漱石ハートにナビゲート

日本人の悩みは、ほとんど漱石も悩んだという。 漱石のこころと、その痕跡を辿る散歩地図。

〜漱石ハートにナビゲート5〜漱石の神楽坂

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神楽坂

漱石山房から早稲田通りを、神楽坂まで一直線だ。
漱石は、頻繁に神楽坂に出かけた。
したがって、彼の書き物には、神楽坂がよく登場する。
漱石は、1909年4月4日寺町へ下駄を買いにでかけて、途中で、
胃が痛くなってしまった。
しかたがなく、神楽坂の坂の途中で、毘沙門天に立寄り、
境内で腰をおろし、しばし痛みをこらえた。
まわりを見渡す。
柳が芽を吹き風にゆれる様子や門の傍のさくらの蕾みがふくらんでいるのを
目にする。
ボクは、この寺で漱石の腰をおろしたあたりを探した。
階段あたりしか、それらしき座り場所は見当たらなかったが、
ふと見ると、階段に「坐るべからず」の寺からの注意書きが貼ってある。
どうやら、みなここに坐り込むようだ。


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毘沙門天

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階段の禁止札

漱石は縁日も楽しんだらしい。
小説「坊ちゃん」にこんなことが書いてある。
「毘沙門天の縁日で8寸ばかりの鯉を針で引っ掛けて、しめたと思ったら
 ポチャリと落としてしまったが、これは今考えても惜しい、と言ったら、
 赤シャツは顎を前の方へ突き出してホホホホと笑った」


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毘沙門天の縁日はここで


寺の隣は、田原屋という牛鍋屋(のちにレストラン)だった。
漱石はじめ、永井荷風、菊池寛など文豪が贔屓にした。
息子の伸六が風邪をひくと、漱石はここからポタージュのスープや
メンチボールを取り寄せたという。
残念なことに、店は平成14年に閉店してしまった。

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もと田原屋があった


田原屋のあった斜め向かいには、漱石のオリジナルの原稿用紙を
作っていた相馬屋がある。
朝日新聞の小説の活版の組みに合わせて、マスは19字X10行だった。
相馬屋は、1659年の創業で、創業時は和紙を漉いて江戸城に納めていた。

相馬屋の正面には、地蔵坂(藁店わらだな)が伸びている。
明治時代にこのあたり寄席がいくつかあり、
この坂の中程にあった和良店亭(わらだなてい)には、
三代目小さんの至芸に魅せられた漱石が、足しげく通ったという。
いまその寄席はないが、飲食店で落語の席を設けている「もん」という店がある。

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原稿用紙の相馬屋

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地蔵坂、藁店は右

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和良店亭は坂の中程だった


当時は、神楽坂は、毘沙門天の門前町として賑やかで、
明治28年の暮れ、見合いを終えた4日後、漱石と鏡子夫人がこの坂を人力車ですれ違ったが、
互いに相手が声を掛けてくるだろうと思い、無言ですれ違ったという。
鏡子夫人は、著書「漱石の思い出」の中で、そのときお互いにもったいぶって知らん顔をした、と書いている。
しかし、どこか別な街で見合いをしたのだろうが、
再び、この坂で出会うフシギな因縁に、漱石は結婚のほぞを固めたという。
小説「それから」の舞台もこのあたりで、主人公の代助と三千代の日常に
神楽坂はしばしば登場する。

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神楽坂


神楽坂を下り外堀通りを右折すると、
「坊ちゃん」の出身校の東京物理学校(東京理科大学の前身)が、復元されてある。
坊ちゃんは、学校の前を通ったら募集広告がでていたので、これも縁だと、
すぐ入学してしまった。
カルい学校のように小説では描かれているが、
実態は、入学は簡単だが卒業は容易ではない厳しい学校だった。
坊ちゃんと同期の明治35年の入学者208名のなかで3年で卒業できたのは
25名だけだったと、関川夏央さんは調べている。
漱石は、ここの三代目校長の中村恭平と懇意だったので、この学校名を小説に
使ったのだろうといわれている。


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坊ちゃんの物理学校

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神楽坂の料亭


さて、かように神楽坂は、漱石に縁の深い街だった。
坂下から坂上を仰ぐと、葉脈のように神楽坂の左右に小路が
張り付いている。花街あり、老舗がひしめき、フランスの香りもあり、
漱石の時代以前から、今日に至る由緒の密集する街である。
ここを訪れる人々は深い情緒に誘い込まれる。

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神楽坂の小路

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〜漱石ハートにナビゲート4〜硝子戸の中

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漱石像


庭で子供たちが焚き火で遊んでいる。
漱石が、「そんなに焚き火に当たると、顔が真っ黒になるよ」というと、
末の子が「やだぁ」といった。(硝子戸の中)

漱石は、精神的な病の発作がなければ、怖くない優しい父親だった。
「もういくつ寝るとお正月」と子供と唄ったり、鞠をつき、散歩に連れ立って玩具を買ったり、
アイスクリームを一緒に舐めたり、子供とよく相撲もとった。
かるた取りも好きで、子供に混じって遊んだが、気にいったかるたは、誰にもとらせなかった。
それは、
「屁をひって尻つぼみ」
「頭かくして尻隠さず」
「臭いものにはふた」
という変な3枚にこだわり、だれにもそれをとらせないユーモリストだった。
しかし、いつ突然、病気が爆発するやもしれず、家族はいつも恐れていたという。

ある早朝、みなをたたき起こし、そのまま洗面所で髭を剃った。
「ギーギー」というカミソリを研ぐ音に、
みな震えあがったと孫の松岡陽子マックレインさんは、伝えている。

赤茶けた素焼きの鉢をたたき割った直後、漱石は悔悟する。

「……むごたらしく砕かれたその花と茎の哀れな姿をみるやいなや彼は、
 すぐまた一種のはかない気分に打ち砕かれた。
 なにも知らないわが子の、嬉しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは
 かれらの父親であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。」(道草)

と、病の発作に苦しんでいたのだ。

猫の千駄木の家から本郷近辺に1年弱住み、そして生まれた早稲田近辺に漱石は移り住んだ。
約10年ここで最後までの生活が続くのだが、吐血した修善寺の大患を経て、この漱石山房とよばれる
家で、妻や子供との暮らしや木曜会の若い人々との集いを楽しんだ。
作品の「硝子戸の中」は、その病後の日々の感想や、回顧を淡々と語ったエッセイで、
ぼくの好きな一篇である。


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漱石山房

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山房のベランダでくつろぐ

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後列右から3が漱石と前列左から6名が妻子

漱石は、その山房に近い場所で生まれた。
早稲田通りから夏目坂へおむすび型に道路を一巡りすると、当時の漱石の生い立ちから終末までの、
環境を偲ぶことが出来る。
生家の跡に碑が建っているが、その碑には見向きもせず若者は、隣家の牛丼屋に急ぐ。
そういえば、漱石は、牛肉がことのほか好物だった。
この牛丼屋はそんなことは知るまい。

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漱石山房跡

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漱石生家跡の碑


かどの酒屋は小倉屋、江戸時代からある店だ。
高田馬場の決闘に駆けつけた堀部安兵衛が、店で升酒をあをった、その升が残っているらしい。
公開していないからわからないが、漱石もそれをみたことがないなどと、書いている。
ただ、その酒屋の娘御北が長唄をさらうのを、少年時代の漱石は、家の土蔵の白壁にもたれながら、
ぼんやりと聞いていた。
「旅のころもは、鈴懸けの……」などという文句を自然と覚えてしまった。

近所の路地に、そんな感じのお師匠さんの立て看板があった。
ボーンという鐘の音が竹薮の奥から 聞こえて来た誓閑寺もすぐ近くである。

「……朝晩のおつとめの鉦の音はいまでも私の耳に残っている。
 ことに霧の多い秋から冬にかけて、カンカンと鳴る西閑寺(ママ)の鉦の音は、
 いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。」(硝子戸の中)


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右は夏目坂、左は小倉屋酒店

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お稽古所


かれは生まれ落ちてすぐ、
古道具屋にもらわれ、また別の家に養子に出され、三度目に生家に戻された。
こんな惨憺たる幼少時代を経て、グレもしなかった漱石は、その代償に内深く精神的な傷を負ったのだろう。
作品の中には、その境遇の恨みつらみは、洩らしていない。
だが、その生い立ちの悲しみと、近代日本の開明期の不安が、
漱石をひどく苦しめたに違いない。
だから、その人生に共感し、漱石を慕う人々が多いのだろう。
漱石の死後、17回忌も迎えたというのに、集まった小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平が、漱石を惜しみ、
その薫陶を得られた幸せを噛み締め、しみじみ泣いたという。
松岡譲の述懐だ。
漱石はいつまでも懐かしい人である。

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誓閑寺、左鐘楼

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木曜会の面々。津田青楓画

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山房周辺の家並

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〜漱石ハートにナビゲート3〜本郷、三四郎の恋。

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本郷、東大前


漱石の小説「三四郎」の主人公三四郎は、よく本郷界隈を歩いた。
かれは熊本から上京した旧制の一高生だ。
いまも当時の建築物が、本郷にはたくさん残っている。
その三四郎と美禰子(みねこ)の恋の道行きを中心に街をたどってみよう。

まず、二人の出会いは、東大構内の心字池(後に三四郎池とよばれる)だ。
かなり深く掘り下げられたこの池は、鬱蒼とした森に沈んで神秘的だ。
思わずこの深淵な空間に厳粛な気持ちをもつ。
美禰子は、そこで出会った三四郎を印象的な瞳で魅了する、
そして手にもった白い花を、はらりと三四郎のかたわらに落として去る。
笑ってはいけない。
いまではそういう「ハンカチ落とし」はお笑いネタになっているが、
当時としては、女性が相手の気をひく、先駆的なアクションだったのだ。

ともかく、三四郎池は恋の舞台にふさわしい。
ちょっと脱線するが、かの有名な小泉八雲(ラフカデイオ、ハーン)が
東大での英語の授業後、いつもこの池をうろうろしていたらしい。
ナゼなの?と聞かれて、
「授業後に教員控え室で、皆としゃべるのがめんどくさいので、ここで時間をつぶすのだ」
といっていたとか。小説のなかにある。
オモロイじゃん。


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美穪子は石橋を渡り、三四郎と出会う

三四郎と美穪子との出会いの後、美禰子の誘導で、交際は進んで行く。
二人の生きた明治という時代を、司馬遼太郎は、こうまとめている。
〜日本人が日本の良い文化を捨てて、西欧文化を崇拝してとり込み、
 それを知識人が東京から地方に配る「配電盤」の役割を果たしていたのだ〜
と。

地方は下流で常に文化を上流の中央からいただくという図式だった。
だから、田舎はなめられていた。
ボクなども三四郎と同様、田舎から花の東京に憧れて出て来たクチである。
三四郎は美穪子に翻弄される、まさしく彼女はインテリで魅惑的、良家の美女で
恋の手練手管に通じた、恋の文明の申し子だ。
三四郎も、恋を通じ文明の洗礼を受けたわけだ。
「まったく彼女は西洋流だね….」と漱石は作中の広田先生にそう言わせている。


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当時の女性


さてそんな明治にひたってみよう。
明治38年に建てられた木造3階建ての「本郷館」(70室)がいまも健在だ。
三四郎は、当時この学生寮を眺めていたハズだ。
近くの淀見軒で三四郎はカレーを食べた。
店の装飾をみて
「これがヌーボー式だ、と連れの男が言った」と書かれているが、
これはアールデコだろう。
追分の角にある、江戸時代から続く「高崎屋酒店」のおかみさんは、
「淀見軒は、(万定)のことですよ」と、おしえてくれた。


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下宿、本郷館

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東大生や一高生。追分。角は高崎屋だろう

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角と手前が、万定、三四郎はここでカレーを


三四郎と美穪子は、団子坂の菊人形をみにいく。
混雑で美穪子が気分が悪くなり
坂を下り、根津の藍染川添いの小径を散歩する。
この小川は、藍染めの店が川べりにあって、牧歌的な風景を醸しだしていたらい。
いまも、藍染めの丁字屋が残っている。
この蛇行する小川が埋め立てられ、いまは「へび道」とよばれ、生活道路に変わりここを散策する若者は多い。

で、二人は川べりに腰をおろし、おしゃべりをする。
美穪子は、ある思いをこめて三四郎に「ストレイ、シープ」(迷える子羊)と謎めいた言葉をつぶやく。


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根津、藍染川跡。美穪子達は、そこを右折した

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丁字屋。家の前に藍染川があった


後日、二人は本郷4丁目の夕暮れを散歩し、上野の丹青会の展覧会をみにゆく。
本郷の町は、古風だが当時はモダーンで、
美穪子の髪を飾る大きなリボンを売っていた洋品店の「かねやす」もビルに変わったが、
どっこい江戸時代から生き残ってきた。
三四郎はある時、金縁眼鏡のひげをきれいに剃った、スマートな紳士と美穪子の出会うのを目撃する。
人力車から、男はさらりと降り立ち、彼女に近寄る。
漱石は美穪子のこの相手をスノッブな男とみている。
三四郎は、恋の結末を知った。


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野々宮が、美穪子にリボンを買った

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当時、流行りのリボン


ある日、
美穪子が教会のミサに出かけ、それを終わるのを三四郎は待っていた。
寒い日だった。
ミサが終わり、最後の4人目に美穪子は縞の吾妻コートで現れた。
「寒かったでしょう」
女は、手にしたハンカチを三四郎の前にかざした。
鋭い香りがする。
「ヘリオトロープ」女は静かに言った。
本郷4丁目の夕暮れである。
「結婚なさるそうですね」三四郎は言った。
「ご存知なの」
女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどの溜息をかすかに洩らした。
やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「われはわがとがを知る、わが罪は常にわが前にあり。」


青春は、いつの時代もほろ苦い。
ウルトラモダンに酔った明治は、現代に似ている。
いまも、知的でコケテイッシュで行動的な女性が街に溢れている。
本郷を散策し、ライスカレーを食べ、三四郎池でくつろいでいると、
古い和綴じの本を開くような、フシギな時を遡る恍惚に酔うのである。


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美穪子の家には自家用人力車があった

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本郷4丁目、右は炭団坂。漱石も子規も散歩した

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美穪子の出て来た教会

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〜漱石ハートにナビゲート2〜我が輩は猫の家。

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漱石、猫の像

「我が輩は猫である。名前はまだない。」

漱石が明治36年に居を構えた文京区にある千駄木町57番地に、黒い野良猫が迷い込んで来た。
追っても追っても入り込んで来て、蚊帳(かや)を破き、子供をひっかき、
その上お鉢の上に坐ったりしている。
「図々しいわねえ」と猫嫌いの鏡子夫人に疎まれていたが、
ある日、夫人の贔屓の按摩さんは
「この猫は爪の裏までマックロだ。これは福猫だから大事に飼ってあげなさい、幸運に恵まれますよ」
とのご託宣を授けた。
ご託宣通りその猫を飼っているうち漱石は猫を主人公の小説を書き上げる。
「ホトトギス」に発表するやいなや小説は、爆発的な人気を博し予言はまさに的中したのだった。
この小説は、漱石の哲学や文明論のはいる小難しいところもあるが、
大半は、日常生活のくだらぬ井戸端会議ふう、落語的な写生文だ。
登場人物も、猫や主人公の苦沙弥(くしゃみ)先生に漱石自身が、
投影され、その他の人物もまわりの、人間がモデルになっている。


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猫と漱石。岡本一平絵

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漱石邸跡の付近の猫


小説のなかで、この家の裏手が中学校(旧制)で生徒どもが庭に入り込んだり、大声で歌を歌ったり、うるさい。
それに野球のボールが頻繁に庭に飛び込んでくる鬱陶しい出来事に漱石はカリカリしている。
生徒を怒鳴ったり、学校側に抗議し、腹だちはなかなか収まらない。
したがって小説中の描写だって学校や生徒に好意的には書かれていない。

学校名は、落雲館中学で、モデルは郁文館である。
「坊ちゃん」の描写を思い出して、プッと吹いてしまう。
なんと、小説のなかに50ページ近く(文庫本で)しつこくこの事にふれて漱石はいらだっている。
郁文館は、立派な学校である。こんなかたちで小説に登場するのも気の毒だ。
いまも、ほとんど同じ地形で、グランドが残っている。
野球などでそこにいた先生と生徒に感想を聞いてみようと思ったがそばまでいってやめた。
当時の漱石は、極度の神経衰弱と教師生活の不満を抱え、荒れ狂うこともしばしば、
家族はじめは周辺の人々は腫れ物にさわるよなありさまだった。


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漱石邸跡

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旧居、明治村に移設

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漱石邸裏手の郁文館

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郁文館グランド


ボクは漱石邸跡の周辺に散歩の足をすすめ、
小説に登場する西洋館の倉がある豪邸をみつけた。
や!や!小説に現れる金田さんの御屋敷か?
金田さん(40位の女性)は、ある日、苦沙弥邸に「あなたの友人の寒月」が教師風情でありながら、
当家の娘と交際しているのではないかと抗議にくる。
我が輩(猫)は、この、顔を天にむけた、ダイヤの指輪をはめ、鼻がむやみにおおきい彼女が大嫌いである。
我が輩(猫)は、彼女に金田鼻子と渾名をつけた。
この金田邸は、小説の中では、
「向こう横丁の角屋敷で、大きな西洋館の倉のある家」と描かれている。
そことおぼしきあたりに、似た豪邸があったわけだ。
むろん、現実にいまあるその家の表札は金田ではない。
門柱に「電話***番」と三桁の電話の札がつけてある。
大正とか昭和初期の電話番号の状態のままの札を門柱に残してある。
まさか物語の人物鼻子には関係ないだろうが、
漱石が、小説の建造物のモデルとしてこのお屋敷を借用したのかもしれない、などとボクは想像を抱く。

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金田邸に似た豪邸

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この三桁の番号は歴史的だ

ふたたび小説に戻る。
苦沙弥や迷亭と鼻子のはなはだ品を欠くやりとりに、
猫は、「悪口の交換ではとうてい鼻子の敵ではない」と苦沙弥の敗北を認める。
インテリで、神経衰弱で時々荒れるが、あア、あ、とみんなに呆れられたり、
やさしいココロの苦沙弥先生である。
そんな落語的生活が、楽しく赤裸裸に描かれている。


終章に急ごう。
我が輩(猫)は、ビールを飲み酩酊状態でかめに落ちたが、
あまりもがかず溺れてあっさり死ぬ。
漱石は、生後すぐ我が輩(猫)とおなじ親に捨てられた身である。
赤子時代、養い親に連れられ四谷の夜店で篭のなかに、転がっていた。
続く人生も一筋縄ではいかなかった。
天才であるが、金銭欲や出世欲は稀薄な人だった。
だから、一生、家も買わなかった。
自分にとって価値を感じなければ、役所がひつこく博士号なんぞ呉れる、
と押し付けてきても、ゼッタイに断る。
「我が輩は猫である」はユーモア小説のようだが、猫の死で終わる。
もの哀しく、果たして明日がやって来るのかわからないような、
冷えた漱石の心境が彷彿と浮かんでくる。

猫の家近くに、垣根にへちまを植えた家があった。
いまどき珍しいゾ。
胸を病んだ、漱石の親友子規の家のへちま棚を思い出した。


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漱石の猫は、じたばたせず死んだ

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珍しや。へちまの塀

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〜漱石ハートにナビゲート1〜千駄木、薮下の道。

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世間は、領土問題などでキナ臭い。
大国の覇権主義?
それにTPPの黒船か。
新しい価値観を探す、時代のはざまなのか。
いま、日本は明治初頭の混沌に逆戻りするのだろうか?
夏目漱石!おしえてくれ!
オレたち、これからどう生きたらいいんだよオ!

なぜか、漱石の去った跡を辿ってみたくなった。
辿った先になにが見えるのか、見えないのかわからないが、
さあ出かけてみることにする。


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団子坂


薮下の道という緑深い道がある。かれの千駄木の自宅からそう遠くない距離だ。
道は千駄木の団子坂上から、根津権現の裏門の方角に伸びた崖すれすれの長い細い道である。
左手の遠景には、根津や谷中が望まれる地形だ。
竹やぶの生い茂ったスゴいとろだったらしい。
薮そばの元祖らしきそばやは、この崖下で商っていたという。

地下鉄千駄木駅を降り、団子坂上に来た。
はて、どこをどう曲がればいいのだろう。
ビルらしき工事中の、隣りでガードマンと立ち話中の年配の女性に尋ねた。

ー漱石の住居跡は、どの辺でしようか?
「漱石?鴎外じゃあないの?
 鴎外だったらウチの隣、観潮楼。ほら、工事中だけど、」
「来年の2月完成だよお」

横から、おじさんのガードマンが、注をいれてくれた。

ーホウ!。だけどきょうの行き先は漱石なんですよ。
それにしても、奥さん家は鴎外の屋敷のお隣なの?
すげえ。

ーきょうは、漱石の旧居跡と薮下の道を教えてください。
「はい。薮下通りはそこ。漱石の家は、団子坂を直進して3本目の道を左折ネ。」
江戸っ子だった、歯切れがいい。
ー昔、菊人形の店が並んだのは、このあたりだったの?
「そう、ここから坂下にむかってびっしりと。」


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菊人形の店のジオラマ

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鴎外邸の隣家の小倉さん

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薮下の道

「三四郎」の登場人物、美穪子と三四郎はこの団子坂の菊人形を観にきて、
あまりの雑踏に美穪子が気分が悪くなった。
(この脇の薮下の小道でひと休みすればいいのに)ふたりは団子坂をくだり、
藍染川に添い根津の方角にくだっていく。

まあそんな、漱石の筋書きは別として、ぼくは薮下の道を歩くことにしよう。
それにしても、緑が茂り、左手が崖下になっているので、のびやかな気分になる。
漱石先生もこのあたり気持ちよく散歩されたことでしよう。
崖下にむけて、小便されたかもしれませんね。

半藤一利さんは、「歴史探偵かんじん帳」毎日新聞社刊のなかで、
長谷川如是閑氏がはじめて漱石に会ったときのことを紹介している。
如是閑氏はいう。

「…まもなく二人で何処か見物に歩くことになって外へ出ると、
 夏目君は突然往来の反対側に立って小便をした。
 その側には家並はなくて、崖になっていて、崖の下は植木畠で
 その向こうに田んぼを見晴らしている。
 君は小便をしながらなんとかその風景のことをいっていた。」


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崖下、薮そばがあった

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崖下は、モダンな風景に変わった

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薮下の道の風景

まあ小便の詮索はほどほどにして、いまは崖下はすっかり民家や、学校などの風景に変っている。
漱石が千駄木57番地に居を定めたのは、英国留学から帰国後も
かの国の圧倒的文化や、不愉快な威信の誇示、
日本や自分のゆくべき道の混迷に打ちのめされ、ノイローゼ状態の頃であった。
加えて、後に書きあげる「道草」の中に登場するもと養父とおぼしき人物につきまとわれ、
不快は、相当に嵩じていた。
顔も忘れかけたその男に久しぶりに出会うのは、薮下の道の終わる「根津権現の裏の坂で」だった。
最初は互いに無言で行き過ぎるのだが、漱石の胸には怯えがはしる。
漱石は、自己確立の模索や、生活周辺の不安に悩まされながら、
生きてゆくのである。

東京駅から、湾岸の自宅に帰るバスに乗った。
窓の外は、
尖閣問題の映像流失を巡る抗議デモが行き過ぎる。
今日は、11月6日だ。
漱石の悩んだ時代にダブルかのように混迷が深まる。
斉藤孝氏は、「夏目漱石とはなにか、」という定義を巧みにまとめている。
漱石とは「日本人の基本的な悩みをすべて考えてくれた人」である、という。
こんな時代だからこそ漱石が懐かしい。
次回は、猫の家を尋ねる。

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薮下の道、根津権現近く

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根津権現裏の坂。脅えた男とすれ違う

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権現様付近の家並

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