を、異国に去る女の子の不思議なイメージに変えて造形、素晴しい詩に昇華させた。
リアリティかアクチャリティか、強い表現方法の秀作であろう。
憂いをふくむ、印象的な曲は、本居長世が作曲した。


02

発掘された、事実について、すこし述べよう。
この少女の名前は、”岩崎きみ”ちゃん。
明治の末期に、静岡県清水市旧不二見村に生まれた。
両親に連れられて、北海道の開拓地(留寿都村)に入植する。
しかし、寒冷地で、痩せた土地という過酷な現実や、呼び寄せた弟の死、
それに、開拓小屋の火事など、さまざま不運に見舞われた。

耐えかねた母親は、夫と離婚し(このあたりの事実は不確か)、きみちゃんを連れ、開拓地を去った。
しかし、女手ひとつで、3才だった、きみちゃんを育てることは難しく
泣く泣く、函館のアメリカ人の宣教師チャールス、フュエット夫妻に養女として養育を託した。

3年後、フュエット夫妻は、日本での宣教を終えて、帰国することになった。
きみちゃん6才の時だった。
あとから思えば、きみちゃんにとっては、フュエット夫妻との、その3年間が、
せめてもの安らぎの人生だったのかも知れない。
夫妻は、きみちゃんを連れ、帰米しようとした寸前、
きみちゃんが、当時は、不治の病とされた結核に冒されていることがわかった。
病は船の長旅に耐えられぬ重いものだった。
やむなく、きみちゃんは、麻布十番にある、鳥居坂教会の孤児院に預けられ療養を続けた。


03
鳥居坂教会の近くの鳥居坂

しかし、病状は、悪化の一途。
孤独と絶望に苛まれながら、きみちゃんは看取る人もないまま、
古ぼけた木造二階建ての片隅の病室で、9才の短い生涯を閉じた。
明治44年9月15日の夜だった。

その、孤児院は、今の十番稲荷神社のある旧永坂町50番地にあった。
そこへ、いってみた。
ぼくが写真を撮っていると、近隣の小学生が、神社の前をはしゃぎながら帰る。
なんの不自由もなさそうな、屈託のない少女達。
きみちゃんもこんな年頃だっただろうか、と胸が痛む。


04
十番稲荷神社 きみちゃんのいた孤児院跡


この童謡が、発表されると、たちまち全国の人々に愛唱されたという。
母親の「かよ」は、きみちゃんを手放したことを悔い、行方を探したが、
その後の消息はつかめず、あきらめていたという。
きみちゃんの死も知らされていなかった。
かよは、雨情の童謡を、「きみちゃんのことを唄ったものですよ」と聞かされていた。
「赤い靴はいてた女の子」と、いつも口ずさみながら、フュエット夫妻のもとで、
しあわせに暮らすきみちゃんを偲んでいたという。
この悲話のゆかりの地、北海道(留寿都と函館西波止場)それに日本平にも、それぞれ像が作られていると聞く。

麻布十番の、きみちゃんの像は、この町のシンボリックな公園、パティオ十番に建てられた。
彫刻家の佐々木至氏の製作だ。
国際的な麻布十番に12ケ国の彫刻家の作品が、
パブリックアートとして、歩道を飾っているが、
きみちゃん像もそのひとつだ。


05
パティオ十番 右手奥にきみちゃんの像

きみちゃんの像が、設置されたその日の夕方、誰かがそこに18円を置いた。
それが、チャリテイの始まりになり、1日として醵金が途絶えることなく、今日まで続いている。
集まったお金は、ユニセフや、阪神大震災の義援金として贈られた。
その額は1000万円をこえたという。
きみちゃんの物語が、人の心をうち、きみちゃんの魂が、それを支えているのだろう。


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野口雨情(1882~1945)についてもふれねばなるまい。
この物語の最大の立役者なのだから。
雨情は、茨城県多賀郡出身で北原白秋や、西条八十と並んで「童謡界の三大詩人」と、いわれた。
雨情は、作曲の中山晋平や、本居長世と組んで、土の香りのする美しい自然詩の名作を残した。
"赤い靴"、をはじめ、"十五夜お月さん"、"七つの子"、
"青い眼の人形"、"船頭小唄"。
題名を聞いただけで、涙腺がゆるむような、曲ばかりである。
やさしい、やさしい人である。
「しゃぼんだま」という童謡も有名で、みなさんもご存知。

しゃぼんだま、消えた。
飛ばずに消えた。
生まれて、すぐに、
壊れてきえた。
風 風 ふくな。しゃぼんだま飛ばそ。

これは、雨情が、愛児を亡くしたときに、作った童謡だといわれている。
生まれて数ヶ月で、亡くなった深い悲しみが、痛切な思いでせまってくる。
「生まれて すぐに
 壊れて消えた」
ぼくにも、1才の妹を亡くした経験がある。

再び、きみちゃん。
きみちゃんの墓は、青山墓地にある、という情報がある。
不確かだが、こんど訪ねてみようと思っている。


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